フルコース①・小日向一也
もう一度会ってみると、中学の時に抱いていた甘酸っぱい気持ちも交じり不思議な気持ちになった。そこへ砂糖を投入したのは花菜の何気ない一言。
「実はわたし、小日向君が初恋だったんだ」
えっ、と驚き、実は自分もそうだと言うと、花菜は驚きを隠せないでいた。再会をして二回目だというのに、夜中まで随分と話し込んだ。
中学当時、互いに初恋の相手だったこと。しかも、その気持ちが胸の奥底に残っていたからか恋人と呼べる人を今まで作らなかったこと。共通点が多くあり、話していくうちに運命じみたものを感じた。それからというもの、空白の時間を埋めるようにして一也と花菜は逢瀬を続けた。
そして――二人はついに結ばれ、今に至る。
籍は花菜の誕生日に入れて二か月経つ。既に夫婦ではあるものの、やはり周りに示すためにも結婚式は必要だと考えていた。最初こそ写真だけで良いと断っていた花菜だが、一也が懸命に説得したお陰で今では純白のドレスを着て式を挙げるのを楽しみにしている。妻の夢を叶えるのも夫の務めだと思った。
結婚式を控えているものの日常は普通に訪れる。今日は休日で、花菜は前祝とのことで朝から友人主催のパーティーという名目の遊びに出かけている。友人達は子持ちの母親が多く、夕方には戻ってくる予定だ。
それまでの時間をどう潰すかと一也は考えていたが、特に思い浮かばず、けれども家に閉じこもるのも性に合わない為、軽装ではあるが着替えて外へと出かけた。昼も近く、近場で行ったことのない店は無いかとスマートフォンを片手に何気なくぶらつく。インターネットで検索をしてみると、見たことのない店名のレストランがあった。口コミはないが、評価は星4~5と高評価がついている。サクラかと訝しんだが、ランチのコース料理で2000円程度と手頃だ。
先日ボーナスをもらったばかりで懐にはやや余裕がある。行ってみて美味しければ、次は花菜を誘えば良い。サクラであろうが何であろうが興味を惹かれたのなら行くべし、口の中で呟くと一也は軽い気持ちでレストランへ向かうことにした。
だが、いざ道案内のためにと開いた地図アプリを起動するもナビゲートは始まらない。普段良く使っているし電波も問題なく受信をしているはずなのだが、うんともすんとも言わない。何度か試すも、やはりナビゲートが始まらない為、仕方なく土地勘を頼りに歩いて行くことにした。幸い今いる場所からレストランまで徒歩10分程度の距離で遠いというわけではない。
大通りから離れていくつかの細い路地を通る。路地を抜けると可愛らしい黒猫と目が合ったような気がした。猫好きの花菜が隣に居たらきっと、可愛い~! と騒いでいるだろう。そんな花菜の姿を頭の端で想像しながら、スマートフォンで撮影をしようとした時、にゃーっ、と猫は一鳴き。まるで付いてこいと言わんばかりにてくてくと前を歩き始めた。立ち止まっていると猫は振り返り、もう一度、愛らしく鳴く。一也は慌てて追いかけた。
住宅街を抜けると、いつの間にか周囲は緑で覆われた静かな場所に出ていた。ふと視線を上げると、一也の前には小さな洋館が佇んでいた。どうやら猫の案内で無事に辿り着いたらしい。
ありがとう、と礼を言おうとしたが、猫の姿はどこにもなかった。あれ? と首をかしげるも、ちらりと洋館を見やる。
シンプルだが威厳のある門には鍵は掛かっておらず、こちらで開けて中へ入るようだ。中に入ると大きな扉が目についた。玄関まわりには狐や猫、針鼠をモチーフにした可愛らしい小物が置かれている。扉には繊細なタッチで装飾が施されており、ノックをする為の双頭の鳥のオブジェがついていた。猫のオブジェに視線を向けてふっと一也は微笑む。花菜が見たら喜びそうだと思いつつ、扉を開けて入店した。
ふわりと良い香りが鼻腔をくすぐった。ほうっと息を吐くと、ぐうっと腹の虫が元気に鳴く。白を基調とした店内にはクラッシック音楽が流れており、豪華なイメージとは違い落ち着いた雰囲気だ。
人気店だというのは一目でわかった。6つあるテーブル席はすべて埋まっており、食事をしている人はみな幸せそうに料理に舌鼓を打っている。一也は入口の前で立ち止まり中を見回す。
天井からは美しいシャンデリア、二階に続く階段は大きな窓から差し込む光で真っ白に見えた。しかし、不思議なことに一也が来店をしたにも関わらず客は誰一人としてこちらに一瞥もくれず、一心に料理を食べている。
店の人は居ないのかと一歩足を踏み出そうとした時、真っ暗な奥の廊下から整った顔立ちの男が出てきた。髪を後ろで一つに結んでいる男の服装はワイシャツに黒のスラックスとシンプルな格好ではあるものの、洋館の雰囲気と外れてはいない。寧ろ〝合いすぎている〟気さえした。
「いらっしゃいませ」
声を掛けられ男がウエイターだと気づく。
「お一人様でしょうか?」
「あ……はい」
ぎこちなく男――ウエイターの問いに応えると、ではこちらへ、と案内をされた。テーブルの間を通る最中、客が食べている料理を眇め見たがやはり美味しそうだ。当たりかもしれないと心の中で呟きながら、先程、ウエイターが出てきた奥の廊下を進む。すると、色鮮やかな真っ赤な扉が目の前に現れた。その扉にも玄関と同じように双頭の鳥が飾り付けられてあった。ウエイターは扉を開け、一也に中へ入るよう促す。大きめのテーブルに椅子が二つ置かれているというシンプルな個室。部屋の中へ歩を進めた瞬間、店内へ入った時のように良い香りが漂っていた。席につき、改めて食欲をそそるにおいを嗅いでいると、ウエイターが淡々とした口調で店のことを説明し始めた。
「当店にメニューはなく、フルコースのみとなっております。シェフが腕によりをかけて作るコース料理を是非お楽しみください」
一呼吸開けてから、何かご質問等はございますか? とウエイターは添える。一也は恐る恐る、あの……、と尋ねた。
「夜に来た場合の値段ってどれくらいですか?」
ウエイターは目を細めて答えた。
「ランチが2000円、ディナーは仕入れ状況にもよりますが……お一人様5000円までと考えていただければ」
フルコースなのにリーズナブルな値段で提供してもらえるのならかなり良心的な店だと思う。他には何かあるかとウエイターに問われ、一也は頭を左右に振り気さくな笑みを浮かべた。
ウエイターの説明が終わると同時にズボンのポケットに入れていたスマートフォンから着信音が鳴り響いた。慌てて取り出して液晶画面を見ると、花菜の名前が表示されていた。急いで通話ボタンをタップし、もしもし? と出る。
『もしもし? いまどこにいるの?』
鼓膜を打つ花菜の声音に無意識に口元は緩む。
「今? レストラン」
『レストラン?』
レストランの名前と場所を告げると、あーっ! と花菜は声を上げた。
『いいなぁ、そこ話題のレストランだよね? 一度行きたかったの。ねえ、今からそっちに行くから、一緒に食べよう?』
「えっ、今から? パーティーはどうしたの?」
『パーティー? ――ああ、うん。その……日にちを間違えていたみたい。来週が正しい日にちだったの』
惚れた弱みか、本来なら呆れるはずのトジでも可愛いと思ってしまう。折角、きれいに化粧もして買ったばかりの白いワンピースを着て出かけて行ったというのに。ダメ? と言う花菜に、ちょっと待って、とスマートフォンを耳から少し離し扉の前に立ってこちらの通話が終わるのを待っているらしいウエイターに確認を取る。すると、快い返事があった。
「お客様が増えても問題ありませんよ。一名様追加ですね?」
「はい、そうです。ありがとうございます。――大丈夫だって」
『良かったぁ。それじゃあ今からそっちに行くね。近くにいるから、迎えに来なくても大丈夫だよ、待っていてね』
ぷつりと通話は切れ、一也はスマートフォンを一旦仕舞った。ウエイターは頭を下げると出て行き、部屋にぽつんと残される。クラッシック音楽を聴きながら再度、スマートフォンを取り出す。することもないのでデータフォルダの中に保存してある花菜と撮った写真を眺めた。海で撮ったもの、花火大会で撮ったもの、こっそり撮った寝顔など――見ているだけで心が満たされた。
しばらくして、花菜がやって来た。前の席に腰かけ、はーっ、と手で軽く顔を仰ぐ。急いで来たのか、顔は火照り汗が滲んでいた。
「会場に着いても誰もいないの。友達に連絡したら来週だよって……私ってついてない」
「ついてないよりドジすぎるんだよ。日付、ちゃんと確認しておけよ」
「むう……以後、気を付けます」
むすっと両頬を膨らまし花菜は唇を尖らせる。そんな姿もまた可愛らしいと思ってしまうのだから、余程重症だと密かに思った。否、個人的には重症のままで良いのだが。
花菜が席について程なく、銀色のカートを押したウエイターが戻ってきた。カートの上には前菜とカートと同色の銀のカトラリーが載っている。フルコースだったことを思い出し、妙に緊張し始めて一也は手に持っていたものを再び仕舞い背筋を正した。花菜も一也を真似てピシッと姿勢を伸ばす。
ウエイターは慣れた手つきで順に二人の前に料理等を並べていく。最後に、前掛けのポケットから白い封筒を取り出してテーブルの上に置いた。
「それでは、ごゆるりとお楽しみください」
ウエイターはカートを押して再び立ち去った。
「……封筒?」
花菜は首をかしげる。一也は手を伸ばして封筒を手に取り中を確かめた。二枚の手紙が入っており、癖のない綺麗な字で綴られている。一枚目には表と裏にシェフからの手紙が、二枚目にはイラスト付きの分かり易いテーブルマナーが記されていた。
【シェフからの手紙】
『いただきますに始まりごちそうさまで終わります。挨拶は何よりも大切に。テーブルマナーを守り、残さず全てをお食べください。まずはそれからです。』
続いて裏面を見る。
『命をいただき馳走を残すことが幸せである。美味しい、という感情は一番の幸福だ。残さず食べよ、残さず食せ』
「――だってさ」
手紙を読み上げるなり、ふうん、と花菜は相槌を打つ。
「シェフの人、変わっているというか真面目な人なのかな……?」
「こんなにきれいな字を書いてるのに、実は熊みたいな男がシェフかもな」
「あははっ、それすごいギャップだね。そういえば、二枚目には何が書かれているの?」
「テーブルマナー。見る?」
「ううん、大丈夫」
花菜は有名な私立の女子高へ進学していたことを思い出す。あの女子高ならテーブルマナーのひとつやふたつは教え込まれそうだ。一也も仕事の関係で何度かフルコース料理を食べたことがある。あまり尊敬できない上司から直々に教え仕込まれたのだが、教わった時は本当に合っているのかと不安になり、家に帰った後ネットで調べてみたが間違いはなかった。あの時だけは上司を驚いた反面尊敬した記憶がある。
【オードブル】
さて、少し時間を費やしてしまったが待ちに待った食事の時間だ。前菜は彩り鮮やかなサラダ。一目で瑞々しく新鮮な野菜だとわかる。サニーレタスにブロッコリー、グリーンリーフ、水菜。それらを絡めるように少し黄色に色づいた透明に近いドレッシングがかけられている。右手にナイフ、左手にフォーク――カトラリーを持ち、肘をテーブルにつけないように気を付けて、二つがまるで「八の字」になるように構える。二つをうまく使い分けてサラダを一口。咀嚼をすると花菜にも音が聞こえてしまうのではないかと思うほどにシャキシャキと音がした。下ごしらえがしっかりと施されており、泥臭さやざらつきは一切しない。ドレッシングには甘みを引き出すためか、ほんのりと塩気が感じられた。喉を鳴らして飲み込むなり、一也はぽつりとこぼす。
「――美味しい」
花菜も気に入ったのか、美味しいねっ、と頷く。大当たりの店だと密かに思った。ちらっと花菜を覗き見ると、ほわっと表情を綻ばせて一也よりも慣れた手つきで食べ進めている。幸せそうな花菜を瞳の中に映すだけで嬉しくなる。やはり自分は重症だと心の中でぼやきながらサラダを食べ進めた。
いつの間にか、皿の上から料理はなくなっていた。どうやら一心に食べていたらしい。カトラリーを揃えて右端に置く。花菜も食べ終えると、同じように揃えて置いた。
ほうっと二人して息を吐くと、扉が開きウエイターが姿を現した。まるで食べ終えたのを見ていたかのようなタイミングで入ってきたものだから少し驚いた。空いた皿を下げた後に新しい料理を並べるとウエイターは静かに出て行った。
【スープ】
平たいスープ皿には白濁色のスープに小さくカットされたフライドベーコンと角切りのキャベツがトッピングされている。ややピンクがかった不思議なソースで表面にハート模様が描かれていた。
「可愛い……」
花菜がぽつりともらす。そうだな、と相槌を打ちつつスープ用カトラリーを手に取った。片手で軽く皿をおさえ、手前から花菜の方へ向けてカトラリーを動かしてスープをすくう。これも上司に散々教え込まれ身に付いたテーブルマナーの一つだ。一口含むなり、濃縮された野菜の旨味が口の中いっぱいに広がる。ベーコンが良い仕事をしており、香ばしさがスープの味をさらに引き立たせていた。全身にスープのほのかな温もりが駆け巡る。
「美味しい」
「うん、美味しいね。こう……体の奥から旨味を感じるよね」
「ははっ、なんだそれ。けどまあ、その通りだな」
大袈裟とは思うが一也の言いたかった感想と一致していた。どうしたらこんなにも美味しいスープが作れるのかと頭を捻る花菜に、それはプロだからだろうと返す。やっぱりプロは凄い……、とカトラリーにのっているスープをまじまじと見つめながらムムッと眉間に皺を寄せて花菜は言った。その顔があまりにも面白くふき出してしまいそうになったが何とか堪えた。
スープも綺麗に平らげ、カトラリーを置いて食べたという合図をする。瞬きをした刹那、テーブルの上に空いた皿は無く、既に新しい料理が置かれていた。急いで辺りを見まわすもウエイターの姿はない。二、三度瞬きを繰り返し閉じている扉と料理を交互に見ていると、食べないのかと花菜から声がかかった。いつの間にウエイターは来たのかと尋ねようとしたが、何故か口ごもってしまう。視線は料理に戻り、思考は停止し、ただ〝食べたい〟と強く思っている。
「……食べる」
返事をするなり姿勢を正すと、新しいカトラリーを手に取った。
【ポワソン】
料理の他に、テーブルの上にはメッセージカードが置かれていた。
『本日はスズキとタコ、ホタテガイを使ったカルパッチョです。アレルギーのある方はすぐにお取替えしますのでお申し付けください』
メッセージカードに書かれてある文章を読み上げ、二人は顔を見合わせた。互いにアレルギー等はなく、大丈夫、と口の中で言うとメッセージカードを置いた。
薄造りにされた海鮮の上には丁寧に飾り切られたラディッシュとクレソンが添えられている。薄造りにされているのがスズキだろう、カトラリーを使いジュレ状に加工された、微妙に色味の異なったソースをつけて一口味わう。魚独特の臭みはなく、程よい酸味とブラックペッパーの刺激が鼻から抜けた。
「――美味しい」
この一言に尽きる。花菜も同じなのか、美味しい、と一言だけ告げて黙々と食べ進めていた。カルパッチョとはこんなに美味しいものだったか。今まで食べてきたものは、酸っぱすぎたり生臭さが勝っていたりと、比べ物にならないほど不味かった。そんなものを〝美味しい〟と言っていたのかと思うとぞっとした。――花菜の作ったものは別だが。
出された料理を綺麗に平らげて一息つく。瞬きをすると、やはり先程のように既に料理は運ばれていた。ただ一つ変わったことがあるとするなら、目の前に料理が突然と現れても、もう驚かなかった。花菜も同じなのか気にすることなく料理を見てにこりと笑みを浮かべている。
【ソルベ】
「シャーベットだ~!」
甘いもの好きの花菜にとっては嬉しい箸休めだ。さっそくデザート用のカトラリーを手に持ち鼻歌交じりに味わい始めた。
一目で冷たさを感じさせるグラスには真っ白なソルベ。口に運ぶと冷たさの中に不思議な食感があった。舌の上で溶けずに残っている粒は、噛んでみるとコリッと小気味の良い音を立ててはじけるように砕けていく。何だろう、とは
「うん、美味しい」
ソルベで口直しを済ますなり瞬きを一つ。既に次の料理はある。そういえば、テーブルクロスが赤色に変わっている。瞬時に模様替えとは、ウエイターは随分と仕事が早い。店内のBGMもピアノ曲に変わっており、ゆったりとした時間を醸し出している。
【アントレ】
ポワソンの時と同じようにメッセージカードがテーブルの上にあった。
『本日は特に上質な素材が手に入りましたので、急遽ソテーに変更しメインディッシュとさせていただきます。焼き加減はミディアムレアとなっております。』
ふわりと漂う香りは赤ワインだろうか。赤身のソテーはヴァン・ルージュソースが掛けられ、アスパラガスやマッシュルームを添え上品に仕上げられている。赤身のソテーを丁寧に切り、一口含んで咀嚼する。しっかりとした歯ごたえがしたかと思いきや、口の中で溶けていくような食感。けれども、どこか野性味を感じられる一品だ。
嗚呼――本当に、美味しい。
【デゼール】
瞬きをすると次はデザートだった。またもやメッセージカードも添えられている。デザートはスフレで、器が熱くなっているため気を付けて食べるようにと記されていた。メッセージを読んでいる最中にもスフレはみるみるうちに萎んでいく。急いでカトラリーを手に持った。食べるのに余計な力は必要ない。一口食べると、角切りにされたマシュマロのようなものが入っていた。ふわふわとしたそれは、どこか歯ごたえもあって今までに食べたことのない食感。はふっ、と口の中から熱を出しつつも咀嚼していくと、しゅわりと溶けていく。ここのシェフは本当に、なんて素晴らしいのだろうか。頭の中にあるのはこの一言だけ。
「美味しい」
デザートを食べ終えると、扉からカチャリという音が聞こえた。視線を向けるもウエイターの姿なく、首をかしげながらも目を戻した。
【カフェ・ブティフール】
テーブルの上には、ホットコーヒーが白いカップとソーサーに載って出されていた。カップとソーサーに立てかけるように再びメッセージカードが添えられてある。コーヒーの隣には銀のティースプーンにミルクピッチャー、シュガーポットがあり自分好みに調整できるようになっていた。メッセージカードには『最後までお楽しみください』と記されてあった。
「これで最後かぁ」
「そうだねぇ」
残念そうに相槌を打つ花菜に、もっと食べたかったよなと言うと、うん、と頷く。コーヒーに砂糖を二杯入れると、花菜も同じ量を入れた。ふと、甘党の花菜がたった二杯だけでコーヒーを飲んでいるのを見て軽く首を傾げた。
「ミルク、入れなくて大丈夫か?」
「えっ?」
「ほら、いつも砂糖とミルクは多めに入れてるから」
「あ……うん。今日はあなたと同じように飲んでみようと思って。それにこのコーヒー、ミルクを入れなくても苦くないもの!」
自分と同じように飲んでみたい――は出来すぎた文句だと思う。ほわほわとした気持ちのまま、一也もコーヒーを飲んでコースを締めくくると、ほうっと満足気に息を吐いた。
「ごちそうさまでした」
すべての料理を食べ終えると、唐突に花菜が尋ねてきた。
「ねえ、美味しかった?」
もちろん、と肯定の意を込めて首を縦に振る。
「ずっと美味しいって言ってたものね!」
満面の笑みを浮かべて花菜は紡ぐ。
「そろそろ出ようか」
程なくしてそう伝えると、うんっ、と花菜は先に腰を上げた。一也も席を立ち扉へと向かう。
「良かった、気に入ってもらえて。美味しいって言ってもらえて――」
一也の後ろを歩き嬉しそうに花菜は言う。一也が扉を開けた瞬間、とんっと背中を押された。
「次はもっと美味しく、〝私を食べて〟ね?」
――気づけば、花菜と暮らしているマンションの玄関前に立っていた。頭上高く昇っていたはずの太陽は既に落ちて濃い橙色が差している。何匹かの鴉がまるで話し合うかのように鳴いていた。いつの間に家に帰ってきたのだろうか。自分は確か、レストランに居たはずなのに。あれ? とこぼすと同時に玄関扉が開いた。
「お帰りなさい!」
部屋着姿に猫の描かれたエプロンをつけた花菜が出てきた。ふわりと中から漂ってくる香りにごくりと一也の喉は鳴る。この匂いは、レストランで嗅いだものと同じだった。
「今日はねー、カズくんがリクエストしてくれたハンバーグです!」
上手に出来たんだよ! と花菜はにこりと笑う。いつ夕飯のリクエストを行っただろうかと考える。けれども次第に、レストランでのことは霞がかかったかのようにぼんやり朧気になる。
そんな一也の様子には気づかず、お風呂も沸かしている為、先に入ってほしいと花菜は続け手を取り引っ張った。部屋に上がるもぐいぐいと引っ張るのを止めない。
そんな花菜を前に、湧き上がるのは【愛情】ではなく【食欲】だった。先程、フルコース料理を食べたはずなのに何故こんなにも腹が空くのかがわからない。
花菜の頬が、鼻が、耳が、唇が、首筋が、鎖骨が、胸元が、腹が、太腿が、
ぐうっ、と腹の虫が空腹を訴える。口の中にじわりと涎が滲み、湧き上がってくる空腹は段々と意識を蝕んでいく。
食べたい、食べたい、食べたい――。何を? と自問する。
それはもちろん、目の前の
「カズくん、どうしたの?」
花菜に声を掛けられ、改めて顔を見た瞬間に自覚した。
嗚呼――花菜を
心配そうに覗き込む花菜にもう一度、名前を呼ばれる。
「……ごめん、大丈夫。食事、楽しみだなぁ」
そう、呟くように返すと静かにリビング扉を閉める。両口角は、軽く上がっていた。
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