ふ、諦め切れぬと諦めた奮闘話 第二話

 長同士でとうに話はまとまっていようとも、それじゃあすぐに女を差し出すという展開にはならない。本能の部分で和魂の者は、ぼうな荒魂性を敬遠する。

 真っ先に拒絶の意を見せたのは御白だった。最終的には一族の者に説得される形になったものの、心を落ち着かせる時間が必要だと彼女は訴えた。奇現増加の問題になやまされている美冶部からはぜひ来月にでも、とかされていたようだが、御白の強固な訴えにより、輿入れは七の月にまで延期される運びになった。御白一人の主張だったなら我がままを言うなと退けられただろうが、八重以外の女たちからも強く訴えられたという。これを無視すれば民の反発を買う。

 輿入れメンバーの中に八重もふくまれていると知って、御白やほかの女たちからはおどろかれたしなぐさめられもした。

「八重、なぜ断らなかったの。父様をなぐり倒してでもていこうしないといけないでしょ」

 ……御白は穏和なはずの和魂性なのに、意外と好戦的だ。

「まったく父様ったら八重をなんだと思っているの。あの人、頭のよさと引きえに、人としての優しさを失ったのね」

 言いたい放題の御白に、八重はき出す。

 加達留は御白を世間知らずと評した。実際花耆部の暮らししか知らぬのだからそのてきは正しいが、彼女は決して考えなしのむすめではない。八重が嫁の一人に選ばれた理由を察して悲しんでくれている。八重がもどりを視野に入れていることまでは気づいていないだろうが、御白を筆頭に、女たちの優しさはけ値なしにうれしいものだった。

 ただし奇祭の新たな使者として選出された民たちには大いにうらまれた。奇祭はおそろしいものだ。死ぬ可能性もある。八重が任を降りたことで、他の民にしわ寄せがくる。

だれにも嫌われずに生きていけるわけがない……)

 八重は自分にそう言い聞かせる。自分自身にとがはなくとも、やはり恨まれるのはつらい。

 輿入れ道具は先に向こうの部へ運び出す。あちらからも婿入りの道具が運ばれてくる。だから八重たちはほとんど身ひとつで向こうへとつぐ。家族の同行は不可だ。夫となる予定の男たちが馬に乗って迎えに現れ、妻を連れていく。

 あちらにとうちやくするまでは、女たちは頭部からこしまでをすっぽりとおおうタイプのはなやかな面紗ベールを着用して姿を隠す。事前に顔を見て「好みじゃない」と追い返されないようにするためだ。集落に入ってから嫁候補にそんな不満をらした場合は、男側がきようりようなやつだと笑われる。

 しかし無性の八重の場合は、その例に当てはまらない可能性が高い。

 ──旅立ちの日、八重を赤馬に乗せてくれたのは、腕も腰も太い男だった。

 美冶部から来る夫候補の民たちもやはり目元のみのぞたけの長い黒地の面紗で顔を覆っているが、その体格のよさまでは隠せない。着用のころもは上下ともに白で、ほうそですそにはだいたんがく模様がほどこされている。

 無性の八重でも荒魂の男のはくというのか、れいのすごさを感じ取れる。近寄っただけで精神をもみくちゃにされそうなあらあらしい霊気だ。たとえるなら、熱気にあてられるような感じである。実際に温度を感じるわけではないが、おくさずにはいられない。八重以上に霊気を感知できる女たちはいまにもそつとうしそうなほどおびえており、だいじようだろうかと心配になってくる。

 くつきような夫候補たちはみな、戦士でもあり狩人かりゆうどでもあることを証明するようにかたや腰に武具をさげている。ゆみぶくろに刀、やりわんとうなどだ。

 じようするのは女だけで、男はその馬を引く。今回は一度に十人も嫁ぐので、ちょっとした行列になる。

「美冶部の地はざんの裏側、ざんの谷間にある」

 先頭を行く男が、ふるえる女たちを落ち着かせようとしてか、おだやかな声で話し始める。

 穏やかと言っても、優美な姿を持つ花耆部の男たちとは声の太さからしてちがう。花耆部にも荒魂性の男は存在するが、和魂性の地にむくらいなので、こうまで荒々しい霊気を持つ者はいない。

 きつすいの荒魂性の者ってすごいと八重もひそかにおくれする。

「……我らが恐ろしかろうが、女をむやみに傷つけるような真似まねはしないので安心してくれ」

 優しくなだめられても、馬上の女たちの震えはとまらない。

 八重もまた、違う意味で震えそうだ。

(むやみに傷つけないってことは、理由があれば話はべつってことじゃないか)

 先ほどから、八重を乗せた馬を引く男が不思議そうにこちらをちらちらと見ている。

 無性の八重でも感覚の部分で環性を見分けられる。当然、環性を持つ彼らもまた、こちらの性がわかる。

 なのになぜ八重からなにも感じ取れないのかと、男はまどっているのだ。無性は集落に一人いるかいないかというほどにめずらしいので、すぐにはそれと気づけないのだろう。

 八重は背筋が寒くなってきた。集落へ到着する前に、環性を問われるかもしれない。

 がっかりされるだけならまだましだ。荒魂の男は和魂の者を好むとわかっているだろうになぜ無性をすのかと、ここで逆上されたらどうしようか。

(護身用にあのくろ太刀たちを持ってくればよかったかなあ)

 八重は少しこうかいした。本来の所持者が所持者なだけに花耆部の地から持ち出すことがためらわれたあのバイブレーション機能とうさいの黒太刀は、厳重に布で包んでウイスキーハウスに置いてきている。八重が不在の間もあそこを使う者はいないし、加達留にも「人を入れないでほしい」とたのんでいる。数年、早ければ数日でこちらへ出戻ってくるのを見越してのことだ。

 だが考えが甘かった。八重だって人のことは言えぬほど世間知らずだ。

 花耆部で暮らす荒魂性のたみを当たり前のように基準としていたが、生粋の者たちはこんなにも荒々しいふんを持っていたのか。

 よめりの話を聞いてから、どうせ自分は奇現の防止要員として一定期間たいざいするだけの存在だと、八重はどこかで一線を引いていたのだ。妻としてはまず受け入れてもらえないだろうと。だから感覚的には長期出張に近い。実際それは正しいにんしきだと思うが、拒絶のみですむのかいなかというあやうさをもう少ししんけんに考えるべきだった。

 八重を含む一行は耶木山のふもとかいし、目毘路山を目指す。

 中腹を回ったほうが到着までの時間を短縮できるが、耶木山の裏にはがけが多く、少しばかり道が険しい。危険な野生動物もしゆつぼつする。男たちは、そちら側へはほとんど足を向けない花耆部の女たちをづかって、多少遠回りであっても安全なさんろくのルートを選んだのだろう。

 しかしみならされた道をゆくのはわずか半刻ほどのことで、その後は山中に分け入り、よく生長した野草をき分けながら進むはめになった。花のみつを求めるちようが二ひき、八重の横を飛んでいく。こいびと同士のようになかむつまじく飛び回っている。

「美冶部は谷間と言っても、少々わかりにくい場所にある。麓からだと崖にさえぎられるので女の足では厳しいだろう」

 ルートのへんこうについて美冶部の男がていねいに説明する。

 八重は、周囲に密生するきよぼくを見上げる。

 こちらの世界にあるものは、なにもかもが大きい。馬やぶたうさぎなどのちくもすべて一回り大きいのだ。とくに人が立ち入れぬ禁域や山頂に近づけば近づくほど、動植物の巨大化のけいこうが見て取れる。

(もとの世界から流れてくるぶつなんて、本当に見上げるほどの大きさに化けるしなあ)

 ──などと現実とうでもしなければ、八重の馬を引く男のしつような視線にえられない。

 いよいよおかしいと疑い始めているようだ。

 どうしたらいいだろうか。いっそ自分から、「無性ですが奇現のはつしようを予防できる知識がありますよ」とアピールしてみようか。

 相手におもねるような考えを持ったことにいつしゆんむなしさを覚えたが、八重はすぐさまその無益な感傷をはらう。生きるためにくさった果実をむさぼった日のことを思い出せば、たいていの苦痛はまんできる。建前や常識や理性などを全部取っぱらった先にある、生へのきようれつな欲望。えるように「生きたい」と思ったあの時間。目をつぶれば、果実の苦さが口の中によみがえる。

 八重はもう、そういう極限の状態を知っているのだ。

(あれほど心細くつらいときはなかった。あの日に比べたら、いまなんて断然幸せじゃないか。なんだって耐えられる)

 そう自分をなだめて、八重は男に問われる前に自分から説明しようとした。そのときだ。

「待て!」

 先頭の男が低い声で片手を上げ、後列の者たちをとめた。

「向こうになにかいる」

 そう言って先頭の男は背負っていた槍を手に取った。彼が引いていた馬に騎乗する御白が、不安そうに背後の女たちを振り返る。

いのししか、くまか?」

 列の半ばにいた男が小声でたずねる。

「いや、違う……」

 先頭の男は前方をえて否定したのち、

おぼろものだ」

 舌打ちまじりにそう断言した。

 女たちも、八重も息をんだ。

 朧者とは、奇現にたましいまでおかされた化け物のことを言う。魂の形が完全に変形したら、もうもとにはもどれない。

「こんな祝いの日にも現れるとは……道に灰をいていたのに効果がなかったか。来るぞ」

 美冶部の男たちがいつせいに得物を手にして身構えた。

 面紗を外し、おおかみに変じる者もいる。荒魂性の綺獣の者は、その四環のとくちようからもうじゆうの形を持つ場合が多い。

 戦士の目になった彼らを見れば、その朧者がしゆうげきするつもりでこちらへ接近していることは明白だ。八重はきんちようしながらも、帯の中にはさんでいた小袋の位置を指でまさぐった。朧者やあやかし、かみのほとんどはももの木の灰をきらう。だんから万が一のときのためにと、小袋の中に少しめている。

(……って、ない!?)

 八重はぎようてんしてから、頭をかかえたくなった。礼装のせいだ!

 こんれいしようは美冶部到着後に着用する予定だった。いまは多少動きやすい礼装にえている。が、これだって普段とは違い、上等な絹の布を使った衣だ。面紗は赤や緑や黄色と華やかだが、袍やズボンは男たち同様に、白地に幾何学模様をほどこしたものである。

 この装束にえたときに、小袋を忘れてしまったらしい。

(こういうときに限って、必要なものがない!)

 自分の要領の悪さに腹が立つ。

 八重たちの耳に、みような音が届く。なにかが樹幹にドォッとしようとつしながらももうれつな勢いで地をり、こちらへせまってきている。

 枝葉のすきかられる昼時の明るい日差しが、そのなにかの正体をあらわにした。

 前方からやってきたのは、蜘蛛くものように複数の足を持つ六面の化け物だ。

 たいの大きさは男たちの倍ほどか。牛に馬にかえるに猪にさるに鳥と、数珠じゆずのようにぐるりと六つ、頭がある。どの顔も両目部分がまるでぐうのように丸く、れぼったい。まぶたは仏眼。しかし口は大きくりようたんが上がっていたり、逆にぐいっと下がっていたりする。

 大抵の朧者は、全身が派手派手しい色をしている。マーブルのような色合いもあれば、しぼり染めのような色もある。まんきようのように複雑な色合いの体躯のものもいる。

 多色かつあざやかな朧者のほうが危険とされており、人や家畜を食おうとする。しよくした者に成り代わろうとするようにだ。

 まずはけものに変じた男たちが朧者に飛びかかった。蜘蛛のように複数ある足を食いちぎろうとする。そのにくへんが八重のほうに飛んできて、びしゃっと音を立てて地面に落下した。

こうの者は女を連れて先に行け!」

 先頭の男が声を張り上げる。

 獣形の者が三人、そして先頭の者がこの場に残って朧者を仕留める気だ。

 彼らは連係がよく取れていた。残りの者たちはびんに動き、おびえる女を乗せた馬の後ろにまたがった。八重の後ろにも、づなを引いてくれていた男が飛び乗った。それからするどく口笛を鳴らし、女のみが乗る馬をゆうどうしながらその場をはなれる。

 しかし、いくらも進まぬうちに、女の悲鳴が上がった。落馬したようだ。

 花耆部の女も馬をあやつれるが、戦士である美冶部の男たちの馬術にひつてきするようなものではない。岩石だろうがとうぼくだろうがなんでも飛びえて、かつ速度を少しも落とさずに馬をけさせられたら、その激しい動きについていけるわけがなかった。

 落馬した女を助けようとして、またべつの女が乱暴に手綱を引っぱり、自らも体勢をくずす。

 運の悪いことに、新たな朧者がかげから出現した。ナナフシのような体型の二足歩行の朧者だった。これもたけは男たち以上あり、そうとうからすと犬の顔を持ち、片方ははくはつ、もう一方はくろかみだった。動きはにぶいが、むちのようにしなる長いうでやつかいだ。八重たちがじようする馬がこうげきされてしまった。

「危なっ……!」

 馬の横腹が勢いよく引っぱたかれる。そのしようげきたおれた馬が悲痛にいななく。

 八重も男も受け身を取れず地面に転がった。

 男はすぐさま身を起こし、地面にしたたか打った背中を押さえて痛みにもだえる八重へ手を差し出した。その手をつかもうとして顔を上げたひように男と目が合い、八重ははっとした。

 男のほうも、おどろいたように八重を見つめていた。

 四環は、れいでもさとることができるが、もっとわかりやすい特徴がひとみに表れる。

 光の下で見ると、目の中にかんもんがうっすらとかぶ。

 紋の形状や色は人によって異なる。花びらの形をしていたり、輪違いだったりひしがただったりする。複雑なものからシンプルなものまである。家紋のようなもので、血族関係のたみは似通った紋になる。

 だが無性にはこれがない。八重はごく普通の黒目だ。

(無性とバレた)

 八重は悟った。無性は悪ではないが、その事実を故意にせていたのはやはり不誠実だ。この世界において四環の種類、は重要な位置をめている。けつこんするとなればなおさらだ。

 八重をぎようしていた男がはっきりとまゆをひそめるのがわかった。差しべた手をおろすことはなかったが、緑色の瞳に失望と疑念が浮かんでいるように八重には思えた。

 それががいもうそうにすぎないのかどうか、冷静に判断できない。

 彼の瞳には、三つ輪違いのような環紋があった。

「なにをしている!」

 べつの男がりながらこちらへ近づいてきて、八重の腕を取り、乱暴に引っぱり起こした。そこでその男も八重の瞳を見て、驚いたように怒気を消す。もっとよく見ようと、八重の顔をのぞき込んでくる。

「無性?」

 その男はぽつりと告げた。

 八重は息を吞み、ためらいながらもうなずこうとした。

 そのとき、きゃあっという女の悲鳴がひびいた。

 そちらに目をやれば、男たちに腕を数本たたられたナナフシもどきの朧者がいかくるった様子で暴れていた。大気をびりびりさせるほどの声量でえている。振り回していた腕が樹幹をえぐった。そのへんつぶてのように飛んでくる。女たちはそれに悲鳴を上げていた。

 八重の腕を掴んでいた男が乱暴に手を放して彼女たちのほうへ駆け寄った。

 緑の目の男も、興奮して駆け去りそうだった馬の手綱をすばやくにぎり、背に飛び乗る。そして短いけ声とともに馬の横腹を蹴って走らせ、背にかけていたわんとうを器用に片手で引きいて、朧者の腕を一本斬り飛ばした。

「おい、まだ奥から来るぞ!」

「守る女が多いのは不利だ、ここは退いたほうがいい」

 男たちは早口でじようきようを伝え合い、迷うことなくてつ退たいの動きを見せた。かくてき馬を操るのが得意な女は一人で騎乗させて先へ行かせる。落馬したり気を飛ばしたりした女は自分たちと共乗りさせていた。

 半数以上の男たちが馬を走らせて去ったあとで、思い出したように緑の目の男がこちらを向いた。八重はまだ、地面に力なく座り込んでいた。きようで固まっていたのではなく、落馬時に打った背中の痛みが原因で立ち上がれずにいたのだ。

「無性だ! 捨て置け!」

 こちらに向かってそうさけんだのは、先ほど八重の腕を掴んだ男だ。

 彼は、八重を無視して緑の目の男を見ていた。彼もすでに御白と共乗りしていて、この場を離れるところだった。

「新手が来る、急げ!」

 御白が目を見開き、八重、とつぶやいた。しかしその声は、駆け出した馬のひづめの音にき消された。緑の目の男も彼らに続いて馬を走らせる。ちぎれた草やつちぼこりを高くい上げてあっという間に離れていく馬のを、八重はぼうぜんと見送った。

 ただこの場に置き去りにされたというだけではない。始末し切れていないナナフシもどきと、新たに迫る朧者が、彼らを追わぬようおとりにされたのだ。

 八重は、ぐっと奥歯をみしめて、腹の底からこみ上げてくる強い感情があふれないようこらえた。こういうときこそ落ち着かなければならない。

 しかし冷静になったところで、ろくに武器も持たぬ八重にいったいなにができるだろう。

 なにかを決断するひまもなく、男たちの言う新手がやってきた。それもまたナナフシのような体躯の持ち主だったが、手負いの朧者よりも一回り大きかった。

 呼吸を忘れる八重の前で、朧者たちは驚くべきことに共食いを始めた。

 げるゆうはない。新手の朧者は、手負いの者をまたたく間に食べてしまった。

 せんけつのようなはだいろをしていて、頭部はひとつ。ぐにゃりとよじれたはにを連想させる不気味な顔をしている。とうはつはなく、その代わりに後頭部はこけしている。地面に垂れ下がるほどに四本の手はずるりと長い。こしにはちぎれかけのがある。──ころもを身にまとっていたということは、もとはどこかのたみだ。その事実に八重は激しいショックを受けた。

 げんは「綺獣」もかかる病である。綺獣の要素を持たない「人間」には罹りにくい。

 ここまで病状が進行すると、もうどんなまじないを施しても回復の見込みはない。たましいが変形し切っている。

 朧者はぼうとした様子で八重を見下ろす。こぉーこぉーとうすい呼吸音が聞こえた。山の風穴から響くうつろな音に似ていた。

 しばらく見つめ合ったが、ふいに朧者が腕を伸ばし、八重の腰をわしづかみにした。筋張った大きな手は、ぬいぐるみでも持ち上げるかのように軽々と八重の身体からだを地面から浮かせる。

 腹部をあつぱくするその手の強さに八重は息がまった。目の奥が、つようにぐらっとれる。

「いっ……! 放せ、苦しい!」

 八重はたまらずうめき声を上げ、朧者の手のこうを引っ掻いた。

 するとつめすきに、くさったがみっちりとはさまった。ようのようなにおいがふわっとただよってきた。

 朧者の肉体はもうしよくし始めている。

 あらがう気力をなくした八重をかかえ直して、朧者は山中へ深く入っていく。

 朧者は木がまばらに生えた、けいしやした地をもくもくと進み、さらに向こうに見えるがけがんくつを目指した。黄土色の、あらけずりのへきめんの下部に、にんまりと口角の上がったような形──そべった三日月のような形の穴があいている。しかしその黒々とした隙間は大人がって進める程度のはばしかない。

 八重はその中から黒っぽいものが舌のようにだらりと地面に伸びているのに気づいた。

 よく見ると、それは鹿しかの皮だった。黒っぽく見えたのはそこを中心に地面が血にれていたためだ。切りかれた腹部から肉やぞうが骨ごとごっそりと抜き取られている。

 無意識に目をらせば、鹿の周囲には小鳥のがいも散らばっていた。

 おそらく朧者は三日月形の岩窟内で、手に入れた「えさ」を食べている。あるいはそこを一時的に餌入れにしているのかもしれない。

 とっさにそんなきつな想像をして、八重はけん以上の恐怖を覚えた。

いやだ、放して! あんなところに入りたくない!」

 八重は身をけ反らせ、手足をばたつかせながら暴れた。だが八重のていこうなどきよの朧者にとっては痛くもかゆくもないようだ。ちらりとこちらを見下ろしたきり、なんの反応もない。

(ああもう! 荒魂性の男とは一生結婚するものか!!)

 美冶部の男たちにとっても朧者の出現は不幸な事故だが、八重は彼らをのろわずにはいられなかった。

 もし無性の女でも美冶部の者がかんげいしてくれるのなら、そのままそこの民となって生きてもいいのでは──という、心の底にかくし持っていたあわい期待がさらさらと消えていく。

 あちらの部はとつぱつてきげんの増加でなんしているという。八重の持つ知識が使えるかもしれない。だれかの役に立つ喜びは、自分に自信のない者にとって、やくのような力を持っている。

 それでもって、夫になる男とこいをし合えたら、なんていう甘い望みも本当はあった。今世の八重は、十代のむすめだ。そして、前の生では一通りの経験を済ませている。恋がどれほど日々をいろどるかを自分の体験として知っている。

 だがせきてきせいかんできたとしても、自分を見捨てた相手と恋ができるだろうか? ゼロどころかマイナス地点からのスタートだ。

(多数を守るために少数を切り捨てる。彼らは好きでそのせんたくをしたわけじゃないけど、実際に自分が切り捨てられると笑えない)

 そう考えたあとで、八重は死の危機を目前にしてさえ物わかりのいいふりをする自分に嫌悪した。冷静さは大事だが、なにも感情まで押し殺す必要はない。

(本当はちっとも割り切れてない……)

「なぜ私がこんな目に」という怒りと、「誰かと並べられたとき、私は見捨てられる側の人間なのか」というどろどろとしたうらみ、苦痛が胸の底に蔓延はびこっている。

 そういう誰にもぶつけられないゆがんだ感情を、八重は冷静な自分をよそおうことでごまかすくせをつけてきた。

 ──加達留にもこまのようにあつかわれるのだって、本心ではとても嫌だった。

 本当は、本当は、という後出しがすいほうのようにいくつも八重の心にかび上がってくる。後出しの感情ほど困るものはないと知っているのに、目をらせない。

 しかし、たとえば本心を打ち明けたときに、相手の顔に「ああめんどうくさいな、やめてくれよ」といううれいがにじんだら、どうすればいいのか。他人から向けられるがおの種類だって「きらいではないから笑みが浮かぶ」のと「好きだから自然と笑みがれる」のとではまったくちがう。前者であった場合、それに気づいたら、きっと心がこおりつく。

 周囲の人間全員から薔薇ばらのように美しい愛情をささげられることなんてありえない。けれども誰かと比べられたとき、わずかな差であっても、向けられる好意がその人よりおとるのがえられない。望みすぎであろうとも、そう考える自分をよくわかっているから、八重はこの世界でかんようを装ってきた。大人であることを自分に課してきた。

鹿だなあ)

 生きたいと思った。生きていけるだけでじゅうぶんだと思っていた。

 でもうそだ。八重はこの世界でも誰かにきちんと愛されたかったし、同じようにしみなく誰かを愛したかった。その果てに、幸せになりたかった。いや、「なりたかった」ではなくこのしゆんかんだって「なりたい」と願っている。

 必死に隠していた心が、死が近づいたいまになって力強く目覚めるのを感じる。

「死にたくない……っ」

 しぼるようにそう叫んだときだ。

 三日月形をした岩窟の隙間から飛び出しているまみれの鹿の皮がとつぜんふくらんだ。地面の下から誰かがとんでも押し上げたかのようだった。すでにその手前まで八重を抱えたまま近づいていた朧者が、けいかいするようにぴたりと立ち止まる。

 鹿の皮の下から、月よりあざやかな向日葵ひまわりいろの円い目玉が二つのぞいていた。

 八重が目を見張った瞬間、鹿の皮の下から大きな黒いかたまりが矢のように飛び出し、おそいかかってきた。八重は、その正体を知って、思わず声を上げた。

「黒葦様!」

 朧者の横腹にらいついたのは、しばらく姿を見ていなかった黒葦だった。

 黒葦のしゆうげきで朧者の手から力がけ、八重の身は地面に落下してごろりと転がった。あわてて地面を這い、朧者ときよを取ってから八重は振り向いた。

 黒葦は、あっという間に朧者をしようめつさせた。するどい爪でうでを引き裂き、顔面もごっそりといで、のどぶえみちぎった。朧者は、おおぉと呪わしげなだんまつさけびを上げると、石や枝、それから虫の死骸がまざった黒いつちくれへんぼうし、その場にどしゃっとくずれ落ちた。

 黒葦は長いを振り、どうもうあらい息をきながら朧者のざんがいを見ていた。

(美冶部のくつきような男が数人かりでも苦戦する朧者を、簡単にたおしてしまった)

 しかし黒葦はどうしたことか、背中におおを負っている。それが刀傷だと気づいた直後、八重ののうに、さいかいざかまわり〉の夜、びひん様に黒葦がりつけられていた光景がよみがえった。もう七月になったというのにいまだ傷口はふさがっておらず、新しい血をこぼしている。

 だが黒葦の血は、地面に落ちるとまぼろしのようにあとかたもなく消滅する。

「なぜ黒葦様がここに?」

 八重は地面にへたり込んだまま、かすれた声でたずねた。

 黒葦は、ふーっふーっと荒い息をり返し、八重をえて歩み寄ってくる。その異様な姿にされ、八重はよろめきながら立ち上がった。

 目の前にいるけものはいままでの気安さを取りはらって、八重をおびやかそうとしている。その意志がはっきりと伝わってくる。

「黒葦様、やめて!」

 げ出そうとした八重の行動を見通していたらしく、黒葦は何度もわざと飛びかかるような動きを取った。噛みつこうとする黒葦をかわすうち、八重はとうとう足をもつれさせててんとうした。そこはちょうど朧者の身体がほうかいしてしやと化した場所だった。

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