ひ、不二の隠り世に生る御伽話 第二話
月夜。
「つーちや つちや あめつちや」
八重は歌いながら、暗い道を練り歩く。
右の手には、真っ赤な
左の手には、
昨日、道すがら手に入れたもので、ひとつひとつを
「まーつろ まつろ まーつろや ちまた」
八重が着用しているのは
履いてはならない。
「まーつりゃ まつりゃ まつりや こんこん」
初夏というのに、歌を
「こんこん ここ こご ごこ ここん」
歩いている場所は、花耆部の最大の
八重の
いや、ほんのわずかに時空がズレているかのような──。早くこの得体の知れぬ場所から
八重はその
見張りか、護衛か、気がつけば、虎の黒葦が横を歩いていた。
「まーつろ まつろ まつろえ まにま」
段々畑の中をゆく八重の前方には、
上半身は
──奇祭〈
日本で行われていた
年に一度、
花耆部は、というよりこの世界には、どこの地も、これと決まった国教が存在しない。
宗教的
生活レベルはガスや電気が使われる前の日本……明治どころか
そして、
このびひん様だって皆にひどく
びひん様の通ったあとには黒油のような穢れが落ちているので、紐で括った枇杷をそのそばに生えている木の枝にかけて清めていく。こちらの世界の枇杷は、前の世のものより大きい。
〈廻坂廻り〉には、いくつかの決まり事がある。
びひん様が
動いてもいけない。
息もしてはいけない。
びひん様に
声をかけてはいけない。
追う間、長く目を
びひん様が花耆部の
これらの決まり事を破った場合、使者がどうなるのかはわからない。
なぜなら、禁を
もともとこの堕つ神に名はなかった。オツさま──堕つ様、と呼ばれていた程度だ。
だが昔々、花耆部に活現した、とある
びひん様が生じる場所は、なんの因果か、幼い
八重が石榴もどきを食べて気絶したあの場所には、
いまはもう風化を受けて読めないが、柱の表面に『美嬪』と刻まれていたのだという。
とするならこの文字こそが、そこに生じる堕つ神の本質を示す名であろうと
──八重は、そこからさらに、もしかしたらという仮説を立てている。
あそこの場所に突き刺さっていた柱はおそらく鳥居の
次元の異なるこちらに鳥居や社ごと流されてきたか、あるいは気の遠くなるほどの年月がすぎて管理する者も絶え、そのまま打ち捨てられてしまったか。そして社が
八重が〈廻坂廻り〉の使者に選ばれた理由は、その柱のそばで行き
断れぬ役目ではあったものの、決して彼らからつらく当たられているわけではない。操たちは八重を
だが八重は、少しだけ操が苦手だ。
操が、八重を苦手と感じていることを上手に
その
しかしそれは操だけに限った話ではない。花耆部の民は、他の洞児とどこか違う八重に淡い恐れを
それにしても、と八重は思う。
八重が〈廻坂廻り〉の使者となって十年近くになるが、気のせいでなければ、びひん様は年々
「
八重は歌いながら──
「祭ろ 祭ろ 祭ろや
びひん様の変化も謎だが、黒葦の存在も奇怪の一言に
はじめて〈廻坂廻り〉の使者となったときのことを八重は思い出す。その頃のびひん様はいま以上に化け物めいていた。
いくら精神は成人済みといっても、多少は肉体年齢に引っぱられることもある。
当時の八重はびひん様の想像する以上の化け物っぷりに恐れおののき、
自分の腕から
──いまでもあのときの
「祭りゃ 祭りゃ 祭りや
黒葦も最初は
「今々
いまだって別段、仲良しこよしの関係ではない。ただ、はじめの頃のように脅されたり噛み付かれたりされることはなくなった。
……仲良しこよしではないが、八重はこの素っ気ない黒葦にきっと心を救われている。
前の世の記憶に助けられる場面は多かったが、その一方で
大人としての意識が
いまは確かにここが八重の故郷だ。
(まだ完全にはこちらの世界を受け入れられていないのに、その部分は揺らがない)
長の
マイペースに出現する黒葦は、八重が
「祭ろ 祭ろ 祭ろエ
──そんなふうにぼんやりと
ふと
(もう鳥居のところまで来ていたのか)
びひん様を例の朱色の柱のもとまで追いやれば、それで〈廻坂廻り〉は
ここで少し待てば、すうっと
ところが今年は様子が違った。振り向いたびひん様が八重のほうへ近づいてくる。
八重はぎょっとし、目を泳がせた。
どうしてだ。今日は歌も間違わなかったし、提灯の火も消えていない。
びひん様はこちらへ接近すると、
まさかと
悲鳴を上げる
頭上に
(はあ!? ちょっと待って、なんっ──)
(なんで!?)
次の
肉体どころか魂さえ溶かされる。八重はそう
そうして、最後まで悲鳴ひとつ上げることができぬままに八重は意識を失った。
──で、目覚めれば、なぜか八重は自分の
がばっと飛び起きたあと、しばらくの間夢うつつの状態で室内を見回す。赤茶色の
「……って、私はなんで見覚えのあるこの黒太刀を
八重は腕の中にあるものを見下ろして愕然とした。
夢だと思いたいが、びひん様が所持していた黒太刀がここにある。全体の長さは約一メートル。刀身部分はわずかに反りが見られるが、鞘から抜く勇気はない。獣と花の
(なんだこの、持っているだけで
びひん様の手から
八重は、その太刀が視界に入らないよう、近くにあった
(一刻も早く
だがどう説明すればいいのだろう。昨夜の
(だめだ。正気の
八重は心から思った。ただでさえ不可解なうろこと思われている節があるのに、これが公表されたらますます皆に遠巻きにされる。
恐れと
「なっ、なに!?
そして、シン……と
(なんなのこの剣。おかしい)
座布団の中に隠されるのは不服であるという主張が痛いほどに伝わってくる。
「意思を持つ剣とか
この黒太刀、主張が激しい!
「とりあえずどうすればいいの。いや、落ち着け、落ち着くんだ……。私は教えられた通りに奇祭に
その通りだよ、と
しばらく
「ごめんなさい、私、太刀とは同居できない体質だからここにおまえを置いておけないんだ……バイブレーションすごいな!? 本当にやめて怖い!」
座ったまま後退する八重のほうに、黒太刀はガタガタと音を立てながら
これほど
「えー……と、その。あなたはびひん様の剣で間違いないですか」
八重は自分を
が、剣は反応しない。黒太刀相手にあらたまった口調で語りかける自分の姿を客観的に見たら、ただのやばい人でしかなかった。
「そうだ、あの
この黒太刀は、なにがあっても
ペットと思って飼うしかないのかと八重は絶望した。どんなにがんばっても愛着を持てそうにない。
私にこれをどうしろと。
八重は、わけのわからない呪いの黒太刀を見つめながら胸中でそう
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