ひ、不二の隠り世に生る御伽話 第一話
いや、果たしてこの記憶を前世と判じていいのか、少し迷う。
かつて八重は四国地方のとある小さな町で暮らしていた。十代の後半に進学目的で上京したが、大学卒業と同時に帰郷した。
故郷での就職先は地図情報を
在学中のバイトが地図製作の調査だったので、その
幸運なことに、生まれ育った地にもバイト先の系列会社が存在した。「帰郷するのだったらそちらでも
そうして八重はお手製の住宅マップを片手に道という道を歩いて歩いて歩き、家という家も
そこらへんの記憶については
もしかすると病死の可能性もある。それとも過労死……は、ちょっと
死亡理由を
前の世の記憶が単なる
こうした生まれの者を此の世では『うろこ』という。
八重の感覚でざっくり言うなら、転生した日本人が『うろこ』だ。
こちらにある古書には
此の世では、少し
うろこの生誕は、正確には「
洞に活現したうろこは八重以外にも数多く存在する。
ただし
けれども八重の場合はすでにこちらで十年近くが経過しているが、いまだ前世の記憶がなくならない。
かつての人生と
進化と退化を
ここはそういった、不思議こそが日常の、
とはいえ、そんなふうに冷静に世の中を受けとめられるようになったのは、活現してしばらく
『此の世』に生じた直後なんかはひどいもので、パニックの連続だった。
──あの日、ふと
「なんだこれ」
そう
「えっ、なにこれ、私の手?」
勝手に口から
自分の手足がびっくりするほど縮んでいる。どう見ても幼児の手だ。着用中の服も、いつものパジャマ代わりのキャミソールとパンツではなくて、シフォン素材のようなふわふわした
「はあ!?」と、八重はたまらず
いったいどうなっているんだ、夢でも見ているのか。そう
どちらかの感覚のみであれば、もっと早くこの異界をすんなりと受け入れられていたのかもしれない。しかし前世と今世の意識の両方がまざった結果、もとの記憶や思考のほうに引っぱられる状態になった。生まれたばかりの幼い意識よりも、二十四年分の意識のほうが強くて当然だ。
八重はたちまち恐怖に
幼児にまで縮んだ手足の
混乱しながら深い山中を走り回り、八重はすぐに息も絶え絶えの
「死んでしまう……」
八重は泣きながら気絶して、起きて、歩いて、気絶して、泣いて、という究極のサイクルでその日を乗り切った。
翌朝、
そろそろ誰か助けに来てくれてもいいんじゃないかとも、ぼんやりと思った。いまの私、か弱い幼子だぞと。
「おなかすいた、死ぬ……」
足の裏から血が
ゆるやかな
実際は
匂いのするほうに必死で這っていき、そこで見つけたのが枝のうねる
石榴の木が密生するその一帯には、なぜか虫や鳥の声がいっさい聞こえなかった。
それに、周辺の古木と比べると、石榴の木はずいぶん低木に見えた。むしろ石榴以外がすべて
危機感が
八重は、手前側に生えている背の低い石榴の木のほうへにじり寄った。手足は
その木の横には、
八重は地面に転がっていた石をひとつ拾い、石榴の枝になる果実
成人女性の身体のままだったらもっと簡単に果実を手に入れられただろう。だがこの頼りなく薄っぺらい身体では、全力でジャンプしたって一番低い枝にすら手が届かない。
何度も石を投げ付けて
それを両手で大事に拾うと、八重は声を上げて泣いた。
「なにか食べなきゃ、餓死する……。でも……食べても死にそう……」
どう考えたって、この果実は危険だ。
口にした
「なんで生きるか死ぬかの
皮が簡単に
空腹による思考力の低下と、肉体からの「早く栄養をくれ」という切実な欲求が、八重の口を開けさせた。
結論から言うと、まずかった。
腐っている味しかしなかった。それでも食べた。
食べる理由なんてひとつしかなかった。
(生きたい)
種なのか、やけに硬い粒もまざっていたけれど、それすら八重は必死に
(まだ生きたい、どうしても……)
また死ぬのは
そして、次に目を開けたときには、八重は他者の手で救出されていた。
「八重先生、ちょっといいかな」
そう声をかけられたのは、八重が
筆はまだ
後ろにいたのはこの
いまは初夏、
「作業中すまないね、先生」
「いえ、大丈夫です。そろそろ休もうかと思っていたところなので」
首を横に振って八重が答えると、操は
八重は部の
「明日の夜にでも〈
「ああ……、もう
八重は操から視線を外して遠くを
操は、ほっとしたように
「先生の後ろにまた
振り返れば、いつの間にそこにいたのか、大きな
黒葦は、夜の底からぬらりと出てきたような真っ黒い毛並みの
「黒葦様は私のことが好きだよねえ。気がつけばそばにいる」
からかいつつ虎の頭をひとつ
かわいくないなあ、と黒葦の耳を引っぱったとき、操が
「いや、本当に八重先生は
用件を告げ終えた操がそそくさと去ったあと、八重もまた『名付け』の作業を中断して
虎の黒葦が当然のように後ろをついてくる。
八重は黒葦をちらりと見てから、中空に
八重の暮らす花耆部は、
視線を手前のほうへ引き戻せば、耶木山の斜面に、緑も見事な段々畑がうかがえる。畑の間には赤や黄の花が
風が
山の斜面に
──国とは呼ぶものの、これは日本でいうところの「何々県」とほぼ変わらぬ規模である。部は、「その何々県にある何々町の集落」に相当する。花耆部の人口は五千程度にとどまる。
亥雲国の周辺にはまたべつの国が存在する。どの国にも自治権を持つ「
操が先ほど八重に言った〈廻坂廻り〉もまた、奇祭のひとつだ。
その内容は、祭りの場に指定された一画を、
言葉にすればこれだけである。
が、事はそう簡単ではない。
(廻坂廻りって、私が任されている奇祭の中でもダントツの怖さがある)
花耆部の地に限らず、他国でも奇祭は
思い返せば日本だって全国的に多様な行事が存在したが、こちらの祭りとは性質が異なる。花耆部の祭りは、夜店が出て花火が上がって、といった
「黒葦様は、廻坂廻りがどんな由来を持つ奇祭なのか、ご存じじゃないの? 私は堕つ神を
八重は、道の
この黒葦は、何年も前に、八重がはじめて〈廻坂廻り〉を行ったとき出会った
単なるあやかしにすぎぬのか、それとも神格を持つ獣……神使の
「黒葦様が人語を話せたらなあ……ちゃんと意思の
八重は残念に思いながら、風に乱された長い髪を片手で押さえる。顔にばさばさとかかるのが
腰までの長さの
「会話がしたいですよ、黒葦様。ちょっと人語の練習をしてみない?」
がんばれ、とにこやかに笑って
この大きな虎は人間並みにすこぶる知能が高い。話せずとも、八重の言葉をきちんと理解している節がある。
「でもなあ……、黒葦様は話したくても話せないっていうより、おまえとの会話が
八重の家は、段々畑の中間に立っている。
外観は、蔓草に
なにかの
この世界にもチーズや
(ファンタジックな
心の中で
(でもこっちって、完全に異次元の世界というわけでもない)
八重が
花耆部の地には、あちこちにビール瓶やら食器やら、車やら、電柱やら──前の世で日常的に目にしていた様々な物が打ち捨てられている。
こちらではそれらを総じて『
そしてその奇物の大半が、
巨大化の程度は物によって差が見られるが、そこにどんな法則性があるのかは不明だ。
花耆部はとくに奇物の数が多い地だと言われている。
だから民の一部、とりわけ八重のようにうろことして生まれた者は、「ほっほうこれはなかなか便利ですね」と、内部が
八重は亥雲以外の国を
──もしかしたらここは太古の日本でもなく、遠い未来のひとつですらないのかも、と八重はこれまでの自分の推測を否定するような考えをふと抱く。
ここは完全に次元の異なる世界だけれども、たとえば海や川が遠く
(どっちでもいいか。……もとの世界へ帰れるわけでもないし)
どんなに懐かしくとも、そこらへんの
深く息を
八重が住居にと定めたこの「ウイスキーハウス」はガラス製で、注ぎ口となる上部は大きく欠けているが、そこからボトルの半ばほどまでが
八重は
楕円形のボトルの中なので、間取りもその形。二十
全面に手作りのタイルを張り付けた、ゆるく曲線を描く
黒葦も我が家のように
「待って黒葦様。肉球……足の裏の
八重は
「
かつての会社にいたセクハラ上司のような発言をしながらも、八重は本気で空腹を覚えたので、早い夕食の準備に取りかかることにした。
「あー……、しまった。卵も
八重は折れ戸を開けて、竃のそばにある収納庫の中を確かめ、顔をしかめた。黒葦もついてきて、八重の横から収納庫を覗き込む。収納庫は床下に設けられており、これが冷蔵庫代わりになっている。
帰宅途中にもいできた枇杷をそこに入れながら、八重はぼやいた。
「電気やガスが使えないのはきついよねえ……」
食料品が
「買い物には行かなきゃだな。黒葦様も一緒に行こ」
荷物運びさせようと愛想良く笑いかけたら、疑わしげな目付きをされたが、黒葦はおとなしくついてきた。
「
贅沢そのものの欲望を口にしつつ、八重は空の
こちらの世界にも
なんでも
八重が最初に足を向けたのは、段々畑の下に設けられている行商人用の長屋だ。
ここに日中、
視線を巡らせば、長屋を冷やかす
一番に声をかけてきたのは、顔見知りの米屋の商人だ。
「八重先生、また黒葦様をお供にしているの?」
「護衛です、護衛」
適当に答える八重に、米屋の商人が
「お米、三
こちらでは、一合二合という単位ではなく「椀」で買う。一椀が、二合分、つまり約三百グラム。朝昼晩と一
「あーい」と商人が返事をし、
麦屋のほうに向かって、「五椀ください」と指で合図しておく。そちらの商人が、
「卵、卵がございます。……八重先生、卵いらん?」
通りをやってきたのは、
「六つください」
卵売りはまた独特で、店を持たない。布無しの
(黒葦様が
やったぜと思いながら、八重は重くなってきた籠を黒葦の背に
肉と野菜も手に入れ、ほしいものは大体揃ったので、ウイスキーハウスへの道を辿る。
「ムクロジの実も、なくなりそうだったんだ」
八重は
「
こちらの世界は、四季に合わせて人が生活しなければならない。毎日、誰もに、なにかしらの仕事がある。畑を耕す、井戸を
「生きているんだなあ、私」
どこか不思議な気持ちで独白する八重の
早く帰ろうの合図だろうか。もしもそうなら、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます