ひ、不二の隠り世に生る御伽話 第一話

 ももには前世のおくがある。

 いや、果たしてこの記憶を前世と判じていいのか、少し迷う。

 かつて八重は四国地方のとある小さな町で暮らしていた。十代の後半に進学目的で上京したが、大学卒業と同時に帰郷した。

 故郷での就職先は地図情報をあつかけんじつな会社だ。

 在学中のバイトが地図製作の調査だったので、そのえんたよる形での就職になる。

 幸運なことに、生まれ育った地にもバイト先の系列会社が存在した。「帰郷するのだったらそちらでもけいぞくして、うちで働いてみる?」と声をかけてくれた親会社のこうに甘え、地元で新卒社員として採用してもらった。

 そうして八重はお手製の住宅マップを片手に道という道を歩いて歩いて歩き、家という家もかたぱしから訪問し──たぶんその地味な調査のちゆうで事故かなにかに巻き込まれ、死んだのではないかと思う。……のだが、まったくべつの理由かもしれない。

 そこらへんの記憶についてはもやがかかっていて、いまでもわかっていない。

 もしかすると病死の可能性もある。それとも過労死……は、ちょっといやだな。

 死亡理由をめて考えると切ない気持ちになりそうなので、八重は深追いしないことに決めている。ともかく、気がつけば八重は『』に生まれ直していた。

 前の世の記憶が単なるざん以上に鮮明にあるためか、正直なところ、生まれ変わった事実に対してあまり実感を持てないでいる。『桃井八重』という自我はそのままに、肉体のみが三、四歳の幼児にまで退行したというほうがよほどしっくりくる。

 こうした生まれの者を此の世では『うろこ』という。

 。べつの世で生まれ遠回りしてかえってきた子、との意味らしい。

 八重の感覚でざっくり言うなら、転生した日本人が『うろこ』だ。

 こちらにある古書にはうろとも記されている。また、ほらこ、と呼ぶ場合もある。此の世に生じるとき、まるで母体に包まれているかのように、古木に作られた洞の中に現れるからだ。

 此の世では、少しめずらしいという程度の生まれ方なのだと聞く。前の世に人口の約十パーセント存在するひだりきの割合よりやや低いくらいか。

 うろこの生誕は、正確には「かつげん」という言葉を用いる。

 洞に活現したうろこは八重以外にも数多く存在する。

 ただしつうは、すぎる月日とともに前の世の記憶もおぼろになる。たましいが『此の世』の律にむと、自然と記憶も身体からだの中からがれ落ちる。此の世で生きるのに不要な記憶ということだ。

 けれども八重の場合はすでにこちらで十年近くが経過しているが、いまだ前世の記憶がなくならない。

 かつての人生とかくして考えたとき、『此の世』──この『亥雲いずも』の国は太古の日本か、あるいは、日本が辿たどる遠い未来のひとつではないかという疑念がのうかぶ。

 進化と退化をり返して文明はほうかいし、国の形も様変わりした。生物の在り方さえも、これまでの常識の外にある。な運命の手で人もけものも道も、すべてがぐちゃぐちゃにかくはんされてしまった。

 ここはそういった、不思議こそが日常の、かいな世なのだと八重は考えている。


 とはいえ、そんなふうに冷静に世の中を受けとめられるようになったのは、活現してしばらくち、気持ちが落ち着いてからのことである。

『此の世』に生じた直後なんかはひどいもので、パニックの連続だった。

 ──あの日、ふとねむりから覚めたかと思えば、八重は古木の洞の中で一人、たいのように身を丸めていた。

 どうようするまま外へ出て、あたりを見回し、さらにがくぜんとした。

「なんだこれ」

 そうつぶやいて、はっと自分の手を見つめ、より強いおどろきに打たれた。

「えっ、なにこれ、私の手?」

 勝手に口かられた言葉には、いろきようがまざっていた。

 自分の手足がびっくりするほど縮んでいる。どう見ても幼児の手だ。着用中の服も、いつものパジャマ代わりのキャミソールとパンツではなくて、シフォン素材のようなふわふわしたざわりのはんとうめいの布一枚のみだった。

「はあ!?」と、八重はたまらずさけんだ。声もまた、幼子のそれに変わっていた。

 いったいどうなっているんだ、夢でも見ているのか。そうあせる一方で、八重は確かに「私の魂はこちらの世界に新しく活現されたのか」と正しく理解してもいた。

 どちらかの感覚のみであれば、もっと早くこの異界をすんなりと受け入れられていたのかもしれない。しかし前世と今世の意識の両方がまざった結果、もとの記憶や思考のほうに引っぱられる状態になった。生まれたばかりの幼い意識よりも、二十四年分の意識のほうが強くて当然だ。

 八重はたちまち恐怖にまれ、助けを求めて洞のそばをはなれた。その行動はきっと、失敗だった。むやみに動き回らずあの場にじっとしていれば、発達したきゆうかくを持つだれかが八重の活現の気をぎ取って、むかえに来てくれただろうに。

 幼児にまで縮んだ手足のおぼつかなさが、いっそう理性を打ちのめした。うまく走れない。私の身体どうなっているの。どこに行けばいい。どうやったら家にもどれるの。

 混乱しながら深い山中を走り回り、八重はすぐに息も絶え絶えのていおちいった。それはそうだ、いまの自分は三、四歳の無力な幼女でしかない。ろくに整備もされていない山のとうげえる体力なんてあるわけがなかった。足の裏も痛くてたまらない。応急処置として葉っぱを巻き付けたりしたが、その原始的な自分の姿になみだがこみ上げてくる。

「死んでしまう……」

 八重は泣きながら気絶して、起きて、歩いて、気絶して、泣いて、という究極のサイクルでその日を乗り切った。

 翌朝、ねこほどもある大きな栗鼠りすが頭の横をけていく音で目を覚まし、そのときにやっと、本当に死ぬという実感のようなものが静かに胸にわき上がった。だがその日は恐怖以上に空腹感がつらかった。なにか食べたい、飲みたいというきようれつが頭の中を支配した。

 そろそろ誰か助けに来てくれてもいいんじゃないかとも、ぼんやりと思った。いまの私、か弱い幼子だぞと。

 くつさえいていない幼女がうすぐらい山の中をべそべそと泣きながらい回っているのに、誰一人として親切な人間が都合よく登場してくれないとか、どうなっているんだ。

「おなかすいた、死ぬ……」

 足の裏から血がにじみ、痛みで立っていられなくなる。

 ゆるやかなしやめんをほぼ転がりながらくだった先で、八重は、いいにおいがただよってくるのに気づいた。あまっぱい果実のような匂いだ。

 実際はしゆうの甘さだったのだけれども、身がよじれそうなほどのがたい空腹が、なけなしの危機感さえも軽くり飛ばしてしまった。

 匂いのするほうに必死で這っていき、そこで見つけたのが枝のうねる石榴ざくろの木だ。……石榴だと、八重は無理やり思い込むことにした。

 石榴の木が密生するその一帯には、なぜか虫や鳥の声がいっさい聞こえなかった。

 それに、周辺の古木と比べると、石榴の木はずいぶん低木に見えた。むしろ石榴以外がすべてきよぼくだった。そのために山中は昼であろうとゆうやみのような暗さが漂っていたのだが、石榴の木が連なる向こう側は、いっそうあやしげにしずんで見えた。

 危機感がひんの状態であっても、さすがに奥側へみ入る気にはなれなかった。

 八重は、手前側に生えている背の低い石榴の木のほうへにじり寄った。手足はどろまみれになり、細かな傷がいくつもできていた。

 その木の横には、おそろしく太いすすけたしゆいろの柱がななめに地面に突きさっていた。空から巨人がやりでも投げ付けたかのようだった。

 八重は地面に転がっていた石をひとつ拾い、石榴の枝になる果実けて放った。

 成人女性の身体のままだったらもっと簡単に果実を手に入れられただろう。だがこの頼りなく薄っぺらい身体では、全力でジャンプしたって一番低い枝にすら手が届かない。

 何度も石を投げ付けてうでしびれ始めたころ、やっと果実をひとつ落とすことに成功した。

 それを両手で大事に拾うと、八重は声を上げて泣いた。

「なにか食べなきゃ、餓死する……。でも……食べても死にそう……」

 どう考えたって、この果実は危険だ。

 口にしたしゆんかんのたうち回って苦しむ未来しか想像できない。そういうやばさしか感じない。

「なんで生きるか死ぬかのせんたくせまられてるの、私……」

 皮が簡単にけたのはくさっていたからではなく熟し切っていたためだ、中の実が黒く見えるのは周囲に漂う夕闇のような暗さが原因だ、白くてかたつぶがまざっているのも気のせいだ。だいじよう、食べられる。これは食べ物だ、さあいけ──…。

 空腹による思考力の低下と、肉体からの「早く栄養をくれ」という切実な欲求が、八重の口を開けさせた。

 結論から言うと、まずかった。

 腐っている味しかしなかった。それでも食べた。

 食べる理由なんてひとつしかなかった。

(生きたい)

 種なのか、やけに硬い粒もまざっていたけれど、それすら八重は必死にしやくした。飲み込む作業をやめられなかった。頭がおかしくなりそうなほどに「生きたい」と思った。

(まだ生きたい、どうしても……)

 また死ぬのはいやだ。自分の心が、魂が、眠るようにふっと消えてしまうのがこわい。生きたい。八重の全身が血をくようにそう叫んでいる。

 こぼれる涙もぬぐわず一心に食べ続け、やっぱりこれやばいわ、腐っている以前にもうどくだったんじゃないか、と非情な現実をようやく認めたあたりで意識がかすんだ。あ、だめだ、私はここで死ぬんだなと確信した。

 そして、次に目を開けたときには、八重は他者の手で救出されていた。




「八重先生、ちょっといいかな」

 そう声をかけられたのは、八重が馬酔木あせびに『名付け』のしゆほどこそうとしたときだった。

 筆はまだすみつぼの中にひたす前だったので、布に包み直してウエストバッグ──こしおびにさげた薄茶色のかわぶくろに戻し、「はい」と笑顔でり向く。

 後ろにいたのはこのの地を治める首長息子むすこみさおだ。身のたけは六尺以上……百九十センチをえる大男で、くりっとした赤いひとみは快活さよりもどこか頼りなげな子どもっぽさを感じさせる。

 いまは初夏、皐月さつきの頃だ。彼が着用中のころもも季節に合わせて薄手である。基本の形は男女とも変わらない。丈長のほうに帯、ズボン、かわぐつ。八重も操と似たかつこうをしている。白地の帯にあいいろの袍。えりそでぐちにはつるくさの模様。彼のほうはせんさいしゆうが入った薄緑のうわの腰を菜の花色の帯でめている。新緑が匂い立つような、若々しさを感じる組み合わせだ。

「作業中すまないね、先生」

「いえ、大丈夫です。そろそろ休もうかと思っていたところなので」

 首を横に振って八重が答えると、操はげんをうかがうようなひかえめなしようかべ、赤茶の短いかみいた。

 八重は部のたみに「先生」と呼ばれるたび、なんとも言えない気持ちになる。前の世のねんれいを無視すれば、いまの八重は十四、五の少女でしかない。操も若いが、二十代半ばにはなっている。

「明日の夜にでも〈かいざかまわり〉をお願いしたい。親父おやじ様からの言づてだ」

「ああ……、もうひとつきが流れましたか。わかりました。すぐに準備しますと加達留様にお伝えください」

 八重は操から視線を外して遠くをり、うなずいた。

 操は、ほっとしたように微笑ほほえんだが、すぐに顔をしかめて「なあ、八重先生」と、きんちようした声を聞かせる。彼のうれいを帯びたまなしは八重の背後をとらえている。

「先生の後ろにまたくろあし様がいるよ」

 振り返れば、いつの間にそこにいたのか、大きなとらが八重の背後に座っている。

 黒葦は、夜の底からぬらりと出てきたような真っ黒い毛並みのとらである。瞳は向日葵ひまわり蒲公英たんぽぽを思わせる明るい黄色。毛並みが黒いので、闇夜に満月が二つ浮かんでいるかのようだ。

「黒葦様は私のことが好きだよねえ。気がつけばそばにいる」

 からかいつつ虎の頭をひとつでると、ものすごく嫌そうに鼻の上にしわを寄せて八重をにらみ上げてくる。じようだんのわからない虎だ。

 かわいくないなあ、と黒葦の耳を引っぱったとき、操が真面目まじめな顔をして呟いた。

「いや、本当に八重先生はようじゆうに好かれる人だ。怖いくらいに好かれているから、いつかれいこんまでもがあめだまのようにしゃぶられるのではないかと心配になる。まあ、先生に長くにえ真似まねごとをさせている俺たちが言えたことじゃないが……」



 用件を告げ終えた操がそそくさと去ったあと、八重もまた『名付け』の作業を中断してすみもどることにした。

 虎の黒葦が当然のように後ろをついてくる。

 八重は黒葦をちらりと見てから、中空にあらなみのようなりようせんえがく山々へ顔を向ける。山頂にかすみたないて白くけぶる様はまるでそこに長いどうをくねらせたはくりゆう午睡ひるねでもしているかのようで、ゆうえんという表現がよく似合う。

 八重の暮らす花耆部は、れんぽうたるはちだけのひとつ、ざんの谷間に作られた小さなぼんの集落である。

 視線を手前のほうへ引き戻せば、耶木山の斜面に、緑も見事な段々畑がうかがえる。畑の間には赤や黄の花がく。あれは躑躅つつじきんぽう

 風がき込むこの盆地の底にも田畑が作られていて、それらのみぞの横を、地を這うへびのごとく川が通る。家屋は畑の合間にぽつりぽつりと立つ。

 山の斜面にうずのように作られた無数の段々畑は、亥雲国の南方をめる花耆部の大きなとくちようのひとつだ。

 ──国とは呼ぶものの、これは日本でいうところの「何々県」とほぼ変わらぬ規模である。部は、「その何々県にある何々町の集落」に相当する。花耆部の人口は五千程度にとどまる。

 亥雲国の周辺にはまたべつの国が存在する。どの国にも自治権を持つ「おおいつもり」と呼ばれる統治者がいて、その下の部に首長が置かれる。実際に民を守るのは各部を治める首長の一族だ。領土や資源をねらう他国からのかんしようを退け、集落をらすさんぞくち、天災のがいを防ぎ、そしてあちらこちらに生じるじやれいはらい清めるための様々な『さい』を行う。やくを振りく「かみ」をしずめるしきなどもこれにがいとうする。

 操が先ほど八重に言った〈廻坂廻り〉もまた、奇祭のひとつだ。

 その内容は、祭りの場に指定された一画を、提灯ちようちんを持って練り歩く。

 言葉にすればこれだけである。

 が、事はそう簡単ではない。

(廻坂廻りって、私が任されている奇祭の中でもダントツの怖さがある)

 花耆部の地に限らず、他国でも奇祭はひんぱんり行われている。

 思い返せば日本だって全国的に多様な行事が存在したが、こちらの祭りとは性質が異なる。花耆部の祭りは、夜店が出て花火が上がって、といったみなで楽しめる内容ではない。

「黒葦様は、廻坂廻りがどんな由来を持つ奇祭なのか、ご存じじゃないの? 私は堕つ神をなだめる祭りだとしか聞いていないんだよね」

 八重は、道のちゆうで発見したの実をもぎながら、黒葦を見下ろした。

 この黒葦は、何年も前に、八重がはじめて〈廻坂廻り〉を行ったとき出会ったけものだ。それ以来、なぜかふとしたときに姿を現して八重の周囲をうろつくようになった。

 単なるあやかしにすぎぬのか、それとも神格を持つ獣……神使のたぐいなのかは十年近くったいまも判然としない。そういえば、はじめはもののような不気味さと怖さをまとっていた。それが年を重ねるごとに少しずつうすれ、理性も取り戻していったような気がする。

「黒葦様が人語を話せたらなあ……ちゃんと意思のつうができたのに」

 八重は残念に思いながら、風に乱された長い髪を片手で押さえる。顔にばさばさとかかるのがうつとうしい。くみひもでまとめてくればよかったとこうかいする。

 腰までの長さのくろかみは、雨の日には湿しつでぶわっとふくらむし、かんそうした日もやはり増えるわかめみたいにもさもさと広がるので本当に困る。おいおい少しは落ち着けよと言いたくなる。

「会話がしたいですよ、黒葦様。ちょっと人語の練習をしてみない?」

 がんばれ、とにこやかに笑ってこぶしにぎると、黒葦から冷たい目を向けられた。

 この大きな虎は人間並みにすこぶる知能が高い。話せずとも、八重の言葉をきちんと理解している節がある。

「でもなあ……、黒葦様は話したくても話せないっていうより、おまえとの会話がめんどうだから話さないっていうスタンスに見えるよ。やるせないわ……。もっと積極的に私になついて」

 あいかいの黒葦相手にやくたいもない話をするうち、八重は、自身の住処にとうちやくした。

 八重の家は、段々畑の中間に立っている。

 外観は、蔓草におおわれた、こけすウイスキーのびんだ。

 なにかのではない。

 いつけんほどにもきよだい化した、ぼう有名な日本製ウイスキーの瓶でちがいない。ボトル部分はえん形のような平べったいラインで、縦長。前の世の八重もこのウイスキーを時々美味おいしくいただいていた。好みのつまみは野菜スティックとブルーチーズだった。

 この世界にもチーズや麦酒ビールは存在するが、八重のおくにあるものとはかなり味が違う。

(ファンタジックなながめだよなあ……)

 心の中でかんたんすると同時に、かすかにさびしさもいだく。自分にとってはかつての世にあるもののほうがみ深い。その感覚がいっこうに消えない。

(でもこっちって、完全に異次元の世界というわけでもない)

 八重がかくてき早く「この異界は太古の日本か、あるいは日本が辿たどる遠い未来のひとつじゃないか」と推測したのは、こういった『ファンタジックな眺めの物』の存在が関係している。

 花耆部の地には、あちこちにビール瓶やら食器やら、車やら、電柱やら──前の世で日常的に目にしていた様々な物が打ち捨てられている。

 こちらではそれらを総じて『ぶつ』と呼ぶ。

 そしてその奇物の大半が、きようりゆうかというほどに異様に巨大化している。

 巨大化の程度は物によって差が見られるが、そこにどんな法則性があるのかは不明だ。

 花耆部はとくに奇物の数が多い地だと言われている。

 だから民の一部、とりわけ八重のようにうろことして生まれた者は、「ほっほうこれはなかなか便利ですね」と、内部がくうどうになっている『奇物』をありがたく家や倉庫代わりに使わせてもらっている。以前の人生で馴染みのある物が大半なので、ほかの民のようにそれらをけいかいすることもない。

 八重は亥雲以外の国をおとずれたことはないが、おそらくは全国各地にこうしたせきの類いが見られるはずだ。

 ──もしかしたらここは太古の日本でもなく、遠い未来のひとつですらないのかも、と八重はこれまでの自分の推測を否定するような考えをふと抱く。

 ここは完全に次元の異なる世界だけれども、たとえば海や川が遠くはなれたところから不法とうされたゴミを岸へ運んでくるように、日本にあった物がなにかのひように境界をえて、こちらへ流れ込んできたという可能性もゼロではない。

(どっちでもいいか。……もとの世界へ帰れるわけでもないし)

 どんなに懐かしくとも、そこらへんのあきらめはついている。感覚の部分で理解している。

 深く息をき出す八重を、黒葦がげんそうに見上げた。

 八重が住居にと定めたこの「ウイスキーハウス」はガラス製で、注ぎ口となる上部は大きく欠けているが、そこからボトルの半ばほどまでがつるくさにびっしりと覆われている。また、ボトル部分も年月の経過を証明するようにひびや細かな傷が走っているため、白くにごり、外からのぞかれることはまずない。割れる心配もしなくていいだろう。これだけ巨大化しているのだ、当然厚みも増している。強化ガラス並みのたいしようげき性能があるに違いない。欠けている注ぎ口部分には石材を詰め込んでいる。

 八重はとびらを開けて中へ入った。穴のあいていたしよを加工して木戸を取り付けている。

 楕円形のボトルの中なので、間取りもその形。二十じようほどはあるだろうか。

 全面に手作りのタイルを張り付けた、ゆるく曲線を描くかべ、大型の木製だなたんゆかは、平らになるように板をわたしている。中央あたりに分厚い織物をいていて、三日月形のハンモックを置き、それをベッド代わりにしている。

 ひだりはしに取り付けた折れ戸の向こうには、手押しポンプのついた小さなかまどがある。そちら側は底部分のガラスをくりいた状態で板タイルを敷いているため、居間側より一段低くなっている。かわやはさらにその向こう側。仕切りの奥にある。

 黒葦も我が家のようにえんりよなく室内に入り、先日編み上げたばかりのとんそべる。

「待って黒葦様。肉球……足の裏のどろを落として」

 八重はかべぎわの木製棚から手ぬぐいを取り出し、いやがる黒葦のまえあしつかんで泥をぬぐった。表面は固く、それでいてやわらかさのあるわくの肉球だ。さりげなくそこをつついていたら、腹を立てた黒葦に反対側の肢でうでをばしりとたたかれた。

つかれた私にちょっとアニマルセラピーのサービスをしてくださいよ。お昼抜いて作業してたんだから」

 かつての会社にいたセクハラ上司のような発言をしながらも、八重は本気で空腹を覚えたので、早い夕食の準備に取りかかることにした。

「あー……、しまった。卵もちようめの肉も切らしてるや……」

 八重は折れ戸を開けて、竃のそばにある収納庫の中を確かめ、顔をしかめた。黒葦もついてきて、八重の横から収納庫を覗き込む。収納庫は床下に設けられており、これが冷蔵庫代わりになっている。

 帰宅途中にもいできた枇杷をそこに入れながら、八重はぼやいた。

「電気やガスが使えないのはきついよねえ……」

 食料品がくさらぬよう、よく冷えた、ペーパーウエイトのような丸いすいしようを二つ、三つ、収納庫に入れている。数日しか効果が持続しないので、代金をはらって、またこれを冷やしてもらう必要がある。……面倒だ、明日でいいか。

「買い物には行かなきゃだな。黒葦様も一緒に行こ」

 荷物運びさせようと愛想良く笑いかけたら、疑わしげな目付きをされたが、黒葦はおとなしくついてきた。

ぜいたくは言わないから、二十四時間対応のコンビニとスーパーとドラッグストアがほしい。できれば家電製品も使えるようになれば……。だれかまじで自転車を開発してくれないかな。でもこっちって鉱物が本当に貴重だからなあ……、技術がみがかれるだけじゃだめな気がする」

 贅沢そのものの欲望を口にしつつ、八重は空のかごを持って黒葦とともに再び外へ出た。

 こちらの世界にもへいが流通している。物々こうかんも可である。八重の収入源はさい関連の他、手編みの織物、しゆうの品の販売と、割合かせいでいるほうだと思う。

 なんでもそろう大型スーパーはないが、商人が存在するので、日用品や食料は彼らからあがなうのがつうだ。が、卵や青果類は個人から直接買う場合も多い。

 八重が最初に足を向けたのは、段々畑の下に設けられている行商人用の長屋だ。

 ここに日中、余所よそからやってきた商人が表の戸を開放し、ざるおけに品を並べてたみに売り付ける。ちょっとしたてんのようなふんがある。

 視線を巡らせば、長屋を冷やかすたみの姿がちらほら見える。黒葦を連れた八重に気づいてみな、ぎょっとする。

 一番に声をかけてきたのは、顔見知りの米屋の商人だ。

「八重先生、また黒葦様をお供にしているの?」

「護衛です、護衛」

 適当に答える八重に、米屋の商人がしようする。

「お米、三わんください」

 こちらでは、一合二合という単位ではなく「椀」で買う。一椀が、二合分、つまり約三百グラム。朝昼晩と一ぱいずつ食べた場合、三、四日ほど持つ量だ。

「あーい」と商人が返事をし、はしをのぼって巨大桶から米をしやくすくう。この桶は奇物ではないけれども、とても大きい。大人のたけほどもある。

 となりの麦屋、酒屋も、この大きな桶をどんと長屋に並べている。あとで麦も買おう。こちらの世は、白米よりもパンのほうがよく食べられている。

 麦屋のほうに向かって、「五椀ください」と指で合図しておく。そちらの商人が、りようかいというようににっこりする。

「卵、卵がございます。……八重先生、卵いらん?」

 通りをやってきたのは、きよの卵売り。ちょうどいいところに来た。

「六つください」

 卵売りはまた独特で、店を持たない。布無しのおおがさかついでおり、親骨のつゆさきに卵入りの籠をずらっとさげている。

(黒葦様がいつしよだと、おまけしてくれることが多いんだよね……!)

 やったぜと思いながら、八重は重くなってきた籠を黒葦の背にせて長屋通りをひとめぐりした。

 肉と野菜も手に入れ、ほしいものは大体揃ったので、ウイスキーハウスへの道を辿る。

「ムクロジの実も、なくなりそうだったんだ」

 八重はちゆうで足をとめ、つぶやいた。かんそうさせたムクロジの実は、せつけん代わりになる。いまの時季は実が採れないので、商人から購うしかない。それとも小豆あずきで代用しようか……。

せんたくだいさを思い知る……」

 こちらの世界は、四季に合わせて人が生活しなければならない。毎日、誰もに、なにかしらの仕事がある。畑を耕す、井戸をる、ちくを飼う、木々を切りたおす、はたを織る……。

「生きているんだなあ、私」

 どこか不思議な気持ちで独白する八重のひざに、黒葦が軽く頭を押し付けてきた。

 早く帰ろうの合図だろうか。もしもそうなら、うれしい気がする。

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