「おかけになった電話番号は……」

 九月八日。清美にさわやかな寝覚めが訪れた。


「おはよう」

「今日は早いのね」


 六時十分。清美にとって本来の起床時間だ。残暑はだいぶ薄れ、窓から差し込む日射しも急に柔らかくなった。昨日よりも最高気温も最低気温も4℃ほど低い事は天気予報で言われていたが、それ以上に清美の身体は軽くなっていた。


「ずいぶんいい顔してるけど、何かあったの」

「昨日に比べてずいぶん早く起きられたからね」







 何もかもが、目新しく輝いているように見えた。見慣れたはずの床も、テーブルも、食器も、母親も、清美にとっては宝石より輝くお宝に見えていた。

 もちろん朝食だってしかりだ。テレビでは野球の試合結果や芸能人の結婚報告が流され、新聞には外交問題や経済問題、箸休めの4コマ漫画が踊っている。




「まあ、元気で何よりだ。今日も一日頑張ろうじゃないか」

「お父さんもね」


 父親も輝いていた。医者の娘である事を人の命を救う仕事だと誇りに思った事もあるし多忙でなかなか構ってくれなくてつらいと思った事もあった清美だったが、今の清美にはただただ誇りでしかなかった。






 朝食を取り終え、制服を身に纏い教科書をカバンに詰めた清美は、意気揚々と家を飛び出した。路地にはいつも通りゴミを出したり洗濯物を干したりしている主婦たちが並び、仕事を終えた老人たちは家の中でのんびりと過ごしている。

 空はあまり高くないが雨が降る様子はなく、かえって夏の日射しをさえぎると言う意味で心地のいい曇り空。風は微風の東風。鳥やひぐらしのなく声が響き渡る、穏やかな通学の風景。


「おはよう」


 清美がいつものように教室に入ると、修子も加奈も既に座っていた。時間を間違えたのかと思い清美は教室の時計に目をやったが、八時十分だった。


「おはよう委員長」

「おはようございます」

「おはよう」


 見慣れつつあったとは言え、依然としてその存在感を保ち続ける二十六個の空席。その中でたった三つ埋まっている席が真ん中に穴の開いた斜めにラインを作っている。それが二年三組だった。


「今日の一時間目は社会科だったよね、沖田先生の」


 そこまで清美が言ったところで、まだ時間でもないのに沖田が入って来た。

 清美とは逆に下を向いてうつむき、非常につらそうな表情をしている。


「えー、その……本当に許してもらいたい。何かの間違いとしか思えないのだが、なぜか学校の方が君たち三人だけでクラスを作ってしまっていた。こんな少人数のクラスで授業を受けさせてしまっていた事については私からもおわびする。ほどなく、できれば再来週の頭ぐらいには新たなクラス編成が行われる事になると思う。実にすまなかった」


 一組も二組も四組が三十人なのに、三組だけ四人と言うのはあまりに不自然であり、かつ不公平だ。少数指導でとか言うキャッチコピーで売っている学習塾があるように、生徒が少なければ少ないほどきめ細かい指導が行える事になる。

 だから少数である事はトータルで考えれば損得相半ばとも言えなくもないが、それ以上に数的ないびつさから来る収まりの悪さの方が問題は大きい。




「先生何にも悪くないのにさ、かなり損してるよね。そんなクラス編成したの誰?」

「ありがとう。でも先生だってなぜ気付けなかったのか全然わからないんだ。実に不思議だよ、不思議なんて言っちゃいけないんだろうけど、実に不思議だ」

「なぜなのかなー、委員長、キタカナ、どう思う?」

「さあねえ」


 清美にも加奈にも、まったくわからなかった。自分たちがあまりにも不可思議な状況に置かれていたのに、なぜまるで気にしていなかったのだろうか。実に不思議な話だだが、そこで沸き上がって来た気持ちは修子を含め四人とも同じだった。


「まあな、現状をわきまえた上で前進するしかないからな。とにかくだ、この三人で過ごすのもあと十日ほどだ。多分別れる事になると思うが今後とも仲良くする事だな」

「はい」


 清美の声には一切の憂いがなく、青春時代を迎えている中学生の極めて正しい姿をしていた。修子も加奈も美香も、ただ素直に前を向いていた。




 やがて清美が四組に、加奈が一組に、修子が二組に入る事が伝えられ、編入の期日は九月十七日と決められた。


「別にこれっきりな訳じゃないし、来年またクラス替えで同じクラスになるかもしれないし」

「今後もよろしく」

「それにしてもどうして十七日なのかな」

「私はそうだと思ってたけどね、なんとなくだけど」

「まあ委員長が言うならそうなのかもねー」


 九月十七日。なぜかその日だと、清美は勝手にそう思っていた。理由は何も思い付かないが、なぜかそう感じていた。そしてそれを口にしても修子はちゃんとついて来ているし、加奈も美香もとくに何か反応する事はなかった。













 やがてその九月十七日、クラス替えその他のごたごたをいともさらりとこなしながら帰宅した清美を、母親は苦笑いを浮かべながら出迎えた。


「お父さんからさっき電話があって、今日徹夜かもしれないって。なんか妊婦さんがたくさんやって来て大変だって。それで外科医であるお父さんも駆り出されてて」

「どれぐらい来てるの、まさか二十六人ぐらい」

「どうして知ってるの」

「わかんない、本当にただのカンって奴」


 なぜか清美は、父の勤める病院に運ばれて来た妊婦の数を当てる事が出来た。だが当てる事ができた理由は、清美さえもわからない。


「とりあえず新しいクラスはどうだった、なじめたの」

「うん。一年生の時に同じクラスだった子もたくさんいたし」

「それはいいわね。とにかく手を洗って服を着替えなさい。夕食はあなたの大好きなナポリタンよ」


 清美は階段を上がって自分の部屋に行き、カバンを下ろして部屋着に着替えた、疲れ果てて帰って来るだろう父親の姿を思い浮かべながら、明日父親に何ができるか、そしてこれから新たなるクラスメイトのために、何より自分自身のために何ができるか。清美の頭の中は今、やたら美しく輝いていた。







「でも久井原美香って子はどうして援助交際なんかしたんだろう、浅野さんって人と……」


 携帯電話を取り出し、184を付けずに電話をかける。なぜか頭に残っている久井原美香と言う同級生、そして浅野治郎と言うお役人様。


 その二人の事を、なぜか清美は覚えていた。




「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」


 どちらもこの通りである。間違いなく、ふたつの電話番号はメモ帳に書かれていた。二人が一体どこに行ってしまったのか、ふたりに聞いてみなければならない。




「久井原美香?誰それ?ああ、七月の二十五日に電話くれた子だけど……うーん忘れちゃった」

「おかしい……なぜか七月後半にその名前が着信履歴に残っているけど……覚えてない……」




 二人の親友もどうやら同じらしい。

 なぜか名前は憶えているが、どんな人間だったのか思い出せない。




「ニュースをお伝えいたします。昨日から五名の中学生が行方不明になっております」


 久井原美香とは一体誰なのか、そう思いながら携帯電話を閉じて居間へ向かった清美であったが、ニュースを見ると急にその気が失せた。




 テレビの中にいる、行方不明になった子の「同級生」。そして「警察官」らしき男性。なぜだか二人がこっちを見て笑っているような気がした。







 わざわざその笑顔を曇らしに行く必要など、どこにもない。それだけの話だ。


 清美はフォークを食器棚から取り出し、テーブルに並べた。


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