根源

 ―――緑色の光に満たされた空間。紛れもなくあの保健所だ。




 ブレザー姿の清美が、真顔で二十六匹の子犬を見下ろしていた。子犬たちは、清美の周りをぐるぐると回っていた。


 清美はなんとなく、腰を屈めてみた。

 自分の手で、子犬に触れたくなったからだ。

 その結果、一匹の子犬を触る事に成功した。全体的に毛の薄く、子犬たちの中でもかなり小柄な部類に入る子犬。

 やたらと愛らしい表情をした子犬を、清美は笑顔で見つめた。




 その子犬には、爪がほとんど生えていなかった。牙も実に可愛らしく、一体何が噛み砕けるのかわからないぐらいだった。


 本来ならばお乳を飲んでいるのが似合いかもわからないその雌の子犬は、清美に向かってぬいぐるみのような目を向けた。その目つきも実に可愛らしく、清美の心をとろかすには十分だった。


 清美は頭を撫でていた手を裏返し、自分の手のひらに乗るように促した。子犬はその思いに応えるかのように清美の手に乗っかり、腰を伸ばした清美と共に高く上った。




 この時清美は、自分が大きくなっているのに気が付いた。


 具体的に何センチかはわからないが、おそらくは本来の背丈の倍ぐらいになっているのではないか。


 背丈だけではなく、手も足も頭もすべてが倍になっている。おそらくは体重も倍になっているのではないかと一瞬だけ落ち込み、すぐにこれだけの身体を支えるのならばそれぐらいの重量が必要よねと納得した。




 いくら自分のすべての大きさが倍になっているとは言え、人間の手のひらの上に乗る程度の生き物と言うのがいかに無力であるか、想像する事はあまりにもたやすい。


 ましてや今、清美はその生き物を自分の顔の高さまで持って来ている。その高さからコンクリートの床に飛び降りるという事がどれだけ危険な事かも、これまたあまりにもたやすく想像できる。


 わざとであるにせよないにせよ、清美が右手を握ったり振り落としたりすれば、まず間違いなくその子犬は死ぬ。いや、その子犬とほぼ同じ大きさをした二十五匹の子犬たちだって、また同じように死ぬだろう。







「その子犬たちはね、君が殺そうと思えば簡単に殺せるんだ」

「浅野さん、と美香ちゃん!」


 子犬を手の平に乗せたまま、清美はゆっくりと首を後ろに向けた。あの時と同じように緑色のつなぎを着た浅野治郎は、棒を持ってこちらを見ていた。そしてやはりあの時と同じように、お面のような笑顔をしていた。


 そして浅野治郎の隣には、久井原美香が立っていた。




「見るんだ、その牙を、その爪を。何にもできない存在なんだよ、彼女たちは」

「今の所はですね」

「そう、その通り。でもその内爪は尖り牙は鋭さを増す。だからこそ僕たちはいろいろと教え込まなければならない。その爪牙を僕たちに向けたらどうなるかをね」

「それが飼い主の責任なんですよね」

「ああその通りよ」




 この前の時と同じく、おだやかな笑みに似合わない威圧感を漂わせながら浅野は清美に迫って来た。そして美香も、同じような笑顔をしてじっと立っている。


 しかし今度もまたこの前のように清美の感情が揺れ動く事はなく、淡々と浅野の言葉に答える事が出来ていた。




「でもね、一人っきりで二十六匹の犬の面倒を見るのは無理だよ。

 ペットなんか一匹たりとも飼った事のない人間にそんな事ができる訳がない、一匹でもできるかわからないよ。

 もう時間がないんだ、これまで十分に時間は取ったんだけど、残念ながら梨の礫って奴でね」

「一匹だけでも何とかなりませんか、今おっしゃったじゃないですか一匹でもできるかわからないって、それはつまりできるかもしれないって言う意味じゃないんですか」

「かもしれないね、でもそれは残り二十五匹を見捨てると言う事になるんだ。二十五匹の仲間、十日間一緒に過ごした仲間を置き去りにさせる事になる。君は案外非情なんだね」

「そうかもしれませんけれど、自分にできる事を精一杯考えてみた結果がこれなんです」




 殺されるのを待つだけの運命。そしてそれ以外に何をする事もできない。

 そう書くとあまりにも残酷だが、死から逃れられる生き物などこの世に一つもない。

 清美だって修子だって加奈だっていつか死ぬ。地球だってあと五十五億年で肥大化した太陽に飲み込まれて消えてしまう。そういう意味では、この子犬たちの運命と清美たちの運命にそんなに大差がある訳でもない。



 ましてや清美自身孤独との戦いを続けて来た身だ。今ここでこの一匹の子犬を連れ出すという事がどういう事なのかわかっているつもりだった。

 しかしそれでも、自分が今何をやりたいのか、何をできるのか。それを考えたつもりだった。


「でも、君が言いたいのはそんな事じゃないんじゃない?」

「そうかもしれません。でもそれを言う事より優先される事だと思っています」

「確かに仲間は大事だ、でもいつも仲間にやらせてはいけない。ペットは飼い主を満足させるのが仕事だよ?それを怠ったらおしまいだ。君だって仲間に言いたい事を言わせて自分が引き取って満足してるんじゃないのか?そんな風に仲間に頼りっきりになっているといつか見捨てられるかそれとも仲間を潰しちゃうかのどっちかになるよ」

「では今から言います」



 浅野治郎も美香もまるで動揺する素振りもなく、笑顔を貼り付けながらじっと清美を見据えている。

 並の精神状態ならば何も言えずに押し黙るかさもなくば精神を乱してあらぬ事をしゃべりまくるかしていただろうほどの威圧感を放ちながら嫌らしく責め立てる浅野に対し、清美は極めて素直に問答できていた。







「教えてください、この犬たちは芽以たちなんですか」








 今日の昼間、清美がずっと抱いていた危惧を、修子はジョークと言う体裁で吐き出してくれた。そのおかげで清美は笑い、精神を浮かび上がらせる事ができた。


 しかしそれはどうしても清美が吐き出す事ができなかった本当の危惧であり、いつか向き合わねばならない危惧であった。


「イエスだと言ったらどうする?ノーだと言ったらどうする?どっちのが嬉しい?」

「答えがあるんなら出してください」

「まあ結論から言えばイエスだね。でも僕は何も関与していない。あくまでも彼女たち自身の問題だ」




 そのずっと抱いて来た危惧を吐き出したのに真摯に答える様子のない浅野であったが、やはり清美の心が揺れ動く事はなかった。


 芽以たちがどうしてこうなったのか。なぜ浅野は二十六匹の犬が芽以たちであると気が付いたのか。

 その疑問もあったが、とりあえず自分の思案が的中していた事に清美は満足できていた。




「なぜこうなったんです」

「言ってるじゃないか、彼女たち自身の問題だと」

「私はそれを手助けしただけ」

「どういう問題があったんでしょうかと聞いているんです!って言うか美香、手助けって」

「君たちは中学生だろ?中学生の本分を忘れちゃいけない。彼女たちは中学生の本分を忘れて、まるでその必要のない些事にうつつを抜かしちゃったんだよ。人生なんて長い物じゃないし、時間を無駄に使う物じゃないんだけどなあ。それをやっちゃったんだよ、彼女たちはね」

「でも誰だって無駄な事はすると思いますけど、それが原因だとしたらみんなこうなるはずじゃないんで」




「聞きなさいよ!」




 浅野と清美が言葉を交わし合う中、清美の右手に乗っていた子犬が突然人間の、石田芽衣の声で吠えた。

 その声は浅野との対話に集中していた清美にもはっきりと届き、そして清美に子犬の方を向かせるには十分なほどの力を持っていた。







「あのGWの最終日、私は必死になって勉強して宿題を片付け、そしてやっとの思いでジュースでも買おうと思って外に出た!それなのにあなたは私がこうして苦しんでるって言うのにのほほんと家族総出で旅行カバンぶら下げて歩いてた!ものすごく、幸せそうな顔をしてね!許せなかった、許せなかったのよ!」








 ――そういう言葉を、覚悟していなかった訳ではない。




 確かに恨みを買う事案ではあったかもしれない。


 だがそんなないものねだりはどこにでもあった。


 それをネタにあそこまで恨み合っていてはあまりにも非生産的だし、第一心身が持たない。

 実際、重野清美と言う一人の人間の心身はそのないものねだりから発した行いによりかなりの打撃を受けていた。



「ごめんなさい。ちょっと無神経だったって言うのならば謝るから」

「ちょっとじゃなくて目一杯だっての!そのせいで私がどれほど傷ついたかわかってるの!わかってるならもっと誠意を見せなさいよ!」

「誠意って言われても、何をすればいいの」







 いつの間にか、子犬の毛がずいぶんとふさふさしていた。これまで手に乗っていた犬とは違う、犬っぽい犬。

 そしてその子犬の眼は、さっきの子犬と同じようにぬいぐるみのようにまん丸でありながら、目はうるんでいた。

 しかしそれは悲しみとか懇願とか言うより、無念と怒りのこもった涙だった。一方で爪と牙はさっきの子犬と同じく何とも可愛らしい物であり、清美の肌に傷をつける事ができるのかすら怪しいぐらいだった。だとすればどうするか。声で相手をひるませるしかない。


 とりあえず謝った清美に対し、子犬はさらに吠えかかった。







「私が死ぬまで、一生面倒を見続ける事!そうね、あと五十年ぐらいあんたは私たちの奴隷よ」


 何をすればいいのと言う清美の質問に対する、子犬の回答。あまりにもごう慢な物言いでなされた、あまりにも度外れた要求。


「そんなめちゃくちゃな」

「うるさいわね、私のこの心の痛みはそれぐらいしなければ取り除かれない物なの!」


 さすがに無理だと言わんばかりに首を横に振ると、子犬は再び声を上げてわめき散らした。しかしどんなに子犬がわめき散らしても、清美に届いたのは唾液ばかりだった。


「飽きなかったの」

「飽きるだなんて、そんな低次元な事やってるんじゃないの!一生ものの戦いなのよ!ここであきらめたら、もう一生あんたのような外面だけいいような奴にへいこらしながら暮らさなきゃいけなくなる!あんたと違って私たちはそれほど面の皮が厚くないの!」




 必死なのはわかるが、まるで伝わって来ない。


 痛くもないツボを押されて痛がれと言われても無理な相談であり、それを要求して来られても応じる理由は清美にはない。

 それで相手が満足した所で、五十年とか言う言葉を額面通りに受け取れば全くの一時しのぎに過ぎない。


 途中で逃げ出せば中途半端な事をやって下手な期待を抱かせてなぶる気だとか言う論法で殴りつける事が出来るし、ひざまずかせている内はずっと自尊心を満たせる。


「あーあ……」

「このまま放っておけば子犬は子犬じゃなくなる。爪も牙も鋭くなり、やがて君の身体を引き裂く事ができるようになる。それまでに君は二十六匹の犬の心を解きほぐさなくてはならない。人間より犬の成長がずっと早い事ぐらいはわかってるよね。この中にオス犬はいないけど、外に出せばいつか出くわすかもしれない。

 親は子どもに、自分の望みを押し付ける物だ。いいとか悪いとかじゃなく、それが自然の摂理だよ。食事を与えるのだってある意味での押しつけなんだから」


 美香が深々とため息を吐き、治郎が口を動かす。




 ここまで彼女たちを動かしていた怨念を、自分一人にしまっておくことができるものだろうか。きっと夫となるオス犬やその子どもたちにも伝えて行くだろう。

 あまりにもつまらないスタートから膨れ上がった悪意。そんな存在が二十六匹もいて、かつそれがまたたくさんの子どもを産む事になる。

 とても一人の人間が背負えるほどではない憎悪の量になるだろうと言う浅野の言葉は鋭く清美の心を捉えたが、出血はなかった。




「いい顔をしているよ。この犬たちに友達が襲われたら、すぐにここにいるすべての犬を叩きのめしてしまえそうなほどの気迫だ。僕にはとてもとても真似できないね」

「それなら浅野さんの方が」

「いいや僕は気迫なんて呼べるかっこいい物じゃない、ただのこけおどしだ。わかっている人間から見ればすぐばれる、ね。君にはもう看破されているんだろう」

「やはり殺すんですか」

「ああそうだよ、殺すよ。ねえ美香」




 浅野の持っていた棒が、注射器に変わった。その中にある薬を体内に打ち込まれれば、たちまちにしてその命を落とす事になりそうな注射器。

 三メートル以上の背丈がある浅野が両手で抱えるぐらいの大きさをしたその注射器は、子犬たちにとっては大砲のような物だっただろう。


 実際、その注射器を見た子犬たちがおびえの鳴き声を上げ始めた。


「どうしたんだよ」


 とげとげしさを兼ね備えながらもてあそぶような口調で浅野から言葉を投げかけられた子犬たちは鳴く事すらやめて震え出してしまった。


 ほどなくして鳴き声とは違う変な音が聞こえ始め、それと共に部屋の湿度が上がった。




「汚い……汚いわよ…」

「何が」

「何がじゃないでしょ、いつもいつも強い大人にすがって助けてもらおうだなんて、どれだけ甘ったれた根性してるのよ……あの三十路独身男に援交か何かやったんでしょ、そうに決まってる!」

「それは私だけど」



 清美の右手の上の子犬も震えていた。そして震えながら声を絞り出し、清美に向けて気力を振り絞って声を上げると一気にまくしたてた。


 そのまくしたてた妄言に呼応するかのように、残る二十五匹の子犬も美香の言葉なんか耳に入らないかように清美に向かって吠え始め、浅野は無表情で注射器を床に叩き付けた。


 清美が注射器の割れる音にさすがに驚いて子犬を落としながら両耳を両手で塞ぐと、子犬たちが苦しみ始めた。


 そして一匹、二匹と口を閉じて行ったが、それでも残った犬たちは最後まで清美が浅野といかがわしい事をしていたと言う根拠のない決め付けを吠え続けていた。






「わかったね」

「はい」

「まあ十日も待てば大丈夫だよ」


 やがて最後の一匹が倒れるのを確認した浅野は笑みを崩さないまま、倒れ込んだ子犬たちを顧みる事なく清美に背を向けながらゆっくりと歩いた。

 浅野の背丈は徐々に小さくなり、やがて普段の清美とほぼ同じ背丈になった。清美はその浅野の背中をじっと見つめていた。歩く事も呼吸する事すらせずに、じっと見つめていた。

 そして美香もまた浅野以上にいい笑顔をしながら、浅野と共に消えて行った。


 子犬たちの体は徐々に小さくなり、その顔から険が取れて行く。残ったのは、注射器の破片と、緑色の光と、清美だけだった。

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