ガス室

 幾日ぶりかわからないほどさわやかな気持ちで帰宅した清美を待っていたのは、一枚のメモだった。


「清美、この前の土曜日修子ちゃんと加奈ちゃんと一緒に出掛けたでしょ。そこの保健所の浅野って言う人からだって。って言うか三人で保健所なんかに行ったの」

「うん」

「まあいいけど、帰って来たらよろしくって。この電話番号」




 電話番号が渡されたメモを母から受け取った清美はカバンを下ろし制服を脱ぎ、私服に着替えて携帯電話を握った。


「もしもし」

「キミか、しかしキミのお母さんはしっかりと教育ができてるよね、ちゃんと184を押して来ているんだね」

「あれ以来慣れましたから」


 浅野治郎の声はあの時と全く変わらない。




 隠している訳でもない電話番号など電話帳でも漁れば簡単に発見できる。


 どうして自分にたどり着いたのかについても、土曜日にわざわざ保健所に来るような中学二年生などそうそういないし、その前に清美たち自身の顔もそれなりに割れていた。


 あの事件でテレビの取材が来る事もあったし、そこで適当にインタビューにも答えた結果、清美たちはそれなりに有名人になっていたし少しは見知らぬ人間たちの訪問にも慣れていた。


 とは言え、やはり見知らぬ相手からの電話が怖いのは当然であり、それゆえに清美も母から家族と修子と加奈以外に電話をかける時は極力184を頭に付けるように言われて来た。最近では美香もそのメンバーに入っている。







「それで浅野さん、私に何の用ですか」

「明日、ガス室に放り込む事になった」

「何をです」

「二十六匹の犬たちをだよ。言っとくけど一応募集はかけたんだけどね、でも誰一人声をかけて来なかった。もう十日も経っているし、残念だけどこれまでだよ」

「お仕事大変ですね」

「明日、朝一番で行う事になってる。火曜日のその日にね」

「ご苦労様です」


 清美の感情は、不思議なほど動かなかった。二十六匹の犬と言う生命が明日失われるかもしれないと言うのに、まるで日常の事のように流している。

 事故により何人もの人間が死んだとか言うニュースが流れた所で、清美にできるのはかわいそうだと思う事と気を付けなければいけないと考える事がせいぜいだった。


 今度の場合は殺人事件に類するそれだが、それにしたってなぜ犯人はそんなひどい事をするんだろうなと思う以外そんなに大きな違いはない。そんな風に、どこか遠くの世界を見ているような気分にしかなれなかった。




「おいおい、社交辞令を覚えるのはまだちょっと早いよ、まだ子どもだろ」

「いつ社交辞令を言ったんです?」

「やれやれ、君はとことんまでいい子だね。でもさ、三十路を過ぎちゃったおじさんから見るとそういういい子っぷりは実に物足りないって言うか、不安さを感じずにいられなくなっちゃうんだよね。それとも君は二十六匹の犬が死んで行く事に対し何とも思えないって言うのかい」

「そんな事はありませんけど」

「じゃあなんでそんなに平然としているんだい?なんとなくわかってたって言うの?」

「はい」




 もてあそぶような浅野の言葉にも、清美の心はまるで揺れない。無視されるのとは違い言葉でもてあそばれるのには慣れていなかったはずなのに、それでも浅野の言葉が清美の心を響かせる事はなかった。

 まさしく今の季節を示すようなぬるめの風を、浅野はそよ風と呼ぶにも強風と呼ぶにも中途半端な風量で吹かせていた。


「そうか、それにしてもまだ二十六人の同級生は見つかってないんだって。その同級生たちを君は助けたくないの」

「助けられるのならば助けたいですけど」

「君は恐ろしい事を言うね」

「どういう風に恐ろしいんですか」


 そこでいきなり電話が切れた。


 何が恐ろしいと言うのか、なぜ何にも教えないまま浅野は電話を切ったのだろうかと言う疑問は、清美の中に浮かび上がらなかった。


 そしてそれよりもっと重大な疑問、どうしてわざわざ浅野が自分に電話をかけて来て二十六匹の犬を殺す事を伝えて来たのだろうかと聞く事もしなかった。











「それで浅野さんって人は清美に何だって」

「たいした事は何にも言ってないよ、ただのお仕事の報告だけ」

「本当に」

「本当だよ」

「ああそう、ちゃんと宿題やりなさいよ」


 何かあったのと勘繰られても仕方がないあまりにイレギュラーな相手からの、あまりにも唐突な電話。そしてその内容はと言えばわざわざさしたる関係もない中学二年生に話す必要もない仕事の情報。


 守秘義務うんぬんと言う問題する生じる話だと言うのに、だ。


 もしここで二十六匹の犬を殺すとか言えば、あるいは母親たちは何かを言うかもしれない。でもだからと言って二十六匹すべての犬を救える訳でもない。

 下手に首を突っ込ませて損をさせる必要もないと言う理屈を振りかざす訳でもなかったが、清美の言葉はなぜかその方向に動いていた。




「それにしても今日ずいぶん機嫌がいいみたいだけど何かあったの」

「まあね、修子と楽しくおしゃべりできたし、それから加奈と美香とも」

「それが何よりね、お互いの本音をさらけ出しあえる関係ってのはいいわよ。加奈ちゃんはあんまり口数の多い子じゃないけど修子ちゃんはああいう子だから包み隠さず喋ってくれるでしょ?」

「そうなんだよね、お父さんは加奈ちゃんの方が好きみたいだけどね」

「お父さんはあんまり喋る人じゃないしね」


 母と娘の、穏やかな会話。そこには、二十六匹の犬が介在する余地はない。入り込めるのは修子と加奈、そして父親だけ。石田家や斉野家にはない日常が、そこにはあった。







 夕食を取り、宿題を済ませてお風呂に入り、ちょうどお風呂を上がって来た所に帰って来た父親とまた少しだけ話し、自分の部屋に戻る。

 修子も加奈も、似たような時間を過ごしていた。清美たちにだけ、急に日常が戻って来ていた。


 今まで何も変わらない部屋のはずなのに、やけに広く感じる。とくに何かを捨てたと言う訳でもないのに、この四ヶ月間で一番部屋が広くなっていたように清美には思えて仕方がなかった。







 ―――思えば、あれからちょうど四ヶ月が経っていた。


 五月六日、木曜日。GW明けにいつものように声をかけた清美に対し、芽以は首を大きく横に振って顔を背けた。そしてそれきり、清美と芽以がまともに会話をした事はない。そして奈美とも、振衣とも。

 もし修子と加奈がいなければ、清美はとっくの昔に学校をやめていたか、あるいは死んでいたかもしれない。


 そんな辛いはずの思い出が、清美の中で急に薄れていた。昨日と同じ部屋で、昨日と同じパジャマに着替え、昨日までと同じベッドに横たわったと言うのにだ。清美はこれまでで一番自然な笑顔を浮かべたまま、ゆっくりと目を閉じた。







 ―――緑色の光に満たされた空間。紛れもなくあの保健所だ。




 そして今度は、はっきりと夢だと認識できた。

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