最後の一人
「修子」
九月七日、またもやギリギリの時間に登校した清美は開口一番親友の修子に声をかけた。
服や髪こそ若干乱れていたもののその顔には活力が戻っており、修子を安心させるには十分だと清美は感じていた。
「一体どれだけ寝てたの」
「ママが言うには、えっと十一時間……」
目を覚ました時は自分でも信じられなかった、自分では九時半に寝て七時に起きたつもりだったのに、実際には八時半に寝て七時半に起きていた。
まるで赤ん坊か幼稚園児のような睡眠時間であり、清美はその間まるで目を覚まさずぐっすりと眠っていた。
「改めて言うけどごめんね、私やっぱり甘く見てた。清美がそんなに疲れ果ててるだなんて私全然知らなかった」
「夢見なかった?」
「全然」
「大変だなあ、清美さん大丈夫ですか」
「まあね、ぐっすり寝たから」
修子も美香も、清美の心配をしている。美香は修子以上にひどく落胆した表情をして、清美を守っている。
自分の苦しさを分かってくれている美香が、清美には実に頼もしく思えた。
もし美香が一学期に転校していたらどうなっただろうか、芽以たちに睨まれて飲まれるか、修子や加奈のように清美を守って孤立するのか。
あるいは自ら清美に喰ってかかって来るか、どれになるか清美にはわからなかった。
「先生来るわよ」
加奈の言葉によって清美たちが姿勢を正すと、沖田がその姿を見せた。
「起立!礼!着席!」
清美にとって既に慣れっこになっている、学級委員長の挨拶。しかしほんの二ヶ月前まで、この挨拶に従っていたのは修子と加奈だけであり、他の人間はお義理そのものの姿勢でだらけた挙動を繰り返していた。
とくに芽以や奈美などはまるで耳を貸す様子がなく、沖田から言われてようやく動く有様であった。教師を含めても二十六対三と言う力関係をもって、芽以たちは清美にその威を示していた。
しかし今は、沖田と美香を含め四対〇の関係になっている。
力関係と言う点で言えば、人間と犬もそうだ。犬は人間が初めて飼い慣らした動物であるが、それは人間が犬の祖先である狼に打ち勝ったと言う証明でもある。
人間は犬よりも強い立場にいる。保護とか言ってもそれはあくまで人間様の都合であり、お犬様のそれはあくまでも人間様の度量によって担保されているに過ぎない。
二十六匹の犬たちが浅野治郎に保護されてから、今日で十日になる。そろそろガス室に放り込まれるかもしれない。それを決めるのはまったく人間の判断であり、二十六匹の犬たちには何の選択肢もない。
そこには多数決の論理もないし、ただ人間によって殺されるのを待つしかない。あるいは飼い主が現れて来ると言う偶然が起きないとも限らないが、それこそ無理難題だった。
ただでさえ人間に吠え掛かり、追い回そうとした犬だ。
修子は清美を犬を飼えばいい犬に育てそうだと評価していたが、仮にその評価通り真面目にやったとしてもなつくかわからないおそろしく難しいだろう犬たちだった。
一匹や二匹ならともかく二十六匹となると、これはもう二十六匹すべてがこの難しいだろう犬を飼い慣らせるほどの人間と出会う事自体奇跡であり、犬が好きだけで引き取って手に負えなくなる人間が必ず出て来てしまうと考えた方が賢明だ。
それで結局捨て犬に成り下がり、ガス室に行くしかなくなる。その際に力の限りやりましたがやはりだめでしたと言うのは文字通りの言い訳であり、それならいっそ引き取るなよと罵声を浴びせかけられるのがせいぜいである。
――「人道的見地により」
昨日の夜、清美がうつろな気分で聞いたニュースの中で唯一頭に残っていたのがその単語だった。
人道的見地とか言うが、確かに人道的見地を振りかざせば野良犬をまとめてガス室に放り込むのは非道以外の何でもないだろう。だがその人道的見地によって何が救えると言うのか、人道的見地をもって全くなつかない犬を引き取って与えられる物は一体何か。
犬小屋やエサを買うための金銭的損害、糞尿やペットそのものによる悪臭、鳴き声による騒音公害。そしてそれらを含めての時間的損害。
そんななつかない犬からプラスの効果が与えられる訳もなく、結局は殺されるはずであった命を救ったと言う自己満足に過ぎない。万が一なつかせられることができたとしても、そこまでの費用対効果を考えれば別のまっさらな犬を飼った方がよっぽど良い。
ましてや狂犬病と言うのもある。清美も今回の一件までさしたる関心を持っている訳でもなかったが、かかればほぼ確実に死に至ると言うとんでもない病気であることを知ってからは犬そのものになんとなく不安を抱くようになっていた。
保護されてから受けたのかもしれないし、仮に引き取ると言う事になればその時点で受けさせられるだろうが、あの調子で予防接種を受けてくれているのかわからない。そう考えるとますますリスクが増大される。
「委員長、どうしたの黙っちゃって」
「えっそう」
そういう嫌な発想を心から放り出すべく授業に集中していた清美は、いつの間にか喋る事を忘れてしまい、そしてその事に対する自覚すら修子から指摘されるまで失っていた。自分が口をつぐみ続ける事により何が解決する訳でもないのに、口を開く事ができなくなっていた。
「やっぱりさー、とんでもない魔法使いの仕業なんだよこの事件って。あるいは浅野さんこそその魔法使いかもしれないよ、あるいはみんなを犬にして保健所に入れちゃったのも全部浅野さんかもしれないし」
「まじめに物を言ってよ」
「キタカナ、私はそれなりにまじめなつもりなんだけどなー」
空席だらけなのをいい事に修子はわざわざ美香の席の右隣、清美の前の席に来て弁当を食べている。その席の主がいれば許されない事を、修子は平気でやっている。
その修子のやり方を、どうしても清美は受け入れる事が出来ない。まるで元の席の主の事を考えていないんじゃないか、その気持ちがどうしても先に立つ。
あまりにも特異な環境に放り込まれた美香と言う存在に積極的に接触し心を解きほぐそうとしている事はわかるし、おそらくは修子もその事を承知しているだろうと思いながらも清美にはどうにも飲み込む事はできなかった。
「美由紀の……」
「ああつるぎちゃん?つるぎちゃんだって仲良くしてくれたと思うよくいちゃんと。委員長だってキタカナだってそう思うでしょ」
「そうは思うけどね、でもやっぱりここは美由紀の席よ。修子は」
「ごめんね私もくいちゃんと仲良くしたかったからさ、キタカナがそういうんならしょうがないよねー」
つるぎちゃんこと剣持美由紀。今、修子が座っている席の本来の主。言うまでもなく、彼女もまた八月二十八日から行方不明であった。
芽以や奈美から発した憎悪の波に、美由紀は比較的耐えていた方だった。六月中旬になっても清美や沖田の言う事をよく聞き、静かながら頑張っているように思えた。
三人とも、悪口を言いふらしたり、人の心を直接逆なでしたりするような事は極力しない。一発放っておいて、後はじわじわと包囲網で包み込んで行く。
そのやり方で芽以たちは多くの人間を自分の側に引きずり込み、ゆっくりと清美の心を追い詰めて行った。美由紀はなぜかその一発の砲弾の的にならず、この荒波を泳げていた。
そんな美由紀が波に呑まれたのは、七月の初日の事だ。梅雨の走りと言う事でその日も雨であり、学校でも雨が降り体育の授業は体育館になっていた。
「あーあ、今日もまた雨かぁ」
「そうみたいだね」
「いつやむのかな」
「天気予報によれば明日の夜だって」
美由紀が窓の外を見ながらなんとなくそう呟き、美由紀と窓の間に座っていた修子がこれまた事もなげに言い返した。会話と呼んでいいのかわからないような会話が、振衣の耳に入っていた。
この時すでに修子は清美の眷属として忌避の対象として根付いており、美由紀もなんとなく避けるようになりつつはあった。
修子が勝手に美由紀の独り言に割り込んでいるとも言える構図であるが、修子にしてみれば普通の他愛ない言葉だったし、悪気は毛頭なかっただろう。だがその光景は振衣にとってはひどくその神経を傷付ける物だった。
おとなしくしていればのうのうとまあ、あんな女の仲間なんかとにこにこと話して。今まで放っておいたけどやはりあちらの側なんじゃないの!振衣の発想は一瞬でそこまで飛んだ。
そしてその発想を芽以と奈美が共有するようになるのに、時間はほとんど要らなかった。
ほどなく訪れた休み時間の時、三人は美由紀を取り囲み、六つの眼球でにらみ付けた。二ヶ月の間に彼女たちの眼力はむやみやたらに鋭くなり続け、気が付けば二年生でかなう者は誰もいなくなっていた。
ちなみにそれと反比例するかのように三人とも成績は下降しており、小学校から中学一年生の時までクラス内でひとけた順位を保っていた人間とは別人のようになっていた。
「……………」
それがその日だけで三回も続き、三回目にようやく美由紀が首を縦に振ると三人は満足したような面持ちで去って行った。そしてそれきり、美由紀もまた清美たちを徹底的に顧みなくなった。
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