満足・不満足

「なるほど、子犬ね……」

「委員長は犬が好きなの?まあ確かに委員長に犬預けたら立派な忠犬になりそうだよね、しっかりと面倒みてくれそうだし、少なくとも捨て犬にはしないだろうね、最後まで責任もって飼ってくれそうだし」

「そうかなあ、私そんな優しくないし余裕ないよ」


 気力も余裕もなかったが、頭だけは動いており修子の持ち上げっぷりに謙遜するセリフだけは吐く事が出来た。謙遜と言うより自嘲かも知れない、まずいかもしれないとは思ってはいたけどそれを言う気力もなかった。




「清美はどうしても芽以たちを助けたいのね」

「それはもちろん」

「芽以たちはどこまでやったら満足すると思う?私もわからないけど」


 清美はあの三匹の子犬が、間違いなく芽以と奈美と振衣だと確信していた。芽以と奈美と振衣を、浅野治郎が殺そうとしている。

 もし自分が救いの手を差し伸べていたら、殺されずに済むかもしれない。いや、今からでも間に合うかもしれない。


 でも修子からも加奈からも、沖田先生や自分たちの保護者、さらに他の組の人間から注意や蔑視の視線を投げつけられてもなお意志を貫き通したほどのあの三人が自分に対して抱いている憎悪と言うのがどれほどの物か、清美には想像もつかなかった。

 その憎悪をかき消し、仲の良いクラスメイトに戻るためには一体どれだけの労力が必要なのかも清美にはまるで想像できない。


「めいちゃんも上昇ちゃんも自由人(板橋振依)もさ、ちょっとやりすぎだよね。委員長を土下座でもさせたいのかなってぐらいの勢いでさ、そんな事して何の得があるのかな。私たちって強いのよって言いたい訳?でもそんならゲームでもやればいいのにって思うけど」

「修子の言いたい事はわかる、もしそうだったらその方がいいなとも私も思っている」

「それってさ、そこまでさせてもまた満足しないって言うの」

「多分自分たちが満足したと言うまで絶対に満足なんかしない。つまり気分任せ」

「ちょっと待ってよキタカナ、たかが中学二年生にそんな事ができるって言うの、さっき自分たちをたかが中学二年生って言ったけどめいちゃんたちだってたかが中学二年生だよ。

 それからそこまでして願いを叶えてその後何かいい事があるの?自分たち強いなーのためだけにそこまでやるような真似する?私にはそんな効率の悪い事する気にはなれないけど、まあいろいろ事情があるのかもしれないけどさ、なんでそこまでしなきゃいけないのか私には本当全然わからないんだけど、教えてくれない?」







 まったく恐ろしい話を、加奈はためらう事もなく平然と並べ立てていた。

 なるほど加奈の言う通りだとすればゴールがわかるはずもない。

 そんな存在を相手にしていた事に対しての不安と絶望が清美の心をわしづかみにしていた事に気付いた修子がいつもにまして早口かつ多弁となり、清美は相変わらずぐったりと倒れていた。



「もちろん今のは考えうる限り最悪の事態よ、もちろん私と言う中学二年生がない頭を振り絞って考えてみた結果の」

「ああそうもしそうじゃなきゃよほどの事がない限りそれよりいい事態って事なんだよね、委員長、ちゃんとキタカナはさ、委員長の事考えてくれてるからさ」

「ありがとう……」


 ―――自分を従えるために全力を尽くしている人間を、自分は今守ろうとしている。


 あまりにも奇妙な立場だが、自分の今の立場がそういう物である事を清美は修子と加奈に確認させられた。




 もしこのまま自分が事を成し遂げたらどうなるか。


 そんな存在をないがしろにし続けた芽以たちはいよいよ完全な孤立無援となる。追い詰められて何をするかわからないと言う恐怖もあるし、その結果が今の自分よりもっとひどい立場である事も清美はわかっていた。


 とは言えそうしなければ芽以たちはますます自分を恨み、そしてその結果やはり孤立するだろう。三人、いやその三人に引きずられた人間たちに全く明るい未来が見えない。

 いつの間にか進むも退くもならない立場に追い込まれている。




 そしてそれが、一体誰の責任なのかわからない。


 一方的に三人のせいにするのはあまりにも厚かましいし、かと言って全責任を自分で負う事も了解できる訳でもない。ましてや自分と三人以外の他の人間の責任になどできるはずもない。


 とは言え、清美の中にとりあえず自分の立場を理解できたことに対する感謝の念はあった。

 だからその言葉を言えたし、再び体を起こす事も出来た。


「まあねえ、私もだいぶ動揺してたからね、ちょっと言いたい事ばっかり言っちゃってた。清美の事考えてなくってごめんね」

「いいの、ありがとう加奈」

「それじゃ私たちは帰るから、明日また会おうね」


 修子が腰を上げ、加奈が椅子から降りる姿を見届けながら清美は頭を下げつつ手を振り、親友たちを玄関まで送り、そして部屋に戻って時計を見てため息を吐いた。










 四時五十五分。たった二十五分の事だったと言うのか。


 勉強が嫌いなわけでもないはずなのに、四十五分の授業にまるで集中できなくなっていた。楽しい時間はすぐに過ぎるとかよく言うが、この二十五分が楽しかったかとはとても言えない。確かに収穫はあったつもりだったが、負った打撃も小さくはなかった。




 全くもってアンバランスであり、そしてあまりにも空しい清美の立場。


 立派に振る舞おうとすればするほど救いたいはずの人間を逆に追いやる。あるいは浅野治郎のように、生命を奪う事が一番の救済方法なのかもしれないとまで思いそうになっていた。しかしそれはあまりに後ろ向きだ。


 芽以も奈美も振衣も、まだ中学二年生。そんな段階で人生に見切りを付けられるような理不尽があってたまる物か。

 自分より幼い子どもたちが事故や災害で命を落とすようなニュースを見て清美はさんざん心を痛めて来た。その子たちの代わりにも目一杯生きなければならないと思うのが普通だろう。


 なぜあの三人にはそれが許されないのだろうか。犯した罪のせいだ、と言うのならばあまりにも刑が重た過ぎはしないだろうか。

 確かにここ数ヶ月、三人とそれに引きずられた人間たちのせいで清美は陰鬱な学校生活を送らされてきたが、それでも全くの孤立無援ではなかったしいつか雪解けの時が来るのを信じていた。


 刑法についてはドラマやニュース以上の知識のない清美だったが、よほどの事でもない限り死刑のような罰が下されるべき物でない事ぐらいはわかっていた。罪の多寡とその背景を踏まえて、きちんとした罰が下されるべきだと思っている。


 おそらくは、死。保健所に保護された野良犬の末路はそれしかない。十把一絡げに行われる殺戮。そんな事を思った所で人間の死後だって似たような物だという事を、清美は既に知っていた。


 夏休み、父方の祖父母と一緒に行った墓参り。

 そこには百近い墓石が並んでいた。初めて見た訳ではないにせよ、改めて圧倒される気分になって来た石の並び。そしてその下にはすべて人間の骨が埋まっている。自分の家族だけで六人の名前が刻み込まれていて、それが百個となると六百人がそこにいる事になる。


 狭くはないはずだが、それでも祖父母の言う清美の家の敷地の十倍はあるかなと言う言葉を真に受けるとすると、自分たち三人家族は一人当たりその墓地にいる人間の二十倍の面積を占拠している事になる。


 いろんな人生を送って来た人間がいるはずだが、最後にはたいていこんな狭い場所に押し込められる事になる。平等と言うには容赦がない。あの二十六匹の犬も同じように平等に殺されるのだろうか。そんな考えが清美の頭に巣食い、離れようとしなかった。







「ダイエット?」

「違う、単に食欲がないだけ……」



 母親が作ってくれる夕ご飯を目の前にしても、まるで清美の箸は進まない。親友二人を呼び出しておいて何をやっているのか、まったく改善されていないじゃないか。

 そしてそれによりまた自己嫌悪に陥り、その怒りで腹が膨れ、ますます箸が止まる。

 結局用意された量の半分も平らげない内にごちそうさまでしたを言う事になり、変な寝方をしたせいで熱でもあるのかなと言って体温計を口にくわえてみたが、36度2分だった。


「二人になんか言われたの」

「違うよ、二人ともまじめに私の話を聞いてくれたの、でもそれでもすっきりできない自分が嫌になっちゃって……」

「誰にだって情けない時、つらい時はあるの。たまには思いっきりふざけてもいいの」


 母親にそう言われて清美は小学生の時に買った古いゲームを取り出してみたが、一時間で飽きてしまった。


 清美は電源を止めると入浴して歯を磨き、そしてそのままベッドに入り込み、電気を消さないまま、深い眠りに落ちてしまった。夢を見る事は、なかった。

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