恵まれていると恵まれていないと

 九月六日、月曜日。


 わざとギリギリの時間に登校した清美は、深くため息を吐きながらいつもの席に座り込んだ。


「おっはよー委員長、風邪でも引いたの」

「いいえ」

「悩んで何とかなるならいくらでも悩むからさ、私だって」

「うん……」


 おとといとまるで変わらず元気な修子に対しても、生返事を返す事しかできない。


 九日経っても、手掛かりひとつ見つからない。


 もちろん、二十六人の内誰かが見つかったと言う情報もない。死体すらなかった。そのせいかわからないが、今日もまた老人や主婦たちによる警戒の網が絶える事はなく、空気が弛緩する事もない。



 もちろん、その空気は二年三組だけにとどまらない。二年一組や二組、四組はおろか一年生や三年生にも容赦なく伝染する。清美よりずっと早く学校に来ていた加奈の周りには、ずいぶんと事件について善意悪意問わず様々な言葉が飛び交っていたらしい。

 転校生である美香はともかく、一学期の時から二年三組にいた二十九人の生徒の中でなぜ三人だけが無事なのか。二学期が始まった頃は無事でよかったねと言う声に囲まれていたが、今はなぜ無事なのかと言う疑惑の目を持った声が学内で徐々に増え始めていた。

 修子はそんな話の存在など知らないように今日もニコニコしているが、清美にはそんな顔はできない。そして美香はと言うと、修子と同じように笑顔だった。

 一方で無表情とまでは行かないにせよ表情を変える事の少ない、おとといのあの時でさえ顔を変える事などしなかった加奈の顔がどこか疲れているように見え、そして自分の背中がものすごく重くなった。


「まあねえ、明日になったら本当に全部解決してるかもしんないしー、マイペースマイペース!」

「そうですね」

「うんそうだよね」


 おばあさんのように曲がった清美の背中に投げかけられる、修子の明るい声と加奈の冷静な言葉。そして背筋を伸ばさせようとして来る美香の腕。全てが温かかった。

 だがその温かさが、今の清美には辛かった。自分だけがこんなに恵まれていていいのか、残る二十六人は今頃どんな風に自分たちを見つめているのか。


「おはよう!」

「おはようございます」


 まるで八月二十七日までと変わらない日常を必死になって演出しようとする大人たちのようないびつ極まる笑みと、何度話しかけられても町の名前を繰り返すテレビゲームのキャラクターのような味気ない定型句。それが今の清美にできる精一杯の行動だった。






「えっ何ですか」


 そのセリフを清美は、今日だけで三回も繰り返した。授業に集中していればすべての問題は頭から消えると思ったのに、いくら時間が経っても離れない。その度に上の空になり、結果としてそんな言葉を返してしまう。


「やっぱりどこか悪いんじゃないか」

「いえいえ全然、強いて言えばやはり事件の事が……」

「めいちゃんって本当に幸せだよね、委員長にこんなに心配されてさ」

「幸せであると言う事は、素晴らしい事……」


 修子が能天気に声を上げ、美香も追従するようにうなずく。そして加奈もそれに続く。芽以も清美と同じ一人っ子だ、やはり両親はものすごく心配しているだろう、それからその家族もだ。彼らに心配させているのは清美の責任ではないに決まっている。だと言うのに、清美はどうしても気になって仕方がなかった。



 一学期の時、集団無視の攻撃に遭っていた時は逆に授業の時こそそれから逃れられる時間とばかりに集中できた。

 でも今度はできなかった、声が飛んでこない事は同じなのにどうしてこうなってしまうのか。帰り際に明日より部活が再開される旨言い渡されたものの、それに対してもああそうですかと言う気のない返事をする事しかできなかった。




 自分に対してひどい仕打ちを施していた二十六人が消えた。何も言わないで消えた。ごめんなさいもそんな事をしていた理由も、ざまあみろさえ言わずに消えた。そういう結末だったんだと割り切る事はできていない。


 ゆっくり自分の中で考えなさい、それがあんたに課された天罰なのよ。そこまで意地の悪い事でもないと思いたいが、ここまで何もないとなるとさすがに疑いを持たざるを得なくなる。




「ねえ、因果応報って言葉知ってる?」

「そりゃもちろん、この前教科書で見たもん」

「悪いことをすればしっぺ返しは確実に返って来るって。いい言葉だよね、いい事もちゃんと返って来るでしょ」

「ならいいんだけどね……」


 休み時間に美香が修子と一緒に声をかけてくれるが、それでもまるでテンションは上がらない。美香が自分の無反応ぶりに失望してため息を吐くのを見ると申し訳なくなるが、それでもごめんなさいと言う気すらして来ない。







 帰宅して宿題をさっさと片付けてその後現実逃避のために一時間ほど予習してみたが、それでも清美の頭から事件が消える事はない。

 いったいどうしてこうなった、何がいけなかったと言うの。誰でもいいから答えが欲しい。理不尽じゃないか。


 多くの物を求めるつもりなんか元よりない。他の子と同じように、ただ普通に接してもらいたいだけ。修子と加奈、それから美香と言う三人にできてなぜ他の二十六人にできないのかなどと言う考え自体が、威張りくさった傲慢な物であるかさえわからない。


「清美、なぜこの前紫色の服を着て来たの?」

「まあ一番正直な事を言えばなんとなく」

「清美には白い服が似合うから。似合わない奴もいるし……」


 休み時間に加奈からそう言われたが、清美には意味がわからなかった。

 親に聞いてもどうにもならない。美香や、ましてや修子なんてもっと無理だ。文字通りの意味に受け取っても良いのかもしれないと思いなんとなく白い服を着て姿見の前に立ってみたものの、そこに映る顔のみすぼらしさのせいでその白い服は生気のなさを際立たせるだけになっていた。


 いったい何が成功で何がゴールなのか、清美にはどうにもわからない。二十六人が戻って来る事がゴールなのか、二十六人が自分とまともに接してくれるようになるのがゴールなのか。


 例えそうなったとしても、これまでの空白の十日間あまりの時間は一体どうなるのか。余計なことを考えないように五年前に買った漫画に手を伸ばしても、全く没入できない。いっそのこと物置から取り出して来た漫画のように、これは実は本の中の世界でしたとか言う方がよっぽど気が紛れる。


 今ここで起きている事を日本中、いや世界中のどれだけの人間が注目している中わからないにせよ、これほどの事が世界の中で起きていると言う事はないように思えて来る。だから、何を見ても楽しめない。







「修子……」

「委員長、どうしたの一体」

「まだ見つからないの」

「もう委員長ったら、その内出て来るからさあ」

「ちょっと修子!」

「委員長、ちょっとどうしたの」


 漫画をベッドに置きすがり付こうとした親友の、いつも通りの悠長な物言いに向かって吠えてしまう。そしてすぐに自己嫌悪に陥り、そしてそれでも飛んで来る親友の温かい言葉に救われる。


「ああごめんなさい、もうどうしたらいいのかわかんなくって……」

「何か気を紛らわせられるような物ないの」

「ない。何をやってもダメなの」

「ちょっと今から委員長の家に行くからさ、ほらキタカナと一緒に」

「えっ」

「えっじゃないでしょ、私たちは委員長の友達なんだから。じゃあ用意があるから」

 修子の極めて温かい言葉に対しても感謝より申し訳なさばかりが先に立ち、清美は何も言えないまま携帯電話を閉じる事しかできなかった。そしてそのまま横になり、ぐったりと寝そべってしまった。










 そしてしばらくして起き上がると、まるで巨人にでもなったかのように天井が低くなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る