浅野治郎
浅野治郎。八月二十八日までこの町の人間さえほとんど存在を知らなかったようなこの保健所の職員は、二十九日にいきなりスターになった。
女子中学生集団行方不明事件で大騒ぎになっている中、ちょうど日曜日だった事もあり自分には関係ないだろと思って悠長に歩いていた一人の男性に、今ここでFと言う札を下げている犬が吠えかかった。
男性はいまどき野良犬とは珍しいと思いながら通り過ぎようとしたが、Fと呼ばれているその犬は男性に向けていきなり吠えながら飛びかかって来た。さすがに驚いて逃げようとした男性をFはしつこく追い続け、一キロほど走って男性の姿が見えなくなってもなお獲物を狩らんとする狼の様に鼻を鳴らしながら吠え続けた。
一匹だけならばたまたまかもしれない。男性のそんな楽観的な想像は、三十秒もしない内に破られた。先ほどまで追いかけられていた犬とそっくりの犬、今はNと呼ばれている犬が建物の隙間からぬっと現れ、そして同じように男性に飛びかかり、逃げようとすると吠えながら追いすがって来た。
それでも女子中学生集団行方不明事件がなければ今日はなんて言う日だで終わったかもしれなかったが、女子中学生たちだけではなく自分にまで脅威が迫っている事実を目の前に突きつけられた男性は臆面もなくわめき散らし始めた。成人男性の太い叫び声は、ただでさえ行方不明事件により混乱の中にあった住民の心をどん底に叩き落すには十分だった。
「日曜日だってのに全く迷惑な話でさ、それでも町の事を考えるとほっとけないしね」
どうしたらいいんだと絶望と不安にさいなまれていた住民たちの前に現れたのがこの浅野だった。
浅野は二十六匹の野良犬を捕まえこの保健所に押し込めたのだ、たった一日で。
「すごーい!」
「何、予想外におとなしかったからね、いや騙されやすいと言った方がいいのかもしれないんだけれど」
「そう、ですか……」
エサを奥に置いただけのカゴを持っているだけで簡単に入り込んできてね、特徴もそっくりだったし一日でもなんとかなったんだよと事もなげに笑う浅野の姿は修子には非常に頼もしく映ったようだが、清美にはむやみやたらに大きく見えた。
「まあ、お役人様ってのも安定しているとか言うけどこれはこれで辛い稼業だからね。君たちもお役人になろうって言うんなら覚悟はしといた方がいいよ」
「わかった……」
「そうですね」
「この仕事になって何年ですか」
「十年目だね。仕事ばかりしていたせいでいまだに彼女の一人もいないんだよね、不思議な事にさあ」
無難な質問に返された無難な回答、そして全く崩れない表情。
社会人ってのはこんな物なのかと思うには、どうにも立派過ぎた。
清美が浅野の威圧感に打ち負かされてそっぽを向くと、たまたま清美と目を合わせた一匹の犬がものすごい剣幕で吠え掛かって来た。
浅野は笑顔を崩さないまま右手に棒を握りしめやたらと分厚い鋼鉄製の扉のカギを開け、その顔のまま清美に吠え掛かった犬を棒で叩いた。
「V、いい加減にしろ!」
怒声そのもののフレーズを、怒声そのものの調子で、笑顔で吐いている。
そしてそれでも吠える事をやめようとしないVに対し、今度は正真正銘の怒り顔になりながら棒を振り下ろした。
「人に向かって吠えてはダメだと言っているだろ!Zを見習え!」
そして痛がりながらも吠えるのをやめようとしないVの背中に、浅野は渾身の力を込めた怒声を投げつけながら、手の方は加減するような調子で棒を叩き下ろした。
その怒声と共にVは吠えるのをやめ、そして他に吠えていた犬も口を閉じた。しかし、Vを含め数匹の犬はいまだに敵意を持った視線を清美に向けており、その行為に対しても浅野は叱責と共に打擲を加えた。
「怖いなあ」
「本当怖いよね」
「元々あの犬たちは人間に危害を加えようとした存在……ああして痛さを覚えさせ階級の差と言う物を覚えさせなければならない物でしょう、猫とは違うよ修子」
「まあねえ、確かに私エースにはあんなことしてないからね」
「ふーん、でもそれってわがままに育たない?私にはどうにも」
「まあちょっとばっかりね。それだからこそエースは可愛いんだけれど。構って欲しい時に限って来なくて、忙しい時に限ってやってくる。それが猫ってもんだよ。猫にだって意志って奴があるんだよ、それがいいんじゃない」
「まあそうかもね、私はどうもそういうのって苦手でね」
加奈と修子が目の前のそれについて楽しそうに話し合う中、犬と猫のしつけと言うのは違うのだろうかとか、犬と言えばホットドックはどうしてそんな名前になったのかなとか、そんなあらぬ事ばかり清美が考えていたのは現実逃避以外の何でもない。
「失礼。いくら言っても言う事を聞かない場合はこうするしかないんだよね、実際。それでもここ数日はおとなしくなってたんだけど、どうしたもんかねえ」
「話は変わりますけど、彼らの犬種は何ですか?私犬には詳しくないんで」
これまで見て来たどの犬にも似ていない、どこか不思議な犬。
一応犬である事はわかるのだが、どのような犬種かと言われるとどうにもわからない。三人とも犬には詳しくない手前仕方がなくはあったが、それでも聞きかじり程度のレベルの知識はあったつもりだった。
雑種か、いやそれにしてはあまりにも画一的すぎた。一応AはGより二割ほど大きく、IはBより茶色が濃く、ZはNより毛がかなり少ないという目安が付きそうなポイントもあり全部が全部同じと言う訳ではないにせよ、看板がなければ容易に見分けがつかなさそうな程度には犬たちは類似していた。
もちろん時間をかけて観察すれば見分けを付ける事ができるのだろうが、そんな事をする時間も必要性も三人にはない。
「でもさ、うちのエースは男の子だけど、よく見るとこのワンちゃんたちって全然、あの、男性器ってやつがついていないよね。私の見間違い?」
「よく気付いたね、二十六匹の犬の中にオスは一匹もいなかったんだ。キミたちの年齢ならばもうわかるかもしれないけどさ、犬や猫の男の子のシンボルを取っちゃうって言う話もあるんだ。キミの飼ってるエースと言う猫はそうじゃないみたいだけどさ、まあとにかくそういう類の処置をされた子も一人もいない、本当にメスだけだったんだ」
「大変ご迷惑をおかけしました。私たちはそろそろ帰ります」
「あらそうかい、残念だね。まあちょっとばかり過激な所を見せちゃったからね、でも僕としてもこれで飯を食ってるからね、うかつな事はできないんだよ。大人ってのはこんな物だよ」
「今日は大変参考になりました、どうかお仕事の方を……」
「委員長とキタカナが帰るんなら私も帰るー、お兄さんありがとー」
ガラスと壁の間の空間の狭さ。自分の部屋よりは広いはずの空間が、人口密度を加味しても恐ろしく狭く思えて来た。そして今はもう牙をむき出して吠え掛かって来る事も敵意を込めた視線を向けて来る事もないが、それでもその事を諦めている様子のない二十六匹の犬。大人と言うのは嫌な事とも付き合って行かなきゃいけない物であると言う浅野の言葉を、三人ともあまり積極的にわかりたくはなかった。
「なんて言うかさ、すごい人だよね」
「すごい人だよねで終わらせていいの……?」
帰り道、三人は行きに声をかけてくれた店員のいるコンビニのイートインコーナーに入り、加奈と修子はソフトクリームをスプーンで口に運び清美は砂糖を二杯入れたホットコーヒーを飲んだ。
九月とは言え背中にだいぶ弱くなって来た冷房の風を受けながら飲む、清美にとって生涯三度目のコーヒーは砂糖を二杯も入れたのにずいぶんと苦かったが、不思議と熱さは感じなかった。
「まだ先ほど買ったお茶があるのになんでまた……」
「なんとなく飲みたくなってね」
嘘を吐いているつもりはない。とりあえず清美は、修子や加奈のように素直に甘い物を食べる気にはなれなかった。もしあのVと呼ばれた犬に、自分たちと同じような脳や言語機関が付いていたら何を言っただろうか。
――死ね。殺してやる。絶対に許さない。おそらくはそんな単語だろう事がすぐ分かった。逆にそうでなければ一体何なのか。浅野に叩かれておとなしくなっている所を見ると、人間全般に対する敵意があったとは思いがたい。だとすると自分たちへの敵意と言う事になる。
「私もソフトクリームの方が」
「いやでもさ、清美もかっこいいよね。私去年ドラマで主人公の俳優がぐっとコーヒーを飲み干すのを見てさ、面白半分で買っちゃったのよ、缶コーヒー、それもブラック。したらもう苦いの何の、ぐって飲み干そうとして吐いちゃってその後掃除は大変だしママに叱られるし、あの時十年早いって言葉を本当に思い知ったね。砂糖二杯どころか、五杯ぐらい入れないと飲める自信ないよ」
「それはただの砂糖水……」
「まあそういうこと」
湯気の立っているコーヒーをごくごくと飲む清美の姿は猫舌と言う言葉からもっとも遠い位置にあり、確実に一部の人間から羨望を受けるそれだった。羨望は嫉妬を生み、やがて憎悪にも発展する。清美が小学校の時に見ていたアニメでもそういう話があった。
(ああいうのを見てると本当、みんなきれいなぐらいに自滅してくよね。どうしてみんなそれを見てやめようって思わないんだろう)
修子だって加奈だって、他のみんなだって見ていたはずだと言うのに。どうしてこうなってしまったのか。そんな事をこの数ヶ月清美は幾度となく考えてしまった。
「思えばあの時……」
清美は、四ヶ月前のことを誰よりも鮮明に思い出していた。
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