「保健所」

「くいちゃんはね、やっぱりこの辺りの事を知りたいって」

「美香さんには美香さんの都合があるから……」


 九月四日、昼食を腹に詰め込んだ清美と修子と加奈は、お互いめったに見せる事のない私服姿で中学校の前に集まった。


 昨日よりは涼しいものの依然として残暑の二文字が闊歩し清美と修子がハンカチで汗をぬぐう中、加奈だけは今が十月であるように平然としていた。


「それで加奈、今日は土曜日だよね。あのおじさん、いやお兄さん仕事してるのかな」

「調べたから大丈夫、間違いない……」

「あくまでも私たちは勝手に見に行くだけの立場なんだから、あまり出しゃばっちゃダメよ。もし帰れって言われたらどうするの」

「そん時は帰りに何か食べて帰ろうよ、それでいいじゃん」


 修子がわかりやすく行動力を発揮するタイプであるとすれば、加奈はしっかりとその足下を均すタイプだと清美は思っている。


 修子などは清美はまじめな優等生であるなどとのたまってくれるが、清美に言わせれば自分はレールの上を歩いて行く事しかできない存在である。




 一番背の低い加奈が先頭に立ち、その後ろに一番背の高い修子、そして一番後ろに清美。そして先頭が一番物静かで一番後ろが一番はしゃいでいて、真ん中の清美がそのはしゃぎっぷりをいさめていると言う光景はどうにも奇妙だった。


「悪い奴に出くわしたら携帯電話は無論遠慮なく叫んで構わないんだよ、命を失うぐらいなら恥をかく方がよっぽどましなんだから」


 しかしひとかけらの悪意も持ち合わせていない調子で通りすがりの老人からそんな事を言われると、奇妙な色をして調和の取れていなかったはずの三人の姿が急にしっくり来てしまう。

 あれから七日間普通に生活を送っているつもりでも、今までなかったはずの色が侵入し、町を染め上げている。


「まあヤバいと思ったらうちの店に逃げ込んでいいよ、お兄さんが守ってやるからさ」


 途中で入ったコンビニの男性店員も、ペットボトル入り緑茶をレジに差し出した三人にやたらにうやうやしく声をかけて来る。

 以前からそうしていたのかもしれないが、少なくともこの三人の記憶にはない。ありがたいと言えばありがたいのだが、どうにも座りの悪さは消えない。


「ああおいしい、委員長とキタカナも飲んだら?」

「結構本気なのね」

「あったりまえじゃない、ねえキタカナ」

「喜んでくれるといいな」


 二本のお茶を買って一本を飲みながら、もう一本を懐に抱える修子の姿にはそんな歪んだ感じは微塵もなく、あるのは希望だけだった。

 私はしっかりしなきゃいけないと思いながらも、いっそこの明るさに流されてしまえば気が楽になるのにと言う思いが、修子も加奈もまったく知らない内に清美の中でせめぎ合っていた。







「ここだよ」

「着いた」


 修子がコンビニで買ったお茶を飲み干した頃、三人は区役所の側の建物にたどり着いた。昔エースの予防接種かなんかでここに来た事があるのと言う清美の問いに修子は軽く首を横に振りながら屈託のない笑みを浮かべた。


「そう言えばこんな場所なかったよね。なんかさあ」

「ってかここさ、ちょうどふた月前にできたばっかしなんだよね。もうびっくりだよ、お役所仕事お役所仕事ってママとかうるさいけどさ、本当仕事の早い時は早いんだよね」

「正確に言えば、七月二十日。あの終業式の日。私も気にしてなかったけど」


 ああまたつまらない勘繰りをしたと清美が下を向くと、修子が振り向いて清美の頭を撫で始めた。


「エースもね、こうやってやると機嫌が良くなるんだから」


 私は猫じゃないとどなる事も清美にはできたが、それをする気力は全く湧かなかった。一問もわからなかったテストの返却を待つような、ひどい結果が出るのはわかり切っているのだから早く見せてくれと言う気持ちでいっぱいになっていた。




「どうぞ」


 見学とか言うもっともらしい理由を付けて入り込んだ「保健所」は、昼間だと言うのにやけに薄暗く、窓もまともになかった。

 白と言うより薄緑の、それも草花のそれと言うより毒々しい印象を受けるような照明だ。


「ここ保健所ですか」

「本当だよ」

「もう、委員長ってば本当に疑い深いんだからー」


 髪の長い職員に向かって思わずここは本当に保健所なんですかと聞いてしまった清美に対し、職員だと言う男性はそう屈託のない声で答えた。


 それと同時に照明が清美の目に入り込み、それと同時に清美の体が傾き、前を歩いていた修子にもたれかかった。


「清美!」

「ああちょっと気分が悪くなっちゃって、ごめんなさい。いやでも大丈夫ですから」

「ならいいんですけど……とりあえずお茶を飲みなさい」

「ありがとう……」


 ペットボトルのふたを開けてお茶を喉に流し込んで清美は落ち着きを取り戻したつもりになったものの、どうにも足の乱れは収まらない。

 いったい何が自分にあったと言うのか、運動不足かなと笑ってみたものの、どうにも修子が笑った時の様に空気が明るくならない。


「まあまあ、慣れない場所だしさ、清美わたしの手握っていいよ」

「ありがとう……」


 清美は右手を修子、左手を加奈に預けた。それだけでなんとなく強くなれる気がしたし、何がこの先に待っていても大丈夫な気がして来た。







 やたらに曲がりくねった道を歩く事二分、途中から緑色の光が優しくなり、そして白い光に変わった所で、男性の声が聞こえて来た。




「こらV、吠えるんじゃない!」


 Vと言う文字が一体どこに向けられたのか。叱責と言う文字が似合いそうなその口調からして、何らかの対象に向けての物であろうことは間違いない。


「ちょっと浅野、この子たちがうちの施設を見学したいそうだ」

「そうか、じゃあおいで」


 厚そうなガラスの前に立ち、右手でマイクのような物を持っている、モスグリーンの作業服をまとった男性。


「君たちは中学校の」

「二年生です」




 元気よくあいさつした修子を含む三人の女子中学生と並ぶそのベリーショートの男性の胸には浅野治郎と書かれたバッジがあり、ガラスの向こうにはA~Zまでアルファベット26文字の書かれた看板を首からぶら下げている二十六匹の犬がいた。

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