26匹の犬

「久井原美香ちゃんって言うの、結構感じ良かったよ。それで前の学校でセーラー服を着てたせいでしばらくそのままで授業を受ける事になるって言うんだけどさ、私もちょっと着てみたいかも」

「私は昔セーラー服だったんだけどね、父さんは学ランだったかしらブレザーだったかしら。あらやだ、さすがにもうないわよ」

「でも加奈ちゃんや修子ちゃんとは学校が始まる前に会ってたみたいで、私だけがその存在を知らなかったみたいで」

「あの二人は意地悪するような子じゃないでしょ、サプライズって奴じゃないの?」


 字面だけ追えば微笑ましい母娘の会話だが、やたら早口で行われているせいで不思議なほどに重たくなってしまっていた。

 医者と言う高給取りながら休みの少ない仕事をしている父親のせいで母娘二人きりの食卓には慣れていた清美だったが、それでも今の状況はなかなか耐えがたかった。


「ああそれからお昼はナポリタンスパゲッティよ、大好きでしょ。明日……はまだともかく明後日から当分お昼はお弁当なんだから、今のうちに食べておきなさい」

「うん」



 好物は何と聞かれれば、昔からナポリタンと答えていた。出来合いのそれではなく、母親が手塩に掛けて作ってくれる家庭料理。丸まったウインナーソーセージに玉ねぎ、ピーマン。べったりと絡まったケチャップもまた、清美の心を浮かび上がらせた。


「今日はおいしく作るからね」


 ただの主婦とは思えないような手際の良さたるや、今まで一度も料理に携わる仕事をしていないとは思えないほどであった。

 十年以上の主婦の経験の賜物であると単純に言い切ってしまうには、料理に対する集中力が高すぎると清美は思っている。


「お母さん電話!……切れちゃったよ」


 電話も聞こえないほどに集中していた母親に代わり、すみませんと言いながら頭を下げつつリダイヤルし用件を据え置き電話の傍らのメモ帳に書き付けて行く清美の姿もまた堂に入った物であり、慣れ以上に普段の数倍に膨れ上がった集中力が清美を動かしていた。


 自分の部屋に戻るとひと月以上触れていなかった時間割表を見ながら教科書とノートをカバンに詰め込み、やはりひと月以上触れていなかった体操着を手提げかばんに詰め込んだ。




 薄紫色の半袖シャツを着ながら、ゆっくりとスパゲッティを巻いて行くその姿は女子中学生らしく可愛らしくかつしっかりとした物であり、今までに汚して来たシャツたちの苦労がしのばれる食べっぷりでもあった。


「早食いはダメよ、太るから」

「ちゃんとわかってるって。でもどうしても早く食べたいんだもん」

「ありがとね、お母さん嬉しいよ」


 どうしても早食いになってしまう。ここ四日間ほどずっと、食事の時間が短くなっていた。

 早食いして時間を手に入れた所で夏休みの宿題はもうなくなっていたし、新学期の準備も整っていた。ただじっと待つ事しかできなかった人間が、いくら時間との戦いに精力を費やしている現代人とは言えそこまでして時間を惜しむのは食い意地が張っているせいでなければ不自然である。


「ごちそうさまでした」


 ほどなくして食べ終わった清美は台所に皿を持ち込むと洗剤をスポンジに染み込ませてケチャップ色に染まったお皿に押し付け丁重にこすり、九月にふさわしいぬるめのお湯で洗剤を洗い流し、ふきんで水を拭って戸棚にしまいこみ、そのまま自分の部屋へ足を運んだ。



「新聞もう一回ぐらい読んだら」

「いい」

「テレビは」

「いい」


 どうせつまんないもんと言いたげな様子で歩く清美に向かってごくわずかに溜息を吐きながら母親は今日の新聞を手に取り、椅子に座って両手で開いた。




 ―――依然として二十六人の行方は不明。警察は全力を挙げて捜査を行っているが現在のところ手掛かりはおろかどこへ向かったのかも不明な状態。誘拐事件なのか否かすら分かっておらず、捜査は混迷を極めている。




 清美の所属する中学校の生徒二十六人が、突如姿を消してからもう四日目になる。


 それも、ほぼ同時にだった。しいて言えば朝四時半~七時半と言う違いはあったもののそれは保護者が彼女たちがいない事に気が付いた時刻であって、ほぼ同時と言っても差し支えないほどであった。


「奈美……!お母さんは怒らないから、帰っておいで奈美……!」


 もちろんこんな事件を放っておく警察ではないし、新聞でもないし、テレビでもない。今日もまた、テレビの向こうでは清美のクラスメイトの母親が行方不明になった娘に向かって涙を浮かべながら必死に呼びかけている。


「謎の女子中学生集団失踪事件、いったい真相はどこにあるのでしょうか」




 二十六人もの人間がほぼ同時かついっぺんに消える、しかも同じ中学校同じクラスに属しているとは言え、家そのものはかなり離れた場所にいる人間がだ。偶然と呼ぶには出来過ぎているし、誰かが仕掛けたにしては大掛かりすぎる。


 大体、たかが中学二年生の女子を、二十六人も連れ去って何をしたいのだろうか。ワイドショーでは過去の集団失踪のケースや犯人グループ像について真面目くさった評論家とお笑い芸人上がりのコメンテーターたちが好き勝手にワイワイ言っていたが、どれをとっても雲をつかむような話ばかりで要点を捕らえた物は一つもなかった。と言うより、要点自体がもうどこにあるかわからない。




「誰がやったかわかりませんがね、そんなひどい事をする奴がまた来たら我々の手でやってやりますよ」


 リポーターにマイクを向けられて意気盛んそうにはしゃぐ近所の老人たち、しかし彼らがどれだけ気張った所で行方不明になった女子中学生たちの手掛かりには結びつかない。清美が通う女子中学校の二年三組の生徒が標的になった、と言うのならば清美と修子と加奈は何なのだろう。

 なぜその三人だけが無事なのか、他の二十六人は消えてしまったのだろうか。




「もしもし委員長?」

「修子」

「やっぱりさー、やっぱりワイドショーってやっぱりだよねー」


 ベッドに寝そべっていた清美の携帯電話から、修子の声が鳴り響いた。いつもの話し方とは言え、修子がどうしてこうも陽気になれるのか清美には今ひとつわかりかねた。

 言った本人でなければ意味が分からないような、やっぱりと言う単語を三度も使う間延びした調子での話し方を、清美はベッドの上で古めかしいガラケーを片手に持ち座りながら聞いていた。


「あんまり見てない」

「そう?まあ飽きちゃってるのよくわかるけどさ、あのニュースも取り上げれば一発で、とは行かないにせよちょっとは話は膨らむし進むかもしれないのにねー。なんてーの、最近よく見るさ、報道しない自由ってやつ?なんて言うかずるいよね本当」

「ずるいのかなあ……」

「私がディレクターならあの事をバンバン取り上げるよ、近所のおじいさんやおばあさんも気にしてたでしょ。それは文字通り一日で全部やってくれたんだから、おじいさんたちは安心して私たちを守ってくれるようになったんだよね」

「いろいろ話が間違ってる気がするけど……」


 確かに、この行方不明事件とほぼ同時に発生した一つの事件を取り上げればそれだけで相当な話題になりそうだ。いや、仮に行方不明事件がなかったとしてもその事件だけで老人たちの自主警備と、親同伴や集団での登校が行われるに足るほどの破壊力を持った事件が、新聞にもテレビにもまるで取り上げられていない。



「私も二十九日にはさ、やっと宿題が終わったし最後の買い物にでも行こうかなって思ってたんだけどあんな事件が起きちゃって台無しになってさー」

「三十一日まで宿題やってたんじゃないの」

「いや本当、今回は二十八日で終えたって!これマジだから、信じてよ!私んとこのエースもさ、外に出たい出たいって鳴いてたけどあれじゃねえ。そりゃ一匹や二匹ならともかくさ、ああそう言えば委員長って何か飼うつもりないの」

「私は別に……」

「もし興味が湧いたら言ってよ、いい猫紹介してあげるから!」


 エースと言うのは修子の家の猫の名前だ。「アメリカンAmerican」「ショートヘアーShorthair」の頭文字AとSから取ったその猫を、清美はこれまで二度しか見ていない。ようやく涼しさのかけらが見え始め人間のみならずペットも活動的になりそうだった時に、唐突に起きた事件のせいでこの町はうかつに外出できないような状態が続いている。


 それは人間のみならず、ペットたちもまたしかりなのだろう。ペットなど飼っていないしその気もまるでない清美にとってはエースの話などどうでも良いのだが、八月二十九日に起きたさらなる異変の重大さを改めて実感するには充分な力を持ったひとつの事実であった。




「あの犬たち、どこから来たのかなー。エースもあるいは仲良くなれたかもしんないのにさー。くいちゃんも言ってたよ、どうしてあんなに吠えてたのかわかんないってー」

「私は見てなかったけどね」

「もうそれ以来、本当にみんな本格的に熱くなっちゃってさ、私なんかゆっくりエースを散歩でもさせようと思ったのにとてもこんな空気じゃないし、本当参っちゃうよねー。どうしてまた二十六匹も出たのかな」






 八月二十九日の朝、二十六人の女子中学生行方不明事件で不穏な空気が漂っていた街に二十六頭野良犬がいきなり現れ、吠えながら人間たちを追い回し出した。一頭や二頭ではなく、二十六頭。このある種の生物兵器による同時多発テロは、街の空気を最大限に重苦しくした。


 ただでさえ女子中学生行方不明事件で不安になっていた所に起きたこの騒動により、住民たちもいよいよ本格的に立ち上がっていた。


 幸いにしてその犬たちが一日で保護されたとは言えそれでもまた第三の事件が起きないとは限らない保証はないとなり、今日のように老人たちが自警団を作って登下校中の生徒その他を見張っていたのは、行方不明事件よりむしろそちらの方が大きかったかもしれないと清美は邪推していた。

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