4章:罪多き街で

39話:転機

こんな時代だからこそ、筋と仁義だけは忘れちゃいけねえ。頭を撫でながら父から告げられた言葉を、少女は――ナズナは疑ったことはなかった。自信満々にその言葉の通り、威風堂々としている父は格好良かった。背中で生き様を語る父を慕う人間は多く、ナズナは父も周囲の人達も大好きだった。


だが、今はどうなんだろう。ミナミの街の外れにある人気のない寂れた路地裏で一人、小刻みに鳴く腹を抑えながら歩くナズナは、ぼんやりとそんな事を考えていた。


――頼もしい父は、死んだ。欲深い仲間と部下に裏切られ、背中を刺されて呆気なく。逃されてからもう一ヶ月、貯金も底をついて日々の食事もままならずに、まるで浮浪者のように。


一人で生きていけるだけの知恵は、持ち合わせていない。まだ魔物と戦えるだけの力は無いと、組で雇っていた戦闘の師匠だった人からナズナは何度も伝えられていた。魔物もそうだが、迷宮に潜るなんてもっての他だと。それは正しく糧を得られる手段が尽きたことを意味する。


犯罪許容都市と呼ばれるこの一帯で、保護者やバックもなく一般の仕事にありつくのは不可能に等しい。ましてや、10をいくつか越えた程度の小娘を必要とする店など。あるとすればそれは、別の意味での求人を出している所だけだった。


ならば、正しくない方法で稼げばどうか。例えば、盗みなどは。そう考えたナズナは、ふと横を見た。汚臭に満ちた路地裏で、廃墟の窓ガラスが自分の顔を映していた。生気もなく情けない、父から褒められた銀色の髪が小汚く見えた。


「……くそったれ」


友達は頼れない。一度裏切られた、二度繰り返すのは間抜けを通り越して異常者のする行動だ。せめて大っぴらに表通りを歩けるのならばとナズナは舌打ちをした。だが、父の組を潰した輩が自分を探しているという噂を聞いて不用意になれるほど人生を捨ててもいなかった。


何より、父を殺した相手に捕まるのは癪だった。憎んでいる相手の望み通りの行動をしてやる理由なんて、小指の爪の先ほどにもない。本音を言えば反撃をしてやりたいのだが、無理と蛮勇でどうにかなる相手ならば、そもそもこんな状況にまで追い込まれていない。


いっそ、とナズナは下に落ちているガラスの破片を見た。その尖った先でこの黒みがかった肌を、血管を、喉を切り裂けば今よりどれくらい楽になれるのだろうか。


底辺も底辺のこの町で、頼れる人も居らず、親友たちも去っていった。この先に待っているのは辛いことばかりだ―――それも生きている限りの話である。


ごくり、と唾を飲み込む音が路地裏に響いた。楽に、楽になりたいのならという欲望が胸から溢れてはこぼれだす。だが、血の味を思い出したナズナはガラスから目を逸らした。そして、大通りを歩く二人組の男女に視線を向けた。


見えたのは一瞬だがそれで十分の、目立つ外見をしていた。


先頭に居るのは、目つきがドぎつい灰色の髪の男。いったい何人殺したのか、見当もつかないほどに荒んでいた。


その後ろには、歓楽街の申し子のような体型をしている女が、興味津々とばかりにあちこち見回していた。


(……殺し屋と情婦イロ、って所か)


二人の後を追いながら、ナズナはその様子を観察していた。とても目立っている二人は、どうやらこの街に来たばかりのようだった。物珍しい足取りと、取り敢えず宿と素材の売却先を、と話している内容からも、二人がこのミナミの地ではルーキーに該当する人物だとナズナは確信していた。


犯罪者か、ただの流れの狩人か。その容姿から前者だろうと推測をしたナズナは、斜め前方に見える店に目を留めた。


それは混沌派の、父の仇である組の息がかかっている組合所属の店。ミナミでは20ほどある店の1つに過ぎないそこだが、地元で利用しようという人物は限られている。他所の派閥の狩人に対して、詐欺とも言えるレベルの買取査定をすると知られているからだった。


―――魔が差した、というのはこの時のことを指すのだろう。


ナズナは冷や汗を流しながらも二人を呼び止め、親切を装って口八丁に売り込んだ。素材買取ならあの店は間違いない、良い目利きが揃っているとまでペラを回せたことを自分で褒めてやりたいぐらいに。


数分後、ナズナの手元には5千イェンもの大金があった。近くの立ち食いの店に飛び込み、他の客の目を気にする余裕もなく、合成素材のかけうどんをあうあうと食べ尽くした。叩きつけるように札を渡し、釣り銭を慎重に数えて店を出る。


そこで、ナズナは死にたくなった。


父の姿を思い出したからだ。最後に、血を吐きながら遺された言葉をナズナは覚えていない。衝撃的過ぎたのか、別の理由があるからか、笑う父の血で染まった唇が動いていた様子は思い出せるが、肝心の言葉だけがさっぱりだった。


(だけど―――今更遅いかもしれないけど)


腹が満ちたから罪悪感が湧いた、など。浅ましいにも程があるとナズナは自覚していたが、脚は迷わず二人のルーキーが入った悪徳店へと向いていた。


無力な自分が何を返せるのか、謝ってすむことなのか、死ぬかもしれないのに。浮かぶ言葉を飲み干しながら、ナズナは走った。


そして、悪趣味な外見をする店の前で立ち止まる。荒ぶる息を深呼吸で落ち着かせ、前を向く。そして、扉を掴んだ所でナズナは意識を失った。


感じたのは、衝撃。薄れゆく視界の中で、慌てる声が聞こえる。


―――少し後、ナズナはこの時の自分の行動を大いに責めることになる。例えそれが、自分の立場を激変する切っ掛けになった転機になったとしても。















「しめて、5万ということでよろしいでしょうか」


「……もう一度だけ、頼む」


「では、4万で。ああ、拒否しても構いませんよ?」


店の中、組合の素材受け取りの担当と名乗った糸目の男が笑顔で伝えてくる。セロは背後で10数人ほどが動いたと同時に、色々なことを悟った。


隣のシャンも同じだった。自分の全身を舐め回すような視線を感じ、苛立ちのまま拳を握りしめていた。


「……疲れているんだ。荒野を駆けずり回って、一休みしたいぐらいに」


「それはそれは、好都合です」


「素材の質と数を見れば分かるだろう。こっちも余裕があった訳じゃない」


セロは事実だけを話した。列車から転移の方陣―――以前からシャンが開発し、その危険性からテストできなかったが、あの眠った後の世界で形にした―――で逃げ出した後、追手に捕まらないように大回りで荒野を駆けた。体力の消耗を避けるために強い魔物は避け、それでも街に到着した後の当座の資金は必要だと弱い魔物だけを狩って、一週間かけてようやくたどり着いた。収納にも余裕があった訳じゃない。それでも、少なく見積もっても100万にはなる量だった。


そんな理由は知ったこっちゃないと、糸目の男が小さく目を開いた。その時にセロが見たのは、成長する前の自分がよく見ていた目だった。


弱いものを利用することしか考えていない、腐りきった大人の瞳。話し合いで解決するような手合ではないことは、痛い程に知っている。


「分かった。4万でいい」


「……セロ」


「すまんな、シャン」


「いえいえ、謝る必要など。賢い選択ですよ」


男から4枚の札が手渡される。セロは札を数え、頷きながら金を収納すると同時に、男を殴り飛ばした。予想外だったのだろう、無防備にセロの拳を受けた糸目の男が宙を舞い、ごろごろと転がって壁に後頭部をぶつけた後、ガクリと頭を垂れた。


セロはぐるりと腕を回し、告げる。


「詫びの金は先払いだ、クソ野郎ども」


見回し、睨みつけるセロ。その闘志に呼応するように、店内に控えていた使い手達が一斉に心素を練り上げ始めた。


―――5分後。セロは血の混じった唾を床に吐き捨てると、自分が叩きのめした男たちを見回していた。横で援護に徹していたシャンが、小さくため息をついた。


「噂通りの治安だね。到着していきなりコレとか」


「……大人しくしてた方が良かったかもしれないが」


「舐められっぱなしよりはマシだと思う。何より誰も死んでないし、この程度なら喧嘩で収まるでしょ」


組合の作法に乗っ取り、剣を抜かず徒手空拳での語り合い。骨が折れる音は聞いたが、致命傷には程遠い。手加減をした上で勝利を収めたセロは、血がついた自分の手のひらを見下ろした。


(……勝てはした。でも、楽勝じゃなかった)


大勢を相手にしたとはいえ、何発かは殴られ、蹴られた。急所は防御したが、内出血が起こっているのだろう、ズキズキと痛む箇所もあった。意味のない仮定かもしれないが、これが剣での殺し合いだったのなら、自分は生き残ることができたかどうか。先の列車の中の敗戦の事も記憶に新しいセロは、自分がまだまだ未熟であることを思い知らされていた。


それ以上に、もしもあの“炎の男”だったらこの程度の相手など。セロは忌々しそうに舌打ちをした後、そういえばと入り口の方を見た。襲いかかってきた狩人はいずれもそれなりの使い手だったが、その中で一人だけ、予想以上に弱かった男が居たのだ。殴り飛ばした際に入り口を突き破ってまで吹き飛んだその男と、組合の客か誰かがぶつかってしまったのかもしれない。


無関係な一般人に迷惑をかけたのならば、謝罪をすべきだろう。そう思って建物を出たセロだが、そこで気絶していた被害者は予想外の人物だった。


「これ、さっきの女の子……?」


「だな。それに、聞き違いじゃなかったらしい」


セロが乱戦の最中に聞いた言葉は、「やっぱりちょっと待って」というもの。自分達と同じようにあの糸目の男に騙された被害者にしてはおかしいとセロは感じていたが、先程自分達に近づき、この店を案内した少女であれば納得できる言葉だった。


「っと、こうしてる場合じゃないな。仲間が駆けつけてこないとも限らないし」


最悪、殺し合いにまで発展するだろう。体調が万全ではない状態でそれは避けるべきだと、セロとシャンは人混みを避けるように路地裏へと身を隠しながら逃亡を始めた。人を騙しきれなかった、銀髪の少女を背負いながら。















「ここまで来ると大丈夫だろ」


10分後、ミナミの東側にある居住区外エリアの中。人の手入れがされていない廃墟群まで逃げてきたセロ達は、周囲の建物を見回していた。


「あそこ、スペース的には十分」


「これで地下があるなら言うこと無しだけど―――」


セロ達は幸運にも目的である地下への階段をすぐに見つけることが出来た。お目当ては追手から発見されにくく、不意打ちの大威力方陣術も受けにくい地下での拠点を広げる場所。申し分のないスペースを見つけた二人は障害物を手早く端に寄せると、シャンが収納していたコンテナを展開した。


こうして隠れてしまえば、滅多なことが無い限りは敵に発見されない。完璧とは言えないが安全なスペースを確保した二人は、中に入り込むと疲れた様子で座り込んだ。


「……まさか、到着していきなお尋ね者なるなんて」


「まだ分からない。けど、用心した方が良さそうだな」


まさか、の連続だった。セロは組合での取引にあまりいい記憶は無かったが、先程の一件は度が過ぎていた。20分の1以下の金額など、組合の上の組織が知っていたら許される筈がない。内部の自治を司る人員か、ひょっとしなくても懲罰人パニッシャーと呼ばれる仕置人が出てくるレベルの不正だった。


犯罪者が目立たない街ということで、逃げ込んできた二人。それでも到着して早々に理解の外にある洗礼を受けるということは想定外だった。


駄目で元々だったのだ。列車強盗でのお尋ね者として捕らえようとしてくるなら、逃げるつもりだった。それもせずに、詐欺ろうとしてくる輩だけ。拍子抜けをすると同時に、違和感で胸中は埋め尽くされていた。既に手配されているのなら、あの対応はおかしいからだ。


これからどうすべきか、手配されているとしてどのレベルの賞金稼ぎが来るのか。考え始めた二人を他所に、コンテナの中で小さな女の子の声が響いた。


「ん………え、ここ、は」


「起きたか」


セロが確かめるように語りかける。途端、女の子の顔が驚愕と恐怖に染まった。


「あ、あんた……さ、さっきの、殺し屋の」


「違う。殺しの経験はあるけど、専門じゃない」


心外とばかりにセロが答える。少女は言葉の内容を理解できなかったのか、戸惑いを見せた。その隣ではシャンはうんうんと頷きながら立ち上がった。


「それはそれとして……あなたの名前は?」


「……ナズナだ」


「私はシャン、こっちはセロ。それで、何か言うことは?」


「……ごめんなさい。オレは、分かった上でアンタ達を騙した」


「うん」


シャンは頷き、小さく笑いながら座った。セロも頷きを返すだけで、それ以上何も言わなかった。怒ることも金を要求することもなく、淡々とした様子に、ナズナは訝しげに眉を歪めた。


「怒らないのか? 酷い目に合わされたのに、どうして―――」


「酷い目にあってないからだ。そういう意味で言うなら、あの店のクソ野郎共への謝罪が必要になる」


セロは簡単に事の顛末を伝えた。金を騙し取られた上で、全員を殴り倒して店を出てきたことを。


「え……それじゃあ、指名手配される可能性も」


「元からお尋ね者だからね。そういえば、どれぐらいの賞金が―――?」


店からガメてきた賞金首の冊子を読み始めたシャンは、首を傾げた。何度確認しても、自分達の名前が載っていないのだ。もしかして軽犯罪に該当するのかもしれないと、シャンは安堵のため息をついた。


「それなら余計に拙いだろ。あっちのバックは相当にネバっこいって聞いたんだが」


「……確かに。一応、確認しておいた方が良いか」


「なら、私が行くよ。隠密の方陣を使えばリスクが低いし、深くまで観察できる」


告げるなり、シャンは街へと戻っていった。止める間もなく置き去りにされたセロは、小さくため息をついた。


そのまま黙り、端にあるソファーに体重を預けて目を閉じる。同じ空間に居るナズナを気にしながら、セロは現状に至るまでのことを整理し始めた。


切っ掛けは、恐らくだがイカイツと出会ったこと。復讐の道の途中に在ったショウゾウに目をつけられてしまったから。あるいは、自分の師匠が原因なのかもしれない。


(カイセイと名乗ったクソジジイは……絡んでないかどうかも、俺には分からない)


分かっていることは少なかった。ただ、アスカが復讐劇に巻き込まれた事と、師であるラナンが所属する組織の構成員がアスカに攫うだけの価値を見出し、動いたことだけは分かっていた。偽装されたアスカの死体を見て、ティーラが偽物だと確信しなければ騙されていたことだろう。


だが、探しに探しても見つけることが出来なかった。その後の一連のことは全て博打に近かった。隠蔽の工作が出来るほどに、資金力や影響力がある組織であるという推測。そこから、安全と思われている列車を使わない選択肢はないという、希望的観測。


分かった所で、誘拐を完全に阻止することは難しかった。事前の探索でも不可能だった相手だ。それを見逃した時点で、半ば負けていると言っても過言ではなかった。


結局は、居るかも分からない列車の中で探し回り、下手人を倒す以外に方法は無かった。だが、列車をを襲うことはただの言葉だけでは済まされない重罪だ。それでも、と同道するつもりだったリュウドウとティーラを気絶させたことを、セロは後悔していなかった。

シャンまで気絶させなかったのは、逃亡する方法があるという提案を受けたからだ。転移の方陣無しに離脱するのは難しいと告げられ、その通りだと考えたセロはシャンだけを連れて列車に乗り込んだ。結果的に、事はプラスの方向に進んだ。シャンが持っていた隠形の方陣が効果的に働かなければ、潜入の時点で詰んでいたかもしれなかった。


逃亡する時の様子も上々で、何の損傷もなく列車から離れた、事前に設置していた転移陣へと瞬間的に移動できた。ただ1つ、「本当に上手くいった」と喜ぶシャンの言葉は要審議だったが。


(……これで良かった。列車強盗は重罪人だろうし)


組合における罪の重さは生活に深く関わるものほど重くなるという。食料や資材運搬の中核を担う貨物列車の運行を妨げるなど、どう考えても上から数えた方が早いだろう許されない罪である。一度疑いでも向けられれば、二度と真っ当な生活など送ることが出来ないぐらいには。


故に、おかしいのだ。今のこの段階で、指名手配がされていないということは。


そのあたりの事情も、シャンが戻れば分かるかもしれない。そう考えて待っていたセロはシャンの念話を受けるなり動き始めた。時間にして30分が経過している。時間もおかしくない、もうすぐ入り口に到着するという言葉にも乱れはないが、セロは五感が訴えるままに外へと出ていた。


後ろからビクついたナズナが着いてくるが、それどころではない。コンテナの外に出たセロは、戻ってくるシャンを見るなり走り始めた。追い越し、驚くシャンを背中に庇いながら臨戦態勢に入った。


「顔を出せ。それとも、死ぬまでやり合うか?」


「……えっ?」


「尾行されたな。――無視をするなよ、そこに居ることは分かってる」


制限を3秒とセロは定めた。方陣術使いに準備させる不利を考えてのことだ。その前に仕掛けて、コンテナを守る。ある意味で生命線であり、仲間と作り上げた拠点に傷を入れられることはセロ自身が許容できないことだった。


それから、1秒。経過した後、セロは相手を殺すための準備を始めた、その時だった。


「争うつもりはない―――お嬢の無事も確認できたしな」


声と共に現れたのは、30より少し前だろう男。両手を上げて現れると同時に告げられた言葉に、セロは後ろを振り返った。


「ナズナ、どうして」


出てきた、と答えるより前にナズナはものを落とした。握っていたのは、拳大の石。それが転がる音が収まった直後に、震える声が地下に響いた。


「わ、若頭……なのか?」


「はい、ナズナお嬢。よくぞ……っ! オヤジの仁義を通すがために、よくぞ立ち上がられました!」



感動に打ち震えた、興奮する声。



訳が分からないと首を傾げるセロの横で、色々な取り巻く事情を察したシャンが深く大きなため息をついた。


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