3章:曲がらずの熱光

26話:新天地にて


「……ここが、鶴橋の街?」


「そうみたいだな……どうした、アスカ」


「ううん。ちょーっとね、想像よりも大きいなって感じで」


実の所はちょっとどころじゃないけど、とアスカは呟いた。なにせ、街を囲っている外壁の端が見通せないのだ。強化した視力でも見えないというのは、尋常ではない。最低でも20倍ぐらいにはなっているのではないか、とアスカは戦慄した。もうちょっとした市を名乗れる規模だ。


「……取り敢えず、ギルド。先に行こっか。場所だけは把握しておきたいし、他のことも」


これから長期滞在する予定だから、宿泊する場所はギルドに近い場所がいい。一同は大きな門を潜り、街の中へと入った。門には使い手が10数人詰めている。これだけでも差が分かるな、とセロは訪れた街の大きさに圧倒されていた。


「でも、場所はどこだ? いちいち聞き回るのもちょっとホネだな」


「そうだね……あ、あそこ! 地図売ってる!」


観光名所のように、門に入ってすぐの場所に地図が売っている売店があった。値段は3万イェンと安くないが、この広さだとやむを得ないかと、セロ達は共同資金で地図を買うことにした。


「え、っと……ここからだと北西か。ちょっと遠いけど」


「歩いて行こう。少しでもいい、街を見たい」


セロが言い、アスカが頷いた。バスが通っているようだが、どれに乗ればいいのかも分からないし、どれだけの金がかかるのかも分かっていなかったからだ。


そうして、3人は鶴橋の街を歩いた。南巽とは何もかもが違っている場所を。まず、道路が3段階ぐらいレベルアップしていた。3車線ある道路はザラで、路面の状態も良好。走っている車の数も桁違いだった。


セロは通り過ぎていく車を興味津々に見ながら、信じられないという顔をしていた。


「まるで別世界だな……これが都会か」


「流石は環状線の沿線ってことね。近鉄線も通ってるから、先見性のある人が開拓の段階で居住区を広めに確保したんだと思う」


アスカの解説を聞きながら、セロとティーラはふむふむと頷く。積み重なった疲労も、新鮮な感覚を前に吹き飛んでしまった様子だった。


それでも、芯にまで至った疲労がすぐに癒える筈もない。何より、筋肉痛だけは誤魔化せなかった。歩いて30分、ようやく辿り着いたセロ達は、精神の疲れからかどんよりとした雰囲気をまとっていた―――が。


「………ここが、この街のギルド? 南巽の30倍はありそうなここが?」


呆然と、セロとティーラは鶴橋で唯一のギルド専用の建物を見上げていた。上からじっくりと眺めて、1階の正面に至るまで10秒をかけて。


「……首が痛い」


「ですね。でも、一体どんな風に建てられてるんだろ」


「いいから。目立ってるから二人とも」


アスカが突っ込みを入れると、二人はむすっとした顔になった。セロは無表情ながらも、片眉を上げて。ティーラは聞き捨てなりませんね、と臨戦態勢の表情を。


「いや、別に普通だから。阿倍野の天空ビルとかこんなもんじゃ済まないから」


「……天空? そういえば、出発する前に廃墟から見たあれは」


「だと思うわ。高さ的に、うっすらとだけど離れた場所からも見えるから」


アスカの話を聞いたセロは、まだまだ知らない場所が多いのだな、と頷いた。


「いいから、入るわよ。先立つものが必要だし、足が限界だし」


強行軍に精神的疲労に、アスカは早く休みたくて仕方がなかった。セロとティーラも同意見だ。とはいえ、休む前に済ませたいこともある。


所持金はセロが5万、アスカが2万、ティーラがなし。地図で3万を使ったため、残りは4万イェン。それだけでは心もとないと、3人は鶴橋に到着するなり魔石と素材の換金を優先することにしたのだった。


ギルドと素材買取の店は全て同じ建物内にあると、道すがらに読んだパンフレットには書いてあった。木造6階建てのこのギルド支部に、全てが入っているのだ。3人は頷きあい、先頭に居たセロが入口の大きな扉を押した。


「……開かない。やはり、ここにも試練が」


「なわけないでしょ。引きなさい、バカ」


あの時のアレはそういう事だったのね、とアスカが引きつった顔で言う。セロは言われた通りに引いたが、扉はびくともしなかった。


「……アスカ」


「いーから退きなさい」


埒が明かねえとアスカは扉を掴んだ。思った通り、横にスライドさせると扉はスムーズに開いた。瞬時に見破ったように見えるアスカに、セロとティーラは拍手を捧げた。


「ちょっ、恥ずかしいから! いいから、はい、駆け足!」


頬を赤くしたアスカに促され、二人は中へ入った。セロは、そこに広がっていた光景を前に、ただ圧倒されていた。


床だけにとどまらず、壁と柱と梁までもが雰囲気のある焦げ茶色の木造で組まれている。何よりも、ギルド内部が外で見るよりも遥かに広かった。


振り返って入口を見ればハッキリと分かる、間口が外から見える幅の2倍になっているのだ。


「……空間が拡張されてる? もしかして、これが心戒コマンドメンツってやつか」


あるいは、心界エアリアによるものか。ここの主が展開しているのだろうが、実際に見ると強烈だった。単純な出力だけではない、セロはこの空間に通常では考えられないほどの何かを感じていたからだ。これだけのことが出来るのなら、とセロは創世と呼ばれる能力について、もっと学習するべきだと考えた。


「そうかもね。でも私達に害があるわけでもなし、早く換金だけ済ませましょ」


目的の場所である魔石と素材の換金所は入口の案内に書かれていた。それだけではなく、床に矢印で示してくれている。これならばバカでも間違えないだろう。セロは南巽とのあまりにも違う親切さに、感動さえ覚えていた。


「あーもう、いちいち立ち止まらないの。田舎丸出しはダメだって言ったでしょ」


周囲には心石使いばかりだった。誰もこちらを気にかけていないかもしれないが、もしかして、ということもある。初っ端から舐められるのは、あまりよろしくないのだ。そう考えて先導するアスカの言葉に従い、セロとティーラは背筋を伸ばしながら付いていった。


目的地である換金所は、1階の奥にあった。終了間際のため、換金所には行列が出来ていた。受付の窓口は3つあるが、並んでいるのはざっと見て30人以上。アスカは遅々とした列の進み具合を見て、結構かかりそうだと眉をひそめた。


「一時間はかかりそうだけど……どうする? いっそ明日にする?」


3人とも、体力的に限界だった。アスカとティーラの二人は気を抜けば寝てしまいそうなぐらいに。だが、ここで帰るは嫌だという声が上がった。


「今日にしよう。どれだけの金になるのか、興味がある」


「私も、今日が良いです。今後の方針の組み立てにも役立つ、重要な情報ですから」


賛成が上回った一同は行列に並んだ。実はと言えば、アスカも同意見だった。苦労した旅の成果をいち早く確認したいという気持ちは、二人と同じだったからだ。


だけどどうしてか、3人を避けるように並んでいた人達がそそくさと去っていった。そのお陰で10分も経たない内に受付を済ませそうだが、どうして、とアスカは訝しげな顔をした。


「名前は知られてないと思うんだけどなー………ま、敵意とか害意はあんまり無かったみたいだけど」


ならば今は良いだろうと、結論を出した3人は数分後に受付に辿り着いた。窓口の担当は女性で、一瞬だけ顔をしかめるも、先に受け付けた人と同じく目的を尋ねてきた。


「本日はありがとうございます。魔石ですか、素材ですか?」


「両方です。あ、これ今回渡すものをまとめたメモなので良かったら」


「助かります。…………び、ビルボード・トレント!?」


受付の女性が告げると、両隣に並んでいた狩人らしき男たちがざわめいた。まさか、とセロ達を見て信じられないような顔をした。


「こ、これは失礼を。その、先に魔石を見せて頂けますか?」


告げられた言葉に、ティーラが前に出た。収納からビルボード・トレントの魔石を取り出し、窓口のテーブルの前に並べる。受付の女性は解析装置らしい先が尖った道具を取り出し、魔石にその道具から出た光を当てると、小さなため息をついた。


「―――間違いありませんね。お手数をおかけしますが、少々お待ち下さい」


受付の女性は丸い物を取り出した。セロはその物体に見覚えがあった。


「あれは……通信球?」


心素をこめて特定の周波で念じれば、離れた相手との通話が可能になる優れものだ。高価かつ相手が居ないため、セロは持っていなかったが。


それから数分後、連絡を受けたのだろう壮年の男がやってきた。灰色のスーツを着崩しているその男は、がっちりとした体格をしていた。


「よろしく。で、お前さん達があのクソトレントを?」


「合計で13体狩った。魔石を回収できたのは半分だが」


セロは受け答えをしながら、男が手練であることに気が付いた。近づいてくるまでの歩き方が普通ではなかったからだ。ただ歩いているだけではない、重心が一切ブレていない上に、一歩一歩の体重移動がスムーズに過ぎた。余りにも自然にやってのけているということは、半ば無意識になっているということ。何度も肉と骨に染み込ませた、本当の意味での技能になっている証拠だった。


「―――成程、一目で気づくか。奪った、って訳でもなさそうだ」


「では、副長」


「ああ。2階の応接室が開いてる筈だ」


男は受付とやり取りを済ませてセロ達に向き直ると、君たちにとっても良い話だと告げた。


「おっと、詳しい話に移る前に自己紹介をしておこうか。俺はイカイツ、このギルドのナンバー2をやっている」


「セロだ」


「ティーラです」


「アスカよ。それで、どんな風に良い話なのかしら」


警戒しながらの言葉に、受付の女性の顔色が変わった。イカイツはそれを手で押し止めると、苦笑しながら告げた。


「ちょっとした事情聴取だ。内容によっては大金に化ける可能性がある」


「……それが本当なら良い話ね。セロ、どうする?」


「行こう。何となくだけど、心当たりがある」


分かっているんだろう、というセロの言葉にアスカは頷いた。そのまま3人はイカイツに案内され、2階へと上がった。途中のエスカレーターでは度肝を抜かれたセロとティーラが、おっかなびっくりとした様子になっていたが。


「ははは。やはりな。君たち、このギルドに来るのは初めてだろう」


「……そんなに田舎者丸出しでしたか?」


「はは、まあな。それに、これでもこの街での顔は広い方だ。だから、普通に気づくさ」


イカイツの言動に、セロは呟いた―――「」と。


「そこまで武術に寄ってるのは珍しいけどな。最近は強化でゴリ押しする奴が多い。それに、いやに実戦的だが……師は?」


「別れて、それっきりだ」


セロはそれ以外に何を言うこともなく、ホールから廊下へと移動するイカイツに付いていった。その途中、セロ達は南巽とは比べ物にならない数の狩人達を見かけた。


装備、年齢、体格もバラバラだったが、南巽ではあまり見なかったレベルの使い手がざっと100人以上。ホールでただ騒いでいる者も居れば、今日の取り分の分配だろう、大きなテーブルの上で金を分け合っている者達も居た。


『……すごいな。10万単位を普通にやり取りしてるぞ』


『それだけ報酬が多い……魔物が強いってことでしょうね』


討伐の報酬が大きいということは、高ランクの魔物が多いということ。それだけ入手できる功績点ポイントも多いということだが、功績と危険は比例するのが普通だ。


そんな中で戦い、日々の糧を得ている狩人達。いずれも精悍な顔つきで、以前の街とは一味もふた味も違いそうだった。


『そのギルドでナンバー2を務めている人、ですか……一筋縄ではいかなそうですね』


ティーラの念話に、二人は小さく頷いた。油断はしないようにと話し合いながら、後をついていった。


―――結果だけを言えば、それら全てが無駄な心配だった訳だが。


「え……ギルドに来ていた個人依頼が?」


「そう。南巽とここを繋ぐルートで消息を絶った徒党を捜索してくれ、ってね」


イカイツは依頼の紙を見せた。依頼の日時は一年前。捜索対象の外見も記されていて、それを見た3人は小さく頷きあった。


「居ましたね。……既に死んでいましたが」


「そう、か。何か証拠になるものは?」


「これです」


ティーラは戦闘が終わった後、遺体から回収した無事な品をイカイツに渡した。遺品になるかもしれないと、万が一を考えて持ってきたものだった。


「……感謝する。しかし、このボロボロになった剣は―――」


「ビルボード・トレントを狩る時に使った。あの猿の臭気に当てられて劣化してたようでな」


セロは戦闘時に起きたことを、そのまま伝えた。元の剣自体の品質は相当なものだったが、木の中で毒素が含まれた空気を1年中浴び続けた結果だろう、斬る度に刃が欠けてしまったのだ。


あの苦境を乗り越えるために役に立ってくれたため、もう使えないだろうが臭い森の中に放置はできず、セロの収納に収まっていた。


「……そう、か。これは譲ってもらっても?」


「別に構わないが……何に使うつもりだ」


「これも遺品なんでね。回収時のエピソードも加えて、依頼者へと渡すつもりさ」


主の仇を討った剣として、贈った相手へ―――少しでも心が安らぐように。ため息を共に告げるイカイツに、そういう事なら、とセロは剣を譲渡した。


そこから先は依頼達成の話と、報酬について。査定は終わったようだと、イカイツは1階からの報告のままの金額を伝えた。


セロ達は、その金額を聞いて目を丸くした。


「……900万イェン?」


「魔石、素材の討伐報酬だけでね。個人依頼の方を加えると、もう600万ぐらいプラスになるかな」


合計で1500万イェン。セロとティーラは呆然とした顔で「いっせんごひゃくまんいぇん」と呟きながらアスカの方を見た。


アスカはため息をついた後、そういう事ね、と金額の内訳についての考察を述べた。


「森の中での密集隊形と、戦い難さ、いやらしさ。ランクは6だと思っていたけど―――」


「討伐難易度を考えて6.5、って所かな」


特別討伐対象にもなっているから1体あたり100万、とイカイツは告げた。狩人にとってはリスクが大きい魔物であることも。


「執拗に捕縛しようとしてくるのがね。捕まっちゃったら方陣魔術で一掃、って訳にもいかなくなるでしょ?」


炎により防御力が低下するが、それだけ。弱らせた後に打撃が斬撃を与えるのがセオリーだが、まず1体では活動していないため、複数のビルボード・トレントを相手にする必要がある。


「ドラッグ・モンキーも厄介だしね。初見の場合、あの臭いで警戒ぶち抜かれて全滅した、っていうのはこの付近でのあるある話なんだけど」


「……そういう名前だったのね、あのクソ猿。確かに、単体だとそれほど脅威にならないけど」


強い魔物と組まれると、一気に危険度が跳ね上がる。奇襲を受ける可能性が高まる、というのはそれほどにヤバイのだ。


セロ一人なら、奇襲を仕掛ければ片手でフレイムウルフを潰せる。だが、フレイムウルフに最悪の形で奇襲を受ければ、最悪でセロであっても片足を失う羽目になるぐらいに。だからこそ、イカイツは驚いていた。


「名前も知らなかったと? それで奇襲を受けて、よく無事だったね……いや、もしかして」


「誰も死んでなんていない。私達3人は、誰も欠けることなくこのルートを通った」


「……それが本当なら、何十年かぶりの快挙だな。無謀とも言えるが、やり遂げられたのなら賞賛されて然るべきだ」


「よく言うわ、最初から分かってた癖に」


―――依頼について、遺品の裏取りをしないのはそういうことでしょう。尋ねるアスカに、イカイツはそれだけじゃないがな、と苦笑を返した。


「まあ……確信したのは魔物の種類を見てからだが」


いずれも、鶴橋にたどり着くまでのルートで出る種類の魔物だ。その上でビルボード・トレントまで狩っているのなら、捜索が出されていた地域を誤魔化しているということも考えにくい。


「期待しているのは本当だ。こういうやり取りが出来る所もな」


「……地元の名士が、物好きね」


アスカが告げると、「そこまで分かるか」とイカイツは嬉しそうに笑った。セロとティーラは何のことだか分からず、置いてけぼりにされていたが。


「っと、そろそろ時間だな。では、有望な諸君の………そういえば、徒党の名前を聞いていなかったな」


イカイツがセロに視線を向ける。セロは徒党にはまだ早いと答えようとしたが、先にアスカが割って入った。


「明日にでも申請するわ。それじゃ、今日はこれで失礼するから」


「体調にはお気をつけて」


「いや、待て。……そうだな、二人だけでいいか」


イカイツは告げながら二人にメモ付の小瓶を放り投げた。二人は危なげなく受け取り、そこに書かれていた文字を見るなり顔を赤くした。


「おい……二人とも、どうした?」


「な、なんでもないの! それじゃ、さよなら!」


「お、おい」


アスカとティーラは戸惑うセロの腕を引っ張りながら、部屋を去った。廊下から1階へ、金を受け取り、外へ移動すると小瓶を自分へと振り撒いた。


「……いい匂いだが、これは一体」


「いいから!」


アスカとティーラは真っ赤な顔で全身をプルプルとさせていた。セロは何事かと思ったが、深く聞くのは拙いと叫ぶ本能に従い、二人の後をついていった。


そして、ギルドの中で見つけた案内から、中堅クラスの宿泊施設へ移動した。


ギルドから徒歩20分、そこそこの距離があるが一泊が8千イェンで、長期連泊になると20%オフになるという。外見も綺麗なため、セロは特に文句もなく受付を済ませた。


取り敢えず、一ヶ月。シングルとダブルの部屋に分かれたセロ達は、今日の所は休むということで意見が一致した。


「……セロ、これ」


「ん? ……石鹸とシャンプーとリンスなら、部屋のものがあるらしいが」


「高いの、ここの売店に売ってたから……と、とにかく! 今日はこれで全身を洗って、早く寝ること!」


集合は明日の朝6時で、とだけ言い残してアスカとティーラはダブルの部屋へと去っていった。セロは何がなんだか分からなかったが、深く考えられるほどの体力と気力が残っていなかったため、自分の部屋へと移動するなり風呂に入ると、倒れ込むように眠りについた。









「あ~もう、最悪……!」


「……でも、早く気がつけて良かったです」


ダブルの部屋の中、二人はシャワーを浴びながら顔を赤くしていた。ティーラは初めて見るものに驚いていたが、アスカの説明を受けてすぐに理解すると手早く全身と髪を洗い終えた。


その頃には、湯船はちょうどいい温度の湯で満たされていた。入浴剤が投入され、いい香りがしてきた風呂を前にティーラは興奮していた。


「異世界、凄いです! まさかこんな手軽に香草風呂に入れるなんて……!」


「ちょっと違うけど、疲れは取れるらしいよ。でも長湯は無しね。冗談抜きで溺死しそう」


身体という身体が睡眠を欲しているため、ちょっとでも気を抜くと落ちるように眠ってしまいそうだ。あの難所を抜けたのにそれは間抜けすぎると、ティーラと一緒にさっとお湯に浸かったアスカは、身体を簡単に解した後、風呂を出た。


ティーラはタオルの質に驚き、ドライヤーの温風の優しさに目を丸くして、ベッドの質に戦慄していた。アスカは面白そうに眺めた後、冷蔵庫にあった飲み物を取り出すとティーラに手渡した。


「……これ、魔法か何かで作られた水ですか? 美味しすぎます」


「疲れてるからそう感じるんじゃない? 普通の水よ、300イェンぐらいで売ってたわ」


まだあったのか自動販売機、とアスカは呟き、水を飲み干した。そうして落ち着いた後、先ほどのことですけど、とティーラがイカイツなる男に対する印象を告げた。


「普通に良い人だった、と思うのですが――――罠でしょう。あまり近づき過ぎない方が良いと判断しました」


「いやいや、いくらなんでも疑いすぎだって。気持ちはすっっっっごい分かるけど」


今までに出会った大人の人物の大半、というか90%ほどがとてもアレだったため、アスカも疑っていた。先ほどのやり取りの中でも、いくつか仕掛けたのだ。そうして確認したアスカは、とても演技とは思えない、という結論に至っていた。


「名士だから私達みたいな木っ端狩人程度、って考えてるかもしれないけどね。相当な名士だろうことは確かだし」


「………“イカイツ”なる名前、ですか?」


情報を収集する暇は無かった筈だ、だとするならば家格を証明する名前以外に心当たりはない。そう考えてのティーラの言葉に、ビンゴ、とアスカは指を地面に向けながら答えた。


「地名の由来がね。江戸時代、この地域にあった橋付近に鶴がよく飛んできたから鶴橋、っていうんだけど」


「そうなると……鶴が訪れる以前の、元々の橋の名前が?」


「そう、猪甘津橋いかいつのはしって名前だったとか。この国では最古になる木造の橋っていう記録があったとか」


だが、名字として昔から使われていたか、と言われると少し違う。アスカは自分なりの考えを元に、イカイツなる男の家のことを推測した。


「環状線と、近鉄線………鉄道のことね。どういった訳か残存して、機能している。それもこの大阪で随一の工業都市になった、東大阪に一番近い」


アスカは丸い円だけの方陣を取り出し、心素を巡らせない状態で東南東の位置を指で差した。

そこから徐々に東へと指を移動させていく。


「この円が環状線で、最初に指した位置が鶴橋。で、東に伸びているのが近鉄線ね」


「――要所ですね……様々な意味で」


広い筈です、とティーラは商人としての目線で告げた。製品の中継地点であるということは、同時に多くの人が行き交う地点でもあるということ。そして、人が集まる所こそ商いが栄える場所なのだ。


大空白で、大阪は拡張された。直後に生存を賭けた戦いが始まり、人々は街ごとに居住区を築き上げた。鶴橋は、本来の面積より多くその枠を広げたということだ。


「でも、人が集まればそれだけトラブルは多くなる。儲け話が増えるだけ、諍いは増える。アレな大人も多いだろうし」


「同感です。でも……ひょっとして、だからこその“交流”の架け橋の役割を?」


「ティーラちゃん鋭い。ま、推論を重ねただけの憶測だけどね」


だが、そう考えれば腑に落ちる。人と人を繋ぐ架け橋、近鉄線と環状線を繋ぐ架け橋、それを望まれる者か、かつてそれを成した者の名前が猪甘津いかいつだったのかもしれない。


「つまり―――だから、信用できると?」


「まさか。白である可能性は高いけど、黒であっても私達程度を相手する旨味はないってこと」


だから、少なくとも害はなさそうだ。そう結論付けたアスカに、ティーラは意外そうな顔で尋ねた。


「……人を陥れるのは苦手でも、そういった駆け引きは得意なんですね」


「見て覚えたからね。この3年で、逃げるのは超得意になったし」


嫌な予感から逃れる方法も。ぽつりと呟いたアスカは、そういうティーラちゃんもだよ、と苦笑した。


「わたわたしてた頃が嘘みたい。……覚悟、決めたんだろうけど」


「背伸びをしているのは分かってます……でも、私なりに足手まといにだけはなりたくないから」


凛とした声で、ティーラが言う。ショックから脱したのか、落ち着いたのか、拠り所を見つけたのか、強がっているだけなのか。アスカには分からなかったが、ただ前を向いているという事だけは綺麗だと思った。


「……だから勉強、か。分かった、任せておいて。まずはセロと一緒に歴史の勉強ね」


「はい、おてやわらかに」


「ふふ、本当に限界見たい。じゃ、電気消すね」


アスカはティーラがこてんと倒れたのを見計らうと、部屋の電気を消した。


「さってと、私も……ってシーツ被るのも忘れて」


ティーラは横に倒れた直後に、気絶したように寝入っていた。アスカは苦笑をしながらシーツをかけて、自分のベッドへと移動した。


横たわり、天井を見上げれば夢の世界はすぐそこだ。目覚めたら授業の準備を、と考えたアスカは、嫌なことを思い出すと、収納からあるものを取り出した。


「……バカ昭人。どういうつもりよ、コレ」


神社にあった手紙を、アスカはデコピンで弾いた。


そもそもが変なのだ。記述を見るに、恐らくは300年前に書かれたもの。内容も奇妙の一言だが、それ以前の問題として



「分っかんないのよね―――?」



そして、今も。


答えの出ない問いを探しながら、アスカは疲労に誘われ眠りの中へ落ちていった。



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