25話:荒野を往く(終)

人の気配がない場所での夜の闇は、本当に恐ろしい。隙間を通る風の音、はらりと舞い落ちる葉、遠くから聞こえる微かな物音、その全てが自分を脅かす存在に思えてくるからだ。


一人だったら、挫けていただろうな。アスカはそんな事を考えていた。


心素の残量は心もとなく、体調も万全とは言えず、装備も慣れたものではない。周囲はきっと敵だらけで、夜の時間だからこそあまり活動していないようだが、もしもまた襲われれば、と考えてしまう。


そんな中でアスカが何とか頑張れているのは、傍らで休んでいる二人のためだった。


ビルボード・トレントとフレイムウルフとシット・モンキーの群れを倒した後、3人は更に進むことにした。アスカはセロの怪我を心配していたことから一度あの神社に戻るべきだと主張したが、他ならぬセロに反対された。森から魔物の気配が無くなった今がここを抜けるチャンスだと、自分は大丈夫だからと言われたアスカとティーラは反対することが出来なかった。


結果的には、良い判断だったのだろう。迷ったためそれなりに時間がかかったが、3人は一度も強敵と遭遇せずに森を抜けることが出来た。


森を出てすぐに、風雨を凌げる廃墟を見つけられたのも幸いだった。だが、神社のように安全な場所とは言い難く、休むとしても見張りが必要だった。


アスカは、一番に名乗り出た。今日のミスを償わせてくれと頭を下げて二人に頼んだ。およそ致命的な失策だった、助けられたとはいえ責めは負うべきだとアスカは考えた。


(なのに、どうして首を傾げるかな。ぶん殴られても、いや、もっと求められてもおかしくないのに)


ティーラの解説によりアスカの主張を理解したセロは、それは違うと言った。それどころか、逆に謝ったきたのだ。二人を迅速に助けられなくてすまない、と自分の力不足を嘆く様に一切の嘘はなかった。3時間、眠ればある程度は回復する。傷の痛みなどおくびにも出さず、自分に出来ることだからだという口調だった。


(……バカよね。バカだわ、ほんっとバカ)


悪意がある者と交流を深めれば、徹底的に利用されるタイプだ。人を騙すのに向いていないとか、どの口で言うのか。アスカはぶちぶちと文句を言っていた。


―――本当に、ただ優しい少年だったんだろうな。それが痛いほどに分かったからでもあった。


人を傷つけるのに慣れていない。セロが盗みや恐喝といった行為を嫌っていることを、アスカは言動だけで察することができた。誰かを害して糧にするより、耐えることを選ぶタイプだ。


(でも……なんでだろ。昔は普通だと思ってたのに)


積極的に人を傷つけに来ない、自分勝手な理屈で尊厳を奪いにこない、普通に言葉を交わせる、ちょっとズレた所があるけど応答してくれる。それだけの当たり前が、泣けるほどに嬉しかった。


だからか、とアスカは気が付いた。初めて会った時から、ずっと接したいと思っていた自分は。


危機に陥って、セロは更に自分の想像を越えた。自分の命が危ないのに、身を挺して助けに来てくれる。そんな奇特な人間は、平和な日本であっても決して多くはなかった。


―――だからこそ、認められない。あり得ないとアスカは憤った。セロから妹、仲間の全てを焼き払った男の存在を。


「……怒って、ますか?」


「っ!? ……ティーラちゃん、脅かさないで」


「ごめんなさい。でも、私は怒っています」


横になっていたティーラは起き上がると、アスカの隣に座った。もぞもぞと動くも、セロは目覚める気配もなく完全な熟睡状態のままだった。


「……深く眠ってますね。熟睡には自信があると言っていた通り」


「そうね……敬語はいいのよ? 普通に話してくれたら、私も嬉しいんだけど」


「すみません、癖です。……お客様への敬意はあって困るものじゃないと父さんから教わりましたので」


苦笑するティーラに、アスカはそれ以上何も言えなくなった。


すみません、とティーラは呟く。


「……本当に、呆気なかったんです。実感は今でもありません。父さん、母さんが死んだなんて」


殺された現場に自分はいなかったと、ティーラは言う。下手人は王都の大商家だった。第二王子の専属で商いの種類は多岐に渡り、当主は真っ当な取引をする者だと名声を集めていた。


「だから……まるで夢のようで。こんな辛いことは死ねば晴れるんだと、思ったこともありました」


「……そうね。それはとても分かる」


人の生は時間の連続だ。赤ん坊から今まで、全てを覚えていないとはいえ積み重ねられた秒と分と時と日の変化を認識し、その度に誰かと接し、何かを得る。記憶であったり、発見であったり、感情であったり。


それが一足飛びになると、急に現実感が薄れる。今の自分は何かの夢であり、間違いなのではないかと思ってしまう。


「でも……現実だと気が付きました。だって、父さんも、母さんも、私を助けに来なかったから」


愛されていたという自覚があった。迷子になった時、こっぴどく怒られ、泣かれたことがあった。抱きしめられた時の、母の身体の震えは今でも思い出せる。ティーラは小さく頷きながら、だけど来てくれなかったんです、と呟いた。


「今でも……信じられていません。だって、私はこの目で死んだ所を見ていないから。下らないことだと言われても、どうしても信じられない………信じたくない」


「……そうだね。この目で確認しない限りは、絶対じゃないから」


両親のあの目を見るまでは、どこかで自分は何かを信じていた。アスカは、そう思っていた。きっと全て上手くいくという、ちょっとした万能感を抱いていたことを。


「だけど……実際にその目で見てしまったセロさんは」


ティーラが言葉に詰まった。アスカも、言えない気持ちは理解できた。微かな声だが、小太り社長を尋問していた時にこぼした呟きを耳にしていたから。


炎の中で、まるで喜んでいるかのように踊っていた。その言葉が意味することは、容易く連想できる。惨劇の光景を思い浮かべ、“分かる”などとは言えない。だが、連想は可能なのだ。


もしもビルボード・トレントに捕らえられていた時に見せられた人の成れの果ての果てが、自分の大切な人だったのなら。ああいう仕打ちを受けていたのならば。


―――しばらく、二人は黙り込んだ。吐き気を覚えるような怒りが、胸の中にこみ上げてきたからだ。なにをどうしたって、それをもたらした大敵を許せそうにない。そう思ったアスカが、ぽつりと呟いた。


「……あの時のセロもそうだったのかな」


圧倒的劣勢で逃げなかった時、フレイムウルフを引き連れて戻ってきた時、助けられそうだという時、いずれもセロは怒っていた。ここで逃げる自分を認められない、見捨てる結末を見逃せないと言わんばかりに。


「多分……そうだったと思います。こんなに傷だらけになりながらも」


鞭の痛みは想像を絶するという。足の小指を家具にぶつけた時の比じゃない、それよりも更に奥に深く、痛みを感じる部分に直接抉り込んでくるかのような、とティーラは聞いたことがあった。火傷に関してもそうだ。熱くなったヤカンを触るだけで飛び上がりそうになるぐらい痛いのに、フレイムウルフのあの火を受けるなんて、二人は想像したくもなかった。


「それでも耐えきれたのは……もっと強い痛みを知っているから、ですね」


「恐らくね。……それも、普通の炎じゃなかったみたい」


推測するに継承魔法マグニスの、生半可ではない類の。そして男は「」と告げたという。


その時の光景を想像した二人の腸に、憤怒の油が煮えくり返った。


復讐を誓ったこと、地獄のような訓練を乗り越えられたこと、本気で目的を達成するつもりだからだろう俗なことに興味を示さないこと、全て優しかったからだ。人を思える、相手の立場になって考えることができる、だからこそどんな想いで、どんな痛みで、どんな無念で死んでいったのかを想像することができる。


思いやりが、優しい少年を復讐の鬼に堕としたのだ。自分と同い年なのが信じられない、“そう”なるまでの殺意と憎しみと憤怒によって、彼はもう不幸になるしかない。


―――違う、とティーラは思った。そう、思いたかった。


復讐したいと思うのは当然だろう、だからって身も心も鬼に堕ちて不幸にならなければいけないのか。暗い顔を振りまき、鬱陶しいものと扱われ、嫌われたまま一人で死ねばいいのか。


―――違う、とアスカは呟いた。


「知に働けば角が立つ、と昔の文豪は言ったけど」


とにかくこの世は住みにくいという言葉。破壊と荒廃で砕けた今の世界は、どうだろうか。アスカはこの3年、生きてきた経験を元に先人の言葉を倣って謳った。


「情に働けば角が立つ、力に棹させば流される、意地を通すだけで命がけ………なんてね」


「どういう意味ですか?」


「人情は付け入る隙にしかならなかった。生き残るためだと力を重んじて、それが原因なんだろうね、感情的に流されて動く人が多かった。私のちっぽけな意地でも、通すためには剣を抜く必要があるって確信できるほどに」


周囲は真っ暗で、世界は敵なるものだらけ。人道から外れた者は大勢で、油断をすれば即座に噛み殺される、何とも生きにくい世界だ。


―――だからこそ、許せない。


アスカは寝ているセロの頬を撫でながら思った。小さくても必死で生きてきた、自分の知る限り誰よりも人間であった優しい兄妹が、どうしてゴミだなんだと焼き殺されなければならなかったのか。


優しい人には、優しいままでいて欲しい。そう思う自分は間違っているのか。


違う、とアスカは呟いた。その顔を見たティーラは、俯いた。


王都で、貧困にあえぐ人が居たとは聞いていた。実際に見たこともあった。だが、あの廃墟の中の現実はティーラの想像の全てを越えていた。


何よりも、太陽の絵が衝撃的だった。暖かければ毛布を羽織ればいい、暖炉に近づけばいい、太陽の絵を書いて気を紛らわすなんて、思いつきさえしなかった。


それでも、二人生きた。生きていた。生きようとしていた。その全てが、炎に閉ざされた。


「……アスカさん」


「なに、ティーラ」


「次の街でも、私、普通に働けませんよね」


「だね。身元証明不可、住所不定、おまけに密入国の疑い有りだから」


それらが不要なのは心石使いのみ。アスカが告げると、予想していたティーラが小さく笑った。


「やっぱり、ですね―――だったら、仕方ないですね」


もう王都には戻れない、かといってこの世界で大手を振って歩ける立場でもない。どこにも存在すべきだとは言われない、無色かつ無職の透明人間だから、とティーラは自覚していた。


「そうだねぇ」


二人は同時に、小さなため息を吐いた。


「……どの道、一人では無理だったんだよ。私にも仲間が必要だった」


「裏切られる可能性があるから、ですか」


「うん。……珍しいものじゃないよ、誰だって、その可能性はゼロにはならない。それぞれに生きたい理由があるし、目的だってある。裏切りなんて、いつ誰の傍にも潜んでいるものだよ」


信頼も信用も永遠ではあり得ない。お前もか、と叫んだ者が居るように、人は必要になれば自分の道を選択する。


(―――だからこそ。もし裏切られるならこの少年が良い、かな)


そうすればきっと、裏切られた自分の方が間違っているんだと思えるような気がする。アスカは内心だけで呟くと、眠っている少年の頬を指でつついた。


「……こうしていると、10歳に見えなくもありませんね」


「目を閉じてるとね。……格好良い系と可愛い系が合体した感じ?」


あどけない、という表現が適しているように思える。眠っていれば、という言葉が枕に必要だが。


ティーラも真似して、セロの頬を突き始めた。だがぴくりとも動かず、優しい寝息を立てているだけ。その様子を見たティーラは、信じられなかった。


―――きっとこの先も目に焼き付いて離れないだろう、絶望の中、退かないと啖呵をきってくれた勇壮な男と同一人物だなんて。


―――鮮烈過ぎて夢のようだった、この世の終わりの底のような木の棺桶から嘘みたいに救い出してくれた、必死の形相をしていた戦士がこんな顔をして眠るなんて。


(今なら分かるよ、父さん。この人に売る、と自覚するのが最初の段階。売りたいと思ったら危ない。採算を度外視し始めたらもう手遅れ、だったよね)


バカなことをしようとしていると、ティーラは自覚していた。だが、考えてしまった。


10歳で、世間からズレている少年の未来を。相手が強大だからこそ、ティーラは予想できて、理解できてしまった。この優しい人が切羽詰まった挙げ句に、人の道を外す未来を。暗く、破壊と死と後悔しか残らない道の果てに、目的を達しようが達しまいが、辛く苦しい痛みの中で死んでいく光景を。


言葉だけでは絶対に止まらない、ならばどうすればいいのか―――全くもってワリに合わないが、一つだけ方法があると、ティーラは呟いていた。


(それに、命の恩を二度も……だったら仕方ない、よね)


“金は命より重くなる時がある、だからこそ金を扱う自分たちは恩義を大事にするべきだ”というのがティーラが大好きだった父母からの教えで、喜んで受け入れた商人の流儀だった。


「……ほっぺたが柔らかいからね」


「ですね、仕方ないです」


「お金の管理はよろしくね」


「喜んで。あの群れを倒せたのは大きいです、結構な額に……あ、でもこの世界の事とか色々知りたいです」


「任せて。セロと一緒に生徒になりなさい、私が一から叩き込んで上げるから」


かしましい二人の間に、会話の花が咲き誇った。これからの事、徒党のこと、街についてからのこと、色々なことを話し合う二人の会議は、セロが起きるまでずっと続いた。


―――それから5時間が経過した。


休憩を終えたセロ達は、夜が明ける前に出発することにした。可能な限り安全に、早く抜けたいという気持ちで3人は一つにまとまっていたからだった。


「セロ、体調は大丈夫?」


「問題ない。それよりも、二人の方が疲れてそうだが」


「大丈夫よ。ま、ちょーっと話に花が咲きすぎ感はあるけど」


「必要なことでしたので」


アスカとティーラが笑顔で答える。セロはいつの間にか仲良くなっていた二人に首を傾げたが、そういえば徒党のスズとメーコも似たような感じになっていたな、とセロはスルーすることにした。


(問題は心素の残量だけど……良いところ6割、って所か)


休憩前は1割だった。その時からすればかなり回復した方だが、今からは未踏破区域の傍を通るのだ。必ずしも高ランクの魔物と遭遇する訳ではないが、決して油断はするまいとセロは気を引き締めて歩き続けた。


方針は最初と変わらず、とにかく隠密に。奇襲を仕掛けるかやり過ごすか、繰り返して進んでいた一行は自分たちに変化が訪れたことに気が付いた。


『やっぱり……強くなってる。これがレベルアップ、ってことなのかな』


『経験の蓄積か。師匠から聞いたことがある』


心素による強化の肝の一つとして、自分に対する信頼というものがある。強い敵や多くの敵を倒せば、それだけ自分が強いということを疑う余地なく立証できるからだ。セロ達は念話で、経験と強さについて話し始めた。


『“俺TUEEEポイント”と言っていたが……どうした、アスカ。いきなり吹き出して』


『だ、大丈夫。……俺つえー、ね。分かりやすいっちゃ分かりやすいけど』


というかどう考えてもアレよね、とアスカはぶつぶつと呟いた後、理屈的には正しいよね、と自分なりの解釈を語り始めた。


『私はこれだけ魔物を狩っています、って世界に証明するものだから。物証っていうの? 後は、乗り越えたことによる自負かな。昨日のあの群れを撃滅するのだって、相当の難所だったでしょ?』


本当に辛く厳しい戦いだったけど、自分たちは乗り越えたという経験が、心石使いを強くする。だけど、力だけではない。アスカは状況こそが人を強くすると考えていた。


厳しい環境で辛い中を生き抜いた自分と、何も知らなかった自分が同じはずがない。辛いからこそ克服しようと身体が動き、頭は働き、血が巡っていく。そうした経験を多く積み重ねた者こそが、強く賢い人間へと成長していくのだと。


『……人によって才能の差はある。けど、他ならぬ自分か―――確かに。努力をする道を選ばなかった自分とは比べられたくない』


『ですね。才は磨かれてこそ能力になる、と母さんも言っていました』


『そうだな……戦いにおいては、特に。才能だけではどうしようもない時がある』


セロは教わったことを二人に伝えた。環境、体調、能力の相性、武器の相性。とにかくあらゆるものに影響を受け左右される。運の要素も複雑に絡み合うのだ。


生き残って勝つためには様々な対応が必要になり、それが出来る程度の地力を積み重ねなければ勝負にもならない。素質だけで何とかできるほど、命のやり取りというものは簡単ではないとセロは身を持って何度も教えられた。


『特に、武器だな。種類はともかく、質は大事だ。勝ち負けに直接関わってくる』


『……あのジジイのことだね。確かに、絶望的なまでの差を感じた』


もしも、という言葉は負け犬の遠吠えのため、二人共がifの話はしなかった。強いて言うのならあの装備を入手できるほど、カイセイに積み重ねたものがあったということ。結果的にセロはカイセイの財力か、調達力か、コネクションに負けたとも言えるのだ。


だが、まだ取り返しがつく。手痛い敗北は腹立たしいが、自分に足りない所を教えてくれる経験にもなる。色々と反省をするべき点は多いが、とセロはアスカ達の方を見た。


『……旅をしなければ、どうなっていたか。最初は分からなかったが、複数の思惑があったんだな』


『師匠の最後の教えだっけ。その人の気持ち、痛いほど分かるなぁ……色んな意味で』


『え、分かるのか? ……アスカ、お願いが』


『ひ・み・つ、よ。それを考えるのも修行、ってことだと思うし』


『……確かに。一理ある』


ラナンの考えそうなことだ、とセロは納得したように頷いた。ややズレた反応をする姿を見たアスカが「そういう所だよ」と言いながらうんうんと頷いた。


『とにかく、考えるってことは大事よ。分かろうとする姿勢を保つの。どうせ無理だって諦めてばかりだと、人の言うことを聞くだけのお人形さんになっちゃうから』


他人が真実を告げるとは限らない。アスカは発達した情報化社会のことを思い出しながら、このシビアな世界では特にそれが重要になってくる、と真剣な表情で続けた。


『情報なんて、悪意があればどうとでもできる。歪めて伝えることも、間違った方向へ誘導するのも簡単なんだから』


情報は目に見えない不定形なものだ、だからこそ扱う者の良識次第で変化する。


『だからこそ、知識と知恵を鍛える必要がある。騙されないように、破滅しないように。そういったものを見抜く目を養うには、元となる知識が必要になってくるんだけど』


判断をする根拠がなければ、間違っているのかさえ分からない。頭の鍛錬も必要ね、とアスカはセロを鍛えると宣言した。


心石使いは覚えが良いため、短時間でも、と。


告げようとしたアスカが立ち止まった。


『―――止まって。……セロ、見える?』


『何が……いや、見えた』


、とセロは呟いた。前方1200mほど、そこに立っている魔物の威圧感を前に。


周囲は森と廃墟が入り混じった地形で、見晴らしは良くない。その魔物も障害物の隙間から何とか見える程度だったが、それだけで理解させられたことがあった。


、だな。それも………既に気づかれてる』


『やっぱり。……どう考えても強いよね』


全体的な見た目は熊だが、頭に立派な角が2本。体高は3mほどで、何よりも感じられる威圧の程度が、ビルボード・トレントとは比べ物にならなかった。


鬼のような熊、仮称“鬼熊”は、こちらを見たまま。じっと動かない様子に、アスカは緊張したまま息を飲んだ。


『……セロ、逃げられそう?』


自分の感知できる範囲を完全に越えられた上での遭遇―――ですらない、視線が通っただけだが―――とはいえ、責任を感じないアスカではなかった。


いざとなれば自分が、と。アスカに告げられたセロは、可能性はあると答えた。


『先入観だけで見るのは危険だが……間違いなく近接戦闘を得意とするタイプだ』


もっと近づけば確信できるが、これ以上近づけば死は免れない。自分の感覚を信じたセロは、だからこそ逃走一択だと告げた。


『気付いているのに、近づいてこない―――つまり、アイツは俺たちに興味を示していない』


『……近接を得意とするのに、か。どうでもいいとか思ってるのかな』


『あっても、ウザい蝿程度にしか思われてないだろう……だから、間合いの内なんだろうな』


わざわざ自分から近づくほどではないが、うっとうしいので殺すか、と言った程度なのだろう。遠距離攻撃の方法もそう多くはなさそうだが、威力には自信があるのかもしれない。セロは分析し終わった後「舐めやがって」と舌打ちをした。


『―――ダメよ。今のままじゃ返り討ちに合う可能性の方が高い』


『分かってる。……いや、分かってるんだ、だから手を離してくれ。ティーラも、なんで裾を掴む』


『……ふとした拍子に、どこまでも走っていってしまいそうに見えたので』


『はあ……俺は子供じゃないぞ』


『10歳は立派な子供よ。……まーだ心情的に距離を取ってるあたり、本当にハリネズミみたいなんだから』


アスカは昨夜ティーラと話していて気が付いたことに言及した。ラナンという師匠を語る時と、自分達と会話をする時で表情や口調にかなり差があるということを。


『―――足手まといなのは分かってる。まだ信用を稼げていないことも』


『厳しいことは分かっています。……だけど、今だけでも。私達を信じて下さい』


自分が助けなければ死んでしまうような、あの夜に失った仲間と同じではない。それを証明するためにと、ティーラとアスカは昨晩に考えていた対処法について伝えた。


セロは概要を聞いた後、やれそうだ、と小さく頷いた。


『しかし……用意周到だな。まるで分かっていたみたいに』


『最悪を想定したまでです。一番厳しい状況は、一方的に遠距離から攻撃されることですから』


『狙撃を防ぐ方法は、ってね。即席だけど、いけると判断したならやりましょうか』


『ああ、無傷ではないけど逃げられそうだ……しかし、信用については』


どうなんだろう、とセロは言葉の途中で呟いた。大人を信じられなくなったのは確かだ。他人についても、あの夜のことがあってから距離を取るようになった。


ラナンとアルセリアも、2年の生活の途中で性格を把握したからこその対処だったように思う。ラナンについては、行きあたりばったりだけど自分を想ってくれているということ。アルセリアは剣を通じてだが、剣さえ裏切らなければ自分を裏切らないことが分かった。


比べて、アスカとティーラはどうだろうか。


確かに壁があるな、とセロは二人を見た。


『……壁がある相手なのに命がけで助けに来るあたり、どうしようもないね』


『大人、とは見られてないんじゃないでしょうか。……老人介護?』


『ティーラっ!』


『冗談ですよ』


ころころと表情を変化させながら、言葉を交わし合う。セロはその光景を前に、かつての徒党の仲間を思い出した。


(……スズとメーコも、アイネとこんな話をしていたな)


失った、大切なもの。同じものではなありえないが、目の前にあの時と同じように。


(でも……良いのか。仲間が必要だ、と考えたことは間違いじゃないけど)


もっと殺伐とした、仲間であっても疑い合うような、利用しあうような。復讐のため、命を奪うために自分はあれだけの修行を、と考えていたセロの背中が大きく叩かれた。


『―――セロらしく。誰かが決めた“そうであれ”に従う理由なんて、本当にあるの?』


『……俺らしく、か』


怨めばいい、憎めばいい、だけど感情に踊らされず、最後の刃を仇に叩き込むまで決して濁りきった殺意を外には漏らさないように。


(……その教えに共感できたから、俺はゼロではなくセロと名乗るようにした……あるいはそう名乗りたいと思った、のか)


その時は正しいと思った。でも、裏には何か思う所があった自分がいたかもしれない。


―――復讐に纏う衣は決まったかしら。セロは、そうラナンに問いかけられたような気がした。


『なんて、問答してる暇は無さそうね』


鬼熊が移動し始めたからだ。街があると思われるルートは一つ、そこを塞ぐように歩き始めた。立ち塞がれれば打つ手がなくなるため、先に走り抜けなければならない。


その時に、どうしても射線が通ってしまう。感じた限り、ランクは最低でも7以上、悪ければ8、9まで考えられる相手からの、間違いなく死に至るであろう威力の攻撃が来るのだ。


防げるのか。視線で告げるセロに、二人は自信満々に頷いた。


「でも……限界まで絞るから」


「私も、です。歩くのも困難になりそうなので」


「―――分かった」


セロは作戦の通り、二人を肩に掲げ上げた。強化した腕力で軽々と俵のように、両肩にアスカとティーラを乗せた。


「舌を噛むなよ!」


練り上げ、地面を蹴る。走り始めたセロは、一陣の風のように駆け抜けていく。


それに気付いたのだろう、鬼熊は地面に落ちていた実のようなものを持ち上げると、距離が離れていても分かるほどの心素を練り上げ始めた。


―――来る。セロが呟いた1秒後、鬼熊から“それ”は放たれた。


回転しながら唸りを上げるその球は、時速にして900kmに達していただろうか。直撃すればセロとてミンチにされかねない威力で飛来する硬弾は、障害物の木を貫通して3人の元へ。


そして、既に展開されていた5重の障壁によって食い止められた。


それは、同時かつ多重の方陣魔術ウィッチクラフトの起動。高速思考と分割思考が必要になるそれを、アスカは限界まで高めた思考能力で展開してのけた。


(俺でもやれて2つ程度だというのに……!)


セロは、アスカの能力に戦慄していた。ラナンでも出来て3程度だと聞いたのに、アスカは更にその上を行っていたからだ。


ただ、心素を注ぐ余裕はない。それこそが、ティーラの役割だった。距離があっても治癒を届かせるというティーラの特性を利用して、いくつもの方陣に、限界まで自分の心素を流し込み、保っていた。


それでも、難なく防げるような一投ではなかった。衝突と同時に1枚が砕け、2枚目も割れ、3枚目を突き破り、4枚目も拮抗した挙げ句に通り抜けた。


そのまま行けば、残る5枚目も破られていただろう。だが、念の為にとしていた工夫が活きた。硬弾は斜めになった障壁の傾きのまま、進路を曲げて突き進んだ。セロ達を傷つけることもなく、逸らされた硬弾は廃墟の壁を穿つだけに終わった。


その時にはもう、セロ達は鬼熊から離れた、遮蔽物のある地点まで辿り着いていた。


アスカとティーラは無言で舌を出し、親指を下にするジェスチャーを残すと、作戦成功とばかりに笑い始め。


二人を抱えていたセロは小さく笑いながら、一目散に駆け抜けた。


そうして、一時間後。


走り続けたセロは、項垂れた二人に告げた。



「―――見えたぞ、街だ」



荒野フィールドを抜けた、と嬉しそうな言葉。鶴橋近郊にも居住区外スラムがあるようだが、視力を強化すれば分かる、奥には目的地である街の部分が見えた。


それを聞いたアスカとティーラはセロの肩の上から飛び起きると、地面に自分で降りた。そして何もなかったかのように、セロの前を意気揚々と歩き始めた。


「……お前らなぁ」


「ごめん! でも、快適だったから」


「そ、そう、ですね」


顔を赤くしながら、二人は謝罪した。


セロは悪意がない事と、うーと唸りながら恥ずかしそうな顔をしている二人を前に、「まあいいけど」と呟き、歩き始めた。


「………ようやく、ですね」


「辿り着けたんだね……誰一人、欠けることなく」


「修行にはなった―――けど」


色々なことがあった、とセロは思い返した。


準備も不十分で、魔物を発見する度に緊張し、休憩する場所が見つけられずに焦った時もあった。いやらしく強敵な魔物と遭遇し、アスカとティーラは最悪の光景を見せられて死ぬ思いをして、最後は最後で強く恐ろしい魔物から必死で逃げ出した。


「……もう、コリゴリだな」


「だねー。情報不足という罪の重さを深く理解したよ」


「そのためにはお金ですね。装備も車も情報もお金です。換金すれば、相当な額になると思いますから」


それぞれに反省しながらも、3人は当たり前のように固まって歩き始めた。これからの事を話し合い、何をするのかと、期待に満ちた楽しそうな声で。


セロは疲労のせいか少しフラフラで、アスカとティーラは心素不足気味で足をプルプルと震わせていたが、気丈に、それ以上に楽しいことが待っているのだと。


希望に満ちた声を上げる3人の前では、新たな街への来客を歓迎するように、あちこちにある飲食店から排気の煙が空へと立ち昇っていた。



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