18話:煮え、滾るに任せ
居住区の外の荒廃した道路の上で、格闘士の男は思う。ごくごく簡単な仕事の筈だった。説明の通りに。少し強いだけの使い手が1人と、小娘が1人だけ。
数ではこちらが圧倒的に勝っている、
奇襲からの戦術が上手く嵌った、間違いなく勝った。残るのは傷を負って狂ったのか、訳の分からない言葉を吐く負け犬が1人、それだけのはず。
(だけど、なんだ―――コレは一体?)
男は意味がわからなかった。殺気のようなものを当てられた、それだけで男は呼吸の仕方を忘れてしまった。空気さえ歪んで見えるほどのこれは、なんなのだ。
水底に落とされたように、何を言おうとしても言葉になってくれない。
押さえつけている小娘も例外ではないのだろう、顔を青白くしたまま、言葉を失っていた。
その反面、命の危機を前に男の肉体強化の密度は最高潮になっていく。
ホブゴブリンの一撃でさえ、今の男ならば頭で受け止めきれるだろう。
(だが、コイツは)
―――来る。
思い浮かべたその言葉が、男の遺言になった。
横半分になった顔から、血が吹き出る。何を、と考える自分が間抜けだった。決まっている、あの灰色の髪の男の仕業だ。
力が抜けた死体が、ごろりと横に転がる。男は戦慄した。灰色の男の剣筋が視認できなかったからだ。格闘士の男は近接戦闘なら同盟でも1、2を争う、それが何も出来ないまま死んだ。
(直撃、した―――当たったはずだ、なんでだ?!)
男は認められなかった。渾身の魔術だった、直撃すれば最低でも骨の数本は折れている。だというのに何故。狼狽えつつあった男の肺の中から、弱音が吹き出ようとする。それを認められない男は、弱い自分をかき消すように、大声を張り上げようとした。
数では圧倒的にこちらが上なのだ。集団ならば、きっと。だから迎撃を、陣形を整えろ、
―――それよりも、終わりが訪れる方が早かった。
男が最後に見た光景は剣を縦に振り抜いた、殺気の化身の姿だった。
見惚れるような動きだった。流れるように斬るというのは、あの男の攻撃を指して言うべきだろう。
剣を構えて、1秒で1人。煌めく、首が飛ぶ、返す手首で流れるように、胴体ごと寸断される。戦術がどうのこうのじゃない、生き物としての格が違う。
剣を合わせることさえ出来ない、それごと叩き切られる。剣は硬化されている筈だ、強度は上がっている、そんなものは誤差だとばかりに折られ、血が舞い散っていく。
だが―――純粋な殺意というものは、ここまで美しいものなのか。
見るだけで分かる、男は怒りという文字に収まらないぐらい、憤怒の化身となっていた。
問うまでもない、あれは復讐のかたまりだ。仇なす者を皆殺しにする風だ。
天災と不運はいつも理不尽なまでに唐突に、その姿を表す。
男は思い出していた。
(だけど―――ざまあみろだぜ、社長)
男は眩いまでの剣閃を、防ごうとさえ思わず。間違いなく地獄に行くであろう社長の無様を嗤い、満足しながら命を終わりを受け入れた。
社長が放心状態から戻ったのは、主戦力が死んでからようやくのこと。すぐに強化の術を使うが、もう遅い。後方で弓を構えた男は、覚悟を決めていた。
少し趣味の悪い
だが、見誤っていた。社長は確かに有能だった。戦わずして勝利を得るという方針を主として、戦略家としては有能だった。だが、戦略家としての能力と、戦術家のそれは同じではなかった。
予想外の連続、唐突に降って湧いた尋常ではない相手、強敵。想定外の事態への瞬間的な対処能力と、力量差がある相手への対処能力を社長は持ち合わせていなかった。
弓での攻撃を、決死隊が突っ込んでいく。誰もが混乱状態に陥っていたが、ベテランの先輩は流石だった。正面から二人、左右から同じく二人。
同時攻撃を捌くには、腕が4本必要になる。最低でも手傷ぐらいは。そんな期待は、即座に散ってしまった。
―――
間もなくして3人の首から上が飛んだ。残る1人は回避したのか、相手が外したのか。
どちらにせよ千載一遇のチャンスだった。決めてくれ、とその場に居る誰もが悪夢の終わりを願った。
がら空きの胴を横から両断せんと、一撃。味方の攻撃は、会心の出来だったように思う。もしかして、と生き残れる夢を見させてくれるほどに。
それが儚い夢だと知ったのは、障壁が立ちふさがってから。ノーモーション、無詠唱で障壁の魔術が相手の脇に出現していた。
バカな、と社長が言う。同感だ、先日購入したばかりなのに、この短期間で何をどうやればあれを近接戦闘の最中に展開できるのか。
いや、それとも。考察を重ねようとした男の思考は、瞬く間に飛び込んできた剣によって諸共に寸断された。
あれは誰だ。アスカは思う。あの、喜悦に歪んだ顔のまま人という人を斬り捨てている鬼は誰だ。
今ここでコイツを殺さなければ、確実に自分は殺される。そんな恐怖を抱いている顔で挑み、そして死んでいく。
まるで排水口に渦を巻いて消えていく水のように、人の命が飲み込まれていく。それが自然の摂理だと、人間の一番大事な部分を断っていく剣には、躊躇の欠片さえ無かった。
アスカは動けなかった。自分に向けられたものではないと分かっている、それでも動いてあのイキモノの機嫌を損ねるのが怖かった。
どうして、あんなに。疑問に思ったアスカは、動かない身体の代わりに脳を働かせた。生前でも見たことがない、この廃墟の一角を支配しているのではないかと思わせるほどの殺意を、どうして抱けるのか。
アスカはセロと
(―――まさか)
「死んだ、はずなんだ」
ぶつぶつと、
想定外にもほどがあった。まさかの
マコトも同じ位階に辿り着いている、現出段階であれば互角。だが、マコトは戦う気さえ起こらなかった。
代を重ねて受け継ぎ続けた上に修練を乗せてようやく届くのが現出だ。事実、そこまで至ったのは同盟の中でも自分と、もう1人だけ。
地域の徒党なら確実にトップに、一つの勢力を築けるだけの力だ。間違っても野良で認識されず、隠れ潜んでいるなんてあり得ていいはずがない。
それも、自分に特大の敵意と殺意を向けてくる相手など。賢い自分がどうして、とマコトは叫んだ。
「俺は念入りに潰せと言ったんだ! あの男は報告してきた、ガキ共は全て……!」
中に居た大人は確実に、10歳に満たない子供たちも全て始末した。その報告を聞いてようやく、マコトは一つの仕事の終わりとして区切った。
心石は使い手の精神によって左右される。故に最も拙いのが、人に大きく恨まれることだ。怨恨ほど、予想外の事態を呼び込む不安材料はない。
万が一にも復讐者など産まれてさせてなるものか。故に徹底的に始末を、という内容でマコトは依頼するよう命じた。
だというのに、何故。マコトは周囲の光景を信じたくなかった。手塩にかけた部下が死んでいくなどと、認めたくない。既に血と肉と内臓の廃棄処になっている現実を、マコトは認められないまま。
そんな逃避など知ったことかと言わんばかりに、その足音は現れた。
―――灰色の男だった。手に持つ剣の半ばから先は折れて、無い。辺りに降り注いだ殺意は既に収まっている。
だが、惨劇は起きたのだ。灰色の男の服のあちこちに付着している誰のものなのかさえ分からない血と破片が証拠だった。赤いバンダナの染料もそうだと勘違いするほどに。
「ヒッ」
そして、目だ。目が―――人間のものとは思えなかった。
黒く底の見えない淀んだ瞳を見たマコトは、それだけで戦意を喪失した。
心を強く持てば格上でも勝てることもあるのが、心石使いどうしの戦闘。だが、マコトは天地がひっくり返っても、この男に感情の熱量で勝てるとは思えなかった。
何もできず、マコトはただ呆然とした顔で尻もちをついたまま見上げ。
黒く染まった眼で見下ろしてくるセロに、もしかして、と告げた。
「……親、なのか? 殺された、子供の」
「違う」
「お、大人の、生き残りが」
「違う」
「……ギャングの」
「マコト・ニワサワ」
黙らせた上で、セロは告げた。
「今の俺の年齢を教えてやろう―――10歳だ、社長」
セロは答えながら壊れた剣を横に放り投げると、赤く染まった手でマコトの顔を掴もうとした。
「ヒッ!」
反射的に、マコトの身体が動く。動物としての反射的な防衛行動だった。一瞬で強化されたマコトの腕が、本体である脳を守らんと動き出し、
「―――ひ?」
呆然と、マコトは自分の腕を見下ろした。
一瞬であり得ない方向に折れ曲がった、自分の腕だったものを。
「あああああああああああ! い、痛い、いたいたいいたいたぐぶっっ」
悲鳴がうるさいと振るわれた左拳が、マコトの鼻に突き刺さった。
返す手で無言で放たれた右拳での一撃は顎を捉え、マコトが膝から崩れ落ちた。
それでも折れた両腕の痛みが消えるはずもなく、マコトは悶え続けた。
無言で、セロは両膝を踏み潰した。ゴギリ、と嫌な音が周囲に響き渡る。
更に増えた痛みに、マコトの悲鳴の声が大きくなっていった。
それを見下ろし、セロは嗤った―――ここからだ、と。
先程殺した者達は、いわば余分なもの。復讐の矛先を向ける張本人か、と言われれば薄い。邪魔をするし、しそうだから殺した、それだけだ。下手人の一味でもあるし、生かしておく理由がない。
だが、目の前のコイツは違う。あの炎の夜を生み出した原因の片割れと言えるのだから。
この溜まりに溜まりきった殺意を向けるに、この上なく相応しい相手だ。殺してやる、命を奪ってやると誓った、想い続けた。
―――どうすれば、殺したという実感を得られるか。剣では薄い、とセロは思った。
油で切れ味が落ちた剣を使い、じわじわと、という手も考えたが、手応えとしては薄い。
殴るという手はあるが、この汚い生き物に馬乗りになって、というのも同じレベルにまで堕ちたという感じがして嫌だ。
それに、男が雇ったという金髪の、最大の仇に関する情報を吐かせる必要がある。
そう思ったセロは、名案を思いついたかのように嗤い、その顔のままマコトに告げた。
「おい、クズ肉。金髪の……あの炎使いの男の名前を教えろ」
「ぐ……ひっ。そ、それは」
「なに、答えられない? まあそうだろうな、仮にも組織の長なら」
でも、関係ない。セロは笑顔のまま、片足を上げた。
「5秒毎だ。答えたくなれば言ってくれ、とても賢い社長さん」
―――それから1分間。セロは横たわったマコトの膝から下のあちこちを淡々と踏み潰し続けた。
強化された足底は、全力ならばコンクリートの床さえ踏み抜く。手加減をする理由もないセロは、つま先から順番にマコトの身体を壊していた。
「い……ぎ、ぐ、ぉ」
「……言葉を忘れてもらっては困るんだけどな。本当に困るんだよ、社長さん」
「ご……」
「謝らなくていい。ただ名前を言ってくれ、って言ってんだよ」
ぐしゃり、と膝が完全に砕かれ、悲鳴が廃墟に響き渡った。
それを一番近くで聞いたアスカの顔が、更に青ざめた。
「……せ、セロ」
名前を呼ばれたセロが、止まった。アスカの声だった。アスカは少し離れた場所で、本人も理由が分からないまま手を中途半端に上げていた。
セロは、何も言わずに視線だけを返した。
―――邪魔をするのか。
そう聞こえたアスカは、動けなくなった。
セロはもう一度だ、と社長に視線を戻した。
横たわっている、醜い肉の塊に。
ついに我慢できなくなったセロは、声を荒げた。
「なあ……見せしめだったんだろ?
脅迫の言葉もそうだ、話題の材料であるとしか認識していない。
血もクソもない、物以下だ。有れば便利だというものでしか。
「……気分はどうだ?」
「ひ、ぎ、ぅ」
「どうだって聞いてんだよ!」
ぐちゃり、とマコトの太ももが潰れた。
だが、セロの顔に達成感は無く。両目からは、涙が流れていた。
「なんでだ? どうして俺たちは殺されなきゃならなかった? ……分かってるぜ、殺すっていう感覚も無かったんだ。ただ、邪魔なゴミを燃やして処理しようとした」
セロは、あの夜の光景を思い出す。あんなもの、まともな人間がすることじゃない。
―――踊っていた。アイネは。炎の中で。まるで喜んでいるかのように踊っていたんだ。
セロは血が出る程に強く拳を握りしめ、その口から歯が軋む音がした。
「……最後だ。次は腹だ、間違いなく助からない。お前は俺に殺されて終わる」
「ひ……た、け、て」
「なら、言え。それでお前は解放される、お前は終わらない」
セロは答える形で誘導する。
マコトは朦朧とした意識で頷いた。
いよいよか、とセロが息を呑む。
だが、名前を告げようとした瞬間に異変は起きた―――炎が、マコトの口の中から飛び出たのだ。
そこからは、瞬間の連続だった。セロは背筋に走る悪寒に従って後ろに飛び退り、アスカを抱えると更に跳躍、炎から遠ざかった。
直後、マコトの身体は炎に包まれた。どこに潜んでいたのか分からないぐらいに強大に、炎は周囲のものも巻き込み、竜巻となって空へと昇っていった。炎に焼かれたマコトの悲鳴と、灰になっていく肉と骨を一緒に巻き込みながら。
―――1分後、その場からは色々なものが消えていた。巻き込まれた敵の兵隊の遺体の一部と、武器。
発生源であるマコトが居た痕跡はなにも無く、地面の焦げ目だけが惨劇が起きた証拠として残っていた。
セロは呆然とした顔で、呟いた。
「……今、のは、なんだ?」
「……恐らくだけど、契約違反で発動する
セロの疑問に、アスカが答えた。あそこまで強力なのは見たことがないけど、と呟きながら横に立ち、その横顔を見上げた。
頭一つ分、上なのに。アスカは俯きながら告げた。
「……ありがとう。助かったわ、本当の所」
「……俺は、俺のしたいことをやっただけだ」
「それでも、ホッとしているから。………あんな男のモノにされるかもしれない、って考えただけで」
アスカの身体が、カタカタと震えた。先程の啖呵は本当の本気だった、汚されても、と思ったが、それでも心から嫌悪する行為は想像してしまうだけで泣きたくなる。
セロは何も答えず、ただ自分の手を見た。まだ足の底に残っている、気色の悪い感覚を。収まらない激情が、両目から漏れ出ていく。顔に付いた返り血と一緒になった涙が、ぽたり、ぽたりと地面に落ちていった。
そうしてセロはしばらく焼け跡を見つめた。
横に居るアスカも、口を閉ざしたままそれ以上何を聞くことをせず。
感情が収まった後、セロは焼け跡に近づき、見下ろしながら呟いた。
「……さっきのは間違いなく、あの夜の炎だった。分かったのはそれだけか」
それ以外に判明したのは、ほんの少しの手がかりだけ。
最後の時、マコトの唇の形は「シ」となっていた。
それが、あの男を示す名前の、最初の一文字。手がかりが皆無だった頃よりは一歩進めたとセロは考え、切り替えることにした。
強敵という意味での本命が残っているからだ。
居ると確信しなければ分からない、ラナンやアルセリアを超える隠形の技。
そして、恐らくは先程の奇襲の時も、こいつは居た。
確信と共にセロは振り返った。
そして、廃墟に隠れていた手練であり、この場では最大であろう敵へと尋ねた。
「―――こいつらの奇襲。俺に悟らせないように細工をしたのはアンタだな、爺さん」
「ほっほっほ………その点だけは拍子抜けだったがの、ラナンの弟子よ」
えっ、とアスカが驚きの声を上げた。前方20m、確かに目を向けていたはず、それだけしか離れていない、だというのに声を上げるまで気づかなかったという驚愕の顔で。
セロは舌打ちしながら、現れた人物を観察した。何時、どうやって近づかれたのか分からなかったが、そんな様子を悟らせないままに。
―――老人だった。黒くゆったりとした装束、少しシワが目立つ顔に、白髪をきのこの形のようにまとめている。目は細く、うっすらと見える眼球は茶色。
そして佇まいだけで分かる、強い、恐らくはラナンかアルセリアぐらいに。
剣が無く心素もかなり消耗している状態で、とセロは冷や汗をかいた。それでも表向きの表情は変えず、老人の問いに答えた。
「人違いだと思うんだが、怪しい爺さん」
「ん、そうさのう。鬼の嬢ちゃんの剣技を見よらんかったら、そう思っとったかもしれんが」
返ってきた言葉に、セロは舌打ちをした。
そして、悟った。何らかの確信を持っているだけではなく、自分よりも明らかに上手であることを。
反論を、と口を開けようとする。その機先を視線だけで制した老人は、背後の拠点を指差しながら告げた。
「ラナンからあの廃墟とこの地域に関する情報は貰っとるでな。お前さんが2年前に居た場所であることは分かっとるよ」
「……何のために、どういった意図でその情報を?」
「んー………そうじゃの。良いものを見せてもらった礼をしようか」
一言で済むんじゃが、と老人は顎の白い髭を揉みながら告げた。ワシも弟子を育て上げたいんじゃよ、と真面目な顔で。
「必要になると思ったのじゃ。お主のように、底の底から這い上がろうとする使い手が」
我々の悲願の果たすために。そう告げる老人の背後に、廃墟に居るはずの女の子が現れた。どうやったのか、セロには分からなかった。ずっとここに居たのか、という事さえも。
アスカは疑問を抱くより前に、怒りを覚えた。少女の手足は紐で縛られ、口には猿ぐつわが巻かれていたからだ。
老人は横たわりながらも抵抗しようと藻掻く少女を見下ろしながら、ため息をついた。
「聞いてくれるか、お二人さん。聞くも涙、語るも涙の悲劇の物語でな………まあ面倒くさいので短く畳むが、この子の家族がライバルの商店に皆殺しにされての。攫われ、売られている所をワシが買った」
存外に安かった、と老人は小さく頷いた。
唐突に始まった語りの口調と内容に、セロとアスカは眉をしかめた。
だが、老人は気にした風もなく語り続けた。
「この地域の
「……ああ、一応な」
「つまり、修行の場にもってこいという訳じゃ」
「……だからこの子を1人で置き去りにした。放置したと思わせて、ずっと監視してたってことね」
「話が早いのう。素質はある、受け継いだ心石があるからの。じゃが、一向に目覚めんのじゃ」
老人は語った。
―――子供の集団から石を投げられて追い出された時も。
―――魔物と遭遇して、その肩を噛みつかれた時も。
―――狩人を信じてついて行った後に襲われた時も。
―――破れた服の代りにと、どこかの魔物に殺された子供の死体から服を剥ぎ取った時も。
―――空腹に耐えきれず、魔物の死体を口に入れて、吐いた時も。
「どうして、と殺意を抱いた筈じゃが……上手く逃げおるんじゃよ。それはもう機転を利かせての」
あと一歩という所で、と老人は嘆いた。
「怒りのまま覚醒すれば楽だろうに。そこからが始まりじゃというのに、一向に成長せんのだ」
石を投げ返す、迫ってくる顔にビンタをするということはしても、殺意のまま動くことをしない。いっそ最悪の所まで一度落ちてくれれば、と老人はため息をつきながらセロとアスカに尋ねた。
「のう、何が悪かったと思う? 経験者として色々と聞かせて欲しいのじゃが」
「……それを聞いた爺さんは、何をどうするつもりだ?」
「今後に活かそうと思う。無いなら無いで構わんず、さしあたってはお主のように焼いた後に治療でもしようかの」
繰り返せば花実も開く、と告げながら老人は方陣を取り出した。空中に出るのも一瞬、心素を巡らせるのも瞬く間があればこそ。1秒も経たずに、老人のかかげた掌の上で赤い炎が渦巻き始めた。
空中で猛る炎の音と熱量を前に、少女の身体がびくりと震えた。
―――老人が語っている途中から、その小さな身体は震えていた、涙が溢れ出ていた。
その両目と顔が、さらなる恐怖と絶望に染まっていく。
セロとアスカはほぼ同時に、深く長いため息をついた。
「……ほんっっっっとに、アレね。この世界の大人はクズしかいないの?」
「俺は一部だけだと思いたい。少なくともラナン達は……うん、多分違うと思う」
アスカが回収済みの短刀を構え、セロは無手のまま腰を落とした。完全なる臨戦態勢だ。
戦意を向けられた老人は炎をかざしながら首を傾げ、問いかけた。
「うん……うん? なんじゃ、お主ら。訳が分からん、ここでやり合うつもりはないぞ」
「そっちに無くてもこっちにはあるんだよ。そんな事も分からないとか、もうボケちゃったの?」
「元の脳みそから腐ってるんでしょうね。つまり、産まれた時から手遅れって訳」
セロとアスカは煽り、心素を練り上げた。
老人はふむ、と頷いて炎を消すと、深い深いため息をついた。
「立場、状況……何よりも力量差が分からんか。ラナンは何を教えおったのか、嘆かわしいわい」
「うるせーよ。少なくともテメーみたいに趣味で人を甚振ることはなかった」
口調と目と顔で分かるんだよ、とセロは看破していた。
修行だからという意味は口実で、ほんの1割り。残りの9割は、楽しそうに語っていた目の前のクズの趣味なのだと。
それも、この場所で。よりにもよってこの場所で、ラナンの名前を引き出したことがセロには気に食わなかった。
アスカの怒りは、セロよりも深く大きかった。300年前の良識と自分の本能が怒っている、こいつの所業を許すな、少女を助けろと。
老人は退かないつもりである二人に対する視線を、ちょっとした知人から哀れな生き物へとランクダウンさせ、宣告した。
「――カイセイじゃ。逃げるなら追わんぞ、小童ども」
名乗りを上げた老人―――カイセイは殺気を二人に浴びせた。
それだけで、セロとアスカは彼我のあまりに開いている力量差を痛感した。
先程の自称・使い手とは桁違いの怖気、死の予感。それを強引に抱かされたセロが息を飲み、アスカの呼吸が止まりかける。
それでも、と。
「――セロだ」
「――アスカよ、それでね?」
地面で震えている少女まで届くように、二人は心素を全開にしながら叫びを上げた。
「「テメエが消えろ―――クズジジイ!」」
合図も無しだが、ほぼ同時。
セロとアスカは怒りに戦意を滾らせながら、カイセイに向かって走り始めた。
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