閑話 師匠達とイズミのその後


●ラナンとアルセリア



申し訳程度に設置された蝋燭だけがある、薄暗い部屋の中。その中央に設置された棺には、何十にも符が張られていた。侵入者撃退から防御、時間制御まで、その数は50に及ぶ。


アルセリアはその隣で見守るようにして腰掛けていた。やがて遠くで大きな何かが崩れる音がした後、しばらくして棺の符の全てが弾けたように破れた。


棺の蓋が内側からゆっくりと横にずらされていく。重い音で蓋が地面に落ちると同時に、アルセリアは用意していた服を投げた。


中から現れた人物――――目もくらむような桃色のストレートロングヘアーを持つ女性は服を受け取り、豊満な身体を隠すように着替え始めた。その間、小ぶりの唇から小さなため息が一つ。勘付いたアルセリアは嬉しそうな顔で尋ねた。


「最後までやりきったようだな、ラナン」


「ええ……まあ、その甲斐はあったわ」


ラナンは自分の腹を見下ろし、そこに走る小さな傷を触りながら答えた。アルセリアは驚いた顔で、まさかと尋ねた。


「……本体にまで、傷が?」


「そのようね。覚醒直後の一撃とはいえ……」


ラナンは驚きつつも、嬉しそうな表情になった。セロへの最後の授業、やりたくなかった方法ではあったが、ほぼベストな結果が得られたからだった。


心が折られて当たり前の修行。それを受けたセロの成長度合い、短期間での現出段階に至るなど、何もかもが予想外だった。


「大したものだ。子供だから成長が早かった、という訳でもないからな」


「少し、やりすぎた感はあるけれど」


「酷いやつだな、ラナンは」


「アンタの話よ……いや、私もか」


ラナンは自嘲しながら、気になっていることを尋ねた。辿、問われたアルセリアはさてな、と小さく笑った。


「ラナンの言う通り、予想外だったのは認める。面白いぐらいに、アイツは伸びた」


斬られるだけだった、最初の頃。それでも逃げ腰にならず、最後まで剣の相手を務められた。日々伸びていく剣腕と、動き自体のキレ。笑える程だったと、アルセリアは言った。


「そうね……途中から、ちょっと笑えるぐらいだったから」


何度驚かされただろう。何度も折り続けた。だがセロは、時には折られた直後に立ち上がり、またある時は折られまいと歯を食いしばって耐えた。


最後まで、人に頼り切ることはなかった。その意地が発露した言葉が、現出に至った時の啖呵なのだろう。ラナンがアルセリアにその言葉を告げると、その端正な顔が嬉しそうに歪んだ。


「大した啖呵だ。―――お前が仮の身体で出力が激減していたとはいえ、眼前でそうまで吐けるか」


「糸ごとぶっ千切られたからね……どこまで行けると思う?」


「今はまだ素材だろう。成長に伸び悩んだ時点で怠けるか、現状に満足した時点で鍛錬量を減らすか。そのどちらでもなく、上を目指すのならば―――」


ラナンの最後の授業は成功に終わった。意図した通り、1人で歩くことの意味と覚悟については伝えられただろう。


懸念していた縛りは既に解けたと、アルセリアは判断した。


セロは復讐のために街へ行くだろう。そこでは、全て自分の意志で選ばなければならない。得るのも失うのも、矜持も責任も、全てその背中に乗せて積み上げていかなければならない。自分じゃなくて誰かが、という甘えを捨て去って。甘えが混じった、浮足だつ中途半端な心構えの若造を見れば、足を引っ掛けたがる屑は、この街にはごまんと居る。搦手を使う輩を前に、力だけで生き残れるのか、という心配もある。


故にアルセリアは、「生き残れるのなら、期待できるだろう」と答えた上で、ラナンに尋ねた。


「お前は生き残って欲しいんだろう。言わなくても分かる、そのニヤケ面だよ。気持ちが悪いぞ」


「酷い言われようね……でも、まあ」


ラナンはそれでも、嬉しいという気持ちを隠さなかった。セロが覚醒の際に告げた言葉が、胸に響いたからだ。


お前らの知ったことか、勝手に上から目線で決めつけるな、と。迷いなく答えたその理屈は、いつかの自分も抱いた気持ちだった。


納得できない言葉に、納得できないと反発した。理不尽を前に、その理不尽をまとめてぶっ壊すとと行動で語った。


(――幼かった私にはできなかった。思っていても、言葉にできなかった)


もし、あの時の自分にセロのような勇気があれば、もっと違う道を選べていたのだろうか。ラナンは少し考えた後、愚にもつかないと顔を小さく振り、そこでアルセリアの異変に気が付いた。


「……角出てるわよ、“人鬼”」


ラナンはひっそりと臨戦態勢になりながら、アルセリアを見た。いつもの抑え込んだ姿ではない、鬼として堕ちた本性のままの姿を。


小さな角が2つ、肌は雪のような雰囲気を感じさせるほどに白く、その容貌は同性をも魅了するぐらいに艶やかだった。それでも、その本性は人とは程遠い。ラナンはいつでも戦闘に入れるようにしながら、慎重に尋ねた。


「……そんなに? 我慢しきれないぐらいに」


「それは違う。セロがどこまで行くのかを考えていたら……少し漏れ出てしまっただけだ。それに、ずっと前に貴方に誓っただろう。あれは本心だ。ラナンに抵抗するつもりは毛頭ない」


アルセリアは自分の腕を縛る細い糸を見せた。やがて姿が人間のそれに戻った後、二人は今後のことについて話し始めた。連絡員から入ってきた、新たな情報についてだ。


「……都島区の未踏破区域に、か」


「情報の確度は90%よ。先遣隊は1人を除いて全滅。生き残り曰く、空中で輝く無数の穴を見た、ってね」


ほぼ確定の情報に、二人は緊張した表情になった。厄介だな、とどちらともなく呟いた。


「とにかく……善は急げ。5日はかかるでしょうから、すぐにでも出発するわよ」


「了解。それで、拠点の荷物は、放置していいのか? ――茶碗とか」


「……それは。でも、私がどの面を下げて、何の資格があって」


「知らんよ。でも、最後はどうだった? アイツに責め立てられたのなら、捨てるのが礼儀。違うのなら、分かるだろう」


面倒くさいという表情で告げられたラナンは、大義名分を得たかのように、いそいそと拠点に戻るべく立ち上がった。時間が無いのは、紛れもない事実だったからだ。


二人ともが、無言のまま戦意を高めていた。


―――人外領域の活発化が始まる。誰が何を持っているのか、ギルドだユニオンだなんて関係がない、個々人の感傷など興味がないとばかりに、何もかもを吹き飛ばす極大の嵐の時が迫っている。



「―――行くか」



「ええ、急いでアイツらと合流するわよ」












●イズミのその後


勇者連合ユニオンで10しかない、“ハイ”をミドルネームに持つ家。その中でも上位ランカーを何十人も輩出している名家であるシェール家は、携える護衛の質に関しても、他所とは違い一流揃い。


イズミ・テンドウという女剣士の地位は、その護衛の中でも下から数えた方が圧倒的に早かった。


―――先日に行われたシェール家の4男主導の狩りの際に、ランク6の中級の魔物を単独撃破する前までは。


「強さは正義、とはよく言うもんやけどなぁ」


イズミは渋い顔で朝食のサンドイッチを食べていた。自主的に行っている朝の鍛錬に専念したいからと、早起きして作ったものだった。


イズミは、ただ黙々と食事に集中していた。遠巻きにこちらを睨んでいる、1年先輩の護衛の視線を無視しながら。


(人間万事不平等、才能に質、性格はピンからキリまで。ゼノワ様の表現は的確やったな)


護衛の先輩の中でも、実力のピン―――上位陣は今の自分では敵わないほどの力量を持っている。何度か剣を合わせたイズミは、大体の力量を把握していた。使い手なりに隠し玉を持っていると前提して、今の自分の手札では勝ち負けにまで持ち込めないという所まで。


最下位の護衛も、既に剣を合わせていた。結果は、イズミの圧勝。それが悪かったんやろか、とイズミは欠片も後悔していない目でサンドイッチを頬張った。


(嫉妬するぐらいなら自分の腕を磨けや。……魔物にまで手加減なんぞ望んどったら、死ぬで。もう分かっとるやろうけど)


5男の修行に選ばれた狩場は、ランク2から4までの魔物が徘徊する場所だった。護衛もつれているため、万が一が起きても対応できるという、護衛のまとめ役の目は確かだった。


万が一の事故が起きた場合、4男様だけは助かるという点のみで言えば、の話だが。


現れたのはランク6、アイアンオーガ鉄鬼。鉄のような皮膚を持つ巨躯の魔物で、単純な攻撃力と防御力で強引に攻め込んでくることを好む、いかにもな蛮人タイプだ。


魔物のランク1~5は下級、6以上から中級になる。その意味を理解していなかったのか、実際に戦った経験が無かったのか。浮足立ち、中途半端な体勢で防御した1人の護衛が二等分にされ、パニックのあまり無策に突っ込んだ1人の護衛の頭が横に120度傾いた。攻撃に心素を込めすぎて、防御が疎かになった結果だった。


まさか、こんな所で。護衛の死に際の顔を思い出したイズミの顔が、苦虫を噛み潰したかのような表情になった。


(普通に鍛錬詰んどったら……いや、普通に落ち着いて対処すれば生き残れたやろ)


仮にもシェール家の護衛に選ばれるだけあって、基礎能力は低くなかった。数も勝っていたため、慎重かつ的確な戦い方をすれば、怪我をすることはあっても、死ぬことはなかった。


だが、現実はご覧の有様だ。余計なことに思考を割き過ぎた結果やろ、とイズミは二人の死に顔に、自業自得の判子を押して忘れることにした。教訓だけは、しっかりと胸に刻みながら。


「……まあ、アイツみたいに一直線過ぎるのもおかしいけどな」


イズミは昨年に出会ったある者を思い出し、小さく笑った。何度も行った模擬戦の後、目つきの悪い男は指摘された点を疑わず飲み込み、翌日には矯正してきたのだ。


毎日毎夜、どれだけ剣を振っていたのだろうか。


一振り一振りに、どれだけの念を込めているのだろうか。


多彩さはないが、堅実かつ強固。修練に修練を積んだ上で修練を重ねた剣に才能の華やかさはないが、泥臭いまでの努力の結晶が宿りつつあった。


術を併用しての、殺し有りの勝負であれば圧勝していた自信はある。今はもっと楽に勝てるだろう。だが、純粋な剣術勝負であれば、今の自分でも勝てるとは言い難い。


負けへんぞ、と。イズミは嫌な気分を吹き飛ばすと奮起し、朝の鍛錬に戻った。



―――それから数日後、イズミに異動命令が出された。


命じられるままに向かったイズミは、部屋の中に入るなり硬直した。


横に侍っている見知った護衛の剣士ではない、椅子に座りながらこちらを見ている青い髪の幼い女の子に目を奪われていた。


「……あなたが、あたらしい護衛さん?」


「はい。イズミ・カナギと申します」


イズミは演技ではない、自然な笑みで答えていた。そして、内心では盛大なガッツポーズを決めていた。


(うっわ、かわええ子や………あのへんこつな4男に比べたら月とスッポンやで)


人間努力はするもんやな、とイズミはお天道様と、異動を命じたらしい当主候補―――ゼノワに感謝の念を捧げた。


それから2、3会話をした後、青髪の女の子は思い出したように、慌てた表情になった。


「あ、すみません! わたし、なのり忘れてしまって……」


「大丈夫ですよ、お嬢様。落ち着いて、ゆっくりと」


「……うん。じゃあ、よろしく、イズミ」


私、アイネっていうの。


笑顔を浮かべながらのアイネの自己紹介に、イズミは笑って頷き、膝をついた。


「こちらこそ。……私では不足かもしれませんが」


イズミは横目で、護衛の剣士を見た。見知った顔、幾度も剣を重ねた好敵手であるその男の剣士は、嫌味かよ、と呟きため息をついた。


「お嬢様、こいつはこれっぽっちも不足とか思っていませんので、騙されないように」


「え? ……イズミ、コジロウはこう言ってるけど、ほんとう?」


「まだまだ修行中である身ゆえ。今後もお嬢様のために成長致します、という覚悟をこめてのお言葉です」


いらんことを言うな、とイズミが視線でコジロウに語りかけた。笑顔のそれに、コジロウは「まだ伸びるつもりか」と戦慄いた顔になった。


その後、やってきた筆頭護衛に見守られるまま、アイネは家庭教師と共に部屋の中に残り。廊下に出たイズミは、コジロウと共に入り口で護衛役を命じられた。


二人は剣を携えたまま、門番のように扉の前に陣取りつつも、念話を始めた。


(―――波長:イの589。聞こえるか、イズミ)


(聞こえるわ。それで、何のつもりや)


心石のそれを合わせれば、言葉ではなく、念じるだけで会話が可能となる技術。だが、行うには事前に波長を教え合う必要があった。


二人は二人にしか分からない符丁で周囲に隠しながら、念話を続けた。


(何のつもりだ、とは?)


(不自然やと言うとんねん。……私をアイネ様の護衛として推薦したのはお前やろ?)


確信しての言葉に、コジロウはたじろきながらも応答した。


(その勘の鋭さ、何とかならんか)


(うっさいわ、下手な言葉つこうて。……で、本題や。なんや、哀れみか?)


(誰かお前にそんなんするか。……お嬢様のためや)


それからイズミは説明を受けた。スラムで救出されたというアイネのことから、今の立場まで。


(出る杭は打たれると、つまりはそういう訳か)


(ああ。特に次男がやばい。俺も守りに関しては負けるつもりはないけど、それじゃ一方的や)


暗闘で専守防衛は愚策だ、という意見に、筆頭護衛も同意していた。互いに刺せる刃が必要だ、というのが護衛二人の間で出された結論だった。


(たった二人か……まあ、それなら分からんでもないけど)


それでもと、イズミは納得しなかった。コジロウ・イナミにとってのイズミはかつての好敵手であり、目の上のたんこぶだった筈だからだ。幼い頃から積み上がってきた戦績は589戦。そして、イズミに引き分けはあれど敗北は無し。


いつも悔しがっていたお前がどういうつもりだ、とイズミが問いかけると、コジロウは仕事だからと本心から語った。


(アイネお嬢を守るためなら、ってことや。お前の朝の鍛錬は遠くから見取ったからな。……また腕を上げやがって)


(お前もそうやろが。その立ち方、かなり腕上げてるな? 少しは太古の剣豪の名前に相応しくなったんかい)


(それでも足りん。そう思ったからお前を呼んだ。何より……背後から背中を刺さない、信用できるツテとなればいの一番にお前が上がった)


強い意志がこめられての言葉に、イズミはそういう事か、と納得を示した。


(ゼノワ様から家中に、「手出し無用」の命令は出てる。でも、言うこと聞かん予想外のアホは、いつどこでも湧いて出るやろ)


(……おるなぁ。家の流派を勝手に語って暴れまわるボケカスとか)


ケジメはつけたため、致命傷にまでは至らなかった。だが、アイツさえ居なかったらと、イズミは今でも呪いの言葉を吐く時があった。コジロウは頷きながら、だからこそお前だと答えた。


コジロウが、シェール家の家中は一種の魔境だと感じていたのもあった。例えば今、地元の有名な剣士連や徒党が挑んで来たとしよう。


結果は、瞬殺。屋敷に侵入さえできず、門番の二人に蹴散らされ、屍を晒して終わりになるだろう。もしも、その力が家中に向いたら。戦力の補充は急務だと、筆頭護衛の者も同じ結論に至っていた。


(まあ……事情はそんなもん。後はお前が考えて結論出してくれ。あ、でも密告チクリは無しの方向で)


(誰がするか。……まあ、アイネ様を守りたいっちゅう気持ちは分かるけどな)


300年前の混乱当時より治安は良くなった、というのが街の教師達から教えられた大阪の現状らしい。それでも、悲劇と惨劇はどこにでも現れる。二人が剣を取り、戦い続ける理由もその中にあった。道場の仲間でも、この年まで生き残ることができた同期は6割程度。魔物に喰われて、骨も残らなかった死体はその内の2割を占める。


せめて―――せめて、この剣が届く範囲なら。


悔しさが二人の剣腕を上げさせたのは、紛れもない事実だった。


(……イズミ。お前なんか、ちょっと変わった? 以前はもっと、こう、上から目線というか)


(失礼なやっちゃな。……ただ、一回な。同年代の奴にボコボコにされて、ちょっとな)


(へえ……って待て待て。お前を? どこのどんな化け物や、それ)


(殺し屋みたいな目つきの男。中身はお前より子供やったけど)


イズミは思う。当時は少しもやもやとしていたが、しばらくして気が付いた。修行の密度、自分を追い込むその様子から、イズミ・カナギは剣に携わるその姿勢で負けていたことを。


(―――負けてたまるか)


敗北を認めたるとしても、剣士としての意地だけは譲れないという結論を得たイズミは、昨年からずっと、自分を徹底的に鍛え直していた。


知らない内に漏れ出たイズミの本音を聞いたコジロウは、やっぱりこいつはすげえ怖えと身を震わせていたが。


それから、二人はとりとめのない話を続けた。アイネお嬢様ってどんな人、などといった。


(すっげえ素直。近所の悪ガキとは違う生き物だと確信したね)


(あー、あのまんま? やったら天使やん、天使)


(直向きに努力してるしな……ちょっと我儘を言う時あるけど)


(へえ、どんなん?)


イズミの質問に、コジロウは答えた。ワンピースだ、とおかしそうな顔をしながら。


(色々と当主様から服は買い与えられてるんだよ。その度に嬉しそうな顔でありがとうございます、って言うんだけどな。理由は分からんけど、ワンピースの時だけはちょっと微妙な顔すんの)


(なんで分からんねん。小さくても女の子やろうに、拘りがあるっちゅうことや)


(……そうなんか?)


(はあ……まったく、なんでこんな奴が選ばれたんか)


(それは俺にも分からん。複数人集められた中で、俺一択や………やっぱり罪な男やで)


(言うとけ、アホ)


それから、一時間。二人は念話で罵り合っていた。扉の前を通り過ぎる使用人が、無言で百面相をする二人を訝しげな表情を向けることに気が付かないまま。










●シェール家として



「それで? 報告は以上か」


「はい。……噂程度の確度であれば、気になる情報がいくつか」


「その中から一つで良い。サツキ、お前が気になった情報は」


ゼノワの言葉に、サツキは悩みながらも答えた。


「旧小路駅近郊の居住区外で、未発見の遺跡が見つかったそうです。……それも、遺物だけではなく凍結復帰者リターナーの姿もあったと」


「……300年前の遺産か」


第三次大戦後、加速度的に悪化していく世界を見限った富豪達の一部は、冷凍睡眠をすることを選択した。いつか、世界が良くなった後で起きることができれば、という理念だったと記録には残っている。


その施設の多くは、人外領域―――300年前にどこからともなく湧いて、世界のあちこちにに呑まれた。


人類が調査しきれない、凶悪な魔物が蔓延っているそれは未踏破領域とも呼ばれていた。


凍結復帰者リターナーは、未踏破領域に残された冷凍睡眠施設から救出された人間を指す。年齢性別様々だが、共通する点としてあるのは、相応の価値を有した者であるということ。


300年の間に失われた知識は多く。また、大空白ビック・ブランクの前後に何が起きたのかという未だもってそびえ立っている世界最大の謎。それらを解決する役割として望まれているため、B級の遺物たからものに位置付けられている存在だった。


「しかし、どうして噂に留まっている? 遺跡発見後の組合への報告は義務になっているだろう」


「……発見の直後に、冒険者レンジャーに雇われていた探索者シーカーの一部が裏切ったそうで」


方法はいくらでもある。未踏破領域の中にある内に態と騒ぎを起こし、周囲の魔物をおびき寄せて囮にして、その内に遺物たからものをかっさらおうという輩はそれなりに存在していた。


その混乱で冒険者レンジャーの一部が重傷、探索者シーカーは皆殺し、そして凍結復帰者リターナーは逃亡したという報告が組合には出されていた。


「それで、噂か」


「はい。万が一、ひょっとしたら生きているかもしれない、というレベルなので」


「捨て置け。……今はそのような些事に関わっている暇はない」


300年物の凍結復帰者リターナーともなれば相応の価値はあるが、それ以上のモノを手に入れた今、焦る必要はない。ゼノワは悠々とした様子で告げ、新たに得た宝物手札のことを尋ねた。


「その後、異常はないか? ―――記憶焼却はそれなりに得意ではあるが、経験があまり無くてな」


「問題ありません。素直な子供らしく、頑張っていますよ」


「そうか。可能な限り手厚く接しろ。ギルバード次男への牽制も強めておけ」


「御意に。……閣下にしては珍しいですね」


「そうでもないさ。―――ゴミ溜めに3年。それも、服を奪われている最中だったのだぞ? 流石の私でも不憫に思うさ」


ゼノワは踏み込んだ廃墟で見た光景を思い出し、舌打ちをした。服を奪われたアイネの姿と、奪い取った少女の様子を。下手人の兄妹はすぐに燃やしてやったが、とゼノワは掌を開き、癒えた傷跡を見た。


「……覚醒した子供、ですか。それなりの素質はあったようですが」


「あのゴミなど、屑と呼んでやるにも値せん。誅伐されるのが嫌なら、底辺で相応しく生きれば良かったものを」


それきり、ゼノワは殺した子供のことを記憶から葬り去った。京が1にも生きてはいないという事実を前に、覚えていることさえ煩わしいと感じたからだった。


「そして―――遂に、今代の赤が死んだ」


「はい。お年だったので、当然のことですが」


「お陰で赤の力は弱まるばかりだ………誰かがその過ちを正さなければならない」


ハイ・シェールの名前に相応しく、物の道理を正すべく。ゼノワは迷いなく告げると、立ち上がった。


「―――剣を持て。今日の予定は全て鍛錬に当てる」


「御意。ランク9の魔物が発見された、と一時間前に報告を受けています」


「ほう……腕が鳴るな」


一切迷わず、むしろ焼甲斐があるとゼノワは笑い、進む。


その1歩後を、イツキと呼ばれた美しい側近が剣を携えながら守るように付いていった。



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