8話:取捨

夜、セロは誰もいない部屋の中で独り、自分の剣を見ていた。模擬戦の前に渡されたそれは、数打ちで出来が悪い二束三文のものらしい。だが、生まれて始めて手にする、自分だけの武器には違いない。大切に、慎重に、セロは片手で振り上げた。


―――セロは覚醒を自覚してすぐに、自分の筋肉の強化の仕方は分かった。初めて握った時もそうだった。外には出さなかったが、嬉しくて興奮して、数秒の後に死にかけたのだが。


相手も強化している、そのことを失念していた。だから自分も更に強化を、普通のままではダメだと、セロは必死に考えた。幸いなことに手本は目の前にいた。防御の仕方が分からないので、軽く攻めて相手の動き方を観察した。最初は無様に回避をして、数分。ようやく慣れてきた、と緩んだ所を斬られた。


その夜から、自分なりに訓練を重ねた。目に焼き付けた光景を参考に、夜の闇の中を動いた。再現しようとして、手本になる動きの見事さを知った。無駄なく整えられ、早く、強い。軽く振っただけでゴブリンの胴体ならば、一撃でまとめて数体は切り飛ばせるだろう。


あれを目指すんだと、セロは剣を振り下ろした。切っ先は地面すれすれで止めた。流れるように足を横に、体重の移動と共に剣を薙ぐ。踏み出し、斬り、進んでは振る。空を斬る音が何度も部屋に鳴り響いた。


(意識しろ―――自分の重さの……なんていうか、腹あたりにある点とか線をブレさせないように)


セロは知らないが、それは体幹と重心と呼ばれるものだった。観察と反復練習から学習したセロは、教えられずとも仮面剣士と自分が違う点を看破していた。軸をずらさず、剣に振り回されないように動き続ける。防御をする時も同じで、芯で受け止められれば耐えられる。ひとたび緩めば剣の上から叩きつけられ、体勢を崩されてザクリ。ノロマに動いても、連撃を受けて崩されてバッサリと斬られる。


故に意識しながらも、早く、だけど丁寧に。深夜の修行で試行錯誤をしたセロだが、繰り返し、繰り返し、身体に覚えさせる以外の方法は浮かばなかった。


それでも、成果はあった。セロは動きながら自覚していた。以前の自分とは違う、目に見えて強くなっていることを。無力な子供だった頃の自分なら、重い剣をよちよちを振り上げるだけで、重さに負けて地面を叩いたり、剣を横に振ってはすってんころりと転げていただろう。


だけど、違う。振れている。ゴブリンにだって勝てる。自分は成長している。きっと、もっと、ずっと、時間をかければ。


考えていたセロは、そこで止まった。


俯き、地面に滴り落ちる汗と共に下をむいた。


(確実に強くなれる―――だけど、このままじゃ足りないんだ)


掌で顔を覆う。俯いたセロは、小さな声で薄々と感づいている感覚を言葉にした。恐らくは、ラナン達にも見破られていたことを。


「……駄目だ。届かない。このままじゃ。絶対に」


才能がないのかな、と呟き剣の柄を強く握りしめる。分かっていたことだけど、とセロは自分の無能さに嘲笑を浴びせた。夜、反復練習をして上手くできたんじゃないか、と嬉しくなり。次の日の仮面剣士の剣の輝きを見る度に思い知らされた。自分のどんくさい剣の未熟さを。


そして、セロには予感があった。この身長はまだまだ伸びていく。きっと喜ぶべきことだろう。大きくなるということは強く、有利な立場になれるのだから。


だが、それも技術が追いつけばの話だ。大きくなる度に、身体の使い方を忘れるようではダメなのだ。もっと練り上げ、洗練しなければ素人より少し上の、中途半端な腕で終わる。


かといって、睡眠時間は削れなかった。ラナンから言われた通りの理由で、身体の成長を妨げるし、訓練に身が入らない。


セロは葛藤しながら、勝手に時間を区切ったラナンへの苛立ちを募らせた。


(やっぱり、大人はいつも勝手だよな………なんなんだよ。この教え方だって、本当に正しいのか? いきなり模擬戦で、指導とか放り投げて……さっき聞かされた期限だって)


剣の振り方も教わっていないのに、とセロは今更になって不満を抱いていた。一方で、自分で強くなっているという自負もあったため、恨むまではいかなかった。


もしかしたら、聞けば答えてくれたのかもしれない。そして、聞かなかったのは自分の怠慢だ。


だけど、納得がいかない。もやもやとした中でセロは悩みながら、どうすべきかを考え始めた。一ヶ月だ、という声から本気を感じ取っていたからだった。


(言い訳はだめだ。せめて、もう一ヶ月……そうだよ。時間をかけて覚える必要があるのに、時間が限られすぎているんだ)


問題の本質に気がついたセロは、顔から手を離した。そして、思う。凌ぐだけではダメだ、どこからか持ってくる必要がある。


ならば、どうするべきか。セロは自問しながら座り、息を整え始めた。その横で、窓から入り込んだ風にはらりと紙が舞った。仲間と妹が映された、大切な紙が。


セロはそれを掴み、最初の時のように魅入り――――頷いた。


(だったら、簡単な話じゃないか)


夜の闇の部屋の中でセロは気がついた。自分が考えすぎだったこと、全部ぶち壊す方法があるじゃないか、ということ。


そうしてセロは黒い目を爛々と輝かせた後、何かを決意するようにその両目を閉じた。









―――1ヶ月後。成果を見る当日、先に準備していたアルセリアは模擬戦用の剣を軽く振っていた。愛用している剣ではなく、セロと同じような出来損ないの安物を。


「……不機嫌そうだけど、まだ納得してないの?」


「色々と。焦り過ぎだと思う、ラナンらしくもない」


アルセリアは顔の全てを覆い尽くす仮面の位置を調整しながら、不満を返した。悠々と余裕を持って行動するのが、師と同じぐらいに尊敬しているラナンの姿だ。セロが前のめりになっているとは言うが、それはラナンの方も同じだと、アルセリアは口には出さないが不満を覚えていた。


何だかわからないが、面白くない。そう感じていたアルセリアの不機嫌は、セロが現れると倍増した。使い手は常人とは違う、目をもっている。強化にこめられた心素の量を肌で感じ取ることができるのだ。


その目は見抜いていた。戦闘状態に入ったセロの心素の量が、一ヶ月前から少ししか増えていないことを。


身長はあれから更に2cmは伸びたのだろう。これで145cm程度、8歳にしては大きい。観察眼に優れるアルセリアは、身体の大きさだけではなく、それ以外のことも看破していた。睡眠をたっぷりとったのか、セロの心身が充実している様子まで。


(筋肉の量もそれなりに増えたが、これは……身を削る訳でもなく安穏に身を預けたのか? ……見込み違いだ、というのは見当違いな考えか)


だが、アルセリアの中には落胆があった。同じようなことを考えているのだろう、それとなく消沈しているラナンを横目に、アルセリアは剣を構えた。


早く終わらせてやろうという決意の現れだった。ラナンの今の身体の持ち主は、1年半の修行の後に自らを諦めた。故に、代償としてラナンは全てを奪い取った。比べて、セロは三ヶ月。短期間であり、まだ子供であるセロならば命までは取らないだろう。


セロの鍛錬は、自分から見てもやや常軌を逸している密度だった。ならばここで終わらせてやるのも一つの慈悲になるか、とアルセリアは割り切っていた。


構えろ、とアルセリアが剣で示し、セロが無言のまま応じた。


いつもと同じ、それが開始の合図。


始まった瞬間、アルセリアは間合いを詰めて正面から斬りかかった。全力には程遠い20%の強化で、工夫もなく斜め左に振り下ろした。


いつも通りの攻撃、それをセロは剣をかざして受けた。剣と剣がぶつかる金属音が鳴り響く。


その一合で、アルセリアは違和感を覚えていた。


なにかが違う。なにか、どこか変だ。そんな剣士の本能に従い、アルセリアは30%に段階を引き上げた。


剣術とはいえど剣の振り方は単純なものだ。振り下ろし、横薙ぎ、刺突に切り上げを基本とする。剣士はその時の状況や相手の剣の位置に応じて、如何に斬り、突き、薙ぐ部位を変えるのかを選択する。あるいは、視認するのも困難な相手の攻撃をどうやって受け、逸し、避けるのか。


刀身に互いの生を映しながら火花を散らし、煌めくままに肉へ刃を突き立て、最後には命を斬り伏せる。殺し合いだ。終幕に至る道程がどういったものかで、アルセリアは剣士を差別しない。


繊細かつ緻密に剣を組み立て、相手のバランスを崩して斬る―――それも剣術だ。


豪快な剣で防御ごと切り崩す―――それも剣術だ。


虚実を交えた剣で一瞬の空隙を生み出し、心の臓を貫く―――それも剣術だ。


命をかけての語り合いに邪道も正道もないというのがアルセリアの考えだった。そんなアルセリアだが、模擬戦の際はラナンの指示通りに戦っていた。自分の本質とは違う、繊細な剣で鍛えろと。


それさえも防げないならセロに先はないという方針に、アルセリアは同意していた。だからいつも通りにアルセリアは剣を繰り出していた。


なのに、終わらない。


あれ、と銀髪の仮面剣士は呟いた。


振り下ろし、仰け反らせ、横に薙ぎ、焦らせ、崩れた所に切り上げて、だけど受け止められる。


おかしいな、とアルセリアは50%に引き上げる。ラナンの顔色が変わったことに、アルセリアは気が付かないまま。


常人であれば、いつ斬られたのか分からないほどの速度。セロはそれを必死の形相で防いでいた。


(見えている? いや、違う。目を見張るべきは―――)


アルセリアはようやく気がついた。確かめるように、丁寧に剣を合わせていく。重心が、思考の速度が、心素の強化の精度が以前とは段違いになっている。


何をどうやったのか、とアルセリアは疑問に思う。一ヶ月前までは受けるのに一苦労だった、その3倍の威力を、。受け止め、逸し、工夫のない振りで反撃をするも届かない。


(どんくさい、地味な剣だ。だというのに、なぜお前は――)


アルセリアは面白そうに笑い、剣の趣を変えた。早さを重点的に、撹乱して削るように。他流派の剣から見盗った派手なものだが、それなりに有用な技だった。


足の強化、踏み出して相手の視界から身体ごと消えるように。焦り、顔を動かした際に起きる焦点のブレの隙間、死角に潜り込むように。


相手から見れば、消えたかと焦るだろう。そして目で追ったつもりが見失い、その間に皮膚をじわじわと切り刻まれる。鈍重なパワータイプにとっては悪夢のような剣。


経験が浅いセロにも有効な剣術だ。部屋を縦横無尽に走り回り斬りつけるアルセリアの攻撃、その全てを防ぐことは叶わず、セロの腕に、足に、肩に、背中に切り傷が刻まれていく。目で追いかけ、体を動かしながら、必死に対処しようとするが追いかけきれていない。刃で受けようとするも間に合っていない。


初見だということに加えて、アルセリアの強化は既に60%。


既に終わっていなくてはおかしいのに、“浅い”。アルセリアはすぐに気がついた。身体のあちこちの肉を5ミリづつ削っていくつもりだったが、1mm程度しか斬れていない―――どころではなく。


剣と剣のぶつかる音が部屋に響き渡った。追い縋れもしない筈の状況から、鍔迫り合いの形になった音。余韻の中で、アルセリアは間近になったセロに微笑んだ。


「まさか………そう、まさかだよ、少年」


「ありがとう―――綺麗な唇してますね、アルさん」


からん、とアルセリアの口元を覆っていた部分の仮面が斬り落とされた。あらわになったアルセリアの口元が、喜悦に緩んだ。


「ありがとう―――お礼をしよう、セロ」


名前を呼びつけたアルセリアは、後ろに跳んだ。たった一度の跳躍で10m、距離を取ったアルセリアは剣を流れるような動作で横に振った。いくぞ、と意思表明をするかのように。


(油断していたが、認めよう)


傷は負っていない、本気であれば見切ることはできた、回避しきれなかったという事実は、アルセリアの心の奥にある琴線に触れた。


「死ぬなよ、少年」


たった一言、それだけでセロは反論を忘れた。全身の毛穴が開く、血がざわついている、


(今逃げれば、死ぬ)


ならば、とセロは腰を落とした。重心が安定する構えを、教えられずとも見つけ出していたのだ。


そんなセロの姿を見たアルセリアの口に、亀裂のような笑みが浮かんだ。


了承と、受け取った。声にはせず、アルセリアは剣の切っ先を天井へ、振り下ろす以外の一切の意図を消し去った大上段の構えを取った。


セロは言い知れない威圧感を前に、引きつった笑みを浮かべた。命の危機を報せるように心臓はうるさく、強く胸の中で暴れまわっていた。その訴えをねじ伏せるかのように、セロは握りしめた柄を斜め上に、剣を寝かせて、防御の構えを取った。


攻防の意図が工作し、両者の視線が合わさったたのは一瞬のこと。


「―――我流、数え剣技・壱の番」


謳うような言葉。意味を知らないセロは、背筋に走る死の予感のままに心素の強化度合いを上げた。


待て、とラナンが立ち上がる。


だが、間に合わなかった。


たん、という軽い踏み出しの足の音、直後に両者の間合いはほぼゼロになり、


「一閃!」


宣言と共に振り下ろされた剣は、いとも容易くセロの剣を両断した。肉が割かれ、血が舞い散り、骨にまで達した剣からこぼれ出た血が、地面を汚していく。


「―――見事だ」


内臓がこぼれていないのを見届けたアルセリアが、称賛の声を上げた。


セロは剣を失い、膝立ちになりながらも、最後の砦とばかりに強化した鎖骨で剣を受け止めていたのだ。


セロは、アルセリアを見上げながらも何も答えられず。間髪入れずに、ラナンから投げつけられたポーションがセロの重症を癒やしていった。


すぐに出血は収まった。だが、重症には違いない。だというのにセロは治癒の痛みに顔をしかめながら、手を伸ばした。


ゆっくりと、掌はアルセリアの服に届いた。そしてセロは、まるで悪戯に成功した子供のように笑みを浮かべた。


「届いた、ぜ――――ざまあみろ」


その言葉を最後に、糸を切れたようにセロは横に倒れた。よほどの限界を越えたのだろう。気絶するセロを見下ろすアルセリアは、確かに、と悔しそうな顔のまま敗北を認めた。


その直後、後頭部を盛大に張り倒されたが。アルセリアはいきなりの痛みに呻いた後、犯人に対して文句を言おうと立ち上がったが、ラナンの顔を見るなり蒼白になった。


顔は笑っているが、目は一切笑っていない―――どころではなく、全身にラナンの糸が巻き付いていたからだ。


これはちょっと死ぬのではいだろうか。今の状況を理解したアルセリアは、だらだらと額から汗を流し始めた。ラナンは笑顔のまま重圧をかけたが、ため息と共に糸を回収した。


アルセリアは安堵のため息を吐いた後、申し訳がなさそうに頭を下げた。


「すまん……今回ばかりは、やりすぎだった」


「謝るのはセロに対して。ったく、いい加減にしなさいよ。その病気を抑えきれない内は未熟者の称号は外さないから」


誰が剣技まで使えっていったのよ、という針のようなラナンの言葉がアルセリアに突き刺さった。それよりも、とラナンは白目で気絶しているセロの頬に手を当てた。


「……最後の一撃。何をやったかは、分かるわね?」


「間近で見たからな」


一瞬の攻防だが、卓越した眼力でアルセリアは理解していた。


セロはあの一瞬で隠していた強化の出力を上げた―――どころではない。剣を全力で強化し、次に肉を強化し、最後に鎖骨を強化したのだ。


脱力も見事だった。剣の勢いを防ぐために、自ら身体を沈ませながら威力を地面に逃した。血に濡れた膝と、地面の亀裂を見れば一目瞭然だった。


折られると覚悟し、斬られると受け入れ、だけど命だけは渡さないという意地。驚くべきは意志の強さと見切り、何よりも強化する精度と速度。本来ならばあり得ない成長だった。


「天賦の才能があった訳でもなし……たった一ヶ月だぞ? どうしてここまで成長できたのだろう」


「……そう、ね」


私にも分からなかったと、ラナンが過去形で答えた。手に触れるこの時までは、と。セロの寝顔を見下ろしていたラナンが深いため息をついた。


「つまり、検討はついているのか?」


「ええ。この心素の揺らぎ……とはいっても、専門外のアンタは気がつけなくて当然よ」


治療を続けなさい―――話を聞いてくるから。アルセリアに告げたラナンはセロの頭の上に方陣を描いた。幾何学模様の円形に桃色の光が奔り、ラナンの仮の肉体ガワはセロの横にばたりと倒れ込んだ。



次の瞬間、ラナンはセロの意識の中に居た。睡眠状態の中、セロの夢の世界に。


何もない白い荒野が広がっている。ラナンは気配に導かれてしばらく進んでいった。白い、何もない世界。申し訳程度に石が転がっている、それ以外にめぼしいものはない。


目的の人物は、すぐ近くに居た。ラナンは見つけるなり、こちらに気がついていない相手に言葉をかけた。


「こんにちは、復讐の少年」


「………え?」


くるりと振り返った灰色の髪の少年は、驚き固まった。どうしてここに、と瞳が警戒の色に染まっていく。ラナンはそれを見て、ため息をついた。


「私よ、ラナン。どっからどう見てもあんたの師匠でしょう、セロ?」


「………は? え?」


セロは驚き、目を見開いた。何を言っているのか、理解できなかったからだ。


目の前に居るのは、どう見ても少女だった。透き通るような桃色の長髪が、歩く度に流れるように揺れている。直視し続けるのが申し訳ないぐらいのそれは、言葉で言い表すのが難しいぐらいの、美しい少女が、あの奇妙な男と同一人物だという。


セロはぽんと手を叩き、頷いた。


「あ、これ夢だ」


「……そうね。正しい」


ここは、あんたが捧げた夢の世界なんだから。ラナンは真剣な声で告げた後、問いかけた。


「これが、アンタの出した答えって訳ね?」


「……本当に師匠みたいですね。速攻で見抜いてこっちを追い込む所とか」


嫌な顔をしながらも、セロは頷いた。


告げられたラナンは「当てましょうか」と人差し指を立てながら


「強くなるには時間が居る。でも、時間が足りないことに気がついたアンタは、持ってくることにした」


「その通りです。だって―――夢も、俺の世界ですから」


心石使いは、自分の世界を強化し、干渉し、押し付けることが基本。ならば、自分の意識の中という世界にまで干渉できるのは当然だと、セロは自分の頭を指差した。


「身体は眠ってます。十分な休息を取るように。使


人生の三分の一の時間を、鍛錬に使える。自分の中のことで単純な理屈だったから簡単でした、とセロはしてやったりの笑顔を返した。


理不尽な世界を正面からぶっ壊せる手段が得られたと、この上なく嬉しそうに。


そう、とラナンはセロの言葉に頷こうとして出来なかった。ぶっ壊す、という言葉には心の底の底から同意を示したかったからだ。


(―――手段としては決して悪くない。破格と言っても良い)


時間が増える、というのは単純に強い。その上で、この世界だ。心素で組み上げた自分を操り続ければ、心素の扱い、操作の精度は通常よりも早く上達していくだろう。


何より幼少期、成長期にあたる時間に当てられる鍛錬の密度だ。全ての時間を強くなるために捧げている、という決意の強さは、心石の強度を格段に跳ね上げるだろう。


だが、二度と安寧の夢は訪れない。唯一かもしれなかった、最後かもしれなかった、安らぎの時はもう来ない。気がついたラナンは同情しそうになったが、それは侮辱になるな、と口を閉ざした。


それほどまでに、大切だったか。少年の失ったものの重さを思い知ったラナンは俯くも、拳を強く握りしめながら質問を重ねた。


「……この決断の切っ掛けになったのは、あの写真ね?」


「はい。あ、本当にありがとうございます。眠らなくてもみんなの顔が見れるなんて思わなかった」


「いつかは、悪夢が晴れるかもしれない。悪夢じゃなくなるかもしれない。いいえ、そこまでしなくても特別な力に目覚めたり、才能が………そう思うことはなかったの?」


「思いません。降って湧いてくるようなものだったら、俺は、みんなは、になってない……自分だけの特別な力があるかもしれないなんて、夢でも有り得ませんよ」


どこまでも自分は自分で。そのままじゃ手は届かなくて。だから、代償を支払って足場を買った。当然のことでしょうと、セロは空に向かって手を伸ばした。


どこの誰でもない自分の血肉と引き換えに得た。他人が見ればみすぼらしくみっともない台座だろうと、これは取引で得たものだと、誇らしげに。


「――クソッタレですよ。この世界は。生活はいつも苦しかった。誰も、助けてなんてくれなかった」


カミサマなるものが、世界には存在するという。街で聞いた話だ。セロは、ジロウはその話を信じなかった。都合のいい妄想だと忘れ去った。


「だって、父さんと母さんが死んだ一ヶ月後に気が付きましたから。こんなクソッタレな世界にも、一応のルールがあるんだって」


何かを得るには、何かを引き換えにする必要がある。食べたければお金を、金のためにはリスクを、笑顔のためには労力を。それが、セロが察したこの世界の最初の掟だった。


「……恵んでやろう、という街の大人も居ました。でもそいつ、アイネのことをねちゃっとした目で見るんですよ。気持ち悪い、ねばっとした目を」


気づいたジロウは走って逃げた。怖い、怖いとアイネが呟いていたから。何かを引き換えに望んでいるのだと、追いかけてきた時に気がついた。無事に逃げた後、その大人は何らかの理由で殺されたと聞いた。


「取引なんです。だから、俺は夢を差し出した―――代わりに時間を得ました。貴重な時間を」


「……何かを得るために相応しい代価を、か。街で盗みを働かず、誰かに付き従ってお溢れを望まなかった理由も?」


「はい。仕事は、本当に辛かったです。寒い時は、凍え死にそうになりました。ずっと、ずっと、きつくて……でも何かを引き換えにせずに、ものを貰いたくなかった」


だって、自慢できない。セロは、自分の両手を見下ろした。借り物ではない、辛い思いをしながらでもアイネに笑顔を向けられる自分で在りたかったと。


「バカだって、笑いますか?」


「うん。本当に笑えるね、とっても」


「うわ、ひっでえ」


答えながら、セロは言う。その表情に、自分の選択肢への悔いは欠片たりとも無かったことにラナンは気がついた。


肥溜めのような環境で、辛さと痛みしかない世界を全力で生きて、それでも笑おうと思った少年の残骸。


どうしようもなく泥臭くて―――だけどその笑顔を、ラナンは美しいと思った。


「―――後悔は、しないわね?」


セロが行ったのは強化と干渉を越えた1歩先、飛び越えての技術を使ったもの。


だが、今ならば解除も可能だ。そんな意図を含ませたラナンの問いかけに対し、セロは首を横に振るだけだった。


「なら、構えなさい―――本気で鍛えて上げるから」


「……ええええ。今からすぐに、っていうのはちょっと」


「いいから早く! ほら、時間は有限なんでしょう?」



格闘術を教える、と構えたラナンは決意と共に嘘がない笑みを向けた。


夢さえも復讐に捧げた少年の敬意を、祝福するように。


後ろめたい大人な自分と、仄かに燃える言いようのない何かの気持ちに、蓋をしたまま。


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