3話:狂宴の業火

「この建物のようです。ゼノワ様、いかがされますか」


付き人の女が指し示した先には、廃墟寸前のビルがあった。ゼノワと呼ばれた金髪の美男子はビルの全景を眺めるた後、ゆっくりと、優美な手付きで複雑な紋様が描かれた光を描いた。


「………いや。建物ごと丸焼けにするよりも、虱潰しらみつぶしにした方が良さそうだ」


「同意します。油虫はとってもしぶといですから」


笑った女が手を振った直後、入り口がある扉の周辺に閃光が走った。重い鉄製の扉と、それを固定するコンクリートがバラバラに切られ、ビルの外側へと崩れていった。


「……はぁ? お、おい………いったい、なにが」


中から、何が起きたのか理解さえできていない男が一人。門番を務めていたその男は、訳がわからないといった様子で、外を覗き込みながら、恐る恐ると外へ踏み出した。そうして、下手人の二人に視線を向けようとした時だった。


ぱちり、とゼノワの指が鳴る。同時に現れた拳大ほどの黒い炎の弾は弧を描いて男へ飛んでいき、当たると同時に弾けた。直後に生じた黒い炎は、まるで蛇のような小ささだが、一瞬で男の全身にまとわりつき、触れた面に深刻な火傷を生じさせていった。


絶叫が、ビルの外に響く。間もなくして、男はもんどり打って倒れ伏した。自分にまとわりつくものの正体、どうして襲われたのか、何が原因で自分が死んだのか、全てを理解できないまま。


「……他愛もない。使い手で無ければ、この程度で死ぬか」


「いえ、ゼノワ様の炎ならば当然かと。と、いうよりもですよ。この炎、どれだけ痛いのか閣下は知ってるんですか?」


「耐えきった者に言われても説得力がないぞ。……しかし、数が多いな。サツキ、お前は先に入れ」


「閣下はどうされます?」


「一階からじっくりと。そんな顔をするな、仕事は地道なものだろう……あまり時間がかかりそうにもない故な」


ゼノワは苦笑すると、ビルに向かって歩き始めた。近所に買い物に行くような足取りで、小銭を出すように気軽に、自慢の炎を片手に纏わせながら。


数秒後、ビルの中は炎と阿鼻叫喚が織り成すようにつらなり、染まっていった。












「アイネ、リーダー、みんな………!」


息を切らせながら、走る、走る、走る。周囲に居るだろう魔物への警戒も忘れて、ジロウは全力で走り続けた。ひび割れた道路に足をひっかけて転びそうになりながらも、前へ、前へ。ただ、一秒でも早く仲間の元へ。それだけを考えていたジロウが途中で魔物に出会うのは必然だった。


「なっ?! くそ………っ!」


舌打ちをするジロウが発見したのは、ゴブリンが2体。道の先の中央で棍棒のようなものを手に持って待ち構えていた。明らかにこちらを見据えている。


いつもならば一か八か、道路から横に逸れて廃墟群を掻い潜り、死にもの狂いになって逃げ切れるかどうかに賭ける状況。ジロウは歯を食いしばると、急停止した。靴底が地面が擦れる音、砂埃が少しだけ宙に舞った。


(早速こんな所で……どうする、どうする、どうする………!)


近づきすぎている、気づかれている、逃げられない、仲間もいない、ならば倒すしかない。ジロウは見た。自分を組みやすしと見たのか、舐めているのか、ゆっくりとこちらに近づいてくるゴブリンを。ジロウは迷い、拳を握りしめると、首を横に振った。


(―――違う! ……僕じゃ倒せない。ゴブリンは一人じゃ倒せない、夢を見るなよ臆病者)


奇跡に奇跡が重なった所で不可能、どうあがいても無傷はありえない。そうでなくても、足を負傷すればそこで終わりだ。そもそもの話、戦力差自体が絶望的。戦いを挑むのは賭けではない、諦めのやけっぱちだ。


違うだろ、とジロウは近づいてくるゴブリンを見た。この距離、既に逃げられない。このまま正面から行った所で無駄。


ならば、と考えたジロウは頭をフル回転させた。次なる行動は、考えたものではない。とっさのフェイントにと、一歩跳び下がったのは。それを見たゴブリンが、逃さないと前のめりになった。


ジロウはその一瞬を見逃さなかった。体勢を低く、踏ん張った所に引っかかりを感じた。それは、ひび割れめくれ上がった道路。ジロウはそれが何であるのか、理解するより前に全力で走り始めた。


「う、あああああああああああっっ!!」


「ぎぃっ?!」


偶然が作用した結果、初速はゴブリンにとっても予想外の速度に。だが、ゴブリンは慌てながらも迎撃に出た。不意とはいえ、正面からの格好の的となれば。そう判断したゴブリンは慌てながらも、突進してくるジロウの顔面を横薙ぎにするコースで棍棒を振り抜き――――標的には命中せず、棒は空を薙ぐだけに終わった。


ジロウがゴブリンの間合いに入る直前に前転をしたからだ。棍棒の下を潜って通り抜けたジロウは、腕を擦りむきながらも、転がる勢いのまま走り始めた。あとに残されたのは、予想外の空振りに転倒してしまった間抜けなゴブリンの姿だけ。


してやられたと、ゴブリンの醜い声が周囲に響く。


「ぎ、ギィ……!」


「ゴガッ!」


ゴブリンは怒りの感情のまま、お互いに顔を見合わせる。そして、棍棒を片手に走ろうとした所で止まった。


びくり、と一度だけ身体を震わせたかと思うと、上半身だけが横にずれていき、ぼとりと“それ”は地面に落ちた。両断された緑色の腹から勢いよく体液が溢れ出る。その背後で、剣を振り抜いた乱入者はため息と共に剣を横に振った。


体液がぴしゃりと地面に落ちる。血を飛ばされて綺麗になった刀身は、体液の汚れさえ付着していなかった。剣の持ち主である白い肌の女は、刀身に似た銀色の長い髪をなびかせた後、緑色をした鋭い瞳でジロウの背中を見送った。


女はため息をついた後、ゆっくりと踵を返そうとして、立ち止まり。しばらく考え込んだ後、連絡を取るべく通信球を取り出した。
















何かの冗談であれば良いと思っていた。ジョンが告げた言葉はからかうためか、たちの悪いジョークであれば。何かの勘違いで、間違いであれば良かったと。


―――拠点に帰ったジロウの前に広がっていたのは、そんな甘い夢を打ち砕く光景だった。


辿り着く少し前にはもう、理解していた。煙が、見えたからだ。ジロウは鼻を隠した。覚えたくもなかった、人の肉が焼ける臭いから逃れるように。


その発生源の一つは、入り口にあった。ジロウは入り口付近で倒れているものに―――苦痛に顔を歪めて倒れている男に見覚えがあった。食料を届けた、あの男だ。ぶっきらぼうだが、暴力だけは振るわない、大人としてはマシだと思った門番のような人で。


ジロウは無言で駆け寄り、身体を触った。そして、すぐに理解させられた。ジロウには覚えがあったからだ。生きていない人間の、奇妙なまでの身体の重さを。


「り……リーダー! みんな!」


まさか、嘘だとジロウは立ち上がると、脇目も振らず中へと入った。すかさず、2階へと駆け上がる。廊下の奥の部屋で煙が立ち上っていることと、焦げ付いている壁を無視しながら。


ばくん、ばくんと胸がうるさく鳴り響く。ジロウはそれが自分のものであることさえ気が付かずに、ただ走った。全速力で駆けてきたため、全身は既に汗だらけだった。それでも止まれない。予感に、頭がおかしくなりそうだったからだ。地響きのように足元から這いずって来る暗い予感から逃げるように、ジロウは進んだ。


でも、まだ。まだ大丈夫、この目で見ていないのなら。そう自分を奮起させたジロウは、1階から2階へと繋がる階段の途中の踊り場で立ち止まった。そこに、小さな死体が転がっていたからだ。今度は触れる前に、だと気がついた。肉ではあり得ない、黒い塊は既にあちこちがボロボロと崩れて、元の形を保っていなかったからだ。


肉の焼ける臭いが、至近距離からジロウの鼻と喉を襲った。何とも表現できない、気味の悪い感覚が嫌な記憶と共に臓腑を奔った。吐き気と、絶望感に滲む視界。ジロウはこみ上げるものと戦いながらも、上へと進んだ。吐くことはできなかった。吐けば体力が落ちる、気づかれると思ったからだった。


必死で抑えこんだジロウは、泣きそうな顔を片手で多いながらも2階へ。異変は早く、入り口にあった。集会場所へと繋がる大きな扉が溶解していたからだ。溶けた鉄が蒸気となって周囲に熱気を撒き散らしている。


一体どれだけのジュツを使えば、こんなことが可能に。見たことがない異常事態を前に、ジロウの喉が無意識にごくりと鳴った。だが、戸惑ったのは一瞬のこと、ジロウは震える身を奮い立たせると、一気に中へと飛び込んだ。


――――その判断を後悔したのは、入って一秒が経過した後のこと。予感が追いつく―――否、想像していた以上の地獄が、談笑の場である大広間に生まれていた。


「あ……あ……」


「リー、ダー?」


リーダーだと、一目でジロウは理解した。入り口近くにあった、それの顔だけはリーダーだったからだ。頼れる仲間。アツシという名前の、頼れる、みんなのリーダーの顔。


その首から下はどうしようもなく変わり果てていた。黒い炎は、ちょうど消える所だった。だが、炎がまとわりついていた下半身は焼けて焦げるどころではない、炭を越えて灰になっていく最中で。


ぐるり、とリーダーだった“もの”は白目を向いて、一度だけ痙攣した。泡を吐いて、もうぴくりとも動かない。ジロウは、とすん、その場に尻もちをついた。足に力が入らない、悲鳴さえ出す気力もなかった。


無言のまま、ジロウはそれが最後の仲間が事切れた瞬間であることを察した。部屋を見回さずとも、中の空気、臭いからジロウは察した。


もう、ここに、この部屋に、生きている人間は居ないことを。


「あ――――あ、あ、ああああああああああああああっっっっ!」


弾けるように立ち上がったジロウは、叫びながら駆け出した。上へ、上へ、4階へ。アイネが居る我が家へ。昨日までは、昇れば、家に帰れば会えた妹の無事な姿を一刻でも早く。


思考さえまとまらないまま、走った。手足はむちゃくちゃに、階段から転げ落ちそうになるも手摺にしがみつきながら、上へ、ただ上へと。


廊下を走る。走り、途中で気づいた異変の全てを無視しながらジロウは飛び込むようにして、家へと戻った。ありもしない何かに祈り、縋るように。


見えたのは、最悪の更に最悪を越えたもの――――


甲高い声をジロウは聞いた。度を越えた痛みのせいか、言葉にさえなっていない悲鳴だった。


その声の中心は――――黒い炎は、ただ大きく踊っていた。中に居る黒い人影と一緒に踊っていた。出来の悪い人形が、人間のものとは思えない金切り声を上げながらステップを踏んでいた。くるくる、くるくると。転けて、倒れ込んで、おかしくなるぐらい、ごろごろ、ごろごろと。


同時、ジロウが目の端に見たのは、切れ端。服。腕。一部。服だった。血がついた。腕だけが、横に転がって。


忘れもしない、自分が送った服であることを。理解した途端、ジロウは自分の血が沸騰する音を聞いた。


「わああああああああああああああああああっっっっっっっ!!!」


叫び、何を考えるより早くジロウは走り出した。助けるために、転がっているモノへ。黒いものに。炎に包まれている、最愛の妹らしきものに。方法を考えるより前に、身体は動いていた。


だが、あと一歩で距離が遠くなった。遠ざかっていく炎。直後、ジロウは背中にぶつかる硬いものを感じた。それが壁だと知ったのは、地面に倒れ込んだ後のこと。腹部の激痛。蹴り飛ばされたのだと理解するより早く、考えるよりも前にジロウは立ち上がった。


手を伸ばす。こみ上げる吐き気も無視し、反吐を撒き散らしながらも、ただ前へ。もつれる足を踏み出したジロウに、冷たい声がかけられた。


「五月蝿い」


同時、視界が揺らぐほどの強い衝撃がジロウを襲った。頬を横から蹴り飛ばされたジロウの身体が、ボールのように地面を転がっていった。荒い地面に叩きつけられたジロウの肌という肌が、切り傷と擦り傷で埋まっていく。


激痛。嘔吐。ジロウは脳裏によぎる二文字に負けないよう、声にならない悲鳴を上げた。どうしてか、意識が朦朧としていく。ジロウはそれが頭を蹴られたことによる脳震盪が原因であると自覚しないまま、走ろうとしたが、進めたのは数歩だけだった。


盛大に転んだジロウは、こみ上げるものに耐えきれず、ごぼりともどした。血が混じっている反吐が地面に流れていく。何か、自分の中身にある何処か、取り返しのつかない状態になっている。ジロウは察しつつも全てを無視して、膝立ちになった。立てない、走れない、だけど歩ける、歩けと前に。


だが、進めたのはせいぜいが一歩、二歩だけだった。立ち上がれずに転んだジロウの身体が、床に叩きつけられる。


それでも、前へ。まだだと、ジロウはうつ伏せになった身体を前へと動かした。地べたを摺りながら、痛む擦り傷の全てを飲み込んで進んだ。自分よりもはるかに痛いだろう、焼かれているアイネへ。兄なのだから妹を、たった一人の家族を助けなければ、という思いのままに。


「ア………イ…」


まだだ、と掠れる声。ジロウが、自分自身に言い聞かせる声。まだ間に合うはずだ、きっと、という願望がこめられたもの。


「に………にい、ちゃん……が……た、た、たす、け………」


助けるから。だから、いつもの通りに。元気だと、おかえりと、ただいまと抱き合って。そうすればきっと、怪我をしていても絶対に。絶対に助かるはずだと。


伸ばしたジロウの手は足の裏で砕かれた。骨が砕かれる激痛に、ジロウはそれでも、もう片方の手を前に。その様子を見下ろしながら、ゼノワは煩わしいとばかりに舌打ちを叩きつけた。


「盗人の兄風情が。妹に似て薄汚いし、生き汚い」


冷たい声。まるで虫、違うとジロウは感じた。それよりも下等で無様なものを蔑むような。その声の主は、ジロウを見下ろしながら、告げた。


「現実を見て悔改めよ――――罪人」


ぱちん、と指が鳴らされると同時に黒い炎は嘘のように霧散した。残ったのは黒い塊だ。人間の形をした。目を見開いたジロウは、動けず。あ、と掠れた声だけしか零すことができず。


ゼノワは、固まったジロウを放置しゆっくりと跡地へと歩いていった。


まだ、まだだ、とジロウが繰り返した。まだ、なにか、間に合うんだ、と呟く声。


その全てが、振り下ろされた足によって砕かれた。念入りに焼かれた肉は、既に形を失っていた。ゼノワに蹴られた肉だった灰は雪のように空中へと吹き上がり、薄暗い部屋の中ではらり、はらりと舞い散った。


外から入る光が、アイネだったものにあたる。部屋の四方へ乱反射するそれは、幻想的な光景で。


輝く灰が積もっていく中、ジロウは呆然と呟いた。


どうして。なぜ。ついさっきまでは。なのに、今はなんで。怒るより先に意味が分からないという感情のまま、ジロウは呟いた。痛む手の中に、地面に転がっていた石を握りしめながら。それを投げる余裕さえなくても、分からないという思いを八つ当たりのように力に変えて、石を軋ませていた。


どうして、アイネが。リーダーが。駄々っ子のようなジロウの声。


その全てを、ゼノワくだらないという一言で断ち切った。


「不要だからだ、腐っているからだ。この大阪で、冥府に余計なものを養える余裕はない」


ならば、生きるために。


掌を上に広げながら、ゼノワは告げた。チリはチリ取りで、クズはクズカゴに。



「――――汚いゴミは焼いて処理する。お前達兄妹のようにだ、当たり前だろう?」



憐れみさえなく、諭すように。


その言葉を最後に、ゼノワは積もった灰さえ汚いもののように横へ振り払った。




ぷつん、と。



ジロウは、自分の中の何かが決定的に切れる音を聞いた。



「―――ほう」



笑う。目を細くしたゼノワは、面白そうに。


立ち上がったジロウの片手に輝く、屑石に気がついたからだった。


世界が変わる音がする。それは同類にしか聞こえない、法則ルールを使う側になる産声だ。


全てが思うがままに。常識を越えて肉体を強化することも、自然法則を書き換えることさえ。


強く、強く、願うほどに現実を塗り替えられる。


「ゴミにしては、それなりの心素マナの量だが―――」


光輝く様を見て、ゼノワは呟いた。


ジロウは聞いてはいない。考えてさえいなかった。ただ、自分が何をやりたいのか、ということは分かっていた。


全身を流れる肉という肉が欲しているからだ。


全身を駆け巡る血が渇望しているからだ。


殺すという単語さえ、思い浮かべない。ただ、身内に咆え猛る本能のままに目の前の男を滅茶苦茶に砕いてバラバラにして、グチャグチャにして、晒して、燃やすだけじゃ足りない、もっと、もっと。


ばきり、と石が砕ける。踏み出した勢いは、先程までとは比べ物にならない。ブチブチと筋肉が引きちぎれる音と共に、ジロウという形をした獣は本能のままに襲いかかった。


踏んだ床がひび割れるほど早く、灰の中を駆け巡る風のように。直撃すれば大人の頭を微塵にする拳が、ゼノワの顔面へと吸い込まれるように突き出されて―――



「くだらん」



無造作に振られたゼノワの片腕に、ジロウは突き出した拳と顔をまとめて薙ぎ払われた。先程のような撫でる攻撃とは違う、少し力を入れた。ちょっとした裏拳の一撃はジロウの拳を容易く弾き飛ばし、その先にあった頬にめり込んだ。


天井に叩きつけられたジロウの身体は、ビルを揺るがすほどの大音量となって響いた。パラリ、と砕けたコンクリートが落ちる音。それと一緒に、ジロウの身体はうつ伏せに落下していた。


カウンターと落下のダメージを受けたジロウの身体は、びくん、びくんと痙攣を繰り返す。だが、数秒後には痙攣も収まり。再び立ち上がったジロウに、ゼノワは嘲笑を浴びせかけた。


「……成り立て風情が。殺したいと願えば、俺を殺せると思ったか? 仇だと、恨めば、怒れば、貴様が如きが手が届く存在とでも?」


不敬である、という冷酷な声と共にゼノワは初めて感情を表に出した。愚弄されたことによる怒りのまま、両腕に黒い炎をまとった。禍々しいそれの性質を、ジロウは今になって欠片だが理解できていた。ただの色が違う炎ではない、もっと悍ましいものがこめられていることを肌で感じ取っていた。


「―――そう。貴様が感じている通り、この炎は特別だ。普通よりも10倍ほど痛い」


ただ肌を焼くよりも酷く、痛みに弱い者ならば浴びるだけで即死するぐらいに。それがどれほどの苦痛であるのか、とゼノワは問いかけなかった。


ジロウの殺気が増したことで察したからだ。その辛さを、どんな想いで死んでいったのか。


怒りが増す中で、力が高まっていく。同時にそれは、炎の厄介さへの理解を深める結果になった。だが、同時に殺意も高まっていく。その炎の酷さと、アイネへの仕打ちが深く絡まりあっているからには、ジロウにはどうしようもなかった。


人間の本能としての恐怖も高まっていく。だが、ジロウは逃げなかった。激痛と力が駆け巡る酩酊感の中で踏ん張り続けた。


反撃を受けたことで、頭の一部が冴えていたからだ。ねじ伏せられた屈辱さえ糧に、ジロウの思考は切り替わっていた。本当に望むものを前に、余計なもの一切が削ぎ落とされていた。煮え滾る殺意のままに、全身が一つの意志の元に統率されている。


すなわち、どうすれば相手を殺せるのか。


本能の問いかけに、全身の血と肉が答えた。


―――普通にやっては勝てない。正面からでは不可能。相手はまだまだ本気じゃない。絶望的なんてレベルじゃない、勝負にもならない。


全身でレベル差を理解したジロウは、結論を出した。


つまり、アイネの仇は取れない――――このままでは。


結論は一瞬だ。全身で分析を終えたジロウの身体は、一歩だけ前に進んだ。


。そう感じたゼノワの我慢が限界に達した。



「―――悶えて死ね」



放射状に放たれた炎が一瞬でジロウを覆い尽くした。


避ける間など、小指の先ほどもなく。炎の中、ジロウは歯を食いしばった。


(―――i、tai。itaitaitaitaitiaitaiitaitai)


まともな言葉にさえならない、痛いという単語にさえ辿り着かない、浮かばない、ただこの場から、この世から全力で、何をしてでも逃げたいという意志が頭を支配していくほどのそれは、痛みの極点だたt。


死ぬまで待てない、自殺して当然と断言できるほどのそれは、激痛に激痛という表現を重ねるだけでは到底たりない。じゅうじゅうという音、炎が這いずり回り肌が焦げに焦げ、正気さえも焼けていく中では、現実と夢の境目さえ失っていく。


耐えきれずに、ジロウの膝が折れた。敵の嘲りの視線さえ、ジロウは感じ取れない。何が起きているのか、誰を相手にしているのかさえ、一秒ごとに繰り返さなければ何もかもを忘れてしまいそうな痛みの渦の中で、それでもジロウは歯を食いしばっていた。


(―――これを)


ごう、ごう、と焼ける。服はない、髪さえも。


(これを、これだけ痛い火をリーダーに、みんなに)


顔が浮かんでは消えていく。金を託してくれた戦友。死線をくぐり抜けた仲間、友達。3年間、喧嘩をしたことはあっても仲直りをした。一緒に頑張ろうぜと、励ましあった。


もういない。焦げすぎていた。リーダー以外、どれが誰の死体なのか区別さえつかなくなった。


怒りが、ジロウの手を動かした。手は動いていた。転がっている石を握れるぐらいには。


ざり、と動く音。そこからは考えた行動ではない。


ただ、ジロウは全身の本能のまま、決死の一撃を叫んだ。



「アイネに浴びせやがったのかあああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっ!!!!!」



踏み出した足はフロア一体の床を砕き、鞭のように振られた腕は余波で空間を切り裂く。


燃えながらも、身体は先程よりも高い位階で。常識外の速度で放たれた投石は、音速にまで達した。立ち去るべく背中を見せていたゼノワへ到達するまでの時間は、正しく刹那のもの。


―――当たる。確信と共に、炎の中でジロウは笑い、



「くだらんと言った」



小蝿のように、石は片手で弾き飛ばされた。超威力のそれは天井を貫通して、空へと消えていく。


それが、この戦いの終わりだった。ゼノワは最後まで面倒くさそうに、地面に転がっている腕の切れ端を燃え盛るジロウへと放り投げた。



「……サツキか。なんだ、問題でも? ……ああ、いや、こちらにはない」


つまらなそうな声。何もなかったと、言葉の通りにゼノワはこの場に対する興味を失っていた。


そうして、通信を終えたゼノワは一度たりともジロウの方を振り返らずにその場を去った。


追いすがるように、ジロウの手が伸びる。誰もいない空間に向かって。


(ま………て……ぼく、は………おま………えを…………)


手を伸ばすも、届かない。最後まで人間扱いされないまま、興味がなくなったとばかりに立ち去られた。認識した途端、ジロウに限界が訪れた。高まった身体の耐久度以上に火傷の傷は深く、何よりも痛みに削られた気力が底をついていた。


どさり、とジロウの身体が倒れ込む。床さえも焼ける豪炎が、全身という全身を焦がしていった。


激痛は未だ冷めやらず。それでも、それでもと這いずり進むジロウの身体は、途中で止まった。最後に伸びた手は、妹だった腕からこぼれ落ちた服の切れ端へと向かっていた。



―――どこにでもある話だった。


この時代、世界の中では当たり前のように転がっている悲劇。


弱い者が悪い者であると当然のように淘汰されていく、それだけの事の顛末。



最後を締めくくるように、ジロウの微かに残った灯火さえも消えていく。








――――その寸前に、空からの声は、薄れゆくジロウへと届けられた。









「見つけた」





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