第4話
小泉和は、ごく普通のどこにでもある家庭に生まれた。
運動神経はまあまあ、勉強に困ったことはなかった。人付き合いはそこそこ。格別に好かれるでもなく、でも誰かに嫌われることもなく、いつもクラスの一軍と二軍を彷徨っていた。
実際、本人もそれをわきまえていたし、中途半端な人生を、気ままに生きるのだろうと思っていた。
高校生の入学式の日、彼女はそこにいた。
きれいな黒髪を丁寧に整え、主張のない位置に、自然にまとめている。長いまつげとぱっちりと開き前を見つめる目、整った鼻すじ、愛嬌のある輪郭のえら。
それはまさに「女の子」だった。柔らかな動作の一つ一つ。まさにおとなしさの具現であるような口調。そして、どこか透き通るような、でも決して薄くない存在感。彼女は、別の世界の住人のようだった。
当然交わるはずのなかった運命。それが絡み合うのは高校一年目の夏だった。
がたん。家から一番近い自動販売機でいつもの飲むヨーグルトをおとす。腰をかがめて手を伸ばし、目的のものを手に取る。指先が容器に触れると、寸秒遅れて気持ちの良い冷たさがやってくる。むしむしと暑い「夏」という季節を持つ日本で過ごすには、この「飲むヨーグルト」は必要不可欠だと思う。なんて考えながら、いつもであればすぐに帰路につくのだ。そう、いつもであれば。
今日はその「いつも」ではなかった。ここから数メートル、走れば瞬秒。その距離に女の子が倒れていた。彼女が着ている制服に見覚えがある。いや、見覚えがあるという表現は、いささか間違っている気もする。なぜならそれは、僕がここ三ヶ月、毎日見続けてきた制服なのだから。さらに校章の緑を見て、同じ学年、つまり一年生だということを確認した。
違う。違う違う___僕がやるべきなのは、これが誰なのか、どうして倒れているのか、思考することではない。
「おいおい、これ、やばいんじゃないか...!?」
思い出したかのように、焦りがこみ上げてきた。
「えっと、まずは...っ」
救急車。倒れている人を見つけたらまず救急車を呼ぶ、そう習った。
『はい、こちら___』
「女の子が!倒れているんです!場所は___!」
____
嘘だろ?二十分かかりますって、その二十分が命に...!この女の子を救える方法。考えろ考えろ考えろ。
心肺蘇生___
そうだ、これだ。
心肺が停止して四分間のあいだに胸骨圧迫や人工呼吸を行った場合、助かる確率は
「あるわけない、か」
こんな細道に、こんな暑い中、歩いてるひとなんていないのが正しいってもの。
次の行動は___僕は女の子へかけよった。胸元に耳をつける。柔らかい感触に浸っている余裕は、なかった。
心音が、ない___
彼女の胸からは、心拍というものが感じられなかった。
胸骨圧迫。三十回、一分間に百回くらいのスピードで、しっかりと五センチ沈める。
「結構、きついもんだな...」
よし次は___
「っ!!」
その時初めて、僕は女の子かのじょの顔を見た。長いまつげ、整った鼻すじ。
佐々木菜々。同じクラスの、学年一の美少女。
「今は...っ」
今は違う。感情を殺せ、無になれ。今更照れている僕が、恥ずかしく、不甲斐なくもあった。
四分。四分たってしまうと、彼女は半分の確率で命を落とす。すでに、見つけてから二分半がたっている。むしろ、倒れてから数時間経っていないなんて、言い切れないのだ。助かる保証は無い、たすからないかも___え?今僕何考えた?助かるかどうかなんて___
「関係、ないんだよ...!!」
僕は顔を近づける。普段なら、息と息が触れ合うはずの距離。もちろん触れる呼吸は、ない。顎をできるだけ持ち上げ、気管を広げる。そして___
唇が、触れ合った。
柔らかく、心地よい。夏の暑さなんて、今は知らない。
「んっ...」
思いきりではなく、ため息くらいの要領で。
ウーウー___
サイレンだ。どれほど同じことを繰り返しただろう。やっと、来てくれたかと思うと、とてもホッとするのだが___
「ありがとう!君が勇気を持ってくれたおかげで、この子は命を落とさずに済むかもしれない。感謝!」
やめてくれよ。だんだん世界に現実味が戻ってくると、恥ずかしくなってきた。
「君、照れてるね」
「よよよ余計なお世話だ!」
なにが『ニヤリ』だよきもちわるい!
「君、惚れてるね」
「さっきのノリで言うな!?」
てか、集中して仕事をしてくれよ...
救急車が去った後も、僕はしばらくその場にいた。とゆうよりも、動けなかった。
ここで
そっと、唇に触れる。
さっき触れた、彼女___佐々木さんの唇の味は、今もかすかに、残っていた。
これが、菜々と僕の、最初の物語____
平行世界の、君と僕 蟻足びび @obibi
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