第67話

T大合格発表の日は、空一面ぶ厚い雲に覆われた曇りだった。

 降り出してこそいないものの、ハレの日となるべき日としては、あまりよろしくない天候。

 大学の最寄り駅から外へ降り立ってもそれは変わらず、春も近づいてきたというのに真冬のような寒さだった。

 すぐ隣を歩く純花は、相当な厚着をしているにもかかわらず、顔からはすっかり血の気が失せていた。

 肩をすぼませ、寒そうに両手をすり合わせながら、ぶつぶつと念仏のように同じような文句を繰り返す。


「はあ、ついに来ちゃった……どうしよう、どうしよう……」

「だから大丈夫だって、大丈夫」


 ここに来るまでもこんなやりとりを一体何度繰り返したか。

 純花は不安で不安でたまらないらしく、朝からずっと落ち着きがない。

 

「そりゃともくんはセンターの時点であたしより有利ですからね……。あーでも英語すらともくんに負けたのまだ信じられない。この前までなんでこれが複数形になるわけ? なんて言ってたのに」

「そん時はまだ知識が飛び飛びだったんだよ」

 

 あの日から、俺は宣言通り大学受験に向けて本気で勉強を始めた。

 学校のやる気のない授業は全部無視して、ひたすら授業中も受験用の勉強だけに集中。

 周りも授業なんて聞かずに、こっそり漫画読んだりスマホいじっている奴らばかりだったから内職がはかどりまくった。

 毎日遅くまで学校や塾の自習室で過ごし、休日もときおり気晴らしをする以外はほぼ返上で勉学に励む。

 塾の夏期冬期講習なども皆勤し、やれることは一通りやった……と思う。



「わ、人いっぱいいるね……。ヤバイ、超キンチョーしてきた……」


 大学の構内に入った辺りで、純花が腕を抱くようにして体を身震いさせる。

 すでに合格発表の掲示はされていて、校舎の真ん前の掲示板には人だかりができているのが遠目にもわかる。

 悲喜こもごも、といった様子で、あちこちで喧騒が起こり大いに賑わっていた。


「胴上げとかやってるやつ本当にいるんだな」


 混雑に加わり、周りを見渡しながらそう感想を漏らすが、純花は完全に上の空のようでついにあいづちすら返ってこなくなった。

 ならばと掲示板の方に視線を走らせようとすると、


「ちょ、ちょっと待ってともくん! い、一緒に! いっせーので見よう? いっせーので」

「わかった。じゃ、いっせーの……」

「えっ、ちょ、ちょっと待って、まだ心の準備が……どうしよどうしよ……。あー、もう無理! やっぱりともくん見て、代わりに見て!」

「バカ、何言ってんだよ」


 一転して騒ぎ始めた純花をなだめようと、とりあえずニ、三度大きく深呼吸をさせる。

「純花のタイミングでいいから、それまで待つから」と言うと、純花は「大丈夫、もう大丈夫」と今度は睨みつけるようにしてキっと掲示板を見上げた。

 何もそんな喧嘩腰な感じにならなくても……と視線を縦横に泳がせる純花を見守っていると、突然目の動きが止まった。

 

「純花?」

「……あ」

「あ?」

「った……」


 そうぽかんと口を開けるなり、純花はじっと一点を見つめたまま、固まってしまって微動だにしない。

 まあしょうがないかとそのまま待つが、いつになっても動き出しそうにないので、目の前で手をひらひらとかざしてやる。

 

「おーい、生きてる?」

「……はっ、とっ、ともくん、ともくんは!?」

「あぁ俺? まだ見つかんねー……」

「えっ、そんな、ウ、ウソだよ、ウソウソ! ちゃんと見て、よく……」


 そうは言うが、こっちは今見始めたところだ。

 純花がみるみるうちにうろたえだしてうるさかったので、とりあえず落ち着かせようと、


「……あ、あったあった」

「あ、あった!? ホント!? や、やったあああぁぁっ!! やっぱりともくんスゴイ! すごいすごい!」

「何言ってんだよ、お前もだろ」


 俺の手を取ってぶんぶんと上下に振り回しながら、小躍りを始める純花。

 さらに周囲の目も構わず思いきり抱きついてきそうな勢いだったので、先手を打って両肩を押さえて固定する。

 

「だから言っただろ、大丈夫だって」

「う、うん……。でもあたし、まだ心臓バクバクで……。ともくんよくもそんな自信満々でいられるね? こんな時までクールぶってないでさ、もっと嬉しがろうよ。それでどのへん? ともくんの番号」

「え? えーっと、どこだっけな……」

「ど、どこだっけって、見つけたんでしょ?」 

 

 番号はまだ見つかってない。全然違うところを見ていた。

 改めて探しているうちに、隣で純花が世界が終わりそうな顔で呆然としだしたので、一瞬言うかどうか迷ったが仕方なく、


「ゴメン純花、実は俺……」

「ウ、ウソだよ……やめてよ、そんな……ともくん……」


 ぎゅうっと腕を掴み返される。痛い。

 ものすごい負の視線を感じるが、俺はあくまで平静を保ったまま口を開く。 


「実は、家出る直前に先に結果見てたんだ。ネットで」

「……は?」

「だから番号探すまでもなく、結果わかってんだよね。二人とも合格」

「は、はああああっ!? しっ、信じらんない、なんでそんなことすんの!?」

「だって落ちてんのにわざわざ大学まで行くのバカらしいじゃん」

「そっ、それは……いや、そういうことじゃないでしょ! なんで勝手に……」

「それにもしどっちかだけ落ちてたら帰り超気まずくね?」

「そんな事言いだしたら……あっ、だから昨日あたしの受験番号聞いたの!? 記念に写メして送ってとか意味分かんないこと言って! あーもうっ、信じらんない信じらんない! ずーっと大丈夫大丈夫って、そりゃ自信満々の余裕ですよね! 結果わかってたら!」


 噛みつかれんばかりの勢いでガミガミと激しい罵倒を食らう。

 うーん、まさかここまで騒がれるとは思わなかった。

 まあちょっと悪いかなーとも思ったが、帰りお葬式はマジで勘弁だったし。

 もし俺が落ちていたらさっきの続きが始まってしまうことになるわけだが、想像しただけで恐ろしい。


「もういい、ハルちゃんにチクってやる」

「だから悪かったって」


 純花は止めるのも聞かずに携帯をいじりだす。

 どの道合格の連絡はするのだろうが、俺の文句も一緒に垂れ流されるのはちょっと困る。

 春花から工藤だとか吉田らへんに話が流れて、俺が総叩きにされるという流れはこれまで何度もあったからだ。

 

「やったよハルちゃーん、合格ー! ねえねえ聞いてよ聞いてよ、ひどいんだよともくん」


 しかしすぐに通話が始まってしまって、純花は俺の顔をチラチラ見ながらやかましく喋り始める。

 仕方なくこちらも連絡先の中から目につく奴にメッセを送ってやると、一番で工藤から返信が来た。 


『おいやったな! マジすげーなお前! 秀治に言ってやったらメチャクチャ悔しがりそうだな!』

『秀治にも受かったって送ってやったよ。まだ返事ねーけど』

『今頃秀ちゃんイライラだぜきっと』


 秀治は早々に推薦で都内の私立大への進学を決めていた。

 らしいなとは思ったが、俺がT大を受けると知るや、「僕、逃げたわけじゃないから」だとかしきりに意味不明な弁解をしていた。


『じゃあ、またみんな集めてお祝いだな! 春花ちゃんも呼んで』

『まだ言ってんのかよ、もうあきらめろ』

『だって春花ちゃん女子大だろ? チャンスだろ、ここで決めとけば……。オヤジの車借りてさ、見事免許取りたてのオレの華麗なハンドルさばきを見せつけてやって……』

『お前それ事故フラグじゃねえの』


 いい加減やかましくなってきたので切り上げる。

 すると純花のほうもちょうど通話が終わったようで、


「ふっふーん、ハルちゃんも怒ってたよ? やっぱいい大学受かろうがDQNはDQNですねって」

「はいはい、すいませんでした」


 春花は春花で相変わらずぶれない。

 俺が勉強を始めてからも、さんざんに茶化されまくった。


「でもそんなふうに言いながらね、ハルちゃんねー……ともくんのこと好きだったって」

「は?」


 いきなり何を言い出すか。

 とっさになんと返すか言葉が出ずにいると、純花が俺の顔を指差してさもおかしそうに口を抑えだした。


「くすくす、冗談です~。ともくん今の顔~!」

「んだよ、ふざけんなよお前、マジで」

「でもね、この前ハルちゃん、ともくんには感謝してるって言ってたよ」

「は? なんだよそれ」

「だって最初に話しかけてきてくれたの、ともくんだけだったからって。ああいうの、最初が一番大変で……それからはほら、友達は友達を呼ぶ、みたいな? だからともくんがいなかったら、どうなってたかわからないって」

「ふぅん。俺がいなかったら、もっといい方に行ってたかもな」

「またそうやって~。ホントは困ってる人を放っておけないんだもんね、ともくんは」


 別に俺としてはそんな意図があったわけでもなく、たまたまだ。

 それにどの道春花なら、大丈夫だったんじゃないだろうかと思う。……たぶん。


「それはそうとお前もさ、これで兄貴とか、家の人のこと見返してやれんじゃん。合格してやったよ、って」

「うーんどうかな、もうそのことは……。あたし、途中からそういうの、どうでもよくなってた。ともくんと一緒に、同じ目標に向かって頑張ってさ。そりゃ、大変だったけど……でも一人のときよりずっと楽で、楽しかった。だから途中からはもう単純に、これからもともくんと一緒にいたいって、思ってて……」

 

 純花が以前のように好不調を繰り返すことはめっきりなくなった。

 何かに追い立てられるように焦燥感にかられて、ということもなく、勉強への集中力も格段に上がっていた。

 本人は悪い悪いというが、実際そこまで地頭が悪いというわけではないようにも思えた。

 簡単に言えば、余計なこと考えすぎ。問題はメンタルの方にあったようだ。

 

「だからT大落ちてたとしても、そこまで後悔はないかな」

「ホントかよ、さっきみたいなリアクションで? 受かってたからこそ言えるセリフだな」

「あぁんもう、あたしがいいこと言ってるのになんでそうやって意地悪言うの!」


 なんにせよ、純花の中でケリがついているのならいいことだと思った。

 ただ相手側のリアクションで、これからまた一悶着あるのかもしれないが……今の純花ならきっと大丈夫だろう。


「ともくんの方も……ああ、でもこの前行った時、ともくんのお母さんご機嫌で気持ち悪かったね」

「ああ、あれはな……」


 母親はあの一件以来……いや、俺が本格的に勉強を初めてから、妙に態度が柔らかくなった。

 本人は表に出さんとしているつもりなのだろうが、隠しきれてない。

 しまいには「朋樹がよりによってT大? 絶対無理に決まってんじゃん、キャハハハ!」と爆笑する姉となぜか喧嘩になっていた。 


「まあ、なんにせよ……おめでとう、純花」

「……うん、ありがとう。ともくんも、おめでとう……。でも、あたしが合格できたのも、全部ともくんのおかげで……ともくんがいてくれたからで……」


 言いながら、純花の瞳にはみるみるうちに涙が溜まっていく。

 こらえていたものが一気に来たのか、純花の口からは小さく嗚咽が漏れ始め、わなわなと体が震えだす。

 

「そりゃ俺のほうだってそうだよ。俺なんて合格どころか、純花がいなかったら、もっとずっと……ひでー事になってたかもしれない」

「うぅ、ぐすっ……そんな、そんなことないよ……ともくんは、本当はすごい……すごい人、なんだから……」

「……ありがとう、純花」


 俺は素直に純花の言葉を受け止めて、微笑み返す。

 すると純花は一瞬、はっとした顔で潤んだ瞳をまたたかせると、くしゃりと笑顔になって、頭から俺の胸元にぶつかってきた。


「おめでとうございまーす! おめでとうございまーす!」

 

 その時横合いから、ユニフォームを着た胴上げ軍団が、声を張り上げながら近づいてきた。

 在学生が手当たり次第合格者に声をかけて回っているようだ。

 慌てて背中に回されそうになった純花の手をほどいて、体を離す。


「ヤベっ、なんか来た逃げろ逃げろ」

「ふふっ、ともくんも胴上げしてもらえば?」

「嫌だよ暑苦しい」


 こうなったらもうここに用はない。

 あちこちでひしめくサークルの勧誘と思しき集団に捕まる前に、俺は回れ右して早々に掲示板を後にすると、純花がその後を小走りしながらついてくる。

 

「あれ? ねえもう帰っちゃうの?」

「もう用はすんだろ。住むとことか引っ越しとか、早く探さないと間に合わないかもな」

「あ、ともくんは今の所引き払うんだっけ。そうだ、どうせなら一緒に住んじゃおっか」

「え? いやそれは……」

「きゃー、ともくん今の顔えろーい」

「そんな顔してねえだろ」


 そんなやりとりをしながら、大学の入口付近まで戻ってくる。

 やっと騒がしさからは解放されたところで、俺は一度立ち止まって純花に確認をとる。


「悪い。俺、電話するとこあるから、入り口んとこでちょっと待っててくれる?」

「うん、待ってる」


 意図を察した純花が大きくうなづいて、俺を励ますよう胸の前でぐっと握りこぶしを作ってみせる。

 苦笑しながら純花と別れた俺は、入り口の門の手前で道を横にそれて、より人気のない静かな方へと移動する。

 歩きながら携帯を取り出し、電話帳から名前も登録されていない番号を呼び出した。

 

「出んのかな……」


 よぎる不安を紛らわすように、わざとらしく一人つぶやく。

 画面に表示される数字の羅列をしばらく見つめた後、俺は発信ボタンを押した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る