第66話

次に純花と会ったのは、連休が明けて三日越しの土曜日のお昼すぎだった。

 いつもの駅前で、という約束。やや遅れがちに家を出た俺は、道すがら状況確認のメッセージを送るべく携帯を操作する。

 待ち合わせで過去に何度かやらかしているため、このへんはすでに学習した。

『ごめん、ちょい遅れるかも……』と予防線を張ろうとする寸前で、曲がり角からいきなり飛び出してきた影とぶつかりそうになる。


「あ、すいませ……」 

「こらっ、歩きスマホは危ないですよー」

「……え? あれ、お前、なんで……」


 驚いた視線の先には涼しげな格好をした純花が、俺の手元を指さして立っていた。

 あっけにとられていると、純花は楽しそうに微笑んで、

 

「じゃじゃーん、待ってられなくなって来ちゃった。この方が長く一緒にいられるもんね。うふ、純花ちゃん健気でしょ? かわいいでしょ?」

「そこまで言わなければな~。それならそうと、電話でも何でもすりゃいいのに」

「たまにはサプライズして、ともくんをドキドキさせちゃおうかなって」

「もし行き違いになったらどーするつもりだったんだ」


 また変なすれ違いでドキドキさせられるのは勘弁して欲しい。

 そんなこちらの心配など知ったことかと、純花は早速俺の手を取ってぎゅっと握りしめてくる。


「あ~久しぶりーこの感触」

「久しぶりって、この前遊んだばっかりだろ」

「それはもう三日も前の話ですー。ともくん最近用事があるからって言って会ってくれないし、あんまりメールも返してくれないし。でも珍しいね。ともくんのほうから、行きたい所あるから付き合って、なんて」


 今日、誘いを入れたのは俺の方からだ。

 それが嬉しかったのかなんなのか、純花はやたらに上機嫌のようだった。

 どころか、ややハイの方に入っていると言ってもいい。 

 純花は外だというのに人目もはばからず体を近づけてきて、じっと俺の顔を見上げてくる。


「ねえねえ、それでどこに行きたいの? もうあたし、どこだってお供しちゃうよ」

「ああ、今日は参考書とか色々、見に行こうと思ってんだけど」

「参考書? なにそれ、くすくす」


 さもおかしそうに笑う純花。

 それは俺の発言が、もちろん冗談以外の何物でもないと思っているに違いなかった。

 だが俺は彼女の笑い声に迎合することはせず、平坦に、かつ強い口調で言った。


「いや冗談じゃなくて、マジで」


 それだけで純花は俺の様子がいつもと違うことを、すぐに嗅ぎ取ったようだ。

 とたんに表情をさっと曇らせて、長いまつ毛をまたたかせて、


「……どういうこと?」


 寸分のずれなく俺の目を射抜いてくる。

 俺は顔をそらすことはせずまっすぐに見つめ返すと、あさっての方角を指さして言った。


「ここで立ち話もなんだからさ、あそこの公園で話そうぜ」


 



 やって来たのは、いつぞやの公園だった。

 入り口の自販機で純花がいつも選ぶお茶を買って渡してやるが、「ありがとう」と言って受け取ったきり純花は栓を開ける気配はない。

 ついさっきまでとは別人のように、表情が沈んでいるのは明らかだった。


 奥の方からは子供たちのはしゃぎ声が聞こえるが、俺達のいるベンチ付近はいたって静かだ。

 若い男女は他に見られず、さらに身じろぎ一つせずそばに立ちつくす純花の姿は、傍目から見れば妙に映るかもしれない。

 

「座れば?」


 そう促すが、純花は俺が話を始めるのをじっと待っているようで、ただただ沈黙を守るばかりだ。

 かたや俺はそしらぬ顔でどかりとベンチに腰掛けて、ぐいっと飲み物をあおる。

 半分ほど中身を開け終わったところで一息つくと、傍で見守る純花の不安そうな顔を見上げて、口火を切った。

 

「俺さ、進学することにしたから」

「……え?」


 瞳を大きく見開いた純花は、一度喉をゴクリと鳴らすと、


「そんな、なに……言ってるの? 急になんで……そんな……」

「いや、別に今思いついたわけじゃねーから。何日か前に決めてたんだけど、直接会って言うべきだと思ったからさ」

「そういうことじゃなくて!」


 純花が急に声を張り上げて、足元を歩いていた小鳥が飛び立った。

 俺はかすかに震えている純花の口元をじっと見ていた。


「……進学って、大学受験するってこと?」

「そう。推薦とか無理だろーから一般でさ。どうせだったら、T大でも目指そうかなって」

「T大って……。ね、そういう冗談やめてよ、ふざけないでよ……。なにバカなこと、言ってるの? そんなの無理に決まってるでしょ、ともくん勉強なんて全然、してないのに……」

「これからするよ、もう決めたから。バイトも今月いっぱいで辞める」


 バイト先にはすでに話はしてある。

 学生組からは引き止められたが、高山さんはすぐに肯定して、「アルバイトは、それこそ私みたいなおじさんになっても、できますからね」とだけ言った。

 だからお前は今やるべきことをやれ、と言われた気がした。


「それと来週から塾だって行く。もう申し込みもした。お前、無理無理って、最後までやる前から言ってるけど……俺がやってみせたら、そんなこと言えないよな?」

「どうして……なんでそんなこと言うの? なんで……」


 純花はまだ信じられないと言った顔で、うわ言のようにそう繰り返す。

 それきり俺は余計なことは言わず、純花が次の言葉を吐くのを待った。

 すると、純花は突然険しい表情を緩めて、今度は心配をするような顔で、俺を諭すような口調で言った。


「……また、お母さんになにか言われたんでしょ? 大丈夫だよ、ともくん。あたし、ともくんの味方だから。もしお母さんと話しにくいなら、あたしが、代わりに……」

「だから違うって。俺が自分で、自分の意志で決めたことだから」

「嘘。自分でそう、思い込ませてるだけでしょ? ねえ、ちゃんと、言って? あたしには本当のこと話して?」

「わかった。本当のこと……話すよ」


 俺は残りの飲み物を一気に飲み干して、空いた容器をゴミ入れに放った。

 ベンチに浅く腰掛け直すと、純花もすぐ側に足を揃えるようにして座り、優しく見守るような眼差しを向けてくる。

 俺は一度目線を切って天を仰ぐようにすると、誰にともなく話し始めた。


「俺さ、やっとわかったっていうか……気づいたんだけどさ。ホント情けないことにさ、俺っていう人間は……しっかりそばで誰かが見ててくれないと、ダメな奴だったんだって」


 俺の口から飛び出した言葉が全く想定外のものだったのか、緩んでいた純花の表情が再びこわばった。

 だが俺は気にすることなく続ける。


「で、ずっと見ててくれた……少なくとも俺がそう思ってた人っていうのが、親父でさ。俺は親父に褒められるのが嬉しくて……喜ぶ顔が見たくて、そのためになんでも頑張ってた。俺のこと、わかってくれてるって……信頼してたんだよ。母親は俺のこと、怒ることしかしなかったから……俺は勝手に敵視してたけど、今思うと、よっぽど、俺のことちゃんと見てたのかもしれないけど」


 本当のこと。自分の正直な気持ち。

 これまで他の誰にも、いや、自分自身にさえも、はっきり口にしたことはなかった。


「それでその時は、親父がいなくなって、裏切られたって思って……苦しかった。なんにもやる気がなくなって……だけど俺、全然、気にしてねーってフリしてさ……。でも結局お前にはバレバレでさ、くそダセーよな。いろんなこと、疑ってかかるようになってて……。人から褒められても、まともに受け入れられなくなっててさ。お前が俺のことすごい、って褒めるたびに、嫌な気分になって……思い出しちゃうからさ。本当の俺のことなんて、わかってないくせに、ってな。最初にお前と別れようとした時、たぶんそんなのが、ごちゃまぜになってたんだと思う。本当のところ、俺がちゃんと話してれば、こじれなかったはずなのに……向き合うのが嫌で、怖かった。逃げてた。今思えば自業自得だよ。勝手に悪い方に思い込んで、ネガティブになってさ。バカみたいだよな」


 カラカラと笑い飛ばす。

 だが純花はそれにはつられず、今にも泣き出しそうな顔をした。


「そんなこと、ないよ……。だってともくん、本当に、辛い思いしてたんだから……」

「それと最初に純花と会った時さ、なんか転校してきたときの春花みたいな……まあ全然あそこまではひどくねーけど、妙に気になる奴だった。でも付き合い始めてから垢抜けてきて、案外しっかりしてるなって感じはじめて……これなら別に俺いらねーなって、思ったんだよ」

「それは……あたしが変わったのもともくんのおかげだから。ともくんが彼氏になってくれたから、あたしは……」

 

 うつむいて黙ってしまった純花の頭を、ポンポンと叩いて立ち上がる。

 話し終わった後の気分は、存外に晴れやかだった。

 

「俺、ガキだよな。もう子供じゃないんだからさ。いつまでも……もう、見ててくれなくても、俺は大丈夫だって、言わなきゃいけなくて……だから前向くことにした。T大っていうのはさ、そのぐらいのとこ行かないと、大丈夫だって言っても説得力ないだろ?」


 同時にいくつかの条件を満たす方法。

 本当はなんだってよかった。他にも、道はあるのかもしれなかった。

 でも今の俺には、これしか考えつかなかった。

 

「まあ大学なんて他にいくらでもあるんだけどさ……。そんでお前は、どうする?」


 真っ直ぐに見下ろしてそう尋ねると、彼女は両手で顔を覆って、面を伏せた。


「そんなっ……だってともくん、この前……お前の、好きにしたらって……言ってっ……」

「うん、好きにしたらいい。別に強制する気はないよ」

「でもあたし……ともくんみたいに、強くないからっ……! あたし、あたしは……どうしたら……」

「大丈夫、お前が何を選ぼうと、俺はお前のこと、見捨てて置いてったりしないよ。ただ、俺はちゃんと聞くから、後悔しないように答えろよ」


 泣き出してしまった彼女に、俺は手を差し伸べる。

 何も言い出せなかった。遠ざかっていく背中を、引き止められなかった。

 あの時の俺も、きっと今の彼女のように、わからなくなっていたんだ。


「純花、俺と一緒に――――」


 道を見失って、何もかもやる気を失っていた自分。

 だけどあの時、救いの手を伸ばしてくれる誰かがいたら、俺はきっと……。


 俺の言葉に、彼女はゆっくりと顔を上げた。

 

「そんな……そんなの、ずるいよ……」

「どうして?」

「だってそんなの……決まってるじゃん」


 迷うことなく、その手を取っていたと思う。

 

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