第65話

それから残りの休みは、純花に誘われるがままに、フラフラとあちこち遊び歩いた。

 あれから純花はあの一件を気にかけることも、沈んだ様子を見せることもなく、まるで吹っ切れたかのように無邪気に、楽しそうで……俺はそんな彼女に何か意見をするでもなく、意見があるわけでもなく、ただ手を引かれるがままに付き従った。

 あっという間に過ぎ去る時間。

 始まったばかりと思っていた大型連休は、気づけば終りを迎えていた。

   

 

 連休最終日は、午前中からバイトだった。

 時間が終わって、夕暮れ前に帰宅する。

 外に母親の車はなかったが、玄関を開けて中に入った途端、人の気配がした。

 足元に見覚えのないブーツを見て、なんとなく嫌な予感をさせながらもリビングへ入っていく。

 すると案の定、ソファーの上で横になった姉が無言で携帯をいじっていた。


「……なんでいんの?」

「なに悪い?」

 

 そう聞いただけなのに、噛みつかんばかりの勢いで睨んでくる。すぐに機嫌が悪いのだとわかった。

 こういう時は変に逆らわないで、黙っていたほうがいいというのは過去の経験則からも明らかだ。

 姉はけだるげに体を起こすと、茶色い髪を指で梳かしながら、じろじろと俺のことを観察し始める。


「なにそのジャケット? どこで買ったの? へんなの」


 姉は俺の髪型だの服装だの、何か気に入らなければいちいちケチをつけてくる。

 毎度のことで不愉快ではあるが見る目は確かで、そのおかげで色々と鍛えられはした。


「バイト行くだけなのにいちいちそんなシャレた格好しねーよ」

「いいよね~、こっちは毎日毎日気遣わなきゃならないってのに」


 たいてい口をついて出てくるのは仕事の愚痴。

 適当に聞き流しているうちに、話題はコロコロと変わり、聞いてもいないことを姉は勝手にあれこれと喋り始める。

 やがて話しているうちに気分が乗ってきたのか、同棲中の彼氏に浮気されたとかなんとか、キャンキャンとうるさい声で延々とまくしたてられた。


「向こうから謝ってくるまで絶対帰らないから。いや、つーかもう別れる。マジもう無理」

「マジかよ……。仕事は?」

「別に、こっからでも通えるし。ていうかさ、露骨に邪魔くせーなって顔しないでくれる? 相変わらず陰気くっさいよねあんた」


 そりゃあんたみたいなのに比べたら、誰でもそうなるわな。

 なんてことを言い返せば、きっと倍になって返ってくるので何も言わない。

 仲は別段良くもなく、悪くもなく。

 こうして顔を合わせれば話すが、普段から連絡を取るようなことは一切していない。

 

 それこそ姉が高校に上がる前ぐらいからだろうか。

 姉は弟の俺から見ても美人でモテて、その頃から彼氏が途切れたことはない。

 この人の髪型が変わるのも、化粧が変わるのも、服が変わるのも。

 読む雑誌だとか聞く音楽だって、きっとほとんどがその時付き合っている男の影響だ。

 そう感じるようになってから、なんとなく俺の知っている姉ではなくなった気がして、距離を置くようになっていた。


「全くもう、仕事終わりに愚痴聞かされる身にもなってほしいよ」

「はあ? 何が」

「だってお母さん、たまに酔っ払ってあたしに電話かけてくるんだよ? 朋樹が何も考えないでブラブラしてるって。やっぱり失敗だった、育て方が悪かった~って。……ま、それは今に限ったことじゃないんだけどね。あの人昔っから……」

 

 姉は俺と三つしか違わないのに、子供の頃から大人びていて、母親からも信頼されているようだった。

 母親が俺と接する時とは、明らかに態度が違った。昔から母は姉の意見は聞くくせに、俺の言うことはまるで子供の戯言扱いだった。

 

「……いや、つうかさ、あの人は単純に俺のこと嫌いなんだろ」

「そんなわけないじゃん。お母さん、朋樹大好きだから」

「は?」


 さも当然のごとく、あっけらかんとした口調で言われて、思わず聞き返していた。

 姉はふざけて笑っていることもなく、至って真面目な顔で、


「それでいちいちヒステリックになってたからね~。怒らないといけないところでも甘やかして……しつけってものが全然わかってない、できない人なのよ。ってしょちゅうあたしに愚痴ってきてさ……。でも単純にね、朋樹がお父さんに懐いていたのが気に食わないってだけなんだよ、きっとね」

「あの人が、そんなこと言ってたのかよ?」

「はっきり言われたわけじゃないけど、そんぐらいわかるよ、見てれば」


 今度はケラケラと面白そうに笑ってみせる。

 本当のところはどうだかわからない。ただの勘、で言っているのだろうが、その勘がよく当たる。だからこそ妙な説得力があった。


「お母さん、プライド高いから。なんだかんだであんたには大学、出てほしいんだと思うけど」

「大学……? そんなこと全然一言も……。大体、どっちにしろ金が……」

「お金お金って言うけど、奨学金でも何でも借りれば、その気になればどうとでもなるんじゃないの? ま、そこまでして行く必要があるのかは置いといてさ。……ね、それよりもさ。すっごい、ビックリな話あるんだけど、聞きたい?」

「別に」


 姉の何か企んでいそうなニヤニヤ笑いが鼻につく。

 そんな風に言うときは、たいていろくでもない話か、面白くもない悪い話。

 俺は姉を無視して冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出すと、中身をグラスにあけて口に運ぶ。

 

「まあまあ聞きなよ。……あたしこの前偶然ね、お父さんに会ったよ」


 グラスを傾ける手が止まった。

 ふちにつけた口を離して、俺はすぐ言い返した。


「……お父さん、なんかいねーだろ」

「じゃあ、知り合いのおじさん。それがねー、出かけた先の駅でばったり。なんとなく似てるなーって思って遠くから見てたらやっぱ本人で、向こうも気づいて。マジでビックリした、ほんとスッゴイ確率だよね」


 姉はやや興奮気味に言う。

 俺は半分以上残っていたグラスの液体を、そのまま流しにぶちまけた。


「……嘘つけよ」

「え?」

「偶然会った、とかなんとかって、偶然会うわけねーだろ! この前って、だいたいいつだよ!?」


 気づけばそう怒鳴りつけていた。

 姉は一瞬狐につままれたような顔をしたが、すぐに負けじと鋭い声で言い返してきた。


「この前の正月だけど? だから偶然って言ってんじゃん、なんなの? なんでキレてんの?」

「それだったら、どうして……」

「あたし知らなかったんだけどさ、お母さん引越し先も連絡先も、教えてないんだって。ほんと意地悪だよね」


 その一言で、まるで雷に打たれたように体が硬直し、言葉が出なくなってしまった。

 それだけ。

 たったそれだけのことで?


「ちょっとだけ、話したんだけどさ。朋樹のこと、気にしてたよ。学校卒業したら、どうするのかなって。サッカーやめてさ、なんかブラブラしてるみたい、って言ったら、急に黙っちゃって。それまで元気よく喋ってたくせにさ」

「あいかわらずわかりやすいんだよねあの人。てかあたしの話はどうでもいいのかよってね。まあどうでもいい話しかしてないけど」

「その時ちょうど日本に戻ってきてて、またすぐ海外行くって言ってたよ。タイだかどっか忘れたけど、なんかアジアっぽいとこ。すごく忙しいみたいだけど」

「内緒ねって言われておこづかいもらっちったー」


 俺は姉が一人で話し続けるのを、ただ呆然と聞き流していた。

 頭の中では色々な考えがぐちゃぐちゃに入り乱れて、断片的な記憶が錯綜してごちゃ混ぜになったが、どうしても辻褄が合わなくなって考えるのをやめた。

 それは結局、何も考えていないに等しかった。

 

 ポケットに入れたあった携帯の振動で、我に返った。

 姉はテーブルに置いた携帯を操作しながら、俺の方を指差して言った。


「それ携帯の番号、聞いといたから。今つながらないかもしれないけど、かけてあげなよ。気が向いたらでいいからさ」


 促されて携帯を見ると、姉からメールが届いていた。

 メールには件名も文面もなく、ただ一つ、電話番号だけが打ち込まれていた。


 


 


 晩飯は少し遅れて帰宅した母と二人で食卓を囲んだ。

 姉はついさっきまで電話で誰かと話していたと思ったら、友達と飯を食いに行くと言って、出かけていった。

 前回の一件からここ数日、母とはまともに顔も合わせていなかった。食事中は特に何も、母は言葉を発しなかったので、俺もそれにならった。


 やがて夕食が終わって、母がテレビを消すと部屋は静かになった。

 いつもは自室に戻るタイミングだったが、母が片付けを始めようと席を立つ際になって、不意に言葉が俺の口をついて出た。


「姉貴が、会ったって……聞いた?」


 あの姉のことだから、しゃべっていないはずがない。

 だからこれは質問ではなくて、ただの話のきっかけだった。


「聞いた」

「聞いたって……それだけ? 驚かないのかよ?」


 母の態度はあまりにもそっけなかった。

 なぜだか俺は苛立ってしまって、睨みつけるようにしてそう言ったが、返ってきた言葉はどの予想とも外れた。


「別に……お母さんも、何度か会ってるから。最後に会ったのは、今からちょうど……一年前ぐらいかしら?」


 母の言うことは、姉の話とも全く違った。その口ぶりからは、連絡先を全く教えていなかった、などということはなさそうだった。

 頭が混乱しかけたが、きっと姉にも話していないことなのだろう。

 これまでも母とは何度か会っていた、なんて話は完全に初耳だった。

 それどころか、あの人はただの一度も顔を見せていないと、そう言っていたのに。


「会って、何してるんだよ?」

「別に、少し話をするだけよ」

「なんで、黙ってたんだよ? 嘘ついて……」


 今度はすぐには答えず、母は目線をそらして黙ってしまった。

 まるでずっと張っていた緊張の糸が途切れたかのように、疲れた顔をしていた。

 

「……話したくないなら、別にいいけど」

 

 それを見て問い詰める気が急に失せた俺は、今度こそ自分の部屋に戻ろうとした。

 

「待って、朋樹」


 だが母は俺を呼び止めると、席を立って一度奥の部屋に引っ込んだ後、少しして何かを手に持って戻ってきた。


「これ、その時……あの人からお前にって、渡されたの」


 そう言って母は、長方形の小さなトラベルケースのようなものを差し出してきた。

 中に入っていたのは預金通帳だった。


「……なんだよ、これ」

「朋樹が必要としたら渡して、って言われただけだから。やりたいことが、見つかったときに……させてあげられないのは、かわいそうだからって」


 ――好きなことを見つけて、やりたいと思ったことをしなさい。

 

 親父は口癖のように、俺にそう言っていた。その通りにしたら、たいていうまくいった。

 でも次第にそれだけじゃうまくいかなくなって、壁を感じて、違うんだと思い始めた。

 だって俺が頑張れたのは……俺が好きだったのは。俺がやりかったことは。

 

「んだよ、それ……。金だけ、出せば、いいと思って……。俺は、そんなの……。こんなのより俺は……」


 本当はただずっとそばで、笑って、見ていてほしかった。

 それだけで勇気をもらえた。頑張ることができて、なんでもできる気がして、強くなれた。

 

 歯を噛みしめながら、俺は手にした通帳を強く握った。

 その向こうから、力なくまっすぐ俺を見下ろす眼差しを感じた。

 

「なんで今、渡したんだよ?」

「……本当は渡すかどうか、迷ってた。お前はずっと何も言わなかったから、気にしていないんだと思ってたから。きっとお母さんが、口うるさく言ったのが気に入らなくて、反抗してるんだろうって。でも、あの子が、言ってたことは……」

 

 あの時、俺の代わりに純花の放った言葉。

 どれだけ時間がたったところで、決して俺の口からは出なかっただろう。

 

「……気にしてないわけ、ないわよね。……ごめんね、お母さんがそう、思いたかっただけなのかもしれない。私の、変なプライドが……。でもね、あの人も、言ったのよ。朋樹は強くて、賢い子だから。弱い子を、助けてあげられる優しい子だから。俺がいなくたって、きっと大丈夫だって……そう、信じてるから。って」


 何か聞き返そうとして、言葉に詰まった。喉の奥が、ぎゅっと締まる感覚がした。

 何を聞こうとしたのかも忘れた。頭は真っ白だった。急激に目元が熱くなって、胸からこみ上げてくる何かを必死に押さえ込んだ。


「ほらね、ひどいでしょう? そうやって、自分勝手に思い込んで、最後まで無責任なこと言って。そう、思うでしょ?」

「やっぱ、俺の……せい、なのかな」

「仕事の都合だとか、お金の問題とか、意見の違いとか。いろんな条件がその時たまたま、重なっただけ。お前は、何も悪くない。悪いのは全部、あの人が……」


 母は言いかけて、一度、頭を振った。

 そして涙の浮かんだ瞳で、一瞬悲しそうな……悔しそうな顔をした。


「これからは自分が一緒に、いるわけじゃないから……俺を悪者にしてくれて構わないって。そうやって、言ったのよ……」


 その時、通帳の入っていたケースから、テーブルの上にひらりと小さな紙切れが落ちた。

 拾い上げると、それはメモ帳か何かの切れ端だった。そこにはよく見覚えのある字で、こう書かれていた。

 

『やがては朋を支える大樹のように 頑張れ朋樹』


 ただの紙切れが、大金の入った通帳よりもずっとずっと、重たかった。

 持つ指に力が入って、震えだして、しまいに止まらなくなった。

 

「なにカッコつけてんだよ……。へったくそな、字で……」


 やがて視界がぼやけて文字が滲んで読めなくなっても、俺はじっとそれを見つめていた。

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