第64話
「ちゃんと家まで送るって、言ったわよね? これは、どういうこと?」
翌朝のことだった。
母が起きる前に、早めにどこかに出ようと身支度を整え、部屋を出て一階まで下りてきた矢先。
まるで待ち伏せていたかのように、一階奥の部屋から突然現れた母が俺達の行く手を遮った。
「まさか、あれだけ堂々と嘘を吐くとは思わなかったから」
そう言いながらもおそらく母は、昨日の晩から気づいていたのだと思う。
もはや怒りを通り越して呆れた、と口では言いながらも、腕組みをして俺の前に立つ母の目元は鋭い怒気を含んでいた。
「それで、黙っているのはなぜ? 何か申し開きは?」
「……嘘は言ってねーよ、予定が変わっただけで」
あれこれと反論する気もなかった。
どう説明したところで、どの道叩き伏せられるのはわかっている。
「はぁ……まったく、一体何を考えて……」
母が忌々しそうに大きく息を吐く。
俺がじっと沈黙していると、一度息を呑むようにした純花が、横合いから口を差し込んだ。
「あの、ともくんを……朋樹くんを、責めないでください! 私が、無理に言って……」
「今、朋樹と話しているから。黙っててくれるかしら」
母は純花をちらりと一瞥したきり、すぐに俺の方へ視線を戻す。
俺は無意識のうちに、そんな母の目と目が合わないように、床にできた小さな破れを見ていた。
「黙っていたらわからないでしょう? 何か考えていることがあるのなら、言いなさい」」
「別に、なんもねーよ。そっちが、思ってるとおりで……」
「黙っていれば、相手が勝手に理解してくれるとでも思ってる? 残念ながら私は超能力者じゃないの。……そんなにお母さんが嫌いならば、はっきりそう言ってくれて構わないわ」
「嫌いとかなんとかって、別に……」
「だったら……だったらなんだって言うの!? いつもいつも……そうやって黙ってたらわからないでしょう!? こんな……こんな、私へのあてつけみたいなことばかりして!」
甲高い怒鳴り声が耳をつんざく。
俺は母親のこの声が、昔から嫌で嫌で、仕方なかった。
そのたびに無条件に体がすくんで、胸が詰まって、何も言い返せなくなってしまうのは、今も変わっていなかった。
できるのは、ただうつむいたまま、母の怒りが収まるのを待つこと。その間俺は、一度たりとも、母の顔を見ようとしなかった。見たくなかった。
なぜならきっと母は、寸分も付け入る隙のない険しい顔をして、憎悪のこもった目で俺の事を、睨みつけているのだと思ったから。
「いや、だから……」
だが今は隣に、純花がいる。何か言い返さなければ、と思った。
それはなんとか母を言い負かそうとする考えからではなく、単純に情けないところを見られたくないという、ただの見栄だった。
その勢いに任せて、俺は初めて顔を上げて、母を睨み返した。
そして、愕然とした。
「朋樹、どうして……」
まっすぐ俺を見つめる瞳は、光を反射してうっすらと光っていた。
怒り狂うどころか、その顔は今にも泣き出してしまいそうで……。
今度こそ俺は何も言い返せなくなった。
その目に釘付けにされたように、ただ立ちつくしていた。
母親のことが嫌いだから。あれこれと口出しされるのが嫌だから。
それに反抗するように、俺がわざと母親の嫌がるようなことをしている。
そう取られても仕方なかった。それは俺が自分の考えを、気持ちを……はっきり母親に伝えたことはなかったから。
「あてつけだなんて……そんなわけないじゃないですか! ともくんはお父さんが……、お父さんのことで苦しんでいるのに、どうしてそんなこと言うんですか!」
代わりに純花がそう叫ぶのを、俺は他人事のように聞き流していた。
父親がいなくなろうと、俺は何も気にしてない。
あんな奴の事は、いまさらどうだっていい。
俺は今までずっと、そうやって振舞ってきたから。
「朋樹……お前……」
張り詰めていた母の気が一瞬緩んだ。
俺を守るように立ちはだかるようにした純花が、さらにその顔に向かって続ける。
「自分の息子のこと……何もわかってないんですね。お母さんがそんなだから、朋樹くんは……」
「そんなことを言われる筋合いはないわ。赤の他人よりはよっぽどわかっているつもりよ」
「赤の他人なんかじゃありません! あの、私……朋樹くんが好きなんです! 一緒にいたいんです! これからもずっと……」
純花はそう声高に述べ立てながら、母親に詰め寄っていく。
それを受けた母は、一瞬かすかに不愉快そうに眉をひそめたが、すぐに普段の表情に戻って冷静に切り返す。
「ずっと……ねえ? 今はそれでいいかもしれないけど、これから次第に周りとの差がついて、そのうち思い知ることになるわ。やるべき時にやることをやらずに、目を背けて逃げた人間は、きっとこれからもそうなる。負け癖がつくのよ。一度失った自己評価は、そう簡単には取り返せない」
「違うんです、ともくんは本当はすごくて……でも今は、わけがあって……。それに、これからたとえ何があったって、私が、彼を支えます! 私が……私ならわかってあげられるんです!」
「あなたが支える? あなたの家は、資産家か何かのお家なの? そんな人間が、朋樹と同じ学校に通っているとは思えないけども……。悪いけど見ての通りうちには、支援する余裕も余力もないの。卒業後は進学? 就職? どうするの? 住むところは? 子供は生む気? それで暮らしていけるの? 親御さんはなんて言っているの?」
立て板に水のようにまくしたてられ、純花はすぐに返す言葉を失い口を閉ざす。
だが少しの沈黙が流れた後、今度は純花の体が小刻みに、わなわなと震えだした。
「……意地悪……そうやって意地悪ばっかり……! 何も、わかってないくせに……!」
低い声で唸るようにして、相手を睨みつけた。
その時彼女は、母に掴みかかろうとしたのか、はたまた外に飛び出そうとしたのか。
「待て、純花……っ!」
その寸前、俺は彼女を引き留めようと、間に体を割り込ませた。
しかし体を受け止めた拍子に、フローリングの足元が滑り、バランスを崩す。
慌てて支えを得ようと伸ばした手の先が、何かにぶつかった。
「危ないっ!!」
ガシャン、と何かが割れる音と母の悲鳴が、すぐ近くで聞こえた。
と同時に背中を支えられ、倒れかけた体は平衡を取り戻した。
「動かないで!」
耳元のすぐそばで響いたのは母の声だった。
その言葉で、落ちて割れたのは棚に飾ってあった皿で、転びそうになった俺を支えたのは母だとわかった。
「足元……気をつけて、向こうに行って。二人とも、ケガはない?」
「いやそっちこそそれ、足……」
「大丈夫、切れてはいないわ」
俺を支えようとしたせいだろう。母の右足は、思い切り床の上の破片を踏みつけていた。
切れていないと口では言っているが、靴下を履いているので実際はわからないし、もし素足だったなら大惨事になっていたかもしれない。
足元に散らばった破片を避けて、玄関の方へ。
だが純花は顔面蒼白になったまま、その場を動こうとしなかった。
「大丈夫か純花? こっち……」
そう促すと、純花は我に返ったように突然唇を震わせて、
「あっ、あの……あ、あたし、ご、ごめんなさ……」
「いいの。ケガがなかったのなら、よかった」
「で、でもっ、あのっ……! あ、あたし弁償……か、片付けも……」
「気にしないでいいから。片付けも危ないから、私がやるわ。朋樹、出るなら出なさい。今日は帰り遅くなるから、ご飯は自分で済ませて」
まるで何事もなかったかのように、母はいつもの口調でそう告げると、リビングに引っ込んでしまった。
手伝おうかとも思ったが、こうなると母の性格上、頑として聞かないだろう。
母はすぐに新聞紙と掃除機を持って戻ってきたが、案の定こちらを見向きもせずに言った。
「早くしてくれる? ずっとそこにいられても、邪魔だから」
取り付く島もなかった。
言われた通りそのまま家を出ようとするが、純花は何か訴えるような目でこちらを見上げてくる。
「大丈夫」という意味を込めて一度頷き返してやると、純花は母に向かって深々とお辞儀をした。
「……すみません。大変……ご迷惑を、おかけしました」
家を出た後は、お互い無言のまま、ただ気もそぞろに歩いていた。
俺自身、何を言えばいいのかわからなかったし、それは向こうも同じだろう。
どこかに行って気を晴らそうにも、まだ時間も早く、営業している場所はほとんどない。
「どうすっか……」
大通りまで出てきて、やっと独り言のようにそう俺が口を開いたのを、純花は耳ざとく拾った。
「……あたし、今日は帰るね。帰ってないと、何か言われるかも、しれないから」
「お前、友達の家に泊まるって言ってあるって……」
「ごめんなさい、嘘です。また嘘、つきました……」
そう言ってうつむいて、肩を落とす彼女を責める気にはなれなかった。
なんとなくそんな気はしていたのもあるが、半分は俺がそう言わせるよう仕向けたようなものだ。
駅はまばらにしか人がいなかった。
純花が見送りを固辞したのと、このまま一人でどこかに出かける気力もなかったので、改札前で別れることにした。
「じゃあ……」
「さっき、言ったこと……」
「え?」
「本気で言ったの。ともくんのこと、守らないと、守らないとって……。でも、ともくんのお母さんに色々言われて、頭真っ白になっちゃって、立ちくらみみたくなって、わけわかんなくなっちゃって……」
結果的にこんな事になってしまったが、あそこで母に噛み付いたのも、情けない俺の代わりに、勇気を振り絞ってのことなのだろう。
純花はただぼうっと見下ろす俺の手を取って、両手で握りしめてみせた。
「あの、大丈夫だから。あたし、頼りないかもしれないけど……。何を言われたって、ともくんのこと、置いてったりしないよ。ずっとそばにいるからね」
母親の言葉を真に受けている様子はなさそうだった。それどころか、純花はあくまで抵抗するという意思表示をした。
そして俺はそんな彼女を、肯定も否定もすることなく、ただ力なく手を預けたまま、複雑な気持ちで見つめていた。
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