第63話
その後、純花が一人で行きそうな場所をしらみつぶしに回った。
さらにできる限りの知り合いにも連絡をして確認を取ってみるが、誰一人として純花の動向を知るものはいなかった。
この近辺であいつが行くところなんてたかが知れているが、カラオケや漫画喫茶などの個室に入ってしまっている可能性もある。
そうしているうちにも、刻一刻と時間は過ぎ去り、いつの間にか日は落ちて日没。
途方に暮れながら、もしかしたら、と一縷の望みをかけて帰宅したが、やはり道中にも自宅にも純花の姿はなく、待っていたのは若干不機嫌顔の母親だった。
リビングに足を踏み入れるなり、台所の方からやや詰問口調の声音が飛んでくる。
「朋樹、もう熱は下がったの?」
「ああ、まあ」
「ご飯は? 食べるでしょ?」
「ん~、あー……」
矢継ぎ早の質問に、携帯を確認しながら上の空で答える。
曖昧な返事をしたせいか、はたまた病み上がりで外を出歩き回っていたことが気に入らないのか。母は普段より虫の居所が悪いようだった。
とはいえ、このまま家でゆっくり飯を食う気にもなれなかった。
純花の携帯はいぜんとして不通。
家に帰っているかだけでも確かめようと、自宅に確認の電話を入れようとするが、純花の家の電話番号を知らないことに気づく。
少し迷った末、俺は再度純花の家に向かうことに決めた。
「ちょっと出るから、飯いらない」
「また出かけるつもり? こんな時間から、どこに行くの?」
「……ちょっと、友達のとこ」
そう言い放った途端、空気が変わった気がした。
友達、というのが実際なんなのか、母はおぼろげに察しているのかもしれない。
「前も言ったけど、付き合う人間は……」
「違うって、遊びに行くわけじゃない」
「じゃあ、何を……」
母がすぐに切り返しかけたその時、不意にインターホンが鳴った。
途中で言葉を切った母は、無言のまま俺の顔を見た。こんな時間に来客があることは、まずないことだ。
俺は母の視線を振り切るようにして、モニターを確認もせずに急ぎ足で玄関口へ出た。
予感は当たった。
「お前……」
俺の顔を認めるなり、玄関先に立つ相手はうつむいた。
お気に入りだと言っていた花模様のワンピースの上に、いつもは見ない黒の長袖のカーディガンを羽織っていた。
「なにしてんだよ、電話も、出ないで……」
口をついて責め立てる言葉が出てしまうが、こうして姿を見て、内心安堵していた。
これだけ一日あちこち探し回っても見つからなくて、このままもう二度と会えないのではないか、なんてバカげた思いが頭をよぎったりもしたからだ。
「……あ、」
一呼吸あって、うつむいたままの純花が何事か口にしようとしたその時、背後で影が落ちた。
振り向くと母が、俺のすぐ後ろに立っていた。睨むように厳しい目で純花を見ていたが、すぐにそれを俺の方によこした。
「……家は、どこ? 車で送っていくから」
「いやいい、俺がちゃんと家まで送ってくるから」
俺は母を睨み返すようにして、そう口走っていた。
母は一度二度、大きく瞳を瞬かせて、何か言い返そうとして、やめた。
そしてしばらく無言の間があった後、母は俺と純花二人を交互になだめすかすようにして、
「……遅くならないようにしなさい」
それだけ言うと、居間の方に引っ込んでいった。
俺達はまばらに街灯の照らす道を、駅に向かって歩き出した。
お互い無言だった。純花は俺のすぐ一歩後ろを、黙ってついてくる。
言ってやりたいことは山ほどあったが、なぜだかそんな気も失せていた。
向こうが何も言葉を発しないので、俺も何も言わなかった。
そのまましばらく歩くと、大通りにさしかかる直前で背後の足音が止まった。
振り返って、足を止めた彼女に声をかける。
「どした」
純花はうつむいたまま、俺の顔を見ようとしなかった。
代わりに、かすかに聞こえる程度のか細い小さな声で、つぶやくように言った。
「怒ってる……よね」
「……怒ってない。いやまあ、怒ってたけど……なんつーか、今は安心したっていうか」
いつもの調子で答えると、一歩歩み寄って、
「腕、見せてみ」
そう促すが、純花はわずかに一度、びくりと体を強ばらせたきり、地面を見たまま微動だにしない。
仕方なく強引に左腕を取って素早く袖をまくり上げ、上向きに手首を街灯に透かすようにする。
「あっ……」
「あーあ、跡残んだろこれ。何やってんだよほんと」
わざと意地悪く言ってやると、純花は慌てて俺の腕をのけるようにして、めくれた袖を元に戻す。
そして左腕を右手で抱きかかえるようにして、
「ごめん……なさい。こんなの、引くよね。嫌いに……なるよね」
「ああ、そんなバカなことするやつはな」
「あたし……ともくんに、嫌われちゃうって、腕、治そうと思って……。病院、行こうと思ったんだけど……今日、どこも、休みで……」
「そんな自分でやった傷で病院来られたら、病院も迷惑だろうな。ほんとバカだよバカ。超バカ」
「そ、そんな、バカバカ言うこと、ないじゃん……う、うぇ、えっ……」
「はいはい、泣かない泣かない」
俺は嗚咽を漏らし始めた純花の肩を抱きよせて、優しく頭をなでてやる。
すると純花は、胸元に顔をうずめるようにして、体を預けてきた。
「ごめん。もとはといえば俺が、しょうもない嘘、ついたから悪いんだよな。……母親に、言われたんだよ。お前が、人の足を引っ張ってるんじゃないかって。邪魔してるって。それで俺、その通りだな、って思って。俺、純花の邪魔、してるよな」
「そんなこと……そんなこと、あるわけないじゃない! ともくんがいなかったら、あたしは……」
「まあとりあえず今日は、帰ろうぜ。もう遅いからさ……」
俺は純花の体を離すと、回れ右をして、再び駅の方に向かって歩きだそうとする。
だがそれを引き止めるように、純花はその場に立ち止まったまま、俺の腕を取った。
「嫌……」
純花はどうしてもまだ帰りたくない、という。
目を赤く腫らした彼女をそのまま突き放すこともできず、とりあえず一度大通りにあるコンビニで飲み物や晩飯の代わりになるものを買う。
それから駅への道を少しそれて、近くの公園へ足を向けた。入り口の自動販売機の立ち並ぶ明かりのすぐそばのベンチで、二人隣りあって座る。他に人気はまったくなかった。
俺がおにぎりを頬張る横で、純花は温かいお茶を一口、二口と口にして、だいぶ落ち着いたようだった。
やがて根掘り葉掘りと、今日のことを話し始める。
「家に帰って、聞いたの。ともくん、心配して会いに来てくれたんだって……」
「だってお前、電話出ないんだもん。いきなり切るし」
「ご、ごめんね。だって、ともくん怒ってるって、思って、怖くなっちゃって……。それに携帯で病院とか、色々調べてたら、電池なくなっちゃって……」
「まあそれはもういいけど……にしても、お前の兄貴、よくわかったな」
「それは……」
純花の兄は、なんだかんだで俺が来たということを伝えてくれたようだ。
それならそれで感謝してもいいようなものだが、純花の表情は晴れない。
どころか、みるみるうちにこわばり始め、何か嫌なことでも思い出したかのように、足元を睨みつけた。
「いいの、あんな奴……」
「は? なんだよそれ、何が……」
「その時、言われたの。あんなバカそうな男と付き合ってて、お似合いだなって。T大目指すんだろ? フラフラ遊んでる場合なのかよって」
「ふうん、そんなん言うんだな。全然、おとなしそうな感じだったけど」
「昔から、そういう人なの。外ではおとなしいくせに、家の中では、偉そうにして……! ともくんのこと、なんにも、知らないくせに……。ともくんそんな風に言われて、怒らないの?」
「だってお前の兄貴第三高だっけ? そりゃ俺なんてバカに見えるだろうな」
「そういうことじゃなくて、頭は……そこそこいいかもしれないけど、あの人は勉強以外、からっきしだし。でもウチのお母さんは、勉強さえできれば、いいと思ってるから……」
だからこそ、勉強で見返してやりたかったんだろう。
それまでの関係性をぶち壊す、ある種の挑戦。
だけどそれは、今となっては……。
「やっぱり、お前……」
「悔しくて……悔しいけど……! 頑張ったけど、やっぱりあたし、ダメだった。無理だって、思い知ったから。……それに、ともくんはどうするんだろうとか、色々考えちゃって……」
以前に話をされてから、俺もT大のことはそれなりに調べた。
ウチの学校の偏差値からするとハードルが高く、志望校とする人間は周りにはいないのだろう。
過去に進学の実績が全くないわけではなかったが、あっても数年に一人か、二人程度。
「だから、もういい。あたし、バカだって……そうだよね。あの人の、言うとおりだよね……」
そのまま消え入りそうなほどに、純花の声はだんだんと小さくなっていく。
とうとう下を向いてしまった彼女に、返す言葉が見つからないでいると、不意に手の甲にぽつりと水滴が落ちた。
雨だ。
「最悪だな……」
辺りから、まばらに雨音が聞こえ始める。
ゆっくりだが、このままだと確実に降り出すだろう。こころなしか肌寒くなってきた。
携帯を取り出して時計を確認すると、時刻は夜十時を回ろうとしていた。思っていた以上に時間が過ぎていた事に気づく。
こうなると今から純花の家まで行って、帰ってくるのはあまり現実的じゃない。
かといって、当然このまま一人で純花を帰すわけにもいかない。
「どうすっかな……」
「……どうしようね?」
そう言う割に、純花はそこまで困っているようには見えない。
無事帰ることよりも、あとどれだけ俺と一緒にいられるか、ということのほうが重要なようだ。
決断するのにさほど時間はかからなかった。俺は結局、純花を連れて自宅に戻ってきた。
玄関の明かりはついていた。純花を軒下に待たせて、一度先に一人で家に入る。
するとちょうど、いつもはこの時間なら寝室にいるはずの母親が、リビングから出てきた。
そして「電気、消し忘れないで」とだけ言って、すぐに奥の寝室に引っ込んだ。
母親に「やっぱり純花を車で」と頼むつもりは元からなかった。
しばらく待ってから俺は静かに玄関を開けて、純花を中に招き入れる。
純花には足音を立てないよう注意して、ご丁寧に脱いだ靴も持ってこさせ、自分の足音だけ大きく立てて二階の自室へ。
物音をごまかすため、部屋に入るなりすぐに大きめの音量でテレビをつけた。
やかましいテレビの音が響きだすと、純花は胸に手を当てながら声をひそめる。
「あぁ、どきどきする……。なんか、すっごい悪いことしてるみたいだね」
「実際悪いことしてるよ。お前、本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫大丈夫。友達の家遊びに行って、泊まるって言ってあるから」
純花の言うことは実際本当かどうかわからなかったが、どのみちここまで来てしまったからには、後には引けない。
俺が半分冗談で言ったことに純花も乗っかってしまい、後はもう勢いだ。
「こんな時間にともくんの部屋にいるのって、変な感じ」
「その割になんか楽しそうじゃん」
「ヤバイ、なんだろう、なんか楽しくなってきちゃった」
「って言ってるけど、見つかったらマジでどうなるかわかんねーからな」
「大丈夫。いざとなったら、ダンボールの中に隠れてやり過ごすの」
「なんだよそれ、バレるに決まってるだろ」
「え~知らないのともくん。潜入するゲームでそういうのあるんだよ」
くすくす、と笑う純花を見て、俺も自然に笑みがこぼれていた。
その後は、なるべく動かず、声のトーンを限りなく落としている、ということ以外はいつも通り過ごした。
純花がトイレに行きたい、というミッションもなんとかこなし、夜はすっかり更け消灯の時間になる。
明日は朝イチで出るか、もしくは母親が出るのを待つか。何にせよあちらの動向次第だ。
「さて問題は……」
とりあえずベッドは純花に譲ることにして、色々と思案を重ね、床に座布団を並べてみる。
だがやはり何か足りない、と首をひねっていると、ベッドの上に腰掛けた純花が、ぽんぽんと布団の上を叩いて、
「ともくん、おいで」
「いや、それは……」
ためらっていると、純花はぐいっと俺の腕を引いて無理やり座らせてしまう。
向こうはすっかりその気のようだが、これはさすがに……。
「いや無理だろ、狭いし……」
「大丈夫だよ、あたし、やせてるし」
謎のアピールをされるが、別段細いというわけでもなく標準よりはいくらか……という程度だと思う。
そんな意味を込めて少し冷ややかな視線を送ってやるが、純花は意にも介せず勝手に電気を落とした。
かと思えば、今度は暗闇の中で何やらゴソゴソと衣擦れの音がする。
「おい待て、何してる」
「あたし寝る時いっつも下着だけだから」
大胆に服を脱ぎ捨てたらしい純花は、そのままするりと布団の中に体を潜り込ませた。
カーテンの隙間から入る外の街灯の光が、一瞬純花の白い肌を照らした。
「ほらここ、空いてますよ~」
純花がすぐ隣の枕元を叩く。
体を詰めてスペースを作ったらしいが、やはりどう見ても狭い。
「どうしたの? もしかしてともくん、ビビってるのかなぁ?」
何をどうビビっているというのかわからないが、そうまで言うならもうこちらも遠慮はしない。
一息に体を滑り込ませると、すぐさま耳元をくすぐるような息遣いを感じる。
「うふ、きたきた」
「おい、ちょっと……」
「静かに……ね?」
こそばゆくなってすぐに背中を向けように体をひねると、今度は脇に下辺りから腕が入ってきて、ぎゅっと体を抱きしめられる。
背中に触れた柔らかい感覚から、はっきりと純花の体温を感じた。伸びてきた純花の手に自分の手を重ねて、左手首の傷跡を、指で優しく触れるようにして撫でた。
「ごめんなさい。心配、させて……」
「心配なのはいつものことだよ」
「うん……。いつも夜、なかなか眠れないんだけど……これだと安心する。すぐ眠れそう」
「……そりゃ、よかった」
「でもともくんのほうが、眠れなくなっちゃうかもね。くすくす」
そう言いながら、純花は俺の体に回した腕をぎゅっと強く締め付けてくる。
確かにこの状態でこのまま眠れるかというと、かなり怪しい。
なんとも言い返せずにいると、どういうわけか純花のほうも黙ってしまった。
「なんだよ、急に黙って……」
「えっと、なんかその……落ち着いたら、恥ずかしくなってきちゃって。なんか勢いで脱いじゃったし……」
暗くて表情まではよく見えなかったが、純花は恥ずかしそうにこつんとおでこを背中に押し当ててくる。
そういう感じを出されると、こちらも非常にやりにくい。
こうなったら意地だ。
背中に襲ってくる体温と、匂いと、息遣い。
それらすべてを集中と精神力でもって遮断し、ひたすらに羊を数える。
やがて羊が何百匹に達したかのあたりで、背後から規則正しい呼吸の音がするのに気づいた。
その安らかな寝息を聞きながら、いつしか俺はゆっくりと眠りに落ちていた。
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