第62話


 画像は誰かの左手首を写したものだった。

 細く白い腕。見切れている手のひらと親指の形には見覚えがあった。

 いつもと違うのは、その手首から五~六センチ離れたところに、ミミズ腫れのようになった赤い横の線が三つ、くっきりと浮き上がっていた。

 

『それはなんだよ、何やってんだよ』


 反射的にそう文字を打って、送信した。

 その間もみるみるうちに心臓の鼓動は早まっていき、返信を待っていられなくなった俺は、すかさず画像ごとアプリを閉じて電話をかける。

 ワンコール鳴り終わらないうちに、受話口から声がした。


「あ、ともくんだぁ」


 脳天気な声。

 それを聞いた途端わずかに安堵するが、同時になんとも言い表しがたい苛立ちが募りだす。


「お前それ、自分でやったのか?」

「うん」

「うんじゃねーよなにやってんだよ」


 全く悪びれる様子もない純花の反応。

 焦りとも怒りともつかない感情が入り乱れて混乱した俺は、考えもなくそうまくし立てていた。

 

「ともくんにひどいこと言った罰だから。勝手に、うそつき呼ばわりして……」

「何が罰だよ、意味わからないこと言って……。バカだろ、お前」


 不可解な行動になんと言葉をかければいいかもわからず、俺はそれきり沈黙した。

 それにあわせるように純花は無言になったかと思うと、やがてすすり泣く声が聞こえてきた。


「ごめんなさい……。嘘……嘘です。急に、切りたくなって……。傷見せたら……心配、してくれるかなって……」


 依然として、口にすべき言葉が見つからなかった。

 自分が落ち着くのを、待ったほうがいいと思った。

 怒鳴りつけそうになるのを、奥歯をかんでこらえて言い聞かせる。

 

 一度携帯から耳を離して、深く呼吸をしながら、必死に頭のなかで言葉を選んでいく。

 熱で頭が回らなかったとはいえ、昨日の自分の言動に全く非がなかったとは当然言えない。

 間を置いて、なんとか少し落ち着きを取り戻した俺は、再度携帯を耳にかざして、ゆっくり語りかけるように話す。

 

「ごめん、俺が悪かったよ。純花、楽しみにしてたのに、台無しにしちゃって……」


 そう言って受話口に耳を澄ませると、すぐに異変に気づく。

 携帯の画面を確認すると、いつの間にか通話は切れていた。

 再びコールするが、機械的なメッセージだけが流れる。おそらく電源を切られたか。


 またも心拍数が上がり始める。

 メールを送ったりもしてみるが、全く反応はない。

 電話がかかってこないか待つが、すぐにいてもたってもいられなくなり、着替えを始める。

 こうなったら直接、家に押しかけるしかないと思った。五分後には、携帯と財布だけを持って、家を飛び出していた。

 

 急ぎ足で最寄り駅のホームまでやってきたところで、あることに気づいた。いや、すっかり忘れていた。

 今日の午後イチから、バイトを入れていたことをだ。

 ここで電車に乗って純花の家のほうへ行ってしまうと、おそらく時間までには戻ってこれない。

 

 体調不良なら不良で、昨日のうちに連絡を入れておくべきだった。

 ただ今の調子なら、問題なく働くことはできるのだが……。


 先ほどの、手首の画像が頭をよぎる。

 さんざん迷った挙句、俺はなるべく静かな場所へ移動して、バイト先へ電話をかけた。


「お電話ありがとうございます……」


 高山さんが出た。

 たしか連休中はほとんどかり出されていると言っていた。


「お疲れ様です、すいません、バイトの早坂です。あの、店長は……」

「あ、お疲れ様です。えっと、ちょっと待って下さいね……。…………ええと、今ちょっと手が離せないようで……どうかしましたか?」


 そうは言うが、おそらく向こうも用件はわかっているだろう。

 それでも言い出しにくかった。相手がこの人だと特に。

 

「……あの、申し訳ないんですけど、急に体調が、悪くなっちゃって……」

「ああ……そうですか、それは……」


 先月も、こう言って急に休んだばかりだった。

 その後出勤したときに、体調は大丈夫ですか、と心配されて、何食わぬ顔で嘘を吐いた。

 

「無理は、しないほうがいいですね。安静にして……」


 いくら気をつけても、受話口は駅の喧騒を拾ってしまっているに違いない。

 それでも疑うような素振りは微塵も見せず、高山さんは俺の身を案じた。


「もし長引くようなら……」

「ごめんなさい、今の、嘘です。熱はもう……下がったんですけど、彼女が……行かないといけないんです」


 気づけば俺は、相手の声を遮るようにとっさにそう口走っていた。

 向こうにしてみたらわけがわからないだろう。自分でもよくわからないが、俺はこの人に、これ以上嘘をつきたくなかった。

  

 こんなことを言えば、バイトだからって仕事なめてるだろうと思われても仕方ない。

 どのみち、失望させることには違いなかった。

 やがて少し間があった後、


「わかりました。体調を崩して来れなくなったと、伝えておきます」

「えっ……」

「いいんですよ。みんな、ウソつきですから」


 高山さんの声は意外にも柔らかかった。

 丁寧に礼を言って電話を切ると、純花からの連絡がないか確認した後、ちょうどホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。




 

 純花の家までは問題なくたどり着いた。

 だが問題はそれからだった。遠目に家が視界に入った時から予感はしていたのだが、その通りになった。

 以前来たときには駐車スペースに止まっていた乗用車がない。家の周りは静まり返っていて、とても中に誰かいそうな気配はなかった。

 そして案の定、インターホンを何度鳴らしても、誰も出ない。「すいません」と庭の方にも大きく声をかけてみるが、反応はない。

 誰もいないのは明白だった。あるとすれば、純花に居留守を使われている可能性。


 嫌な汗が、全身から吹き出してくるのを感じる。

 しかし休日ということもあり、路地には車が通ったり歩行者がいる。

 あまり家の前で不審な行動を取るわけにもいかず、しばらく近所の公園で、遠くから様子を見ることにした。

 もしかしたらこの前のように、偶然道で鉢合わせるかもしれない。


 待つ間も、純花の携帯にも何度か連絡を入れるが、やはり音沙汰がない。

 拒否されているのは俺だけかもしれないと思い、一応春花にも連絡を入れてみる。

 メッセージを送ると意外にもすぐ反応があったので、手っ取り早く済ませるため電話に切り替える。


「つながらないみたいですね。電源切ってるんじゃないですか?」


 純花の携帯につながらないのは同じだという。もちろん何か連絡があったわけでもない。

 そもそも春花も三年に上がってクラスが別れてから、純花と会うことも連絡を取る回数も減ったらしい。

 放課後はほとんど俺と一緒にいるので、当然といえば当然だが。


「クラスであんまり喋る相手がいないって言ってましたね。あの~橋本……さん? みたいになると嫌だからって」

「他には、なんか言ってた?」

「えぇっと、この前、やはり親に進学させられそうなので、そろそろまじめに勉強しないと、なんて話をしたんです。それからなんか避けられてるような……気のせいかもしれませんけど」


 春花の口ぶりからすると、純花が自分のことを全て話しているという様子はなさそうだった。

 何かあったんですか? と珍しく心配そうな声で尋ねられて、話すべきかどうか考えていると、一台の自転車が純花の家の前に止まるのを見た。

 自転車から降りた人物は、ハンドルを押したまま、家の庭の方へ入っていく。

 

「悪い、また後で」


 そう言って電話を切ると、すぐさま走り寄って行って、自転車を押す人物の背中に声をかけた。

 

「あの、すいません!」


 呼びかけに少し遅れて、相手はゆっくりとこちらを振り向いた。

 やや痩せ気味の、ひょろりと背の高いメガネをかけた男性。男性と言っても、年は俺とほとんど変わらなさそうだった。

 俺は、すぐにその人が純花の兄であると直感した。

 驚いて目を見張るその顔に向かって、俺は大声でまくしたてていた。


「純花さんは今、家に……どこにいるか、知ってますか!?」


 初対面の人間に礼儀も何もあったもんじゃなかったが、それだけ焦っていた。

 よほど俺の血相が真に迫っていたのか、純花の兄はまるで誰かに助けを求めるように一度視線を泳がせた後、ぼそりと小さく声を発した。


「……らない」

「え? 何?」

「し、知らない」

「いや知らないってことないでしょ。家には、いないんですか?」

「い、いませんよ、誰も。どっか出かけてんじゃ、ないの……」


 こちらの顔も見ずにあさっての方に向かってそう言い捨てると、自転車のカゴに入ったカバンをひったくるように担いで、逃げるように玄関に向かう。

 そしてドアを開けて、体を滑り込ませるなりすぐに閉めようとするので、すぐに追いすがって、


「あの、もし帰ってきたら、連絡するように……」

「いや、だから……」


 今度は明らかに、不快そうな表情を見せた。何か小声でぶつぶつと繰り返しているようだったが、聞き取れなかった。

 純花の兄がそのまま乱暴にドアを閉めると、すぐにこれみよがしにガチャリ、と内側で鍵のかかる音が聞こえた。


 それから一時間ほど、再び公園で待ってみたが、家には純花が帰ってくる様子も、誰かが出入りすることもなかった。

 やはり純花はどこかに出かけたに違いない。どこか他の場所を当たろうと、俺はその場を後にした。

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