第60話


 その日から俺たちの生活はガラリと変わった。

 俺の方からも気兼ねなく純花を誘うようになり、残りの春休み中はほぼ毎日、遅くまであっちこっち二人で遊び歩いて過ごした。

 純花は図書館に向かうこともテキスト類を持ち歩くこともしなくなり、「今ハルちゃんと同じゲームやってるんだ」とスマホをよくいじくるようになった。

 何か吹っ切れたように以前にも増して明るくなり、最近徐々に寝付きも良くなってきた、と嬉しそうに顔をほころばせた。


 そんな調子で春休みはあっという間に終わり、新学期になる。

 新しいクラスは純花や春花、工藤や秀治ともバラけた。

 特別親しい間柄の人間はいなかったため、それまで知り合い程度だった顔見知りと適当に話を合わせていくことになる。


 進学組ではないだけに、ざっとクラス全体を見渡しても生徒の質が落ちているのが見て取れた。

 まともに授業も聞いていないようなのが大半という有様で、毎日どこかしか空席がある。

 当初は内心ひどいもんだと思いながらも、三学年が始まって一ヶ月もしないうちに、俺はすっかりそんな周りに馴染んでいた。

 遅刻してやってきては、授業は完全に上の空で流し、ただ時間が過ぎるのを待つ。

 勉強をしない分部活が本番、というクラスメイトを尻目に、授業が終わればすぐさま学校を後にして、校舎の外で純花と落ち合う。


 その後は俺の家に直行し、母親が帰宅するまで二人で過ごす。

 駅前をあちこちブラブラすることもあったが、二人きりになろうとするとどうしても出費がかさむようになり、最近はもっぱらこの流れだ。

 こちらが求めれば、純花は拒むことはない。それどころか、向こうから積極的に求めてくることもある。

 そんな彼女に、俺はなんとも言い表し難い愛おしさと安堵感のようなものを覚えていた。

 自分という存在が受け入れられていると思った。そのために他のあらゆることから目をそらして、ただ純花のことだけを見ていた。

  

 学校のある平日は基本この繰り返し。

 しかし休日は母親も家にいることが多いので、外に出ざるを得ない。

 その日は午後イチから駅前のネットカフェの個室に二人で入り浸っていた。

 俺は読んでいた漫画をキリの良いところで閉じると、ネットで動画を見ている純花に声をかける。

 

「もう四時か。バイト、そろそろ行かないとな……」


 実はバイトに入る回数も減らした。 

 純花に請われて、というのもあるが、俺自身純花とできるだけ一緒にいたいという気持ちがある。

 それに以前のように純花に負い目を感じて無理して働く必要もなくなった。

 バイト先には三年に上がって忙しくなったから、と理由をつけたが、実際は去年と何も変わっていなかった。

 むしろ周りが忙しくなって純花以外との付き合いがなくなった分、時間的には余裕があるとさえ思えた。

 

「……行っちゃうの?」


 すぐさま画面から目を離した純花が、膝で歩いてにじり寄ってくる。

 やや首元の開いたブラウスからのぞく鎖骨のラインが、部屋の薄い照明に反射して浮き出た。

 気を取られかけた目線を慌てて持ち上げて答える。


「今日は、四時までって言ってただろ?」

「う~ん、言ってた、かなぁ?」


 純花はくすりと笑ってわざとらしくとぼけてみせると、寄り添うようにすぐ隣に腰掛けて、耳元で囁いてくる。


「ね、行かないで」

「行かないでって……この前も休んだばっかだからさ……」


 シフトを減らしたにも関わらず欠勤は多くなっていた。

 体調を崩したというのはついこの前もやったばかりなので、立て続けはさすがに怪しまれる。

 そんなことを考えていると、突然ふわっと甘い香りがして、唇に柔らかい感触がした。

 

「ちゅ、くちゅ……」

 

 唾液が絡まる音が頭の中で響くにつれ、徐々に正常な思考が失われていく。

 体重を預けて寄りかかってくる純花の体を支えるように抱きとめると、手のひらで触れた部分が熱を持っていることに気づく。

 弾性のある肉の感触と、脳を直接刺激する匂い。たまらず舌を自ら積極的に動かそうとした矢先、純花は顎を引いて唇を離した。

 

「……だめ?」

 

 そしてまっすぐに、俺を試すような目で見つめてくる。

 目と鼻の先で吐息を吹きかけられ、俺はただぼうっとしたまま純花の顔を見返していた。

 そんな俺の様子がおかしかったのか、純花はわずかに口元を歪めた。

 初めて唇を合わせた時とは、まるで立場が真逆だった。それにその時と今とでは、彼女は見違えるほどに綺麗になっていた。

 

 まるでその瞳に魅了されたかのように、口から声が出ずにいた。

 俺は問いかけに答える代わりに、腰に回した手で純花を抱き寄せ、唇を吸った。






 結局、バイトには行かなかった。

 シフトを見間違えたと後で言い訳をすることにして、しばらく携帯の電源を切ったままにする。

 夕飯前にネットカフェを出た後は、客の少ないファミレスで九時近くまで粘って、それから純花を家の前まで送った。

 その後、折り返して駅から電車に乗って、なんだかんだで自宅に着いたのは十一時過ぎだった。


 鍵を開けて家に上がった時点で母親はすでに寝室かと思ったが、リビングには明かりがついていた。

 いつも通り素通りしてまっすぐ二階の自室に上がろうとしたが、やけに静かなのが少し気になって一瞬だけ顔を覗かせると、ちょうど食卓についていた母親と目があった。

 

「どこ行ってたの? こんな遅くまで」


 無視して行こうと思ったが声をかけられてしまい、仕方なくリビングに一歩足を踏み入れる。

 というのは、以前同じような時間に帰宅したときは、何も言われなかったからだ。

 

「……別に」

「別にってことはないでしょ? それぐらい子供でも答えられるでしょうに」

「友達と遊んでた」


 面倒になった俺はぶっきらぼうにそう答えた。

 今日はやけにつっかかって来やがるな、と軽く睨み返してすぐに気づいた。

 テーブルの上には空らしい缶ビールやらチューハイが、無造作に三つ四つ並んでいた。


 それを見た俺は、無言で踵を返して部屋を出ていこうとする。

 だがその背後で、カラン、と空の缶が倒れる音がした。


「いつまで……」


 ぼそりと低い声がした。

 どうせ酔っぱらいの独り言と、かえりみず歩みを進めた途端、


「いつまでそうやってるつもり!?」


 家全体に響き渡るような金切り声が、辺りの空気を切り裂いた。

 はっとして振り返ると、ダン、と拳をテーブルに振り下ろして立ち上がった母親が、俺のことを鋭い目で睨んでいた。


「朋樹お前は……お前は……!!」


 そう何か言いかけて、母親はしまった、という顔をして途中で口をつぐんだ。

 もう俺のことには、口出ししない。俺が適当に高校を決めたときから、母親はそう宣言し、ずっとそういうスタンスを貫いてきた。

 そのはずだったのだ。


 一体いつぶりだろうか。この人がこうやって声を荒げたのは。

 俺の好きにしたらいい、なんていうのは体裁の良い嘘だ。やっぱりこの人は、そんな風になんて思ってない。

 そんな風に、言うはずがない。


 ――それはダメって言ったでしょう! どうしてお母さんの言うことが聞けないの!? 


 いつか繰り返し聞いた怒鳴り声が、脳内にこだまする。

 幼いころの俺は恐怖とともに、はっきりとその声を記憶していた。

 ずっと遠いところへ押し込めていたはずのそれが今、フラッシュバックするように頭の中で蘇り、俺はまるで金縛りにあったかのように動けなくなっていた。

  

「どんな友達か知らないけど……人の足を引っ張るような人間と付き合うのは辞めなさい」


 母親は必死に平静を装いながら口を開くが、怒りのためか声が震えていた。

 ただ立ちつくす俺に向かって、寸分も視線を外すことなく言葉を続ける。


「たとえ本人は優秀でも、無能な人間に足を引っ張られて人生を台無しにする人を何人も見てきた。付き合う人間は選ぶべきだって、わかるでしょう?」


 俺が黙っていると、母親はゆっくりこちらに近づいてきた。

 そして返事を促すように、腕を組んで俺の前に立ちふさがる。

 重たい圧力に飲まれそうになりながらも、俺はなんとか声を絞り出して返答する。


「……優秀とか無能とか、そんなの……俺には関係ねーし」

「それとももう、お前が足をひっぱる側?」


 その一言で、急激に息が詰まる。

 何も言い返せず固まる俺を見て、少しだけ緊張を緩めた母親が優しい口調で言う。


「……やっぱり、お母さん、間違ってなかったでしょ?」


 まさか、と思った。

 この人が今……まだ、そんなことを言うなんて。


 母親は俺を私立の中学に行かせようとした。だから俺がサッカーをやるのにもいい顔をしなかった。 

 だけど親父は俺に好きなこと、したいことをやればいい、と言ってくれて、俺はそれに従った。そちらを選んだ。 

 それで俺が受験に失敗したのを、母親は親父のせいだと決めつけていた。


「大事な時期に、悪い人の影響を受けたから……」

 

 当時の俺は、そのことがそこまで重大なことだと思っていなかった。

 だけど今、こうして言われて……疑念が生まれずにはいられなかった。

 原因は……俺が、俺のことが、決定打になったのかもしれない、と。

   

「あの人が今のお前を見たら、きっと思い知るでしょうね。どっちが正しかったか」

 

 グサリと心臓をナイフでえぐられたような衝撃だった。

 頭が真っ白になって何も考えられなくなっていた俺に、捨て台詞のようにそう言って、母親はリビングを出ていった。

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