第47話


「朋樹!」


 週明けの朝。

 登校途中の人が入り乱れる駅構内、改札を抜けた広場で不意に名前を呼ばれた。

 声はすぐ周りの雑音にかき消されたため、よっぽど気づかなかったふりをして通り過ぎようかと思ったが、体は半ば無意識に足を止めて振り返っていた。

 

 視線の先で手を上げていたのは、集まって話をしている学生グループの輪にいた一人……秀治だった。

 周りには四、五人、いくつか異なる制服を着ていて、顔だけはどこかで見たような奴もいる。

 秀治はちょっとごめん、と断りを入れて輪を抜けると、いつもの微笑を浮かべたまま俺の方へ近づいていた。


「おはよう、早いね?」

 

 秀治の言う通り今日は早い。

 この前の寝坊をネタにされて、純花に必要以上に早く電話で起こされたため、いつもより一本二本早い電車に乗ってきた。

だからこんな風に、朝駅で秀治と行き会う、なんてことは基本的にない。

 秀治とは前に電話で話したきり一切連絡を取っていないので、おそらく今日は直接文句の一つや二つつけに来るだろうとは思っていたが、おかげでそれが予想よりも早まった。

 まどろっこしい前置きも面倒なので、こちらからすぐその話題を振ってやる。

 

「あぁなんか、悪かったね土曜日。あれどうなった?」

「ああ、あれ? ナシになったよ。朋樹が来れないんじゃ、意味ないからね」

「あ、そう……。そりゃ、悪かったな」

「あはは、いいよいいよ。でもおかげで僕の面目が丸つぶれだけど」


 秀治は冗談めかした軽い調子で言うと、声を出して笑った。

 余程キレてくるかと思ったが、別にもう気にしていない、という感じで、どこか吹っ切れたかのようにあっさりとしている。

 だが俺は秀治の乾いた笑い声に、すぐに不穏な予兆を感じ取った。


「まあ、僕はいいとして……水上さんにも迷惑かかってるからさ。それでなんか、話を聞いた彼女のお兄さんがさ、怒っちゃったらしくてさー」


 秀治はわざとらしく困った顔を作ってみせるが、完全に他人事のような口ぶりだ。

 そのお兄さんというのは、確か秀治が前からお世話になってる先輩だとか言っていた気がするが……なぜその人がこんなことにしゃしゃり出てくるのかどうもひっかかる。

 きっと秀治が何か小細工をしたに違いない。

 例えば、俺を悪者に仕立て上げて、すべての責任をなすりつけるとか。

 単純に俺を陥れようとするなら、彼女がいるのに水上に手を出そうとした、だとかいくらでもでっちあげることはできる。

 

「朋樹は面識なかったっけ? キレるとちょっと怖い人だから……まあ、気をつけてね」


 きっと俺が逆らったのを、許してはいないのだろう。

 それだけ言うと、秀治は元の学生たちの輪に戻っていった。

 




 それから数日は何事もなく過ぎた。

 返信するまで五分おきに同じ文が送りつけられてくるとか、夜おやすみコールがないと鬼電がかかってくる、などを始めとした数々の純花の奇行はあったが、いちいち例を挙げていくとキリがないので割愛する。

 俺の方もずいぶん気持ちに余裕ができて、多少うるさかろうがかわいいもんだ、と思えるようになっていた。


 それに加えて純花は最近になって、とても忙しそうにしている。というのは、主に勉強に関してのことだ。

 今日の放課後も、一緒に帰ろうと誘うと、「来週は模試があるし最近ほとんどできてなかったから、学校に残って勉強していく」というのだ。

 そこで「ともくんも一緒に残る?」と言われるが、勉強となると付き合ってやるよ、とは返す気になれなかった。


 純花の自学は非常にストイックで、楽しくおしゃべりをしながら問題を出し合ったりするといったものではなく、黙々とひたすら机に向かうという類のものだからだ。

 どの道俺がいたら邪魔にしかならないだろうし、とやんわり断ると、純花もしつこく追及してくるようなことはなかった。


 その他の変化といえば、秀治が露骨に俺を無視するようになった。

 露骨に、というのはあくまで秀治にしてみたらという意味で、実際は周りには悟られないレベルで、だ。

 数人で集まっている時などは以前通りのように振る舞っているが、二人だけで話す、ということはすっかりなくなった。

 それはもう俺に用はない、ということなのかもしれないが、それでもこっちなんら構わないし、どうこうするつもりもない。


 その日、居残りする純花と別れ、夕暮れの校舎の廊下を一人歩いていると、いきなり背後から走り寄ってきた何者かに肩を叩かれた。

 

「よっ、一緒に帰ろうぜ」


 工藤だった。

 隣に並ぶなり、だらしなく開いたシャツをつまんで胸元へ風を送り込む。

 

「なんだお前かよ、みたいな顔すんなって」

「なんだお前かよ」

「だからって言わなくていいよ」


 工藤はふはは、と歯を見せて笑ってみせる。

 少し珍しいと思った。

 放課後になると工藤はたいてい数人引き連れてだべっていたり、ゲーセン行こうぜだの騒いでいるからだ。


「まっすぐ帰んの? 俺今日暇だから、ちょっとなら付き合ってやってもいいよ」

「おっと、まさかのともくんからのデートのお誘い……は嬉しいんだがオレ今日バイトだから」

「あれ、始めたのか?」

「先週からね。オレ美容師の専門行くからさー……あと来年免許早めに取りて―し。まあ勉強しない分、今のうちにちょっとでも金ためとこうと思って。だからそろそろゲーセンは卒業かなぁ」

「あー、なるほど……」


 工藤の話に曖昧に相槌を打ちつつ、下駄箱で靴を履き替え、外に出た。

 一度途切れたせいもあるが、その話はそれきり終わって、無言の間ができる。

 いつも何かしか喋っている印象のある工藤にしては、これも珍しい。


「ヘイ、パス!」


 正門への道の途中、工藤が木の陰に転がっていたサッカーボールを蹴り出してよこしてきた。

 転がってきたボールを足ですくって宙でキープしつつ、数回リフティングしてみせる。


「うおっ、すげえ! お前そういうのできんのな」


 そのままボールを軽く浮かせて蹴り返してやると、工藤は危なげなく足で受けた。そう言う工藤の運動神経もかなりいい方だ。

 工藤は俺の見よう見まねで何度かリフティングを試みるが、うまくいかずに最後はボールを校庭の方に向かって大きく蹴り飛ばした。

 それから俺達は肩を並べて門を出る。

 またしてもお互い沈黙したまま歩き続けたが、ついに工藤が耐えきれなくなったように口を開いた。

 

「……あのさ、ちょっと変な噂流れてきてんよ」

「どんな?」

「いやほら……。お前と、純花ちゃんのこと」


 それきり工藤が黙ったので、俺は先を促すように顔を見るが、工藤は前を向いたまま、言いにくそうにつぶやいた。


「……お前らって、デパートの屋上とかでヤってんの?」

「なんだよそれ、AVかよ」

「だよなぁ」


 工藤は少し気まずそうに頭をかくと、


「まあ俺からすっと、仮にそれがホントだろうがウラヤマだわ~、で終わりなんだけど。女子ってそういう話、好きじゃん?」

「さぁ……そうなのかね?」

「朋樹さー……。何したのか知らねえけど、秀治に逆らうのはやめといたほうがいいぜ」


 そこでやっと工藤はこちらに顔を向けた。

 話の内容はともかく、変に真面目な顔をしている工藤がおかしくて、俺はつい吹き出してしまった。

 

「そこで笑うかね? ひでー奴だ、そんなオレの顔がおかしいか?」

「いや悪い悪い。でもなんか変だと思ってたよ。お前、それ言おうと思ってわざわざ俺をつけてきたのか?」

「別に。たまたまだよたまたま」

「お前って意外といい奴だったんだな」

「でしょ? 北野さんとかにも伝えてくれると助かる」

「まだ言ってんの? 完全に脈ねえからあきらめろ」

  

 すっぱり言ってやると、工藤は耳を抑えて「うわー聞きたくなーい」だとか言いながら先を走って行ってしまった。

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