第42話


 昼休みになった。

 その後、純花は教室には戻ってこなかった。朝保健室に連れて行ったきりだ。


 とりあえず熱を測ってみるということになって、俺はすぐに教室に戻ってきたので、どういう容態なのかはわからない。

 ここ数日……あの夜の日以来、純花はまるで人が変わったような振る舞いをしていたが、今朝はまたそれとも違った言動を繰り返していた。

 精神的に不安定な状態にあるのは明白だった。

 

 結局、純花との関係はよくわからない、うやむやな状態が続いている。

 だが俺は、彼女と縁を切るという意思を覆す気はない。いや、すでに縁を切ったつもりでいる。

 だから今、純花の容態がどうであろうと、これ以上干渉はすべきではない。

 

 俺は純花の調子が悪そうだと気づいたから、保健室に連れて行った。

 それは彼女だからとか、友達だから、というわけじゃなくて、クラスメイトなら当然だ。

 けどここから先は、親しい人間、教師とか、親だとかがどうこうする問題であって、俺の出る幕じゃない。

 そう、頭では考えながらも……気づけば俺の足は保健室に向かっていた。

 

 一階の渡り廊下を抜けて、やや薄暗い通路に出る。

 このあたりは人通りが少ないせいか節電のためか、天井の蛍光灯がついていない。

 角を折れて、保健室のある通りに差し掛かると、ちょうど行く手から女子生徒らしき人影が近づいてくるのが見えた。


「……あ」


 そのまますれ違いそうになった所で、俺のほうが立ち止まった。

 気づくかと思ったが、相手はややゆったりした足取りのまま、横を通り抜けようとした。


「純花」


 名前を呼ぶことで、影はやっと立ち止まった。

 こちらを見上げた顔は、朝より幾分か血色が良くなっていた。

 ようやく俺の姿を認めた純花は、少し驚いたように瞳孔を開いたが、すぐにがくっと首をうなだれた。


「……はは、あたし、なにやってんだろうね」

「どうしてたんだ? もう大丈夫なのか?」

「ずっと寝てた。ただの寝不足だって。ふふ……」


 純花が陰りのある自嘲気味な笑みを漏らす。

 ちょうど昨日の今頃、駅でどれが食べたいだのとはしゃいでいた人物とは、まるで別人のようだった。


「でもそれがずっと続くとなると、ただの寝不足じゃないと思うんだけど」


 保健室の先生ごときに何がわかるか、とでも言いたげな口ぶり。

 純花は一度ちらっと保健室を振り返って忌々しげにそう言い捨てると、ぐるりと首を巡らせて廊下の窓から外を見る。

 天気のいい中庭では、数人の男女が入り乱れてなにやらはしゃいでいた。

 

「あぁ、なんか死にたくなってきた……」

「おい」


 頭を軽く小突いてやると、純花はふっと脱力してその場に倒れようとしたので、あわてて体を抱きとめる。


「なにやってんだ、危ねえだろバカ」

「うふふ……そのまま倒れたらどうなるかなあって……。でもともくん、助けてくれるんだ……」

「助けるって……」


 助けるとか、そんな大層なことじゃない。

 俺は単純に……。



 ――すごいなぁ朋樹は。また一番だったのか。なんでもできるんだなぁ。


 ――でもみんなが朋樹みたいに、うまくできるわけじゃないんだよ。頑張っても、うまくいかない子だっている。そういう子に気づいたら、お前が助けてあげるんだよ。


 

 違う。

 あいつが言ったからとかどうとか、関係ない。

 そもそも俺は、誰かを助けてやれるほど強くない。

 大体純花がこうなったのも、俺が原因で……。


「飯は?」

「んー……あんまり食欲がない」

「って言っても何も食わないわけにはいかないだろ」

「……なんでそうやって言うの?」

「なんでって、そりゃお前……」


 純花は突然厳しい口調で切り返してきた。

 とっさに二の句が継げずにいると、純花はもうその話はどうでもよくなったのか、再び歩き始めて、

 

「あ、ちょっと、トイレ……」


 返事も待たずにふらふらと通路脇のトイレに入っていってしまった。

 後を追うわけにも放って行ってしまうわけにもいかず、俺は仕方なく壁に寄りかかって待つ。

 今のところ通路に人通りは皆無であるが、もし誰かに見られるとかなり怪しい。

 建物の都合上作られたのか知らないが、こんな場所のトイレを利用する奴はめったにいないように思う。


 そんなことを考えている間に、純花はすぐにトイレから出てきた。

 そして無言のままいきなり俺の腕を引っつかんで、そのままトイレの中に引きずり込む。


「っておい!」


 腕を握る力も引っ張る力も異様に強い。冗談抜きの本気レベルだ。

 いきなりの不意打ちに体のバランスを崩した俺は、そのまま女子トイレの中に連れ込まれた。


「お前、何やって……」


 慌てて見渡すと中は無人だった。そうでなければヤバイ。

 すぐに引き返そうとするが、純花が腕を引く力は全く緩まない。


 そのまま有無を言わせぬ勢いで俺を個室に追いやった純花は、後ろ手で扉を閉め、カギを下ろした。

 そして今度は容赦なく飛びつくようにして俺の体に抱きついてくる。

 俺はとっさに両足でもって踏ん張るが支えきれず、背中と頭を軽く壁に打ち付けた。


「いって……」


 痛みで顔をしかめるが、力任せに握られていた腕の痛みのほうが上回っていた。

 やっと体勢が落ち着きはしたが、改めて今の状況がマズイと悟る。

 引き離そうにも、純花は俺の胸元に顔を埋めたまま、背中に手を回して微動だにしない。

 

「おい、マジでシャレにならねえって……」

「大丈夫、きっと誰もこないから」

「そういう問題じゃなくて!」

「お願い、このまま……」


 ……ダメだ。

 どうやっても、これ以上は。


 全ては俺の態度が曖昧だから。意志が弱いから。

 これ以上中途半端な状態で、苦しめるべきじゃない。

 今度こそ、きっぱりと告げる。向こうがどんな手を使って煙に巻こうとしても、もう付け入る隙は与えない。

 

「無理だよ、俺はお前とは、もう……」

 

 けどこれは本当に今、すべき話なのか。

 すがるようにまとわりつく体は、すっかりその身を俺の腕に委ね、支えていなければ崩れ落ちてしまいそうだ。

 もし今手を離したら、突き放したら。

 彼女は一人で起き上がれるだろうか。そして再び歩き出せるだろうか。

 

 ……まただ。

 俺はそうやって、また逃げ道を作っている。

 それももうやめよう。本当に、これで……。


「ぎゅってして、ぎゅって……」


 純花は回す腕に力を込め、はっきり胸の形がわかるほどに体を圧迫してくる。

 俺がなおも直立不動のままでいると、


「なでて、なでて……」


 無理やり俺の手を取って、自分の頭に持っていく。

 純花の手のひらは、強く握ったら割れてしまうのではないかと思うほど、冷たかった。

 

「嫌? じゃ、ないよね……?」

 

 俺の手に力がないと知るや、純花は妖しい微笑を浮かべながら、上目遣いに至近距離で吐息を吹きかけ、反応をうかがうように体に触れてきた。

 黙ったまま俺がただ見返していると、純花は我に返ったように瞳を瞬かせ、目線を落とす。


「そうだよね……ごめん。あたし、最低だよね。こんなことして……」


 純花は一歩後ずさると、胸元に手を当てて、うつむいてしまった。

 そのまま消え入りそうに、押し黙ってしまう。


 こうなれば、後は簡単だろ? 

 そうだ、最低だよ。

 気を引こうとして、ガラでもないことして。

 ごまかして、演技して、嘘ばっかりついて……。

 俺は嘘をつかれるのが大嫌いだから。お前が嫌いだ。だから、二度と俺につきまとうな。


 そう、用意してあった台詞を言えばいい。


「困らせて……ごめんね」


 か細い声でつぶやいた純花が、回れ右をした。

 するとその瞬間、純花の姿がふっと視界から消えかけた。

 俺は反射的に手を伸ばして、足をもつれさせて転びかけた純花の背中を抱きとめていた。


「あ……?」 

「無理、しなくていいから……」

「……え?」

「ずっと無理してたんだろ? 俺に合わせようとして、素を出したとかってウソついて、強がって……」


 本来の自分と、真逆の人間を演じる。

 それで俺にいくら邪険に扱われようが、橋本と対峙することになろうが、純花は引かなかった。

 自分から春花に話しかけていくのだって、最初は怖かっただろう。相当な負担だったに違いない。

 コイツはそういう奴だって、俺はずっと前から知っていたはずなのに。

 

「ウソじゃないよ、あたしと、ともくんは……ぴったり、合うんだから……」

「お前とちゃんと……付き合えなかったのは、純花が悪いんじゃない。それは俺が……」

「違うよ、ともくんが悪いんじゃない、あたしが……」

「……ごめん」


 純花の体は震えていた。

 俺は肩を、腕を、包み込むようにして、背後から優しく抱きしめた。

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