第41話
それからさらに二時間ほどして帰宅する。
表に車が止まっているのを見て、母親が帰ってきていることはわかっていたが、家の中は暗かった。
自室に上がる前にリビングを覗くと、部屋の半分しか明かりはついていなかった。
「……ご飯は?」
テーブルの上でノートパソコンを広げた母親が、ちら、と目線を持ち上げた。
母親はすでに食事を済ましたようだった。
パソコンの隣には空になった器と缶ビールが置いてある。珍しく飲んでいるようだ。
「食ってきた」
俺は母親の方を見ずに答える。
今のはただの確認で、まだ、と言えば飯を用意してくれるというわけではない。
なんの連絡もなく、どこかほっつき歩いている方が悪い、ということは以前にも言われたことだ。
それきり無言のまま食卓を素通りし、冷蔵庫から取り出したお茶を一口含む。
その折にふとテーブルの様子をうかがうが、母親の注意はパソコンの画面に向かっていて俺のことを気にする気配はない。
それなればと、俺もそのままリビングを出ていこうとする。
「……朋樹」
いつもより低い声だった。
呼び止められて振り向くと、母親はまっすぐ俺のことを見ていた。
「前に言ったこと……本気なの?」
一瞬なんのことか戸惑ったが、すぐに思い当たった。
俺がこのままスーパーの店員でもいいかと口走ったことだ。
まさかそのことを蒸し返されると思っていなかったので、とっさに口ごもってしまう。
「いや、あれは……」
「本当に、そのままでいいと思ってるの?」
「そのままでいいも何も……」
「それは私に対するあてつけ?」
なんだよそれ意味わかんねえよ、と反論しかけた口を閉ざす。
よくよく考えれば、この人が俺のしたいようにすればいい、なんて言うわけがない。
口では理性的なことを言いつつも、本心はきっと……。
何も返事をよこさない俺に、母親は大きくため息をついてみせた。
そして缶ビールを一口煽ると、もういい、と言うかのように再びパソコンに視線を落とした。
翌朝登校すると、俺の席は案の定工藤に占領されていた。
腰掛けた椅子を傾けて身を乗り出すようにして、工藤はしきりに隣の春花に話しかけている。
一人だとまだ気まずいと思ったのか、小林も一緒だ。
「あいつの二択がえげつないのよ、ハマればそれだけで終わる……」
ぺらぺらと朝からよくしゃべっている。
俺が背後に立っても無視しやがるので、軽く椅子の足を蹴ってやると、工藤はようやくこっちに目線をくれた。
「おう、席借りてるぜ」
「一秒百円な」
「わかった、百年後に払うから」
まったくどく気配がない工藤の横で、春花が助けて欲しそうな顔でこちらを見た。
またもあのメガネマスクに逆戻り、ということはなく昨日と同じスタイルだ。
だがそれが制服でいるとなると、逆にものすごい違和感がある。
ふと、隣のグループの女子と目が合う。
ただでさえ目立つ工藤がうるさいせいもあるが、それを差し置いてもあちこちからの視線が妙に刺さる。
どうもクラス全体から注目を浴びているようにも感じる。
まあそれは言うまでもなく、春花の変貌っぷりのせいなんだろうが……。
「やあ諸君おはよう」
「なんですかー? 違うクラスの人は入ってこないで下さーい」
吉田のバカまでもがベランダから顔を覗かせてきた。
すぐさま工藤に窓を閉められそうになっているが、吉田がやってきたのは好都合だ。
「ちょうどよかった、吉田、英語の教科書くれ」
「断る。せめて貸せと言え」
「今すぐ貸して。三限目使うから」
「いや俺一限目英語なんですけど!?」
吉田とそんなやりとりをしていると、工藤が若干不審そうに俺を見た。
「なんだよ朋樹、また教科書忘れ?」
「いや忘れたっつーか、この前からなくてさ。誰かにパクられたかな」
「あっ……」
すると、それまで話に入ろうとして入ってこれていなかった小林が変な声を上げた。
小林は一度廊下に出ていくと、並んでいるロッカーを開け閉めしてすぐに戻ってきた。
「もしかしてコレ……」
小林は英語の教科書を手に持っていた。
どういうことか聞き返すと、
「いやぁ、なんか二冊あるなーとは思ってたんだけど……」
「なんだよコバ、お前窃盗犯か」
「し、知らないって、気づいたらロッカーんなかに入ってたんだよ!」
「それ朋樹のなん?」
俺は教科書を受け取ってパラパラとめくってみるが、当然俺のではないので何かわかるはずもない。
ああ俺のかも……と濁しつつ直接春花に確認させてみる。
「どう?」
「あっ……そうです、これ……」
教科書に名前を書く欄はなかったが、春花は几帳面にも裏表紙をめくった所に小さく北野春花、と書き込んでいた。
「えっ、なになにどういうこと?」
「知らんわ、こっちが聞きたい」
工藤が横入りしてくるが、ここであまり事を大きくしたくなかったので、すぐに春花には渡さず俺のだということにして適当にごまかすことにした。
小林を睨みつけてやると、ひきつった顔で媚びるような笑みを浮かべてきたが、小林が嘘を言っている様子はなさそうだった。
仮に小林が下手人だとしても、今更ロッカーに入っていたと自己申告するのはおかしい。
やはり誰かが小林のロッカーに突っ込んだと考えるのが妥当か。
俺が不機嫌そうに黙り込むと、これ以上この話題はヤバイと思ったのか、工藤達は俺のことはそっちのけでだべりだした。
実際工藤なんかは春花にちょっかいをだすのが目的で、教科書のことなどどうでもいいようだ。
吉田も混じってさらに沸き立つ周りをよそに、俺は教室内へ視線を走らせる。
すぐさま目についた橋本は、こちらの思惑もどこ吹く風とばかりにいつもの調子で笑い声を上げながら、数人の女子と談笑している。
だがよくよく見れば、取り巻きはどちらかというと気が弱いタイプで、橋本とはあまり合いそうにないメンツだ。
みな表向き合わせているが、裏で嫌っている、という純花の指摘は十分あり得る。
いつもと違うのは、そこに純花の姿がなかったことだった。
それこそ俺の席を占領しているのは純花だとばかり思っていたが、純花は誰とも会話することなく自分の席で顔を突っ伏していた。
純花が朝からそんな状態で教室にいるようなことは、俺の記憶にはない。
昨日帰り際のこともあわせて、その様子がどうにも気になった俺は、迷った末に立ち上がって純花の元へ近寄った。
「……純花?」
声をかけても全く反応がないので、軽く肩を叩くと純花はゆっくりと頭をもたげた。
「あぁ、ともくん……なに?」
純花は目をこすりながら、気怠げに口を開いた。
単純に眠いだけなのかもしれないが、終始ハイテンションだった昨日とのギャップに驚く。
「何か用?」と言わんばかりの態度を取られて、自分で自分の行動にはっとしてしまう。
別れ際のことも重なって少し心配になって声をかけた、とは言いたくなかったので、教科書の件を報告しに来た体を装った。
「春花の教科書のことなんだが……小林のロッカーに突っ込まれてたらしい」
「へえ、そうなんだ……よかったねぇ」
てっきり、ウソ、どうして? と身を乗り出してくるかと思ったが、純花の反応は薄い。
こともなげにつぶやいた純花の横顔が、いつにもまして白いことに気づく。
「お前……どうかしたのか?」
「……昨日眠れなくって……あぁ、おとといまでは眠らなくても、全然へっちゃらだったんだけど……」
純花はたどたどしい口ぶりで、途切れ途切れに言葉を継ぐ。
目も俺のほうを見ているようで、どこかぼんやりとしている。
「はぁ、だるい……眠い……帰りたい…………こうなると何もやる気でなくて……でも勉強、しなくちゃ……全然、できてないから……あぁでも、帰りたくない……頑張って、来たのに……」
いよいよ発言が支離滅裂になってきた。
見ればいつもはきっちりさらさらになっている髪にも、変な寝癖ができている。
「お前、大丈夫か……?」
「大丈夫? うん、あたし……大丈夫……大丈夫……」
何か必死に言い聞かせているようだが、ぐったりしながらぶつぶつと繰り返す様は、あまり大丈夫そうには見えない。
「保健室……行ったほうがいいな」
「へ? 保険……?」
呆けた顔で目をぱちぱちさせているがいよいよ危うい。
俺は純花の腕を取って立ち上がらせ、わずかに足元をふらつかせる体を支える。
何か勘違いされたのか周りで囃し立てるような声が聞こえてきたが、俺は無視して純花を連れて教室を出た。
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