第38話


 その日は夕方から夜九時過ぎまでバイト。

 さらに翌日の土曜日は昼過ぎから出勤してまるまる八時間勤務。

 

 正直この仕事は楽しいとは思えない。最初こそ言われるがままに働いて、徐々に褒められて認められていい気分になったりもした。

 だがそんな状態も長くは続かなかった。できるようになればなるほど仕事を押し付けられやらされることが増えていく。

 

 この時間内で、と言われて一度できてしまうと、次からも要求される。自分で言うのもなんだが、なまじ要領がいいだけに余計だった。

 さらに同じバイトの分際でも、口だけでうまく上に取り入って、ろくに働かない奴を見ると腹が立ってくる。

 そんなこんなで一通り仕事を覚えて慣れてくると、うまく手を抜くことしか考えなくなった。

 会社の決まりで高校生は時給は上がらないよと言われてからそれはさらに加速した。チンタラやっている大学生より仕事は早いにも関わらずだ。

 

 やりがいとか何とかは特に感じない。金が貰えなかったら速攻で辞めているだろう。

 姉が高校生の時も小遣いを貰わずにバイトをしていたので、その流れで俺もそうしただけだが、別に強制されているわけではない。

 だから最近では、金がないのなら使わなければいいのではないかとすら思い始めてきた。特にこれといって欲しいものがあるわけでもない。

 前に一度、帰省した姉にそんな話をしたら、「他に何かすることがあるならいいけど、あんたどうせなにもしないなら働けばいいじゃん」と言われて何も反論ができなかった。

 確かにその通りだった。やりたいことがあるわけでもない。

 部活をやるわけでもなく、勉強を真面目にやるわけでもない。

 ならバイトでもしていたほうが金がもらえる分、はるかにマシではある。



 帰宅後、電気もテレビもつけっぱなしのまま、ベッドの上に身を投げて目を閉じる。

 やたら気分が落ち込んでいる。何事もやる気が起きない。

 以前ならば、この時間に純花からどうでもいい内容のメッセージが届いたりして、俺はそれをウザイと思いながらも、いくぶん気が紛れていたのは事実かもしれない。あまり認めたくはないが……。


 明日は休みで、バイトもなく何も予定が入っていない。

 今から誰かに連絡して、遊びに誘うという手もあるが、どうもそんな気にはなれなかった。

 明日はきっと何もせず、一歩も外に出ないだろう。もはや色々と、どうでもよくなってきていた。

 それきりあれこれと考えるのをやめると、頭の中は徐々に睡魔に侵食されていった。



  

 そしてその翌日。

 俺はまたも若干不機嫌顔の母親に起こされていた。

 時計を見れば十時を回る頃。二度寝を繰り返してひたすら惰眠を貪っていたらこんな時間だった。

 

「誰か来るなら言っておいてくれない? 今日もう出かけるから」

 

 母親はすでにしっかり化粧をしている。

 いつまで寝てるんだと叱咤しに来たわけではなく、また俺に来客だという。

 

「いや俺、知らないし……」

「早く。待たせてるから」


 さっさと出て、と有無を言わさぬ剣幕に押され、寝間着のまま渋々玄関口に出ていく。

 今日は誰々、とは告げられなかったが、心当たりがあるとすれば一人しかいない。こっちは約束した覚えはないというのに。

 とっとと追い返そうと乱暴に扉を開けて、俺は固まった。


「……誰?」


 予想より低い位置から、やや怯えた表情がこちらを見上げてきた。

 ぎょろりと妙に大きな瞳が、不安げに瞬く。

 その上で、過不足なく切り整えられ、前髪を横に流したミディアムショートの髪が、陽の光に当たって茶色く光った。

 

「……絶対、言うと思いました」

 

 相手はもそもそと小さな口を動かして、ぼそっとつぶやいた。

 その若干鼻にかかった聞き覚えのある声で、俺ははっと気づく。

 

「お前、春花……?」


 そう聞き返すと、少し間があった後、相手は小さく頷く。

 自分で言っておいてなんだが、それですぐに信じる気にはなれなかった。

 思わず腰をかがめて顔を覗き込むようにしてじっと注視すると、春花は目線をそらしてうつむいてしまった。

 

「はい、ストップ!」


 その時、横合いから飛び出してきた手が俺の肩を押した。

 後ろにバランスを崩しそうになる前に踏みとどまると、目の前に人影が立ちふさがった。


「ダメだよー、ともくん。おさわりは禁止だからね」

 

 そう言いながら春花を隠すように両腕を広げたのは純花だった。

 状況がいまいちつかめず面食らっていると、純花は不敵な笑みを浮かべて、両腰に手を当てて胸を張ってみせる。


「ふふん、ビックリした? あたしが色々と世話をしてあげたらこのザマ。ハルちゃんの改造に昨日まるまる一日かけたんだから。まず美容室行って、お洋服買って~」


 何やら昨日一日春花を連れ回していたらしい。

 あのクソださい頭も今風にそれっぽくなっており、それなりに似合っている。

 もちろん眼鏡もマスクもとっぱらっていて、一丁前に薄く化粧もしているようだ。

 春花の着ている柄物のワンピースも純花の趣味か知らないが、これもどこかで見覚えがあるような気がする。

 

「思った以上に良くなりすぎちゃって、もっとブサイクにしてくださいって言おうかと思っちゃった。ほら、ハルちゃんかわいいでしょ? このこのぉ~」

「ち、ちょっと押さないで……」


 純花は春花の肩をひじでうりうりとこづく。

 相変わらずよくわからない関係のようだが……。

 

「それでともくん? あんまりジロジロ見ないでくれる? うちの春花を」

「誰の春花だよ、お前のじゃねえだろ。一体、どういうつもりで……」

「キモいとかブサイクとか言われてたのが、ひっかかってたから。どうなるかなって思って」


 何も考えなしにやった、というわけではないらしい。

 実際やるかどうかは別にして、化けるかもしれないという予感はなんとなく俺の中にもあった。

 肝心の本人はどう思っているのか知らんが。


「皆どんな反応するだろうね。ほら見て、ハルちゃんも泣いて喜んじゃって」

「ああ~ヤバいぃ~学校行ったら絶対DQNに目ぇつけられるぅ~。先生にも怒られそぉ~……色入れるなんて聞いてなかったのにぃ~」

「ま~だ言ってる。そのぐらいぜんぜん大丈夫でしょ。あたしのほうがよっぽど色明るいから」


 案の定本人は頭を抱えているようだ。

 普通の基準で言えばそれほどでもないのだが、元が元だけに少しやり過ぎ感は否めない。


「まあ、あの不審者スタイルよりはずっといいだろ。最初からそれで転校してくりゃよかったのにな」

「そうそう、ともくんもそう言ってるし大丈夫大丈夫、ハルちゃん可愛いから自信持って!」

「そ、そうですかね……」

「うんうん、でもあたしのほうが可愛いけどね! ね? ともくん! ね?」


 純花がしつこく迫ってくるが、なんとも返さずただぼうっと二人を見比べる。睡眠時間はかなり取ったはずだが眠い。

 もうわかったから帰れ、とやろうとすると、すっかり出かける準備を終えた母親が背後からやってきた。

 母親は純花たちに対して申し訳程度に微笑んでみせた後、真顔に戻って俺にきつめの口調で言い放つ。


「朋樹、こんなところでしゃべってないで、中に入れてあげなさい」

「いや、こいつらは……」

「それにそんな格好で恥ずかしくないの?」


 そんな調子で一方的に俺をやり込めた後、母親は忙しそうに家を出ていった。

 息子の知り合いが来ていようがその辺はぶれることはない。

 狭い駐車スペースから出ていく車を見送った後、いくらか冷えた空気もどこ吹く風と純花が頬を緩めた。

 

「ふふ、さすがのともくんもお母さんには頭上がらないんだね」

「上がらないっつーか、あれはな……」

「えっ、あれお母さんなんですか? お姉さんかと思いました」

「んなわけねえだろ。……あっ、おい待て!」


 そう言っている間に純花が俺の脇をするりと抜けて、勝手に中に上がり込んでいく。

 俺は慌ててその後を追った。

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