第37話


「あ~ともくんこんなとこにいた~。なにしてるの?」


 張り詰めた空気を一気にぶち壊すような、間の抜けた明るい声音。

 その声がした戸口へと、俺と橋本の注意が一斉に向く。

 教室に足を踏み入れながら、後ろ手でゆっくり引き戸を閉めたのは純花だった。

 

「す、純花……?」


 先に目を剥いたのは橋本だった。

 その反応で、純花の登場が橋本もあずかり知らぬ完全なイレギュラーなものだと悟る。

 当の純花はいつもの微笑を浮かべながらこちらにやってくると、俺の側に寄り添うようにして立ち、橋本に向かって問いかけた。

 

「なにしてるの?」

「なにって、別に、ちょっと、話を……」


 先ほどの攻勢とはうって変わり、橋本の歯切れが悪くなる。

 橋本が俺をここに呼んだのも、もちろん純花には内緒でのこと。

 それどころか、最も感づかれてはいけない相手のはず。


「何の話?」

「何って……」


 まっすぐに覗き込む純花に対し、橋本はやや目線を宙に泳がせて言いよどむ。

 二人の関係は、俺が初めて見た時から常に橋本が上で、純花が下。なのでこうやって純花が問い詰めるような形になるのは、まず見られない光景。

 橋本は視線を流しながら何事か考えていたようだったが、やがて腹を据えたのか、普段通りの勝ち気な瞳に戻って切り返した。


「てか、ちょっと聞いてよ純花~。朋樹がさ~、あたしのこと泥棒呼ばわりするんだけど」

「泥棒?」

「なんか、教科書返せとかなんとかって、イミフな言いがかりつけてきて」


 そう言って橋本はじろりと黒いカラコンの入った目で俺を睨みつけた。

 言いがかりというが、俺の中ですでに確信としてあった。そして今の態度で、それをよりいっそう強めた。

 橋本が直接の下手人ではない可能性はまだあるが、何らかの形で関与しているのは確実だ。


「マジなんか勘違いしちゃってるっていうかさ、痛いよね~。なんか正義マンぶってさ。てか、純花ももういいっしょ? さっさと別れちゃいなよ。あんただったら、他にいい男いくらでもいるし」

「別れる? あたしがともくんと? なんで?」

「なんでって、そりゃ……」


 いつもの通りの調子で、それで押せると思ったのだろう。

 しかし全く揺らぐことのない純花の態度に、またも橋本が口ごもる。

 そして逃げるように俺の顔に目線を移すと、憎々しげに口を開いた。


「だってちょっとナル入ってんじゃないの? キモいブサイク女にも優しい俺カッコいいみたいな?」

「キモいブサイク女って誰のこと?」

「そりゃ、アレしかいないでしょ? あんたもアレにつきまとうのもうやめな。この男ともども、これ以上関わんない方がいいよ」


 その命令じみた口調からは、自分の方が上だと思っているのが容易に感じ取れた。手慣れている。

 これまでもこうして、自分に都合のいい意見を押し付けてきたのだろう。

 こんな風に言われたら、気の弱い女子などは到底逆らえないのだろうが……。

 

「由紀の言ってることわっかんないなぁ~。第一あたし、そんなキモイブサイク女なんて知らないし、それに……」

 

 純花は意にも介していない様子で首をひねってみせると、見せつけるように俺の腕に手を巻き付けてきた。

 

「ともくんと別れる気とかないし」


 次の瞬間、腕を強く引かれたかと思いきや、ぐっと首周りに重みがかかる。

 純花の腕が首に絡みついてきて、無理やり顔を引き寄せられ、そのまま頬に唇を押し付けられた。

 

「お、おい!」


 慌てて振りほどこうとするが、純花の両腕はすっかり首元に回されてしがみつくようにして離れない。

 体重をあずけられ倒されないように踏ん張っていると、おかまいなしに純花は抱きついてきた。


「ほら、あたしたち、ラブラブだから」


 橋本に向かってそう言うと、純花は再び見せつけるように唇を口元に押し当ててくる。

 すぐやめさせようとしたが、ある違和感に気づいて伸ばしかけた腕が止まった。

 純花の唇は、冷たかった。顔色も、まるで血の気が失せたように白い。


 すぐ間近で、どこか遠くを見ているような純花の瞳が、俺の注意を引いた。

 それは何らかの意図を俺に伝えようとしているようでもあったが、俺は何も読み取ることができなかった。

 その実、なんの意味もないのかもしれなかった。


 冷たい口づけを受け止めながら、横目で棒立ちになった橋本を見やる。

 橋本は呆気にとられた表情から一転、眉根を寄せて歪んだ口を開きかけたが、結局何を言うでもなくそのまま踵を返し、足音荒く教室を出ていった。

 

 




「ねえ見た見た? 今の由紀の顔。一発で黙ったね」

 

 純花は俺の体に絡めた腕を離すと、開けっぱなしの戸口を見ながらさもおかしそうに笑った。


「バカかお前、こんなことして……。この後どうなっても知らねえぞ」

「大丈夫。由紀って目立つけど、影で嫌われてるから。省いたラインのグループもあるし」


 純花はこともなげに言うが、これも少なからず驚きだった。

 女子グループの関係も、表向き見えるものと裏ではまた様相が違うのかもしれない。

 まあ純花の言葉が本当かどうかはわからないが。


「にしても、よくこんなとこまで……」

「今日はともくん様子おかしいな~って思ってて……ずっと観察してたから」


 はぁ、とため息を吐いて脱力してしまう。

 どうやらそれで、後をつけられていた、ということらしい。


「それで、何の話してたの? 由紀が何か、怒鳴ってたみたいだけど」

「別に……お前には関係ないだろ? ていうか、また勝手なこと言ってんなよ」

 

 これは俺の問題であって、純花には関係ない。

 余計なことすんなよ、と口から出かけたが、極力会話を避けたかった俺は、そのまま教室を出ていこうとする。

 だが戸口の前まで来ると、背後でガタガタっと音がした。

 振り返ると、バランスを崩したらしい純花が、机に手をついて寄りかかっていた。


「何やってんだお前……」

「あ、ちょっと、足が滑って……えへへ」


 呆れて見ていると、体勢を立て直そうとした純花が、再度足元をよろめかせて転びそうになった。

 俺は反射的に床を蹴って腕を伸ばして、純花の体を支える。

 

「だから何やって……」


 その瞬間、思わず息を呑んだ。

 手のひらで触れた純花の両肩が、小刻みに震えている。

 うつむいた顔面は蒼白で、呼吸も若干乱れていた。

 

「純花、お前……」

 

 目を見張ると、純花は突然俺の手を振り払った。

 それはまるで、体の震えを悟られまいとするような……。


「ダメだよ、ともくん。学校で、おさわりは……」


 それでもなお、純花はおどけた口調で微笑を向けてくる。どこかぎこちない、不自然な笑み。

 それを見た俺は、先ほど感じた違和感の正体に気づく。


 純花にとって橋本は、俺にとっての秀治のようなもの。本来逆らってはいけない相手。

 あんなことをして、平静でいられるわけがない。そもそも本当ならあの純花がこんなこと……できるはずがない。


 純花の肩に伸ばしかけた手が、届かないまま宙をさまよった。

 俺は何も言い返せずに、赤みの失せたその口元をただじっと見つめていた。

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