第34話


 その翌日のことだ。 

 昼休みが終わっての五時限目は、担任の村上による英語のリーダーだった。

 予習や宿題も多く、厄介な授業の中でも一、二を争う。

 さらに今日の村上はどこか機嫌が悪く、入室直後から教室内にはピリピリした空気が漂っていた。

 

 頭に英単語の小テストを行った後、教科書の内容に移る。

 新しいパートに入る時は、まず通しで音読。その後誰か一人ずつ指名して、細かい発音などを指摘していく。

 村上は基本、日付と出席番号を照らして一人当てた後、縦か横方向に指名者をずらしていく。

 今日最初に当てられたのは、一番窓際の席の前から二番目。

 次にその後ろが指名されたので、おそらくそのまま縦に進んで列を一周する流れだろう。

 

 俺が指されることはないとわかって、読まれる英文を目で追う気が早くも失せてくると、隣で妙にそわそわしている春花にふと気がついた。

 このままだと確実に当てられるから焦っているんだろうが……それにしても慌てっぷりがひどい。

 なにやらこそこそと机の中を確認しているようだが、そういえば授業が始まる前にも、やたら机の中をがさがさしていた気がする。

 

 不審に思ってよくよく見ると、春花の机の上には教科書が見当たらなかった。

 置いてあるのは、辞書とノートだけ。


 ……何だコイツ、教科書忘れたのか? だったらなにも他のクラスの誰かに借りれば……。

 いや無理だろう。そんな知り合いなんぞいるわけない。

 教科によっては、教科書がなくてもなんとかなる授業もあるが、よりによって英語のリーダーとは。

 村上は本当に春花のような奴には容赦がない。間違いなく嫌っているだろう。

 さらに不運にも、今日は機嫌が悪いときた。バレたらどんな風に怒鳴りだすかわかったもんじゃない。


 春花の番はもう次に迫っていた。

 村上含め、みなテキストに目を落としているので、多少不自然な動きをしても問題はなさそうだった。

 ……しょうがない。

 

 俺は開いたままの教科書を持ち上げて腕を伸ばし、本の角で春花の肩をこづく。

 春花はこちらに気づくが、非常にテンパっているせいか状況が飲み込めないようで、いつまでたっても教科書を受け取ろうとしない。

 あまりのどんくささにイラっとして、もうこのまま放り投げてやろうかと思っていると、前方から声が飛んできた。


「早坂くん? どうしたんですか?」


 村上に見つかった。

 意外に目ざとかったとはいえ、我ながらマヌケだ。

 

「教科書……忘れたんで北野さんに見せてもらってました」


 こう言うしかない。

 だが忘れたら事前に他のクラスから借りておけ、というのが村上の方針だから、実はそれは通らない。


「えぇ~、忘れたのになんで若干半ギレ!?」


 すかさず教室の反対側の方から声が上がった。

 工藤だ。


「しかも見せてもらってたっていうか、完全に自分のものにしてる! 鬼畜や!」

「う~るさい、工藤くん、シャラップ!」


 あちこちで笑い声が起こる。そのやりとりで、重たい空気が一気に吹き飛んだ。

 村上も飲まれて少し笑ってしまったのか、半分苦笑交じりで工藤を注意する。

 工藤はスキあらばやる奴なので、俺をフォローしようとしたのかどうかは怪しいが、ここは感謝しなければいけないだろう。


「朋樹」


 その時、クラス中央付近の席で立ち上がった秀治が、数歩動いて身を乗り出し、俺に向かって教科書を差し出してくる。

 受け取りそうになる寸前で手を止めて、思わず秀治の顔を見る。


「いや、それ……」

「大丈夫です、僕二冊持ってますから」


 秀治はそのまま俺の手に教科書を押し付けて、村上に振り返って言った。

 今度は「おぉ~」と周りで感心したような声が上がる。

 なんで二冊持ってんだよ、という疑問が沸いたが、「頻繁に持って帰ったりする科目は二冊目を買って、忘れるのを防ぐ。それにいちいち持ち帰らなくてすむし」と秀治がずっと前に言っていたことを思い出した。

 

「早坂くん、次から忘れた場合は前もって他のクラスから借りて用意しておいてください」

「はい、すいません」

「中嶋くんから借りてもいいですけど。ふふ」

「やだな先生、僕だっていつも二冊学校にあるわけじゃないですよ」


 秀治がすかさずそう返すと、村上はさもおかしそうに笑い出す。

 すっかり村上の機嫌が良くなったようだが、これも半ばいつものパターンとも言える。まあこれで丸く収まるならなんでもいい。

 そのまま俺の教科書を春花に使わせることにして、授業はまもなく再開した。

 ちなみにどっちにしろ春花の音読はグダグダで、さんざんダメ出しを食らっていた。

 




 授業が終わると、春花がおずおずと教科書を差し出し、声をかけてきた。


「あっ、あの……あ、ありがとうございました」

「ああ、別にいいけど。なに? 忘れたの?」

「えっと、それが……どこにも見当たらなくて。昨日持って帰って予習をやって、英語は忘れたらヤバイってわかってたんで、絶対カバンに入れたはずなのに……。朝机に入れた時は、あったと思うんですけど……」


 どうにも不可解、といった風に春花は首をひねる。

 俺もなんとなく釈然としないまま、受け取った教科書を机にしまって顔を上げると、どこからか視線を感じた。

 その先を追うと、目があった。純花だ。俺が気づくなり、ご丁寧にさっと顔をそむけた。

 

 またか……。

 確かに直接話しかけてこなくはなったが、今度はこれだ。ことあるごとに、遠巻きから俺のことを観察しているようだった。

 本人は俺に気づかれないようにしているつもりなのか知らないが、はっきり言ってバレバレ。地味な嫌がらせにしか見えない。

 だがもしかしたら、あいつが……。



 しばらくして、村上に呼ばれて一緒に教室を出ていった秀治が戻ってきた。

 俺は席に寄って行って、授業中に受け取った教科書を手渡す。

 

「助かったよ、サンキュ」

「いいよいいよ。あはは、にしても朋樹が授業中に教科書忘れたとかって、何かヘンだね」


 さすが鋭い。

 だが正直に事の理由を言ったら、秀治はきっとあまりいい顔はしないだろうから、様子を見ることにした。

 

「ヘンって何が?」

「だって忘れたって気づいたら、適当に誰かから借りてくるでしょ。それか吉田君の机から勝手に持ってくるか」

「授業始まってから気づいたんだよ」

 

 そう言うと秀治は「ふぅん」とだけ返して、もうその話はどうでもいい、といった態度に切り替わった。

 まあ実際のところを知らなければどうでもいい話だが、その反応で秀治への疑いは消えた。

 やっぱり違う。秀治はそんなくだらないことをする奴ではない。こいつならもっと別の……。


 学校が終わってからも、俺はその一件が妙に気になった。こういう嫌な予感は、結構当たる。

 その日の夜、よっぽど春花に教科書が見つかったか確認しようかと思ったが、連絡先を知らない。

 悩んだ末、俺は純花のブロックを解除して携帯にメッセージを送った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る