第31話


「きゃ、ぁっ!」


 大音量が飛び出す寸前で、俺は慌てて純花の口を手で抑え込んだ。

 すると今度は指先に痛みを感じて、すぐに手を引っ込める。


「痛って、お前、噛みやがっただろ!」

「くすくす、今の顔おもしろーい。ともくんちょー焦ってる」


 純花は何が面白いのか人の顔を指差してけらけらと笑っている。

 だが今のはマジで焦った。止めなかったら、きっとこいつは容赦なく大声を出していただろう。

 純花はひとしきり声を出して笑った後、緩んだ顔のまま手のひらを上に向けて、俺の顔の前に突き出してきた。

  

「ね、携帯貸して」

「誰が貸すか」

「ちょっとだけだから」

「ちょっともなにもねえよ、なにするつもりだよ?」

「あたしのブロックを解きます。ついでに他の女子をブロックしちゃおっかなー、うふふ」

「絶対貸さねえ」

「貸さないと叫ぶよ?」


 全く揺るがない純花の瞳。

 こいつはきっと、マジでやる。さっきのでそう確信した。

 無理やり力で押さえ込んだとしても、全力で抵抗してきそうな気配だ。

 それこそ絞め落としでもしない限り、完全に黙らせることはできないだろう。

 声も出させず物音も立てずにそんなことをするのはまず不可能だ。

 

 迷った末、俺はしぶしぶ携帯を差し出した。

 純花は嬉々として俺の手から携帯をかっぱらうと、しばらくあれこれと操作していたが、徐々にしかめっ面になり、


「ねぇ、これどうやって解除するの?」

「お前バカだろ」

「バカはともくんでしょ? ブロックなんてしやがって」

「その口の利き方、人のこと言えんのか?」

「ともくんのせいでうつっちゃったよ。でも口悪い同士、あたしたちお似合いだね」


 どこがだよ、とだけ吐き捨てて、取りあうことはしない。

 純花は自力でブロックを解除することをあきらめたのか、指先で携帯をつまむようにして、宙でぷらぷらさせはじめた。


「ていうかこれもう捨てよっか。あたしと連絡つかない携帯なんていらないよね」

「はあ? むしろお前と連絡がつかない携帯が必要なんだが? 返せよ」

「純花愛してるよって言ったら返してあげる」


 盛大にため息をつく俺を、純花は楽しそうに見ている。

 これまで純花が俺に対してこんな言動を取ることが果たしてあったか。

 純花はただ俺の言葉に従順で、俺が嫌がるようなことを要求してくるようなことはなかった。


 ここに来て昨日純花が「接し方を変える」と言った意味がわかった。

 それは接し方を変える、のではなく、厳密に言うとつまり。

 

「……それがお前の本性かよ?」

「んふふ……。だってともくんが好きそーな女の子っぽくしてたんだけど、違ったみたいだし……。どっちにしろ嫌われるんなら、素の方を出したほうがいいでしょ?」

「ああ、どっちにしろ嫌いだから何したって無駄だな」


 こうして思うさま暴言を吐いても、純花はまったく堪える気配がない。

 それどころか、含みのある笑みを浮かべて、楽しくて仕方がないといった様子だ。


「俺今日さ、マジで午後からバイトだからさ。帰ってくんない? ていうか帰れ」

「午後からでしょ? まだまだ時間あるじゃん。ね、朝ごはんまだでしょ? あたしサンドイッチ作って持ってきたから食べる? ていうか食べよ?」


 純花は俺の言葉を強引に押し切って、持ってきた鞄から手拭きとタッパーを取り出した。

 中には小綺麗に切りそろえられた、小さめのサンドイッチがぎっしり詰まっている。

 純花は軽く手を拭った後、タッパーの中からサンドイッチを一切れ取り出すと、俺の顔の前に持ってきた。


「はい、あーん」

 

 ここまで勝手な独断先行。

 無視していると「食べないと叫ぶよ?」と言わんばかりに純花の目が光り始めたので、仕方なく口を開く。


「わぁ、食べた食べたぁ。ぱちぱち」

「……俺は動物か何かか?」

「ねえおいしい? おいしい?」

「まずい」


 純花は「むぅ~いじわる~」と口を尖らせるが、こんなもん誰が作っても対して変わらないだろう。

 食いきるまでこの茶番が終わらないと思った俺は、タッパーにある残りを一気に全部口の中に放り込んだ。


「あっ、あたしの分!」


 叫ぶ声を尻目に、口を動かしながら俺はベッドの上に戻った。

 そのまま布団の中に潜り込む。


「あれれ、どうしたのともくーん」

「寝る」


 純花の猫撫で声に背を向けて、ベッドの上で丸くなる。

 正直言ってまだ眠い。今日はこのバカのせいで、休みなのに無駄に早く起こされた。

 何を言っても帰りそうにないし、こんな奴の相手をまともにする気力もない。ならば完全に放置して寝てしまうのが最善。

 横になったまままぶたを閉じると、すぐ後ろで衣擦れの音がして、背中に体温を感じた。


「じゃあ一緒に寝よっか。あたしもほんと言うと、昨日遅かったから今日はちょっと眠いし」

「おい、なに入ってきてんだよ出てけ」

「いやです~」

 

 無理やり隣に滑り込んできた純花を追い出そうとするが、いつの間にか背後から前に両手を回され抱きつかれていて、離れそうにない。

 

「離せよ、おい!」

「ダメ。おとなしくしないと叫ぶよ?」

「お前なあ……」


 やはりコイツを家の中に入れた時点で失敗だった。

 だがまさか、こんな大胆な行動を取るとは予想だにしなかった。

 

「ふっ」


 不意に首筋に息が吹き当てられ、びくん、と反射的に体が反応してしまう。

 

「くすくす、ともくんかわいい。いまビクってした」


 背を向けたまま、無視。

 なにがあっても無視することにした。


「ね~え~、こっち見て~」


 純花は駄々っ子のように、肩を掴んでゆさゆさと揺さぶってくる。

 背中に指で文字を書いたり、脇をくすぐってみたり、つねったり。

 またも息を耳元に当ててきたが、同じ手は食わない。あくまで無反応を貫く。

 しかし背後から這い寄ってきた手が、胸元を撫で始めたところで我慢の限界が来た。

  

「お前、いい加減にしろよ? マジで」

 

 振り向いて睨みつけると、何を勘違いしたのか純花は目を閉じて、軽く顎を持ち上げた。

 かすかに鼻先にかかる吐息を振り払うように、勢いよく布団を跳ね除けて上半身を起こすと、隣で横になった純花の姿があらわになる。

 先ほどボタンを外しかけたままのシャツに、何も気にせずに中に潜り込んだのか、まくれて乱れたスカートは下着をほとんど隠せていなかった。

 

「やだ、ともくんどしたの? そんなじーっと見て」

 

 だが純花はそんなあられもない姿を隠そうともせずに、にやにやと微笑みかけてくる。

 すぐに目線をそらして布団を元に戻すと、なにがおかしいのか純花はさらにくすくすと声を出して笑った。


「うふふ、ともくんって紳士だよね。いいんだよ? たまにはオオカミさんになっても」


 それには返事をせずに、再びベッドに身を横たえる。

 今度は純花もおとなしくしていたが、しばらくの沈黙の後、急に傍らに近づいてきて、


「ねえ、好きな子ができたって、やっぱりあの北野さん?」


 弾んだ口調で言った。前に問い詰められたときとは、全く調子が違う。

 だが俺が無言で見返すと、純花の瞳がかすかに揺れた気がした。それはいつか見たときのような……なんとも言えない色をしていた。

 俺は「そうだよ」と突き放すことができず、無意識に口を開いていた。

 

「……ちげーよ」

「そうなんだ。でも、気にはなってるんだよね? それにしても、一体誰なんだろ~」


 純花はおどけるようにして、天井を仰いだままの俺の顔を、上から覗き込みながら言った。

 今度は何も言わずにいると、軽く目を閉じて純花は顔を寄せて、唇に優しく口付けてきた。

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