第13話


 そして学校が終わった後、俺は純花と一緒に自宅に帰ってきた。

 こういった状況は、もちろん初めてではなく、定期的にあることだ。

 純花は初めて来た時こそ、縮こまって緊張していたが、今はもうすっかり慣れたもの。

 俺が鍵を回して玄関を開けると、純花は率先して家に上がり階段を登って、二階の俺の部屋に向かう。

 

この家には俺と姉と、母親の三人で住んでいる。いや今現在は、母親と、俺の実質二人暮らしか。

 俺には三つ上の姉がいて、学校を卒業してそのまま、アパレル系の仕事についている。

 少し前から男と同棲を始めたらしく、めっきり家には寄り付かなくなった。

 

 母親は会社員。

 結婚前に務めていた会社に戻り、働いている。仕事はできるらしい。

 朝はやや遅めに出て行って、ちょうど晩飯時、時には夜遅くになって帰ってくる。

 なのでたいていこの時間、特に平日は、家には俺一人になる。

 

 この家は小さい借家だが、俺と母親の二人だけでは、だいぶ持て余す。

 何を隠そう俺も転校生だった。訳あって、中学の時にここに越してきた。

 借家ということもあって、この家に特に思い入れはない。外観もくたびれていて、家の中には独特の匂いが残っている。

 いいところと言えば、駅まで歩いていける、ぐらい。どっちみち俺の高校卒業と同時に、引き払うことになっている。


「わぁ、相変わらずごちゃごちゃしてるねぇ~。ちゃんと掃除してる?」

 

 俺の部屋に足を踏み入れるなり、純花は辺りを見回して言う。

 別に他に誰もいないので一階のリビングでもどこでもいいのだが、家に来るといつも純花は、やたらと俺の部屋に入りたがる。

 部屋の中で真新しいものを見つけると、これなに? どこで買ったの? なんて始まっていちいち面倒なので、正直あまり入れたくない。


 カバンを放り投げてベッドに腰掛ける。

 俺がスマホをいじる一方で、純花は掃除具を持ってきてカーペットの上をコロコロとやりだした。

 その辺はもう、勝手知ったるといった感じだが、別に掃除を頼んだ覚えはない。

 

「なんだよお前、掃除しに来たのか?」

「違うよもう、だって汚いから……」


 言うほど汚れてはいないと思うが……大方、掃除でもしないとやることがないんだろう。

 あえて嫌味ったらしくつついてやる。


「大体さ、俺んちなんか来たって、なんもやることないんだろ?」

「そんなことないって……あっ、ねえじゃあ、ギター弾いて」


 思いついたように、純花は部屋の隅で若干ほこりをかぶっているサンバーストのストラトを指さす。


「ヤダ」

「ヤダ、だって。かわいい、ともくん反抗期かな?」


 俺は無言で立ち上がると、ギターをスタンドから持ち上げ、一緒に小型のアンプとシールドを引っ張り出した。

 ギターを接続して、ボリュームを絞ったアンプから歪んだ音を出す。

 なにを言うでもなく、俺はしばらく黙々とピックで弦を弾いた。


「すごいかっこいいね、なんていう曲なの?」

「別に曲ってわけじゃなくて、インプロっつーか……ただの手癖で適当に弾いてるだけだから」

「へえ~、なんかよくわかんないけど、やっぱともくんすっごい上手だよね」

「どこが? こんなの弾けるうちに入らないし」

「え~なんで? ともくん中学の時、学祭でバンドやったんでしょ?」


 俺はそれには答えず、アンプの電源を切ってギターをしまいだした。

 バンドなんて、実際そんなたいそうなもんじゃない。演奏もかなりひどいレベルだった。

 みんな緊張していたのか、まずリズムがよれよれ。ボーカルの声もまったく出てない。

 俺はなんとか合わせてやったつもりだったが、後で録画されたものを見たら、他との音響のバランスがひどすぎてなにをやってるのかわからなかった。

 俺のギターの音はほとんど埋もれていた。

 

 それを見たとき、一気にやる気がうせてそういうのはもうやめた。

 もともと周りのメンツも、女にモテたいとかそんな理由で格好つけてみた奴ばっかりだった。

 まあでも、楽器を始める動機なんてそんなもんだろう。むしろ、健全なんじゃないかとすら思う。


 じゃあなんで俺は、ギターなんか始めたんだろうかって。何をあんなに必死になって、練習してたんだか。

 それは、最初に親父が、ギターを買ってきて……。


「すごいのに、なんでそんな風に言うかなぁ……」


 楽器一式を元に戻した俺は、再びベッドの上に腰を下ろす。もうその話題について、純花と話をする気はなかった。

 というか、少しからかわれたからって、ギターを手に取ったこと自体どうかしている。

 こんなことをするために、純花の提案を受けて家に連れて来たわけじゃない。

 俺は一度、大きく息を吐ききると、乾いた唇を軽く舐めて湿らせた。


「……さて」

「さて?」


 ぺたんと座り込んだまま、おおげさに首をかしげる純花。あくまでいつもどおり振舞うつもりらしい。

 だが本当は、コイツだってわかっているはずだ。俺が、何を言わんとしているか。

 

「もう、いいだろ?」


 覚悟を決めて、じっと純花の目を見つめる。

 もう余計な言葉はいらないと思った。これだけで、十分通じると思った。


「な? だからもう……」

「どーん!」


 ベッドに座る俺に向かって、純花は飛びつくようにして抱きついてきた。

 いきなりの不意打ちに、なすすべもなくそのままベッドの上に押し倒される。


「なにすんだよ危ねえな、乗るな、重いって」

「わ、ひどっ! 女子に重いは禁句だよ」

「わかったから、一回どけって」

「ヤです~」


 胸元にしがみついて離れない純花を、何とか引き剥がそうとする。

 が、ふざけているのか、純花は力比べとばかりに、ぐぐぐ……と腕をふんばって抵抗してくる。

 変な体勢で上をとられているだけに、こちらもうまい具合に力が入らない。

 本気でやれば、押しのけられないこともないだろうが……はずみで純花の体を痛める怖れがある。

 まともに張り合うのもバカらしくなった俺は、逆に力を緩めて、思いっきりため息をついてやる。

 こういうときは、相手のペースに乗ったら負けだ。


「なんなんだよ、まったく……」

「ともくんがあんまりにもかっこいいから、発情しちゃいました」

「はあ? なに言ってんだお前……」

「だって、もういいって、そういうことでしょ?」


 純花は俺の胸元にうずめていた顔をもたげて、うふっと笑うと、今度は首を伸ばして唇を近づけてきた。

 はっとした時には、すでに純花の顔は目と鼻の先。

 さらに逃げられないように、純花は俺の顔を両手で包むように押さえてきた。


「んっ……」


 唇に触れる柔らかい感触。

 続けて強い熱を持った舌先が、口の中に侵入してくる。それがしつこく、執拗に奥に潜り込もうとしてくる。

 俺はそれに応えることも、拒むこともせず、ただされるがままになった。

  

 俺は冷静を装いながらも、内心動揺を隠せないでいた。

 カラオケの時も思ったが、純花がここまで積極的なのは、過去にないことだ。

 キスをせがむことはあれど、ろくに承諾もなしに向こうから、というのはこれまで彼女にはなかったことだ。

 一体なにが純花をそこまでさせるのか。

 すでにわかりきっているその理由と、これからのことを考えることで、俺は目の前で起こっていることから意識をそらそうとしていた。


 やがて粘膜が擦れる音とともに、純花の手と顔が一旦離れる。だがその惚けたような瞳は、俺の顔をじっと捉えたままだ。

 俺は純花の力が弱まったその隙に、体を押しのけつつゆっくり上体を起こす。

 純花は器用に体勢を変えて、俺の隣に座りなおすと、スカートの裾がまくれ上がっているのも気にせず、じっとこちらを見上げてくる。

 そして熱のこもった吐息を吐きながら、小さく囁いた。


「……ね、どうしよっか?」


 寄り添う体から、相手を誘惑するような甘い匂いがする。

 俺はそれを避けるように、あさってのほうを見たまま答える。


「どうするもこうするもねえよ」

「なんで? 遠慮しなくていいのに……」


 純花が意味深に言葉を区切らせたため、変な間が起こる。

 さまよわせていた視線を純花のほうに戻すと、今度は向こうが顔を赤らめてうつむきだしたので、視線は合わなかった。

 純花はしばらく黙ったまま、足をぴんと伸ばしたり曲げたりを繰り返していたが、やがてぽつりと口を開いた。

 

「あたしは、いいよ? ともくんがしたいなら……」


 本当になにを言ってるんだか。

 こうも愚かな行動に出るなんて、あまりにも考えが短絡的過ぎて、正直驚いている。

 そっちがその気なら、なおさら俺は……。


「いや、つうかさ……あの時、言ったじゃん? 俺らって……」

「あの時、わかった、って言ったよね?」

「え?」


 急に、純花の声のトーンが変わった。

 いつものふわふわした口調からは別人のような、鋭い声音。

 思わず目を見張るが、純花は顔を伏せたまま、その表情はうかがい知れない。

 言葉を失っていると、不意にぱっと顔を上げた純花が、いつもの明るい笑顔を浴びせてきた。


「ね? あたし達まだ付き合ってるから。恋人同士」


 純花はぐいっと腕に絡み付いて、体をすりよせてくるなり、再び耳元にささやきかけてきた。


「それとも、気持ちがないのに、したら悪いって、思ってる?」


 表情を読み取ろうと、純花は間近で俺の顔を覗き込んでくる。

 俺は言葉で否定する代わりに、露骨に目線をそらした。

 

「ふふ、やっぱり。ともくんて、本当は真面目なんだよね。そういうところ、好き」


 そう言って純花はかじりつくように俺の首に手を回すと、唇を頬に押し当ててきた。

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