第9話
その瞬間、俺は反射的に上体を反らして、唇を離していた。
モニターを逆光にして、薄暗い部屋で純花の瞳がじっと俺を見ていた。
「……なんで逃げるの?」
「いや、ていうかさ……」
どういうつもりだよ、と言う前に、純花がすぐに言葉をかぶせてきた。
「いつも、してるのに」
純花の言うとおり、なにも特別なことではない。いつものことだ。
二人でカラオケに来た時などは自然としている行為。最初の頃は純花も恥ずかしいと嫌がっていたが、すぐに抵抗を示さなくなった。
だが今はそのいつもとは状況が違う。完全に二人きり、というわけではない。いつ誰が戻ってくるかもわからない。
というか、そもそもの問題は別のところにある。俺は純花の無神経な、いや不可解な振る舞いに、いい加減苛立ちを覚えていた。
「あのさ、昨日の話……」
「さっき水上さんと、なに話してたの?」
「え?」
純花の急な質問に、間の抜けた声を上げて固まってしまう。ぽかんと開いた口を、再度口でふさがれた。
抵抗しようにも、今度は純花が寄りかかるように体を預けてきたので、下手に動くと危ない。
口内に進入してきた舌を拒否すると、純花はそれならと一度唇を舐めるようにした後、やや強めに吸ってくる。
いつにも増して激しい。基本、純花のほうから要求することは多いが、これだけ執拗なのは初めての気がする。
この時、俺の中のある予感は、ほぼ確信に変わった。
純花が言い出した、別れるまでの一週間の猶予。
それは純花が自分の気持ちの整理をつけるためではなく、その時間で俺に考え直させようとしているということ。
そういうつもりならば、純花の行動にも納得がいく。
「えへへ、スキだらけだよ?」
一度唇を離した純花が、目と鼻の先でいたずらっぽく笑う。
劣情を煽るような甘い声と、濡れた唇。遠く見ているような蕩けた瞳、かすかに上気した頬。
まるで体を蝕む毒のような吐息を真っ向からあてられて、どくんと胸の奥がうずく。
「ともくん、好き……」
もし本当に二人きりなら、俺はここで純花を押し倒していたかもしれない。
むしろ健全な男子高校生なら、そうならないほうがおかしい。
だが純花のこの行動が、必死に俺の機嫌を取ろうとしてのことだと思うと、とたんに言い表しようのない嫌悪感がこみ上げてきた。
コイツは俺のことを騙そうとしている。甘い言葉に気を許せば、また騙される。裏切られる。
俺は無言で、強めに両肩を押して純花の体を引き剥がす。
純花が何か言いかけたとき、部屋のドアが開いて、どかどかと工藤たち三人が中に入ってきた。
「あらやだお二人さん、そんな急接近しちゃって」
「きゃ~お熱いね~、ほんとラブラブね」
隣り合って座っている俺たちを見るなり、口々にはやし立ててくる。
純花がまんざらでもなさそうに笑っているのを尻目に、俺は立ち上がり元の席に座りなおした。
「あらともくん、邪魔されて不機嫌かしら」
「うるせえな、歌うなら早く歌えよ」
「純花、一緒にメドレー歌お~」
橋本が純花の隣に押しかけるように座り、端末の操作を始める。
この二人はとても仲がいい。と、表向き当人同士はそう言っているが……まあ、俺が口を出すことではないか。
その後、すぐに水上も戻り、退屈なカラオケはしばらく続いた。
カラオケを出たのは夕方六時過ぎだった。
工藤がゲーセンでも行こうぜなんて言い出したので、俺はバイトがあると言ってさっさと帰った。
だがこれはウソで、今日はシフトは入っていない。
去り際、純花がなにか言いたそうな視線を向けてきたが、無視して別れた。
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