第8話
トイレを済ませて部屋に戻ろうとすると、ちょうど通路を反対側からやってくる水上と行きあった。
おそらく向こうもトイレに行くために出てきたようだ。俺に気づくなり、水上は微笑を浮かべて小さく会釈をしてきた。
そのまますれ違うわけにもいかず声をかける。
「あ、トイレ?」
「はい。ちょっとジュース飲み過ぎちゃったかもしれないです。緊張しちゃって」
「全然そんな風には見えないけど。歌、うまいよね」
「いえそんな、早坂先輩こそうまいじゃないですか」
「いやいや全然、かなわないよ」
「いえいえそんなことないですって」
譲り合いになったのがおかしいのか、向こうがぷっと吹き出したので、調子を合わせて笑っておく。
実際のところ俺のレベルは水上には及ばない。向こうもわかってて謙遜しているのだろうが、そもそもどっちがうまいとか比べるのもバカらしい。
もうこれぐらいでいいだろう、とすれ違おうとすると、水上は呼び止めるように話を振ってきた。
「先輩って普段どういうの聞くんですか? やっぱりロック系ですか?」
「あー、まあその辺かな」
「さっきの曲かっこいいですよね、なんていうバンドでしたっけ」
おとなしいのかと思ったら意外によくしゃべる。
矢継ぎ早な質問に一通り答えた後、たぶん聞いてほしんだろうな、と思ったので同じ質問を返した。
すると待ってましたとばかりに語りだす。聞いているとボカロとかが好きらしいが、俺はあまり詳しくないのでよくわからない。
「けっこう選曲悩みません? あんまりマイナーなの歌うと、ちょっとあれかなぁって思って」
「あ~そうだね」
好きに歌えばいいよ、あんたがなにを歌おうがどうでもいい。……とはもちろん言わない。
その後も遠まわしに私はいろいろ気を使ってます的なアピールをされたが、適当に同調しておく。
そんなに面倒な思いをしているなら、来なければいいのにと思った。
「なんかおすすめあったら、教えてくださいね」
「OK、わかった」
これでやっと終わりか、と部屋に戻ろうとすると、
「あっ、あと……」
水上は目を伏せて少しためらうようにした後、顎を引いてこちらを見上げるようにしてくる。
わざとらしい上目遣い。
「いきなりこんなこと聞くのもあれなんですけど、早坂先輩と佐々木先輩って……付き合ってるんですよね?」
その言葉に、体が一瞬固まる。
何か面倒なことを言われそうな予感はしたが、その予想以上だった。
確認するような尋ね方は、きっと誰かに事前に聞かされていたのだろう。
今日の俺の純花に対する態度を見る限りでは、そんな風には思われないはずだ。
少しだけ返答に迷ったが、実のところなにも迷うことはない。ここで余計なことを言って混乱させる必要は一切ないからだ。
「まあ、そうだけど」
「あ~やっぱりそうなんですね。いいなぁ~、美男美女カップルって感じで、お似合いですよね」
「そりゃどうも」
それが言いたかっただけか?
そんなわけないよな。
「私も彼氏欲しいんですけど、なかなかいい人が……」
やっぱりそういう風に、自分の話にもっていきたいわけだ。
俺に誰か紹介しろってことなのか? とはいえ実際他人事だから、無責任なことはいくらでも言える。
「いやほら、今日だっているじゃん、候補が二人も」
「え、えぇっと、あれは……」
「あれってひどいな、はは」
「あっ! すいません今のは違います、つい流れで……」
「いいよいいよ、あれで十分だよ、あいつらは」
特にあの二人のどっちかが気になるとかそういう話ではないらしい。
やはり単純に連れて来られた側か。この子が呼ばれたのも、工藤あたりが橋本に頼んだのかもしれない。
たしか今から半年前ぐらいに、工藤は彼女に振られたと言ってそれきりだったはずだ。
「あの、実は私、早坂先輩のこと結構前から知ってるんです」
「へえ? どこで?」
「中学の時、サッカーの練習試合でうちの学校に先輩が来てて……。あの十番やべーってみんな言ってました」
それを皮切りに、水上は頬を紅潮させてやや興奮気味にあれやこれやとまくしたてる。
俺はその勢いに押されるように、へー、だとかふーん、とただ曖昧に相槌を繰り返した。
「あ、なんかすいませんいきなり長々と!」
それでやっと気が済んだのか、水上は小さくお辞儀をして去っていった。
結局なにが言いたいんだかよくわからなかった。俺に対するなんらかのアピールなのか、ただ思いつくままにしゃべっていただけか。
しかしこういう場合はたいてい後者だ。ただの考えすぎだ。いつもの。
いつからか俺はこうして、人の言葉の裏を深読みする癖がついてしまった。
その原因は、なんとなくわかってはいるが……。
部屋に戻ると、どういうわけか中には純花しかいなかった。
純花は一人ぼけっと映像の流れるディスプレイを眺めていたが、入ってきた俺の姿を見るなりぱっと笑顔になる。
「あ、ともくん来たー」
「あれ? 一人?」
「うん。みんな、飲み物替えて来るって行っちゃったんだよね」
「お前はなんでいるの」
「なんでって……それは~……、ともくんが戻ってきた時、一人でかわいそうだから?」
またしょうもないことを。
しかし純花一人残していなくなるとか、そんなことってあるか?
タイミングが悪かったと言われればそれまでだが……。
とりあえず立っていても仕方ないので、適当にソファーのはじに一度腰を下ろす。
すると、それを見た純花がすかさず立ち上がり、体が触れるか触れないかの位置に座り直した。
だが俺は純花を無視し、携帯を取り出して意味もなく適当にアプリを立ち上げて操作する。
すぐ近くで純花の視線を感じていると、
「ともくん」
不意にそう呼ばれた。やや甘い響きを含んだその声音。
一呼吸置いた後、携帯から目を離して顔を上げると、目の前に純花の顔があった。
かすかな吐息と甘い香りが近づいてきて視界がふさがり、唇に柔らかな感触が押し付けられた。
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