再生
第23話 ケアギーバースクール
その年の夏休み、彼女の家にお金を使った僕はセブへの旅行を控え、地味に日本で過ごすことにした。田舎にも帰らず、多めに買い込んだ本をせっせと部屋の中で読むという読書三昧の夏休み。身体と財布を休めるためだけの長期休暇という近年にない試みは、それはそれで自宅バカンスのようではないかと少し得をした気分になるほど、何もない休みだった。
そして九月になると、いよいよリンのケアギーバースクールが始まった。
一年以上何もせずに過ごしてきたリンが、規則正しい生活を強いられることに少し不安を覚えたけれど、幸いなことにそれは取り越し苦労に終わる。思いの外、リンはまじめに学校へ通った。
学校の授業は難しいらしく、家に帰ってからもきちんと復習や予習をしないとついていけないと彼女はこぼした。普段は適当にやって誤魔化すことも可能だけれど、それでは試験が通らないため真面目にやるしかないと彼女は言い、僕はそれをとても良いことだと言った。
そんな話しから、彼女は全うな学生になったのだと実感し、僕は不思議な気分になった。
ゴーゴーバーガールからプータローを経て、気付いたら彼女は学生になっていたのだ。あまり自然な流れではないような気がしたし、そうかと言って、それほど不自然なわけでもない。それは、人の人生に、山あり谷ありの何が起こってもおかしくないという好例なのかもしれなかった。
おそらく僕は、リンの人生に様々な転機を与えていた。しかしそのことが、彼女にとって最終的に良い結果に結びつくのか、それともその逆か、僕にはさっぱり判断がつかなかった。
日本人の友人にそのことを伝えると、彼は、「彼女はお前と出会って幸運だった」と言った。それに対して僕は、そんなことは分からないと反論した。友人は僕が謙遜していると思ったようだけれど、僕は本当に分からないと思ったのだ。
他人の人生にとって何が良くて何が悪いかなんて、他人には決して分からないはずだ。それは本人にとっても、未知数なのだから。今が幸せでも、それが将来に渡り継続されるかは誰も保証できない。まして、今の幸せな出来事が引き金となり、将来とても不幸なことが起こる可能性も有り得るし、その逆のケースだってある。
リンと出会うまで僕は幸せの定義を探していたけれど、それは定義するものではなく、おそらく自分で作るものなのだ。それを教えてくれたリン本人は、そのことを知っているだろうか。あるいは知っていたとして、まだそのことを自覚しているだろうか。様々な転機を与えられ少し浮かれている彼女は、大切なものを何処かに置き忘れていないだろうかと、僕はときどき心配になる。
いくら生活が豊かになっても、幸せになるとは限らない。与えられたものに満足し、その上に胡坐をかいていたら、いつか幸せは逃げてしまうかもしれない。幸せを自分のものにするためには、きっと謙虚なものの考え方や前進しようとするひたむきさのようなものが必要ではないだろうか。彼女がまだ、そんなことを理解していればいいのだけれど。そして、自分のそんな憂いを解消するため、僕は彼女の夢を壊さないように突っ走っていたのかもしれない。
リンは勉強が大変と言いながら、学生生活については楽しんでいるようだった。彼女は、授業のあとに一緒にお茶を飲んだり食事を一緒したりする友だちが何人ができたようで、いつも何処かへ出掛けたときの様子を電話で明るく話して聞かせた。
友だちとの会話を電話口で再現する彼女はとても上機嫌で、実際に楽しい時間を持ったことがこちらに伝わってくる。それらを聞いていると、彼女は過去に失った、あるいは掴み損ねた何かを、思いがけず今取り戻しているように思えた。
学校で知り合った友だちは、もちろん学校の月謝を払えるのだから少し余裕があるようで、ティータイムや食事や映画などの娯楽をリンと一緒に楽しむ程度は、苦にならない人たちのようだった。
僕はそういった彼女の日常を、微笑ましく聞いていた。いくら食べることに心配がなくなっても、ずっと家の中にこもって漫然とした毎日を送るより、勉強が大変でも、何かと向き合いメリハリのある生活をしているほうが、彼女にとっては何倍も楽しく有意義なはずなのだ。そして精神衛生上も、そのほうがはるかに健康的なはずだった。だから、リンが学校以外で、友だちと一緒に何かを楽しむことに僕は賛成だったし、彼女が楽しそうにしているのは嬉しくもあった。
リンの友だちの中には、日本で働いて稼いだお金で、介護士の学校へ通っている人もいた。元手のない人は、そんなふうにステップアップしていく。そうやって遠回りをしてでも、数年もすれば、何もしない人との間に雲泥の差がつくのだ。
フィリピンに限らず、世の中にはそうやって先を考え行動できる人と、そうでない人がいる。海外に出稼ぎに出るということ自体、日本人の自分にはとてもダイナミックなアクションに思えるのだから、そういったことを含む中長期の計画を元に動ける人というのは、やはり逞しい。それが二十代半ばの女性だったりすれば、僕は驚きながら、そういう人をすごい人として尊敬するしかないのだ。
リンは僕との会話の中で、その彼女から仕入れた日本の情報を色々と披露してくれた。
どうやらその彼女は、いわゆるタレントとして来日し、日本のフィリピンパブで働いていたようだ。当然ながら彼女は、毎日日本人男性と接していたことになる。しかもパブという場所柄、彼女は気前の良い男性を多く見ていたはずだ。
フィリピンパブの同伴と称するデートでは、美味しいレストランに連れていってもらい、少し特別な料理をご馳走してもらうことが半日常的にある。その上当たり前のように日用品を買ってもらったり、あるいはブランド品をプレゼントしてもらうことで、彼女にとって日本人男性の株が、否が応でもうなぎのぼりとなる。つまり、日本人男性はみんなお金持ちで優しい、というのが彼女の中で定着するのだ。そして彼女が学校の友だちに話す内容は、日本人男性全てが、そうだということになる。
あくまで想像だけれど、例えばそこでリンが、「わたしは家まで買ってもらったわよ」などと言えば、その話しを聞いているフィリピン人女性たちは、ますます目を見開いて驚きながら、その話題が天にも昇る調子で盛り上がるのだ。
そして、「でも結婚するとがらりと態度が変わるらしい」などという、リンの友だちが言った「わたしはまるでメイド」という実話もアクセントのように添えられると、そこで登場する全ての話しにぐんと信憑性が増す。きっと話しに参加している女性たちは、どうしてかしら、どうやったらそんなふうに変われるものなのかしらと、首を傾げたりするのだ。
僕はリンの話しに自分の想像を混ぜながら、彼女たちの様子にとても可笑しくなった。なるほど、伝説はこんなふうにして作られ、伝搬していくのかと。
「そもそもさあ、バーに通う男性は優しいに決まっているんだよ」
「どうして?」
「それはもてたいからだよ。だから少しでも、お金持ちで優しい人に見られたい」
「でも実際に、あなたもお金持ちで優しいわよね」
「前から言っているように、僕はお金持ちじゃないし、優しくもないよ。いや、少しは優しいかもしれないけれど、お金持ちではない。これは断言できる」
このことは、リンと付き合い出した頃から正直に話していたし、僕は自分を、本当に庶民中の庶民だと信じている。しかし、リンにしてみれば、これほど嘘っぽい話しはないのだと気付く。
お金持ちでない人が、これほど頻繁にフィリピンへ旅行し、彼女や彼女の家族に高級レストランでご馳走し、彼女を香港旅行に連れていき、しかもそこで高級ホテルに宿泊し、その上家を買ってあげるなんてことはできるわけがないのだ。
つまり彼女にしてみれば、僕は実際、とてもお金持ちだった。そんな僕が自分は庶民だと言っても、彼女にしてみれば説得力は極めて薄い。
彼女の母親にしても、オスメニアサークルを散歩しているとき、リンにこう語った。
「彼はお金持ちなのに、どうしてゴールドの一つも身に着けていないんだろうね」
それは、気取っていなくていいわね、みたいな話しだったと思う。
僕はそのとき、自分がどんなふうにお金持ちでないことを説明すればいいのか分からなくなった。彼女や彼女の家族のお金持ち基準というのはとても低く、どうしたって僕はお金持ちに見えてしまうからだ。
「僕はお金持ちじゃないんだって。かなり背伸びをしているだけだから、ゴールドのアクセサリーなんて買う余裕がないんだよ」僕は笑ってそう答えるしかなかった。
これがバーであれば、「お金持ちの僕とお近づきになっていれば、いいことが一杯あるんだよ」と思わせておくのが正解かもしれないけれど、僕とリンのケースでは、運命共同体の要求を退ける理由を用意しておく必要があるから、大きな誤解はできるだけ解いておきたい。いや、できれば過小評価してもらったほうがずっと気楽だ。
こんな楽しい話しをしているうちは良かったけれど、リンのスクールが軌道に乗った頃から、電話が彼女に通じないことが多くなった。もちろん彼女はコールバックをくれるけれど、それが四時間程度あとだったり、ときには翌日になることもあった。
そんなとき彼女の話しはいつも、「ごめんなさい、ついつい寝てしまって電話に出られなかったの」という類の言い訳から始まる。
学校に通うことで、早寝早起きの規則正しい生活になることは悪くない。だから、そのことに対しては何も文句はなかった。
しかし次第に、リンの対応がルーズになった。
彼女は早い時間に電話をしても応答せず、その後のコールバックがないことが増えた。そのことに対し、いつでももっともらしい理由があった。時間外の授業中、外を歩いていた、い眠りしていた、電話の呼び出し音に気付かなかった等々。
しかし明らかに、リンの何かが以前と変わったことを、僕は感じていた。
それは学校に通っているせいなのか、それとも他に理由があったのか、全く分からなかった。
分からないから色々考え、ときには彼女の何かを疑い、ときには彼女の身を案じた。そしてそんなとき、二人を隔てる距離が心理的に悪さを働き、僕の心を乱すのだ。彼女と連絡がつき、理由を聞けばその乱れは収まり、連絡がつきにくくなると再び乱れる。そんなことが、自分の中で繰り返された。
しかしたまに、不思議と彼女のほうから電話がかかってくることがあった。コールバックではない電話だ。すると僕は、何かあったのではないかと思い、じっと携帯を見て早まる鼓動を感じながら、呼び出しが終わるのを待つ。
こちらからかけ直すと、もちろんリンはすぐ電話に出る。
「何かあった?」僕は真っ先にそれを確認する。
「何もないわよ。どうして?」彼女がいつものゆっくりとした口調でそう答えると、僕は胸を撫で下ろし、「いや、何となく」と誤魔化すのだ。
そして普通の世間話しが始まる。色々なことを話しているうちに、話題は如何にも自然な流れで、彼女や彼女の家族の問題に移るのだ。
けれど彼女は、お金を送って欲しいとは言わない。だから二人の会話の最中、その問題はのどに引っかかった魚の小骨のように僕の中でずっと気になる。それで妙にこちらの居心地が悪くなり、気付けば僕は何らかの提案をし、提案者としてお金を送るはめになる。
そんなことが何度か続くと、これは彼女の作戦なのかと、僕は余計な疑いを持つようになった。
それでよくよく思い返せば、彼女が電話をかけてくる場合、そんなふうになることが多いのだ。だから僕は、彼女はお願い事があるときに限って自分から電話をよこすという、根性の曲がった考えを持つようになった。
いや、おそらく表面的事実は、自分の曲がった考え通りなのだ。しかし、あとでよく考えてみれば、彼女はいつでも大小の問題を抱えていたし、相談やお願いごとがある場合、先ずはそれをぶつけたくなるのが人情というものだ。
しかし僕は少し曲がっているから、彼女にひがみっぽいことを言ってしまう。
例えば、「僕を体の良いATMと思っているのではないか」とか、「愛情はなくても、お金は必要だからね」みたいなことを、弾みで口走ってしまうのだ。
彼女は決して、ずる賢い人間ではない。意図して人を騙すことなど、絶対にできない人なのだ。それは自分が一番よく知っている。
ただ、彼女はほんの少し、弱い人間なのだろう。欲求に引きずられたり、問題を手っ取り早く片付けたいと思っているだけなのだ。その手の脆弱さは、誰しもが多かれ少なかれ持っている。
それが分かっていてさえ、僕はいらついてくると、それを解消すべくリンに酷いことを言ってしまった。そして電話を切ってから、彼女を傷付けたことに酷く落ち込む。
僕はその落ち込みを解消するため、今度は彼女に対してとても優しくなる。電話での会話は家族や学校のことで盛り上がり、お願いごとには気前良く応じ、そして普段は学校通いで疲れているのだから、たまには美味しいものを食べたり、レジャーで気晴らししたほうがいいなどと言い、その分のお金を余計に送ったりする。
そしてひと段落すると、自分はなんて馬鹿なことをしているのだろうと自己嫌悪に陥り、心の中に歪みができる。
この時期自分の心理状況は、こんなふうに不安定だった。なぜなら、預金が随分減っていたからだ。自分一人であれば、預金がゼロになろうと気にしなかった。僕は彼女がケアギーバーとして巣立つまで、持ちこたえることができるのだろうかと、それがとても不安だったのだ。
そんなことをあとで振り返れば、自分も随分弱い人間だということに気付く。しかし、渦中で心のゆとりを維持するのは、とても難しいことだった。
僕はこの時期から、こんなふうにいい人とそうでない人を、行ったり来たりしていた。
それまで何度も彼女とお金の話しをしたけれど、収支は一向に改善されなかった。
しかし、まだ間に合う。手元に余裕があるうちにこの流れを断ち切りたい。少なくとも、預金の現状維持ができるレベルまで改善したい。送金金額を減額すべきか、あるいは臨時の送金要求には一切応じないようにするか。
あくまでリンや彼女のファミリーの生活を保証しながら、彼女の生活費を分析し、何を減らすべきかを協議する必要があった。
僕は彼女との通話で、自分の思いを伝えようと試みた。
計画を作り、それに則って家計を管理しながら収支を改善する。あくまでもこれは、破綻を避け、長期的に彼女や彼女の家族の生活を安定させるためだ。
この一番重要な主旨を、彼女は中々理解できなかった。いや、理解しているのかもしれないけれど、彼女の返事はそんなふうに聞こえない。彼女は送金を減額することや、臨時送金を極力なくすことに簡単に同意した。同意して、そんな嫌な話しはすぐに打ち切りたいと言わんばかりだった。
そうなると、僕はとても不安になった。主旨をしっかり理解してもらわないと誤解を生むし、改善も徹底できないのではないかと思えてくる。
ここは簡単に引き下がるべきではないと、こちらがお金の話題に執着すると、今度は会話の雰囲気がおかしくなる。そしてお互い、嫌な気分で通話を終えるということが度々起こった。
フィリピン人には、生活設計という考え方が馴染まないのだろうか。これは、長い間その日暮らしをしてきた南国民族の、習性的遺伝子の仕業ではないだろうかと、僕は真剣に悩んだ。
日本人には、冬に備えなければ死が訪れるという恐怖心や、それに対する防衛本能がある。必然的に、計画的な生活を強いられてきた民族なのだ。一方南国民族は、腹が空けばジャングルに食べ物があり、寒い冬がないからいつでもどこでも寝ることができる。大体何とかなってしまうから、彼らは空腹や死を心配せずに生きてきた。
こうして比較すると、日本人とフィリピン人は、対極の遺伝子を持つ民族かもしれなかった。だから話しが合わないときには徹底して合わないけれど、お互い自分にはない部分で惹かれ合い馬が合う。
なるほどと、自分の発見に感心したり、これは手ごわいと冗談めかしている場合ではない。このままいけば、あと一年で破綻するかもしれないのだ。そうなれば、どうしても必要なお金さえ送れなくなる。生活の質を下げるのも、仕方なくそうしなければならないという状況になる。
我慢というものは、強いられるより自主的にしたほうがいいに決まっている。
そんなことに悩む最中、リンから思いがけない申し入れがあった。家の周りに、塀を張り巡らたいというお願いだった。
庭の大きなマンゴの木に成る実を、泥棒する人がいるようだ。マンゴ泥棒を阻止するためというのが、塀の必要な理由だった。予算は四十万円と彼女は言った。
僕は唸るしかなかった。次から次へと、よく必要なものが出てくるものだ。もしマンゴを買ったら、一個いくらになるのだろう。仮に五十円とし、四十万円はマンゴ何個分になるのだろうか。
そこで八千個という答えを導いた瞬間、僕は驚いた。いくら泥棒がたくさんいても、八千個は盗めないだろう。つまり、マンゴ泥棒対策だけなら、間違いなく塀を作るのは割りに合わない。泥棒されようが、その分のマンゴを買ったほうがずっと安く済む。そうリンに言ってみると、彼女は反論した。
「マンゴ泥棒だけならその通りよ。わたしが一番心配なのは、そういう人が庭に出入りすることなの。防犯上の問題ということよ」
それは僕も真っ先に考えたことだ。しかし僕が気になったのは、何十万円という金額を、気軽にお願いしてくる彼女の姿勢だ。しかも、できるだけ節約しようといつも彼女に相談し、その都度彼女も分かったと言っている中で。
このボタンの掛け違いは、一体何なのだろう。実態と認識の違いがあまりに大きい。僕は混乱と言って差し支えないほど、訳が分からなくなった。通じていると思っていた言葉が、実は全く通じていなかったみたいな状況なのだから。
僕は次第に、難癖をつけたくなった。了承するにしても、簡単にはいかないということをしっかり分からせる、教育的指導みたいなものが必要ではないかと。
世の中で見聞きする教育的指導とは、一般的に動機や指導内容は陰湿だ。僕のそれも、図らずもそうなってしまった。
「ねえ、あなたは四十万円と簡単に言うけれど、それは僕にとって、小さなお金じゃないよ。分かってる?」
「分かってるわ。本当にごめんなさい。でも塀は必要なの」
「いや、あなたは分かっていないと思う。僕の財布には休息が必要だし、二人には長期的なプランが必要だ。それを横に置いて、簡単に四十万円は出せない」
僕はそこで、話しを止めておくべきだった。
しかし彼女は無言になるし、アドレナリンが噴出気味の自分は、まったく余計なことを話してしまった。
「あなたに僕に対する愛はあるんだろうか? 最近僕は、全くそれを感じない。あなたは僕の気持ちを考えず、お金の要求をするだけになった。もしお金だけが必要というなら、そうだとはっきり言って欲しい。それならお金を渡すよ。将来を考えずにある分だけ渡して、お金がなくなったらもうないから送れないって言う。僕にはそのほうが、ずっと簡単だ」
半分本気で、残り半分は勢い余って言ったことだ。そんなことを言ってはいけないという理性が僕をいさめ、同時にそれに逆らう感情的マグマが自分の中にあった。結果的に僕は、そのマグマを噴出させてしまった。
その言葉に、リンも怒ってしまった。
「あなたは、わたしがあなたをどれだけ愛しているかが分からないの? なぜそんなことを言うの? もうお金はいらないわ。今日の話しは忘れてちょうだい。こんな話しで喧嘩をするのはきらいよ」
彼女はそう言って、無言になった。
僕は、自分が彼女の感情をあえて逆なでしたことを知りながら、冷たい仕打ちのように「そう、分かった」と言って電話を切った。
話しを終えてから、僕はいつものように後悔した。
どうしてあんな話しになってしまったのだろう。もっと建設的に話すことができたのではないだろうか。それに防犯上、塀が必要なことは自分も十分理解している。
それでまた落ち込んだ。同時にお金の話しをすることに、少し疲れを感じ始めていた。将来のことを考えるのも面倒になっていた。
僕はこの電話の二日後、リンの口座に工事費四十万円を振り込んだ。
しかし僕は、彼女に電話をしなかった。それまでほぼ毎日電話をしていたのに、その後一週間、僕は彼女に一切連絡を取らなかった。疲れやら反省やら不安やら、そんなものが心の重石となって、彼女と話しをしたくなかった。自分はそのとき、投げやりになっていたのかもしれない。
最初のうちは深夜近くに一日一回、彼女からコールがあったけれど、僕はそれを無視した。日ごとにコールの数が増えていき、一週間後には、コールの間隔が数時間になった。
電話が鳴る。僕は彼女の名前が表示された携帯をじっと眺め、そうしているうちにコール音がぷつりと切れる。その切れ方は、苦しそうな息づかいの動物が、次第に静かになり、ある瞬間に息途絶えるというふうだった。
コール音の止まった携帯は、途端に冷たい金属の塊となる。それはまるで、二人の関係が瓦解するのを、暗示しているかのようだった。
自分もいい加減にしないと、二人の関係に本当にひびが入ってしまうかもしれないと思い始めた。僕はようやく重い気持ちを引きずり、リンに電話した。
彼女はすぐ電話に出て言った。
「久しぶりね。どうしたの? 何度も電話したのよ」
甲高い声が返ってくる。彼女は僕の予想と裏腹に、とても明るい口調だった。
「ごめん。仕事が忙しくて電話をするのが遠のいてしまった。お金を送ったけれど、確認できた?」
仕事が忙しかったと、見え透いた嘘をついた。もちろんリンも、嘘だと気付いていたはずだ。
「そうなの? ありがとう。明日にでも口座を確認してみる」
リンは僕の嘘について言及しなかった。そんな彼女の反応が、自分に更なる反省を促す。
「この前は、酷いことを言って悪かった」
「違うわ。わたしのせいよ。お金のことはわたしが悪いの。とにかくこうして話しができてよかったわ。本当に心配していたのよ」
「ごめん。学校はどうしている? きちんと通ってる?」
「もちろんよ。今は授業がとても難しいの。家でもたくさん勉強しないと理解できない」
「うん、がんばっているならよかった」
リンは終始淡々としていた。僕は、リンの態度が普通で安心した。
この喧嘩から、リンはお金のお願い事をしなくなった。電話はほとんど数コールで応答するし、出られないときにはすぐにコールバックがあった。彼女が道を歩いているときは一旦電話に出て、今は外にいるから三十分後に電話をして欲しいと言った。
それは、彼女が必要以上に神経質になっているのが分かるほど徹底され、僕は今度、彼女が気疲れしないかと心配になった。そしてお金のことでは、何か困ったことはないかと、こちらから確認してしまう始末だった。
彼女は十分若い。広い空を自由に飛び回りたいはずだ。それなのに僕は彼女を、窮屈な籠の中に閉じ込めてしまったのかもしれなかった。
そうなると、僕はまた色々考えた。
自分に金銭サポートをする者としての傲慢さはなかっただろうか。それとも彼女には、衣食住に心配のない生活か、普通の自由の二者択一という選択肢しかないのだろうか。もしそうなら、自分がそんな状況を作り上げてしまったのか。
いや、そんなはずはない。僕は彼女に、両方を与えたいと思っている。ただし、無制限に与えることはできないと言っているのだ。そうしたくてもそれは不可能だ。
そしてもし自分が送金できなくなれば、彼女に選択肢そのものがなくなる。必然的に、貧困だけれど自由はある、という状況に陥るのだ。しかもその自由は、限定的なものとなる。
これは脅しではない。このままいけば、本当にそういう事態になる。だからそれを避けるために考えようと、僕は言っているのだ。
そういったことが、なかなか上手く伝わらない。伝えられないことに、僕はどうしようもないもどかしさを感じ、同時に申し訳ないと思う。必要以上に気を遣う彼女が無理を強いられている状況ならば、それはとても可哀想なことだ。
僕は考えるほど、どこまでが自分の我儘で、どこまでが正しい主張なのか、次第に分からなくなっていた。
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