第22話 戸建て
思いがけず、六月上旬にセブへの出張が入った。ゴールデンウィークのセブへの渡航を迷っていた僕は、それで踏ん切りがついて、連休は田舎に帰った。
長期休みが終わり再び仕事に追われているところに、ある提案がリンから舞い込んでくる。
何ともビッグな話しだった。それまでお買い得なバイクや車の話しはあったけれど、今度は家だった。もちろん一軒家を買わないかという話しは初登場だ。
僕はそれを聞いた瞬間、携帯電話に当てた自分の耳を疑った。
「家って、人が寝たり休んだりする家?」
リンは笑いながら、そうよと言った。
「本物の?」
「ええ、おもちゃじゃないわ」
思わず僕は笑ってしまう。恋人に家をおねだりするなんて、これこそサードワールドを舞台にした国際恋愛の醍醐味だ。
しかし、僕はその話しに興味を引かれた。価格が騙されているのではと疑いたくなるほど安かったからだ。
物件は、セブシティーから車で一時間ほど走った場所の、中古住宅だった。約四百平米の土地に、鉄筋コンクリートの平屋約二百平米がついているようだ。それで価格が二十五万ペソ(当時約五十万円)。
僕が正月にセブに行った際、モールでサブディビジョン(セキュリティーゲート付きの塀で囲まれた広大な住宅地)の新築物件が、模型を展示しながら売り出されていた。アメリカで見るようなゆったりとした住宅地の模型には、庭と車二台分のガレージがつく二階建ての家が綺麗に並んでいた。
まさにフィリピンドリームのそれは価格が四百万円で、内心僕は、随分安いドリームだと思ったのだ。海外のマンションは内装が価格に含まれないのが普通だから、おそらく戸建ても同じだろう。内装費と家具を購入するのに二百万円くらい見込んだとして、合計で六百万円に収まりそうなドリームだ。
僕は一度だけ、リンの母親が住む場所に行ったことがある。リンが普段住む家とは別の、彼女の家族が住んでいるという場所だ。
リンが最初に住んでいた家は居酒屋の隣にあって、得たいの知れない酔いどれ男がたむろする場所だった。僕は治安が悪いことを理由に、彼女に住む場所を変えてもらったけれど、リンの母親が住む場所は、そのリンの住んでいた家が何倍も安全に見えるくらいのスラム街だった。
そこは大通りから路地に入ると、そこに明確な境界線でもあるように、突然雰囲気が変わる。小さな路地の道幅は、車が一台通ると、あとは人がようやく二人並んで歩ける程度だ。その狭い道の路肩に、上半身裸の若い男が何人も座り込んでいる。酒かドラッグのせいでいずれも虚ろな目を持ち、車の中にいてさえ、いつ彼らに襲われるか分からない不気味さが漂っている。もし囲まれてしまえば、車は人を撥ねる覚悟で動かない限り逃げ場がない。
道路に徒党を組み千鳥足で歩く男たちがいると、車は必然的に速度を落とすか、ときには停車してやり過ごす。男たちは、遠慮なく車に手をかけ車内を覗き込んでくる。こちらは激しさを増す動悸を気合いで抑えながら、目を合わさないように車の前方をじっと見る。
その視界には、今にも崩れ落ちそうな窓のない家々が入っていた。家の壁に空いたたくさんの小さな丸穴から、あるいは壁板の繋ぎ目から、室内電球の光が漏れ出ている。見えているのは、そう言った家ばかりだ。
所々に、人が二人分くらいの幅の狭い路地があった。覗き込むとそこは吸い込まれそうな深い暗闇になっていて、その先がどうなっているのか全く分からない。
その界隈では、危ない人でも近所の人間には滅多に手を出さないと聞いていた。同じエリアの人間に危害を加えると、周りから袋叩きにされ、そこから追い出されることを知っているからだ。定職もなく生きる術のない彼らが、もし
しかしそんな場所をよそ者の日本人が一人歩きすれば、十中八九襲われ、金目のものを全て奪われるだろう。抵抗すれば命も危うい。
僕は、行儀がよく愛くるしいあの子供たちが、そんなエリアで暮らしているのを信じられなかった。
スラム街をずっと見てきたリンたちは、貧困が連鎖することを、肌感覚で知っていた。もし子供に教育を与えず、外の社会を見せず、そして子供たちが外の世界と交わるのに相応しい人間になれなければ、彼女たちは将来そこの住人と結婚し、そのままスラム街に埋もれてしまうのだ。
だから子供たちは外の世界に馴染めるように躾けられ、教育も受けている。リンも同じだ。
彼女の母親はリンに教育を受けさせ、無理をしてスラム街の外に彼女の住居を用意し、彼女の人生に可能性を与えようとしたのだ。それでも限界は否応なく彼女に付きまとい、彼女はバーに勤めることを余儀なくされた。限界の殻を打ち破り飛躍するには、外力が必要となるのだ。
そして自分が、その外力となった。
多くのフィリピーナは、外国人との結婚に活路を見出している節がある。外国人と結婚すれば、少なくとも貧困生活から抜け出せる。更に運が良ければ、家族の面倒をみてもらい、新築の家を持つこともできるかもしれない。自分は夫の国へ移住し、そこで働きフィリピンの家族の生活費を送ることも可能だ。外国人と結婚することが、貧困から這い上がる一番手っ取り早い方法なのだ。
僕はリンと結婚をしていないけれど、毎月の生活費を送っている。彼女の住む場所にもそれなりに気を遣っていた。そしてリンや子供たちに家族愛的感情を抱く僕は、できることなら子供たちの住む場所もどうにかしたいと思っているのだ。
自分で言うのも何だけれど、僕は彼女たちの、素晴らしい外力になっているはずだった。上からくもの糸を垂らして、彼女たちを天上界に引き上げる救世主だ。
だからこそ僕は、モールで展示されていたサブデビジョンの戸建て販売に、大きな興味を惹かれた。六百万の出費は、無理をすればどうにかなる金額だった。しかし、先の見えない状況で、僕は無理をすることを躊躇った。
そこに五十万円の話しが舞い込んできたのだから、内心僕はそれに踊った。リンは家の改修が必要だと言ったけれど、それは二階の増築を含む工事のようだった。改修費用は百万円に収まるとのことだから、家具購入を合せても、総額二百万円でそれなりの家を入手できる。モールで見た六百万の家に比べ、費用は三分の一程度だ。
ただし、その話しが怪しいものでないかどうか、よく調べなければならない。それを持ちかけた人物は、リンの後ろに日本人スポンサーがいることを知っていたはずだ。そうでなければ、いくら安いとは言え、仕事のない若い彼女にそんな話しを持ちかけるわけがない。
土地のある場所は、セブ島西側の海岸近くにある田舎町だ。セブシティーから車で一時間ほどの距離で、南北に細長いセブ島を、セブシティーから山を越えて南西方向へ横断したところにその町がある。
「自然がいっぱいで、とても静かな町よ。海と山が近くて、有名な滝や泉があるの。田舎だから治安も悪くないわ」
「つまりあなたの判断は、その家について、みんなが住むのに問題がないということ? 学校や病院があって、普段の買い物の利便性も問題ない?」
「問題ないわよ。田舎と言っても、そんな山の中じゃないんだから」
「それを売りたいという人は、信用できるの?」
「大丈夫。お母さんの古い知り合いなの」
「分かった、少し考えさせて欲しい」僕はそう言って、電話を切った。
そこまで聞いた話しに問題はなさそうだった。それでも僕は、念のために、売買契約を弁護士を通して結ぶことにした。工場で親しくしていたフィーの旦那が、弁護士をしていたはずだ。
僕は早速、フィーに電話をした。彼女に家の件を伝え、物件の適正、契約内容の確認を旦那に見届けて欲しいとお願いした。もちろんフィーは、喜んで引き受けてくれた。しっかり者の彼女は最後に、「ディスカウントするよう旦那に話しておくから」と、無料ではないことを遠回しにほのめかした。
こうして僕は、リンに一軒家を買うことを決めたのだ。
僕はその頃、リンにお願いされるがまま送金し、それが何も価値を生まずに消えてなくなることを、とても寂しく思っていた。しかし、何があっても家は残る。そこに彼女の家族が住み続けるなら、それは間違いなく意味のある買い物なのだ。だから僕は、それに関する出費にそれほど躊躇はなかった。その先僕とリンが、どうなるか分からなくてもだ。僕は彼女から、それと等価の幸せを既にもらっている。もし彼女がその家を現金に変えることがあれば、そのときは二人の関係を含めてどうするか考えればいい。
家の工事は、思ったより早く着手することができた。
実際に工事が始まると、色々と不可解なことが起きた。
僕は五月と六月の二回に分けて、合計二百五十万円をリンに渡した。五月は僕の嫌いな銀行からの送金で、六月は出張でセブを訪れたときに現金を持参した。
内訳は、売買代金五十万、改修費用百三十万円、二か月分の生活費四十万円、家具代金や予備費が三十万円となる。六月に手渡したお金には、予定より増えた改修費用分を上乗せした。家電製品を含む家具の取り揃えには、おそらくあとでもう少しかかるだろうことも覚悟していた。
当初、工事は百万円に収まるという話しであったものが、六月の始めころから工事費用が足りないという話しが出始めた。
見積もりが百万円であれば、実際にいくらかかろうが、請求は見積もり通りにすべきだろうと思っている僕は、お金が不足する話しをさっぱり理解できなかった。
リンは、材料費が思ったより高いと言った。それに工具も買わなければならないと言う。なぜ建て主が材料費を気にし、工具まで買わなければならないのか、僕には理解できない。それらは全て、業者の責任範疇だろう。もし材料費が思ったより高いなら、見積もりを誤った業者の責任ではないか。
僕のそういったロジックを、逆にリンは理解できないようだった。お互い理解できないことをそれぞれが主張し、工事費用の件では議論が白熱した。
僕は六月にセブを訪れた際、工事現場を見せてもらい、そして費用の仕組みを説明してもらい、ようやくリンの話す内容を理解できたのだ。
フィリピンでのそういった工事は、一般的に建て主が五人や十人の大工を雇う。大工の工賃は、建て主が週一か週二で直接彼らに支払うのだ。材料は大工が必要な物をリストアップし、建て主が直接ショップでそれらを買って大工に渡す。大工の賃金や材料費が払えなくなれば、工事を一旦中止し、お金ができたら再開する。それらは全て、建て主の都合で決めることができる。
もし大工の作業進捗が悪ければ、工期が延びて大工への賃金支払いが増える。それを防ぐため、建て主は作業をよくチェックし、さぼって工事の進まない大工の首を切らなければならない。必要な工具も、もし大工が持っていなければ建て主が購入し、大工に貸与する。もちろん工事が終了すれば、貸与した工具は建て主のものとなる。日本とは全く違う仕組みで工事が進行する。
それらを知るまで、自分はリンの説明をさっぱり理解できなかった。僕がなぜ? と思うことはリンにとって当たり前のことで、彼女は答えようがなかったはずだ。
そしてそれまで、僕は何かを誤魔化されているような疑念を払拭できなかった。リンが不正をしていると思ったわけではない。僕は、周りがリンを騙しているのではないかと疑い、リンに全てをしっかり把握してもらいたかったのだ。
費用が予想以上にかさんでくると、僕はこの先、無制限にお金を請求されるのではないかという恐怖心まで抱くようになった。だから自然と、リンに対して厳しい言葉を使った。あとで思えば、彼女はこの時期辛かったのではないだろうか。
自分の目で見た新しい居住地には、リンが話した通り、風光明媚な素晴らしい環境が整っていた。海も山もそして繁華街にも、十分もトライシケルで走ればどこにでも辿り着ける。
エメラルドグリーンの色を湛える泉は、少し先にある轟々と流れ込む滝の水と下から湧き出る水が合わさり、いつでも新鮮な水で満たされている。もちろんそこで泳ぐことができるし、それはホテルのプールより何倍も素敵な遊び場所だった。川のせせらぎを聞いて森林浴を満喫しながら散歩ができるし、木陰で昼寝をしてもいい。気分を変えて、ランチを持って砂浜に行くこともできる。
町には市場があり、そこで新鮮な野菜や肉、魚を買うことができる。もちろん普通のスーパーマーケットもある。周囲はミネラルを多く含んだ水が豊富で稲作が盛んだし、牧場があり新鮮な乳製品も売られている。大きなナラの木が至るところにあって、空気が澄み切っている。喘息の持病を持つリンの妹には、絶好の住環境だった。
当初より価格は上昇したけれど、僕はそこで、掛け替えのない買い物ができたことを実感した。
家の工事は七月の中旬に終了し、その後リンの家族は、無事その家に移り住んだ。これで彼女の家族には安全な環境とゆったり過ごせる家が揃い、彼らは日本で言う人並みの生活を手に入れたのだ。
そんな出来事に歩調を合わせるように、ヤクさんから結婚披露宴の招待状が届いた。結局二人は結婚することになったかと二つ折りの案内状を開くと、確かに披露宴の場所や日時が記してあるけれど、相手の名前が奈緒美でないことに僕は驚いた。驚くと同時に、何か重苦しいものが胸の内に広がり始める。披露宴は十月となっていた。
彼女の妊娠を伝えられたのは、四月の半ばだ。そのときが妊娠二ヶ月くらいだったとすれば、彼女は既に五ヶ月に入っているはずだ。
彼女はヤクさんと結婚せず、シングルマザーの道を選ぶようなことを言っていたけれど、僕は二人が、結局結婚するのではないかと思っていたのだ。
何が起こったのか確認したい気持ちはやまやまだったけれど、僕はどちらと話しをするのも
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