第21話 奈緒美の問題

 春の訪れを実感する、陽だまりが気持ちよい、四月半ばの休日だった。

 散歩がてら行った書店で買った単行本を読んでいると、久しぶりに奈緒美から電話が入った。

 外は素晴らしい天気なのに、彼女は開口一番、「問題があるの」と言った。それで僕は思わず、あなたも? と言いたくなる。

 もちろん彼女の問題は、こちらがお金を用立てるものでないことが分かっているから、僕はその言葉に心臓が止まりそうな衝撃を受けるでもなく、余裕をもって「珍しいね。なに?」と答えた。

 彼女は「電話ではちょっと話し辛いのよ」と言った。「これから、あなたの部屋に行ってもいい?」

「構わないけど、何時頃になりそう?」

「五分後。もうあなたのマンションの前にいるの」

 僕は思わず「えー」と、大きな声を上げた。

「え? 今はまずいの?」彼女は気まずそうな声を出す。

「全然まずくないよ。でも、一体どうしたの?」

「とにかくそっちに行くから」

 彼女は電話を切って、三分後に部屋へやって来た。

 ドアを開けると、彼女は挨拶もそこそこに、靴を脱いで先にリビングへ向かった。僕が戸締りをして部屋に戻ると、彼女は既にソファーに座っている。

「二分早いから、まだコーヒーができていないよ」

 キッチンに入り、途中まで進行していたコーヒーのドリップを続けた。

 奈緒美はすごい勢いでやって来たわりに、ソファーに座り無言だった。雑誌を取るわけでもなく、視線をリビングテーブルの上に固定してじっとしている。何に対してもはっきりしている彼女にしては、とても珍しい空気をまとっていた。

 僕はようやく、これはいささか深刻な話しかもしれないと思い始める。両手に持つコーヒーカップをリビングテーブルに置くと、奈緒美が口を開いた。

「わたし、妊娠しているの」

 僕は驚いて、あなたも? と、今度は本当にそう言いそうになる。

 しかし人間というものは薄情で、それが自分の子供でないことが明白な僕は、意外と冷静だった。

「誰の子供?」

 彼女は答えなかった。ただこちらをじっと見つめる。

 僕は、僕の子供じゃないよねと確認しそうになったけれど、どうやらそんな冗談が通じそうな雰囲気ではなかった。それで僕は少し頭を回し、失礼ながらとても奇異なことに思い当たる。

「え? まさか、だよね?」

 彼女はゆっくり頷いた。

「嘘でしょ?」

「こんなことで嘘をついてどうなるの?」と、彼女は鬱憤を吐き出すように言った。

 僕が絶句していると、彼女は再び叫んだ。

「あー、すっきりした」

 その絶叫に、僕の身体がびくりと反応してしまう。

「え? 何なの?」

「誰かに話さないと、不安で仕方なかったのよ」と彼女は言った。それを言ったときの彼女の様子は、その直前と打って変わり、いつもの我が道を行く彼女に戻っているような気がした。その様子に、僕は何がどうなっているのか混乱気味になる。

「何が不安なわけ?」

「何がって、生まれて初めて子供を身ごもったのよ。不安にならない女性がいる?」

「僕が訊きたいのは、もっと具体的に、あなたが何に対して不安で、何が問題なのかってことだよ」

 彼女は眉間に皺を寄せて、考え込んだ。

「つまり、僕はあなたの状況をよく飲み込めていないんだ。ヤクさんは、あなたが妊娠したことを知っているの?」

 奈緒美は表情のない顔で、頭をゆっくり横に振った。

「それであなたは、その子供をどうしたいの?」

「産むわよ」彼女はきっぱり言った。

「え? だったらいいじゃない。ヤクさんと結婚するんでしょ?」

「それがよく分からないのよ」

 僕は、自分の質問が性急過ぎることに気付いた。

「ごめん。先ず、あなたが話したいことを話してみてくれる? 話したくないことは話さなくていい。順番もでたらめでもいい。時間がかかってもいいよ。少しゆっくり話そう」

 彼女はありがとうと言って、ようやく目の前のコーヒーに口をつけた。

 話題の深刻性に用心深くなっていた僕は、何となく部屋の窓を開けた。涼しい外気が部屋に流れ込み、外の物音が部屋に入り込む。それだけで、部屋は随分開放的になった。

 音楽も鳴らす。そのあと僕は、手持ち無沙汰に陥った。

「お腹は空いていない?」

 彼女は大丈夫と言った。そう言われると、僕はますますやることがなくなり、気詰まり感に包まれた。咳払い一つ躊躇われる。

 しばらく黙っていた彼女が、唐突に話し出した。

「ねえ、知っていると思うけど、深刻な雰囲気は苦手なのよ。だから真面目に聞かないで」

「不真面目に聞くのは難しいけど、言いたいことは分かるよ」

 彼女はふふふと笑った。それだけで、僕は救われる。

「ヤクさんに、一度料理を教えてもらったのよ。彼、ものすごく料理が上手ね。驚いたわ」

「だって彼の実家は、有名な料亭だから」

 奈緒美はそのことに意外な顔をして、「そうなの?」と言った。

「彼は昔から、自分のことは人に言わないからね。ああ見えて、相当なお坊ちゃんだよ、彼は。本当は跡継ぎのはずだけれど」

 彼女は、鼻でふーんと言う。

「そのとき彼の部屋に泊まったの。たった一度きりなんだけど、彼はあまりそういうの慣れていないみたいで、中で出されちゃったのよ。それで妊娠」

 そして彼女はまた、しばらく黙り込んだ。深刻な雰囲気は苦手だと言った彼女が、自ら深刻な雰囲気を作っている。

 僕はその様子を見ながら、リンが子供を失って泣いていたことを思い出した。彼女はどうして僕に、ごめんなさいと謝ったのだろうか。それは普通のことなのだろうか。そのことから、リンが自分に抱く気持ちがどのようなものかを推測できるのだろうか。

 そんなことを考えていると、こちらのほうが、女性の奈緒美に色々と相談したくなってくる。

「あなたに話してと言いながら申し訳ないんだけれど、一つ訊いていいかな?」

 彼女はきょとんとした目をして頷いた。

「あなたは妊娠して嬉しい? それとも悲しい?」

「そうねえ」と彼女はしばらく考えて、「中間かな?」と答えた。

「つまり、微妙なんだ」

「そう、微妙」

「ということは、その子をおろすという選択肢はやっぱりあり得るわけだ」

 彼女は口元を結んで、頭を横に振った。

「さっきも言った通り、子供は産むわよ。わたしとヤクさんがどうなろうと、それだけははっきりしているの。だってこの子は既に、命を授かったのよ。それをどうして断てると言うの」

「それなのに、どうして中間なの?」

「わたしの心の準備ができていないんだと思う。たぶんそれだけ」

 彼女は、一つは仕事のことが気がかりだと言った。キャリアを積み上げてきた彼女にとって、妊娠は重荷になるようだ。日本の社会が妊娠や子育てに対してもう少し開けていれば、こんな気持ちにはならないと彼女は付け足した。

「でも一番の問題はね、ヤクさんとわたしの関係をどうするかなのよ。もし結婚しないで子供を産めば、それは彼の大きな負担になるでしょう?」

「まあ、あの真面目な人だったら、そ、そ、それは、ぼ、ぼ、僕と結婚すべきだ、なんて言うだろうね」

 彼女は僕のヤクさんの物まねに、久しぶりに楽しそうに笑った。

「そうよ。それにもし結婚しないで子供を産んだら、あの人すごく傷つくんじゃないかしら」

「たぶん、すごく傷つくと思う」

 今笑ったばかりの彼女は、その言葉に肩を上下させて、大きなため息を付いた。

 原始的なフィリピンの問題に比べて、やっぱり日本の問題は進化的だ。僕がお金を出してあげると言っても、問題はちっとも解決しない。それにヤクさんも奈緒美も、僕よりずっとお金持ちだ。

「また質問していい?」

「いいわよ。何でも訊いて。そのほうが話しやすい」

「あなたはヤクさんと結婚したくないの?」

「わたしはヤクさんのことが好きよ。大好きよ。すごくいい人と知り合いになれて、あなたに感謝しているくらい。でも、何かが足りないの。それはヤクさんの問題じゃなくて、きっとわたしの問題」

 僕は彼女の言いたいことが、少し分かるような気がした。

「なかなか上手くいかないもんだね」

「本当にそうよ」と言って、彼女はまたため息を付く。

「あなたとヤクさんのことは、二人で決めればいい。ただ一つだけ言わせてもらうと、そういうことって出口がある程度決まっているんじゃないかと思う。色々と悩んでも、大体は最初から決まってる出口に出るんだよ。もがいてもう後がないところまで来て、それでようやく決まった出口に踏み出せる」

「そうかもしれないわね」

「まあ、せいぜい考えてもがいてみればいいよ。そのうちあなたも踏み出すしかなくなるんだから。それに過ぎてしまえば、きっとそれだけのことなんだよ」

 彼女はそうねと言って、コーヒーを飲み干した。

 僕は自分の近況も、かいつまんで奈緒美に話した。特に子供たちとのコミュニケーションについて、詳しく話した。子供たちと一緒に過ごす時間が、事の他幸せを感じることだ。

「ねえ、子供を産むなら、一人より二人か三人がいいと思うよ。フィリピンの子供を見ていて、本当にそう思った。そのほうが子供も親も楽しいと思う」僕はそう付け加えた。 

「それじゃ、二人目はあなたが協力してくれる?」

 僕が言葉を失うと、奈緒美はけらけらと楽しそうに笑った。彼女は問題があると言うけれど、結局は自分自身で方向を決め、逞しく前に歩いていくはずだ。元々そういう女性なのだ。

「二人目の父親をどうするかは、生まれてくる子供をよく観察してから決めたほうがいいよ。ヤクさんとあなたの子供なら、すごい天才かもしれないから、きっとあなたの気も変わると思う」

 彼女はやっぱり笑った。最後に彼女は「話しをして気が楽になった。ありがとう」と言い残し、寒くなると身体に障るからと、夕食の時間になる前に帰った。もうすっかり母親の自覚が芽生えている。

 夕方になっても、部屋に入る風には、人に希望を抱かせる柔らかい温かみが含まれていた。リンと出会って、二度目の春の到来だ。月日が経つのは本当に早い。地球が太陽の周りを二周分、つまり十八億九千万キロも移動したというのに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る