第18話 出張で密会

 香港の旅が終わると、僕は日本で落ち込んだ。ああ、やっぱり自分は、この世界に戻って来るしかないのかと。あっちの世界、こっちの世界と、どうにかなりそうだ。何とかこの現実に戻らなくて済む手はないものか。

 この落ち込みは、リンに会う度に危篤になっていく。もちろん僕は、今更色恋沙汰に悩むという歳ではない。それにその落ち込みは、色恋沙汰と呼べるほど軽いものではなかった。人生を見据えたもがきみたいなものなのだ。社会の中で生きている以上、避けて通れない様々な要素が絡む、煩わしいものだ。

 責任、世間体、大したものではなくても社会的地位、そんなものは、いざとなれば自分の一存で捨てることができる。しかし、食い扶持を稼ぐことだけは、簡単に放棄できない。会社を辞めて、自分の自由時間を奪還したいのはやまやまでも、それと同時に生活費、海外渡航費用やフィリピンとの通信費、彼女の生活費を維持するための方法は、どこをどう探しても見当らない。見当るはずもないのだ。それが社会の仕組みであり、ルールであり常識なのだ。

 そんな元気の出ない僕に対し、フィリピンに帰国したリンは溌剌としていた。電話口で彼女は、家族や友人にお土産を配った話しを楽しそうに語る。

「香港に遊びに連れていってくれる恋人がいるなんて、羨ましいって言われるの。普通、香港に行くのはメイドをするためだって」

「それはそうだ。僕だって出来ることなら、連れていくより連れていってもらうほうがいい」

 僕は、誰かが自分を養ってくれ、ときどき豪華な海外旅行に連れていってくれないだろうかとぼやいた。それで彼女は電話口で、大きな声を出して笑った。僕のぼやきが半分本音であることなど、彼女は全く気付かない。

 仕方なく僕は、現実を直視した。余計な煩悩を取り払うよう、敢えて仕事に精を出した。長年身に付いた習性は恐ろしく、そうすればそれなりに、僕は心の平静を取り戻すことができた。仕事に追われるのは嫌いでも、そうなることで心の安定を得られることは、とても皮肉なことだった。


 仕事なんて、と思うほど、自分の仕事の範囲が拡大していった。僕の責任範囲が、領域の狭い技術設計、検討から少しずつ軌道変更され、工場への技術支援がそれに加わった。セブでの出張対応が実績となり、工場での問題対策チームの一員になったためだ。

 このタイミングでフィリピン出張の可能性が増えることは、自分にとって有難いことだった。加えて関連製品の立ち上げも検討され始め、それをマニラ近郊や中国に持っていく話しも現実味を帯び出す。

 何がどう幸いするのか分からないまま邁進していると、アメリカの顧客が、新製品を立ち上げる工場を視察したいと言い出した。マネージメントはまた客が面倒なことを言い出したと顔をしかめ、その前で僕は内心ほくそ笑んだ。

 またフィリピンに行くことができる。それも会社経費で。いや、僕は自費で渡航しても全く構わない。費用よりも、時間の捻出のほうがよほど難しいのだ。

 早速リンに、また出張でフィリピンに行くことを告げた。ただしそれは、セブではなくマニラだ。予定は十月の初めだった。

「わたしもあなたの出張に合わせて、マニラに行っていいかしら」

 一人で出張へ行こうが、海外のホテルは二人用の部屋となる。人が一人増えようが、宿泊は問題ない。

「そう言ってもらえると嬉しいよ。ただ、僕は毎日仕事で昼は付き合えない。それに今回は、アメリカ人のお客さんが一緒なんだ」

「それでもいいわ。もちろん夜は一緒でしょう?」

「普通はお客さんの食事の相手をすることになる。ただし今回は営業も一緒だから、お客さんの相手は調整できるかもしれない」

「いいわよ食事くらい。食事が終わってまっすぐ帰ってきてくれるなら」

「それは約束するよ」

 マニラはフィリピンの首都で、人口一千万を超える大都市だ。けれど治安が悪く、出張者が度々事件に巻き込まれるため、会社は出張者を厳重にガードする目的で、次々新しいルールを追加してきた経緯がある。

 特に、出張者へ大金を預けないことや、空港のピックアップと送り届けについて厳しくなった。もちろんタクシー利用は厳禁で、全てカンパニーカーが出張者の移動をサポートする。

 出張者の安全確保は工場の責任になっているため、工場の中でも様々な工夫をしていた。

 例えば空港でのピックアップは、事前に現地ドライバーと日本人出張者の顔写真を交換し、出張者が偽ドライバーに連れ去られないよう防御された。落ち合った際は、お互いの身分証明書を確認する。場合によっては、スパイのように事前に取り決めた合言葉を言い合い、互いに同じ会社の社員であることを確認する。

 マニラの空港前でフィリピン人ドライバーと、「金さん」「桜吹雪」など言い合うのは滑稽だけれど、実際に金の強奪目的で社員を拉致、殺害されたことのある会社は真剣だ。

 合い言葉に加え、ドライバーが出張者をピック、ホテルへ到着、またはサプライヤーに到着するなど、節目節目でドライバーから工場へ動向が報告される。そうやって工場側は、出張者の安全をリアルタイムでモニターしていた。もし何かがあれば、担当者から工場責任者へたちどころに連絡が入るという仕組みになっている。

 となれば、マニラでリンとどのように落ち合えばよいか、少し真面目に考える必要があった。

「わたしもマニラはほとんど知らないのよ。だからマニラで一人で行動するのは少し怖いの」

 それは僕も同じだ。僕の場合、ほとんど知らない、ではなく全く知らない。マニラに行ったことがないのだ。

 よくよく同僚に聞けば、マニラでは、ホールドアップで財布や鞄や金目のものを全て奪われたという話しは珍しくなかった。

 例えば空港でタクシーを拾うと、日本人に狙いを定めた人間が車でタクシーを追いかける。そして空港の端辺りでタクシーの前に割り込み、タクシーが動けないようにする。あとは大勢でタクシーを取り囲めば、車や自分を傷付けられたくないタクシードライバーが、意図も簡単に車のドアを開けてしまうという具合だ。

 金品が目当てだから、大人しくしていれば殺傷されることはない。単に荷物を取られて終わり。そんな経験のある人間が、自分の周りにもいたことが驚きだった。

 だからマニラの出張は、セブに比べて圧倒的に人気がない。みんなできれば行きたくないのが本音で、行きたくないと言いながら本当は行きたいセブとは大違いだ。実際に事件に巻き込まれる人が多くいるから、みんな本気でびびっている。

 するとますます、怖いと言うリンを一人でホテルへ移動させるのは、まずいような気がしてくる。後悔先に立たずで、そのリスクを避けるべきではないかと思えてくるのだ。

 色々と思案し、結局現地の様子も分からず、僕はリンと空港で落ち合うことを決めた。自分のマニラ到着に合わせ、リンにローカル便でマニラに移動してもらい、空港で僕を待ってもらう。

 顧客は一度アメリカから来日し、数日間のミーティングを経て、一緒にマニラへ行くことになっていた。マニラの空港からホテルに移動する際はカンパニーカーが迎えに来るけれど、まさかそれにリンを乗せ一緒にホテルへ行くわけにはいかない。お客さんは営業にお願いするとしても、マニラでカンパニーカーを当てにできないのは不安があった。それに、もし自分が客を放って女性と一緒に行動していることが会社に知れたら、間違いなく大きな問題になるだろう。

 マニラでの約束は、これまでより一段とリスクの高い冒険に思えた。


 飛行機から降りた瞬間、蒸し暑い熱帯地域特有の空気を感じる。

 今年フィリピンを訪れるのは、これで何度目だろう。リンと会う機会が多いことを、僕は意外に感じていた。もちろん嬉しい誤算だ。

 同行の営業は渡瀬さんという僕より三つ若い人で、幸い気心の知れた人だった。僕はあらかじめ、リンとの待ち合わせの件を飛行機の中で彼に話すことができた。そしてマニラの空港を出た後は、ホテルのチェックインまで別行動をとることで彼の了解を得る。カンパニードライバーは、うまく誤魔化して欲しいとお願いした。

 客はトムとピーターというアメリカ人二人だった。トムは背が低く体はレスリング選手のようながっしりタイプで、ピーターは枯れ木のように痩せた背の高い人だ。トムは四十歳、ピーターは三十五歳で、落ち着いているトムに対し、ピーターはいつも挙動不審なくらい周囲をきょろきょろ見回している。

 僕はトムと話しをしながら、空港出口に向かっていた。アメリカ人はしんとするのが苦手なのか、とにかく何かを話し続ける人が多い。用事があるからホテルまで単独行動を取ると告げたいけれど、その機会を与えてもらえないほどトムは何かを話し続けた。

 リンは昼前の便でマニラに入り、空港国際線出口で自分を待っているはずだった。しかし僕の乗った飛行機が三十分遅れ、リンを待たせている。空港から外へ出ると、出張メンバーと一旦別れ、急いでリンを探した。

 電話で連絡を取り合いリンに会えたとき、彼女は外で待っていた。到着者を待つエリアには、屋内でコーヒーを飲む場所がないのだ。彼女は陽射しを避けていたものの、熱風が吹く暑さで既にぐったりしていた。二時間も待っていたようで、彼女には再会を喜び合う元気などもちろん残っていない。

 すぐに比較的安全と言われる前払いの空港タクシーをお願いし、ホテルへと向かった。車は、寒い、うるさい、早いのフィリピンタクシー三大サービスをしっかり揃え、エアコンのよく効くタクシーの中で、ようやくリンは息を吹き返した。

 工場が予約した宿泊ホテルは、マニラ湾に面した、都会にありながらリゾートホテルの規模と雰囲気を持つ立派なホテルだった。建物が豊富な木々で囲まれる、落ち着いた静かな大型ホテルだ。入口から建物の中へ入ると、広いラウンジが正面下方に広がっている。そのラウンジを含め、ホテル内部は木材を多用した、リゾート色の強い内装となっていた。観葉植物もあらゆる個所に置かれている。

 チェックインカウンターが入口左方向奥にあり、数人の到着ゲストが並んでいた。二人でチェックインカウンターの前に並び、僕はホテルゲストとしてリンの名前も登録した。

 部屋はホテルエントランスと同じく、自然の木材を使ったリゾートホテルを思わせる内装になっていた。例えばベッドの土台表面は竹の組み合わせで、ベッドの背もたれは籐の編み込みだ。テーブル、机は木材に濃い茶色のニスを塗った仕上げになっている。スタンドの電球は籐を編んだカバーで囲われているし、天井のライトも同様だった。全ての飾り付けが民芸調だ。僕は近代的で明るく綺麗な部屋よりも、自然の材料を使い、見た目より質を重視するそんな部屋のほうが好きだった。例えばデスクの天板は厚めの一枚板がいい、という感じに。

 リンが僕の首に腕を回して言った。

「あなたと一緒だと、どうしていつも耐久レースみたいなことになるのかしら」

「待たせたのは悪かったけれど、何も外で待つ必要はなかったんじゃない? この暑さじゃ、本当に倒れちゃうよ」

 彼女は僕から離れ、ソファーに座り直した。僕はコーヒーを淹れようと思い、部屋に備えてあるものを確認してみる。

「そうね、外に出たのは失敗。コーヒーショップみたいなものがあると思ったのよ」

「夕食まで時間があるから、少し寝て休んだらいいよ。お客は営業が引き受けてくれたから、今日の夕食は二人で取れる」

 リンはありがとうと言い、シャワーを浴びてからベッドに入った。入れ替わりで僕もシャワーを使い、Tシャツとハーフパンツに着替えてさっぱりする。


 夕食のあと、リンを渡瀬さんに紹介することにした。直接会い、具体的に知っておいてもらったほうが、彼の協力を得やすいだろうと思ったからだ。

 お互い食事は済んでいるから、ホテルのラウンジで待ち合わせ、軽くコーヒーを飲む程度のつもりだったけれど、彼はマニラの夜の街に繰り出したいと言い出した。渡瀬さんには便宜を図ってもらい助かっている。僕は恩返しのつもりで、彼に付き合うことにした。

 もちろんリンを置いていく訳にはいかない。夜の時間は一緒に過ごすと約束しているし、男二人で出かけたら要らぬ嫌疑もかけられる。僕もリンもマニラは詳しくないから、安全を考えホテルタクシーをお願いし、ドライバーに適当な盛り場へ連れていってくれるよう頼んだ。

「それなら近くに、ゴーゴーバーのたくさん入ったビルがあるけど、それでいい? 結構名の知れたところだよ」

 ドライバーが気さくに教えてくれた。僕たちは、そのお勧めの場所へ行くことにした。

車が目的地に到着すると、ビルの前がなんだかざわめいていた。事前情報がなくても、楽しそうな何かがそこにあるというのが分かるほどだ。

 入り口に金属探知ゲートがあり、その前に数人の男性が並んでいた。表の通りから、バーの女の子と、これから入る店を探す男性客で賑わう内部の様子が見えている。

 ビル内部には、各バーの前に出て懸命に客引きをするバーガールが大勢いた。

 そのフロアには、煌びやかなゴーゴーバーが九軒も入っている。各々がライバルだけれど、そこに行けば店は選び放題で梯子もらくちんというのが売りで、それがその場所の集客力を高めているようだ。

 集まった客は、九軒の店で取り合い合戦となる。しかし広範囲の客を一点に集中させてしまえば、取り合いになっても結果的に多くの客を見込める、という目論みなのだろう。日本のカレー博物館やラーメン博物館といった場所と同じ発想だ。

 三人でどの店に入るかを決めるために歩いていると、女性連れの僕には声がかからず、渡瀬さんが次々と女の子に腕をつかまれ店に入ってと誘われる。それだけで渡瀬さんは、ここは楽しいと上機嫌だ。

 初めての僕たちはそれぞれの店の違いがよく分からず、セブにある店と同じ名前(おそらく同じ経営者)のバーに入ってみた。

「渡瀬さん、こっちは女性連れだから、カウンターに一人で座ったほうが楽しめるよ」

 僕とリンはステージから一番離れたテーブルに座り、渡瀬さんはステージ前のカウンター席に一人で座った。

 初めてゴーゴーバーに連れられて行ったときのことを思い出した。なるほど、こんなシチュエーションでは、連れを一人で座らせたほうが良いと思うのだ。

 予想通り、女性連れの僕には誰も寄ってこないけれど、渡瀬さんの周囲は盛況だった。たくさんのビキニ女性が渡瀬さんを取り囲み、わいわいと騒いでいる。僕とリンは遠目にそれを眺めていた。

 そんな状況に僕は白け始めて、彼が満足するまで近くのコーヒーショップで待つほうがよいのではないかという気になる。

 しかし、その必要は全くなかった。渡瀬さんは一人の女性を選んでから十分くらいで、僕たちのテーブルにやってきた。

「あの子がホテルに連れていけってしつこいんですよ。仕方がないんで、ホテルまで一緒の車に乗せてもらっていいですか?」

「仕方ない? 無理に連れて行く必要はないよ」と僕はわざと言ってみた。リンが僕の顔を見て、目を瞬かせた。

 彼はにやけた顔を突然真顔に変えて、「え? そうなんですか?」ととぼけた。その顔は、アルコールのせいか上気しているせいなのか、ゆでだこのように赤くなっている。

「いっ、いや、そうだとしても、無碍むげに断るのはかわいそうじゃないですか」と彼は言った。

 そこでリンが助け舟を出す。

「あなた次第よ。あなたが連れていくなら、私たちは一緒の車で構わないわ」

 渡瀬さんは、いやあ、申し訳ないと頭をかきながら、僕の返事を訊かずにカウンター席へ戻った。

「本当は、とても連れて帰りたいくせに」その言葉に、リンが肩をすくめて苦笑いする。


 渡瀬さんをその気にさせた女性は、リンと同じような年齢で、はっきりとした目鼻立ちの顔に、ウエーブの入るブラウンヘアーがよく似合った美人だった。とても洗練された感じで、僕はマニラの子が、セブの子と少し違うという印象を持った。

 車の中で、彼女がリンに訊いた。

「あなたはどこの店で働いているの?」

 彼女はリンを、別の店から連れ出された女性だと勘違いしたようだ。

「わたしはセブから来ているの」とリンが答えると、「あー、そう」と、それだけで状況全てを把握したかのように、女性同士の会話が途絶えてしまう。

 ホテルに到着し、僕とリンはホテル周辺を少し散歩することにした。渡瀬さんは、バーから連れ出した女性を伴いホテルの中へと消えた。

 おそらく三十分ほど散歩をしただろうか。ホテルに戻ってくると、先ほど渡瀬さんとホテルに消えたはずの女性が、同じエントランスから出てきて丁度タクシーに乗り込むところだった。彼女はこちらに気付いていない。

「え? 何があったの?」とリンが言って、僕が「もう終わったの?」と言った。

「何が?」と彼女が言った。

「あれが」

「そんな訳ないじゃない」

「だよね」

 そんな会話をしながらホテルの中へ入ると、部屋に通じるエレベーターの前で検問があった。何かと思えば、そのホテルは外から女性を連れてくると、別途チャージがかかるらしい。

 そういうことならお門違いと、僕はリンの名前を告げた。検問係りが宿泊者リストでリンの名前が記されていることを確認し、嫌疑がはれた。失礼しましたとばかり、彼は丁重な態度で二人を通してくれる。


 翌朝、レストランで朝食を取っていると、渡瀬さんが寄ってきた。リンがテーブルを離れる隙を伺っていたようだ。

「昨日の子ね、店では甘い調子でしつこく連れていって欲しいと言ったくせに、部屋に入ると途端に態度が豹変してね」

「豹変? どんなふうに?」

「いきなり、時間がないからさっさとやることをやりましょう、だって」

「それって普通じゃないの? だって彼女は仕事で来たんだし、渡瀬さんもそのために連れてきたんじゃないの?」

「そうなんだけどさ、そういったことにはムードってものが必要じゃないですか。いきなりさっさとやりましょうって、こっちの気分がえてしまわない?」

「それは分かるよ。でも彼女は仕事なんだから、彼女にムードは必要ないと思うけど。それで結局どうしたの?」

「こっちが文句じみたことを言ったら険悪になってさ、やるの、やらないの? なんて話しになったから、頭にきて追い返しましたよ」

「チップは払ってあげたの?」

「払うわけないじゃないですか。だってやってないんだから」

「可愛そうに。もう一度あの店に行って、彼女に謝ったほうがいいよ」

 そこへリンが戻ってきた。

「あら、おはよう。何の話し?」

 渡瀬さんは、「いやあ、今日の予定の確認を」などと誤魔化すけれど、僕は正直に言ってやった。

「違うよ、昨日の女の子の話し。ほら、すぐ帰っちゃったでしょ?」

 渡瀬さんは顔を赤くして、「ちょっ、ちょっと、その話しはだめだって」と日本語で慌てて言う。

「ああ、そうそう、どうしたの? あれ」

 口をぱくぱくさせて焦る渡瀬さんを押しのけるように、僕は言った。

「部屋に入った途端、喧嘩になったらしいよ」

「あら、どうして?」

 既に隠すことを諦めた渡瀬さんが、説明し始めた。

「あまりにも彼女の態度がビジネスライクで、酷かったんですよ」

「え? でもそれは彼女のビジネスでしょう? 元々ビジネスなんだから、そうなっても当たり前のような気がするけれど」それで渡瀬さんの口が止まる。

「ほらほら、でしょう? 僕もそう言ってたんだよ」

「あなたも同じじゃない。ヒルトップに一緒に行った彼女も、ビジネスライクでつまらなかったのよね」

 僕はどきりとして、「いや、あれはビジネスにもなっていなかった」と言うと、リンは「男の人ってみんな同じよね」と言って笑った。

 矛先が僕に向いたことに安心した渡瀬さんは、「彼女の宿泊費までホテルにチャージされて、参りましたよ」と言った。請求書にそれが記載されたら、どうやって会社で清算すればいいのかとぼやく。

 そんなふうに渡瀬さんを困らせておきながら、その日もお客さんの食事のアテンドを彼にお願いした。

「これで貸しが三つですよ」と彼は言い、引き受けてくれる。

「三つ?」

「空港での単独行動と、昨日と今日のお客との食事」彼は立てた三本の指を、僕の目の前にさし出す。

 やれやれ、そんなところは細かいんだから。

「一つは昨晩ゴーゴーバーに付き合うことで返したよ」

 僕は目の前に差し出された彼の三本の指のうち、一本を折り曲げた。


 その日仕事が終わって部屋に帰ると、リンはテレビを見ていた。

「今日、どこかに行ったの?」と僕は訊いてみた。

「ずっと部屋にいたわよ。すごく退屈だった」

「どこかに行けばよかったのに」

「マニラは分からないし、一人で歩くのは怖いのよ。だからずっと、あなたを待っていたの」

 いつになくまとわりついてくるリンの様子で、彼女が本当に退屈を持て余していたことの察しがついた。睡眠もたっぷり取っているようで、彼女はとても元気だ。

「ホテルの中にはプールもエステもあるし、ショッピングもできるんだから、明日はここの中だけでも歩いてみればいいよ」

 そんな話しをしながら、二人で夕食のために外に出た。タクシーでマニラ湾に沿う大きなロハス通りを走っていると、バーや飲食店、ホテルやマンションがたくさん見える。セブと比べればずっと大きく都会然とし、生き馬の目を抜く街という印象だ。

 二人は、ホテルから車で二十分ほど走った、マラテのモール前で車を降りた。ホテルに教えてもらった場所だ。もちろん二人にとって、初めて訪れるモールだった。

 セブに比べると、周辺は人やビルディングの密集度が高い。それはモールの中も同じで、日本のデパートが三つか四つは入りそうな大きなビルディングに、テナントがぎっしり詰まっている。

 二人で適当に歩きながら食事場所を探してみたけれど、広すぎてよく分からず、モールのエントランス脇にあったイタリアンレストランに戻って食事を済ませた。

 食後も時間はたっぷり残っていた。せっかくだから、二人でモールの中を探索し、子供たちへのお土産やリンの服を買った。

 上の階には映画館も入っているし、一人でも気軽に入れそうなコーヒーショップもたくさんある。これで翌日から、リンが日中の暇つぶしできる場所を一つ確保できた。

 僕たちはついでに、モール周辺も探索してみた。カラオケバーがたくさんあったし、ホテルや和食レストランが目白押しだ。

 でも僕はそれより、道路で寝ている人が気になった。特に裸の乳飲み子を抱いて歩道に寝る母親を見て、子供が不憫に思えてならなかった。

 しかし僕はそれに対して、何もできなかった。手を差し出されてさえどうすればいいのか分からず、その場から逃げるようにして立ち去った。同時に、彼らに歩み寄られるのが怖かった。彼らはセブで見かける路上生活者と、まとう雰囲気が違うのだ。俺は食うための金がないんだから助けろよと、開き直っているように見えた。

 そんな彼らに手を差し伸べるのは、簡単ではなかった。リンもそんな彼らを無視した。ときには関わるなと言わんばかりに、僕の手を引っ張った。でもときどき、少額の紙幣をさっと渡すこともあった。

「あなたはお金をあげるべき人と無視すべき人が分かるの?」

「分からないわよ。誰かは物乞いをビジネスでやっているし、誰かは本当に困っている。みんなにお金をあげられないから、わたしは小さな子供を連れている人にお金を渡すの。それも騙されているかもしれないけれど、本当のことは分からないのよ。でも、九人に騙されても一人を助けられたらそれでいいでしょう?」

 そんな人に一切関わらない、という選択肢もありそうだけれど、僕は彼女の考え方になるほどと感心した。

 僕たちは、繁華街で流しのタクシーを拾ってホテルへ戻った。マニラで流しのタクシーを使うのは緊張したけれど、ホテルに無事到着したときには、少しハードルの高い冒険をクリアしたような感覚があった。


「ねえ、明日はどの服を着るの?」

 リンは寝る前、いつも翌日着る服を尋ねる。ときには彼女が勝手にそれを決める。そしてクローゼットからアイロン台を出し、ハンカチを含めた全てにアイロンをかけてくれる。

 セブで一緒のときも同じだった。彼女はいつも、身の回りの世話をこまめにしてくれた。セブにいるときは、僕の洗濯物を自分のアパートに持ち帰り洗濯をしてくれた。ホテルに出すから大丈夫だと言っても、クリーニング代が高過ぎてもったいないと彼女は言った。そしてパンツやシャツやズボン全てにアイロンがかかり、綺麗にたたんだ状態で戻ってくるのだ。

「あなたが買った洗濯機なんだから、遠慮は要らないのよ。もちろんフリーサービスだから安心して」と、彼女は笑いながら言った。

 僕には、そういった彼女の気遣いがとても嬉しかったし、彼女のそんな家庭的な一面にいつも感心した。

 それでもそんなふうに面倒をみている僕を、彼女は手のかからない男と思っているようだった。

 アイロンをかけながら、リンが教えてくれる。

「ねえ、日本人と結婚した友だちが言ってたけれど、自分はメイドみたいだって。全ての家事を自分がやらなければならないし、旦那は爪切りまで面倒をみてあげないと何もできないらしいの。彼は何一つ手伝わず、いつも彼女に何かを言いつけるだけなんだって」

「それは普通のジャパンスタイルかもしれない。男は外で夜遅くまで仕事をし、女は家の仕事をする。日本では、それが役割分担のようになっているんだよ」

「その役割分担は理解できるわよ。でもね、家事だって仕事なの。だったら休日は、公平に家の仕事を分担してもいいんじゃないの?」

「そうだね。それはその通りだ」

「あなたはどうなの? 休日は料理したり家の掃除や洗濯をするの?」

「今の僕は、日本にいれば全てを自分でやってるよ。料理だってまあまあ得意だと思う」

「どうして同じ日本人なのに、あなたは違うの?」

「僕は一人暮らしだから、自分でやる必要があるんだよ。それにね、僕は面倒くさがりなんだ。何かが気になれば自分で動くほうが楽なんだよ。いちいち人にお願いするほうがよほど面倒だ」

 ホテルで暮らしていればやることは大してないけれど、部屋の整理整頓、ホテルへのお願いごと、爪切り、荷造り、ルームサービスの皿の片付け、脱いだ服の片付けなど、僕は普段から小まめに動く。

「あなたのことを友達に教えたら、本当にそんな日本人がいるのって驚かれたわよ。一度顔を見たいというから、今度見せてあげるって約束したの。もし本当に便利な人だったら、貸して欲しいって」

「それも約束したの?」

 彼女は「まさか」と言って笑った。


 マニラ出張の最終日は、アメリカ人の客に、夜の食事を付き合う必要があった。その食事に、僕はリンに一緒に行こうと誘ってみた。恋人として紹介すれば、アメリカ人の彼らは、食事の同席に抵抗がないはずだった。むしろそれは、当たり前のことだと自然に思うくらいだ。一緒の女性を部屋に置いてくるなんて、頭がいかれていると言われてもおかしくない。

 しかしリンは、行きたくないと言った。

「私は部屋で待ってる。大丈夫よ、食事を楽しんできて。でも食事だけよ」

 嫌がるリンを無理に連れて行くこともできず、渡瀬さんと僕と客の二人、合わせて四人で食事に行くことにした。ハーバービューというシーフードレストランに予約を入れて、ホテルのロビーに六時半集合だ。

 約束の時間にロビーへ行くと、お客と一緒に、一人の見知らぬフィリピーナがいた。こちらが歩み寄ると、ピーターが、彼女を連れていってもいいかと言った。

 僕はもちろんと答え、彼女と挨拶を交わしたあと、トムに「彼女はピーターの恋人?」とこっそり尋ねてみた。

「彼女はマニラで見つけた友だちだよ」

 僕はロビーから部屋にいるリンに電話し、女性が一人いるから一緒にどうかともう一度誘ってみたけれど、準備に時間がかかるから行かないという返事だった。

 その日に予約していたレストランは、ガイドブックに載っていたシーフードの店だ。客席がマニラ湾にせり出し、潮風を感じながら新鮮なシーフードを堪能できると書いてあったけれど、実際に行ってみると、確かに座っているだけで気持ちの良いレストランだった。入り口に大きな水槽が三段積みで並び、その中で生きた大きな伊勢えびやひらめやしゃこ、名前の分からないたくさんの種類の魚が泳いでいた。

 食事が始まると、相変わらずトムが話し続けた。アメリカ人は食事のときに仕事の話しをしないと思っていたけれど、トムはずっと仕事の話しをしていた。渡瀬さんが聞き役に回り話しを合わせるから、彼のおしゃべりには、そのまま朝まで続くのではないかと思えるほどの勢いがあった。

 一方でピーターは、トムの横でその話しをずっと聞いていた。自分が女性を連れてきていることなどすっかり忘れているように。連れの女性はほとんど話しをせず、飾り物のように座っているだけだ。ピーターが連れてきた女性とはいえ、こちらのほうが気まずくなるほど、彼女は放っておかれた。

 一時間もその状態が続いたかと思うと、ピーターはそろそろ失礼すると言い、女性と一緒に帰ってしまった。お腹が満たされたら、これ以上付き合う必要はないということだろう。アメリカ人は本当にはっきりしている。

 三人になると、トムがピーターの連れの女性について話し出した。彼女のことは、マニラに到着した日、あるバーで見つけたそうだ。ピーターは彼女のことを気に入り、店に五日分のお金を入れ、それから夜は毎日一緒にいると言った。

「彼は独身だから、問題ないよ」

 トムは笑いながら、そう付け加えた。僕たちはそれに対して、どうコメントすべきか戸惑った。曲がりなりにも相手は顧客だ。その手の話しには少々神経を使う必要がある。

 渡瀬さんが「これから恋人関係に発展するかもね」と何の足しにもならないことを言うと、トムは笑いながら「いや、それはあり得ないね」と言った。彼は頭を振り、同時にテーブルの上の手も左右に振った。

 僕はその物言いが少し気になり、少し突っ込んでみた。

「あなたなら、マニラで見つけたフィリピーナを好きになったらどうします? 恋人になったり結婚を考えたりする?」

「人それぞれだけど、自分だったらそれはないね」と、彼は断言した。インポッシブルと言う言葉と鼻で笑うような言い方が、彼のあり得ないという気持ちを強調していた。

 なぜあり得ないのだろうか。人間の気持ちとは、そんなふうに機械的に決めたり割り切れるものだろうか。そうではないはずだ。

 つまりそれは、ステータスの問題、世間体のようなものかと掘り下げてみたくなったけれど、僕は喉まで出かかったそれを辛うじて飲み込んだ。それは顧客と議論すべき話題ではない。僕とリンの関係を知っている渡瀬さんは口をつぐんで、マニラ湾を眺める振りをしていた。

 その話題を打ち切ったものの、僕はそのとき、胸の中に冷たい風を差し込まれたような気がして、リンを食事に連れてこなくてよかったと思った。

 トムは悪い人ではない。気さくで裏表のない人だ。一緒に仕事をすれば、そんなことはよく分かる。

 けれど彼は、おそらくフィリピン人を見下している。もしかしたら有色人種の僕たちも、心のどこかで見下されているのかもしれない。そんなことに直面してみれば、自分のことはどうでもよいけれど、リンのことが結び付くと心が痛んだ。

 彼女の母親がリンに抱く愛情、そのリンが愛情を注ぐ兄の子供たち、僕の身の回りの世話をしてくれる彼女の姿。優しく賢く、礼儀や常識も持ち合わせる自分の周囲のフィリピン人が、靴底で踏みにじられたような気がしたのだ。

 まもなく食事を切り上げホテルへ戻り、今度はリンを食事に連れ出した。リンは早く食事に行こうと、僕の腕につかまった。彼女はお腹を空かして待っていたのだ。そんなとき僕は、いくら仕方ないとはいえ、彼女に対してとても可愛そうなことをしたと思ってしまう。

 僕は彼女を、ホテル近くの和食レストランに連れて行った。ようやく彼女の夕食が始まる。少し多めに頼み、僕も軽くつまんで彼女の食事に付き合った。

 楽しそうにおしゃべりをして食事をするリンと、先ほどのアメリカ人の話しが重なると、僕はまたやるせない気持ちになった。

 僕は食事をしているリンに訊いた。

「ごはんは美味しい?」

 彼女は無邪気に、「とっても美味しいわよ。だってすごくお腹が空いていたから」と嬉しそうな顔で言った。

 幸せそうな彼女を見て、少し安心した。世の中には彼女がかつて話したように、理不尽なことが溢れている。特にフィリピンという国に生まれ、その中でその日暮らしをしているような人たちは、最初から自分ではどうしようもないハンデを背負っているのだ。

 それでもリンが幸せそうにしているなら、とりあえずそれで良しとするしかない。実際にそうやって自分を納得させるしか、このもやつく気持ちの持って行き場はなかった。

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