第17話 香港旅行

 お盆休みの成田空港は、祭りのように賑わっていた。

 長い列に並び、ようやく到達したチェックインカウンターで言われた。

「申し訳ございません。お客様のお座席クラスを、変更させていただきたいのですが」

 団体旅行者の調整のためだと、係の女性は如何にも申し訳なさそうだから、エコノミークラスの下にまだ安いクラスがあるのだろうかと疑いたくなった。

 もちろんそれはビジネスクラスへの無料アップグレードで、少し高めのノーマルチケットが功を奏したようだ。お陰で空港のラウンジを、無料で使用できることになった。

 ラウンジは、混雑する空港を嘲笑うように空いていて静かだった。そこに、無料のインターネットがあったのが嬉しい。

 僕はラウンジでコーヒーを取り、ソファーに座り早速ノートパソコンを開いた。香港発セブ行きの空席状況を確かめるために。

 ここ数日、時間があればそれを確認していた。幸いセブ行きは、十席ほどの空きがあった。日本から香港に向けて空を飛んでいる間、それが売り切れにならないことを祈った。

 こんな行き当たりばったりの海外旅行は、もちろん初めてだ。本当は、自分がセブへたどり着けることを実感できず、不安でならなかった。香港での宿泊を余儀なくされ、その後もセブ行きチケットが取れず、何もせずに日本へ戻るという最悪のシナリオが頭の中を駆け巡る。そうであれば、掛かった費用をリンにそっくり進呈したほうが、良かったということになるのだ。

 これはギャンブルなんだ。運がなければ負けて終わり。それだけのことだと自分に言い聞かせる。


 かつて街に近接していた香港空港は、パイロットが世界一緊張する空港として有名だったらしいけれど、僕が香港に行くようになった頃、それは既に街から離れたランタウ島のほうへ移転していた。明るく大きな空港ビルディングは、とにかく歩く距離の長い近代的空港になった。

 香港到着後、僕は出発ロビーに上がり、セブ行きチケットが何処で買えるかをあちらこちらで聞き回ることになった。チケットが売り切れる前に一分でも早く購入したいという焦りが、自然と自分を急ぎ足にさせる。

 アジアの一大ハブ空港となったそこには、欧米系を中心に、とにかく様々な人種の人たちが動き回っている。僕はそんな人たちを追い越し横目で眺め、一心不乱にチケット販売カウンターを目指した。

 広い空港を駆けずり回ったお陰で、無事にチケットを入手できたけれど、そのとき既に僕は、全ての旅程をし終えたかのように精も根も尽き果てていた。

 フィリピンのビザを持っていない僕は、香港とフィリピン間で、往復チケットを買わなければならなかった。目的地のビザを持っていない場合、帰国に繋がるチケット、あるいは目的地を出国するためのチケットがなければ国際便に搭乗できないことを、僕はそのとき初めて知ったのだ。

 結局リンと一緒に香港へ戻るとき、リンのチケットは、その航空会社の同じ便にしなければならない。余計な制約ができて、また心配事が増える。その便が満席になれば、僕とリンは別々の便で香港に来ることになってしまうのだ。一難去ってまた一難。リンのチケットを買うまで安心できない。

 国籍の違う二人には、こんな小さな困難が、いつでも不意に降り掛かってくる。

 空港内のコーヒーショップのソファーに身体を沈ませ、コーヒーを一口飲んでようやく落ち着きを取り戻してから、今日中にセブへ移動できそうなことをリンに報告した。

「ウーン、グーッド」

 彼女は当然の結果が到来したかのように、のんびりした口調でそう言った。口の中に、何か食べ物を含んでいるようだった。

「何か食べてるの?」

「今ランチを食べてるの」

 僕が必死に駆けずり回っていたときに、彼女は平和な日常を普通に刻んでいた。何か不思議な感じがした。

 もちろん彼女が、普通にランチを食べるのは問題ない。ただ、彼女には今日の出来事に何も心配がなく、緊迫感のようなものが一切ないのだろうか、という不思議さだ。

 全ては成るようにしか成らないと考えるのが、彼女にとって普通なのかもしれない。そうであれば、確かに余計な心配をするのは無駄なことだ。極めて合理的な考え方と言える。それに今のところ、実際何とかなっている。

「あとで会えることを楽しみにしているよ」

「わたしも楽しみよ」

 終始のんびりした口調に、彼女は本当に再会を楽しみにしているのだろうかと疑いたくなる。そして僕はセブ行きの飛行機に乗るまで、胸の内につっかえている不安を、拭い切れないでいたのだ。

 夕方、セブのマクタン空港に到着すると、本当にフィリピンにたどり着くことができたという、それはそれで不思議な感覚が胸の内にあった。到着してみると、隣の県にでも遊びに来たような手軽さだったからだ。

 空港前の溢れんばかりの人だかりを見て、ようやくセブに戻ったという実感が湧いてくる。

 リンがジミーの車で迎えに来てくれていた。でもそこにいたのは、リンとジミーだけだった。

「あれ? 子供たちは?」

 リンは目を素早く瞬かせた。

「あなたがどうしたいか分からないから、家に置いて来たのよ」

 確かに僕は、食事も宿泊のことも、何も彼女に伝えていなかった。

「そうか、ごめんごめん。ホテルは大きな部屋をお願いしているから、前と同じように子供たちが一緒に泊まっても問題ない。もちろん食事はみんなで一緒しようよ。香港で時間があったから、この前と同じ焼肉屋に予約を入れておいた」

 リンは心配そうな顔付きで言った。

「ずっと子供たちが一緒だと、大人の時間が取れないわよ。あなたはそれでいいの?」

「子供たちに、また一緒に遊ぶと約束したからね。大人の時間は、香港で十分取れるよ」

 リンが嬉しそうな顔になり、子供たちが喜ぶわと言った。

 ジミーも夕食に誘った。もちろん奥さんも一緒に。

 彼は「ありがとう。喜んで」と言い、大勢で催す晩餐会がその場で決まった。

 そして、その日のディナーは盛り上がった。

 ジミーの奥さんを初めて見た僕は、彼女があまりに綺麗な人で驚いた。

 歳は三十半ばといったところだろうか。真っ直ぐで艶のある長い黒髪が、何かの動作の度にさらさらと揺れる。細くスッキリとした眉毛の下に二重の大きな目と、スペイン系の特徴である筋の通った高い鼻。

 それはまるで、美人の要素を全て採用してみましたと、整形外科医が自慢げに言いそうな顔だった。口の右端上に見える小さな黒子がまた魅力的で、それは彼女が、利発な人という印象を他人に与える。実際彼女は、余計なことを口にせず、同時に社交的でもあり、頭の回転の良い大人の女性だった。

 彼女は落ち着き払い、慎重に言葉を選びながら言った。

「彼は他人のことは口にしないのに、二人のことだけはよく教えてくれるの。だから一度、お会いしたいと思っていたのよ。この間も美味しい日本料理をご馳走になったのに、今日はまた食事に招待頂き本当にありがとう。こうしてお会いできて、とても嬉しいわ」

 改めてそんな挨拶を貰うと、こちらが恐縮してしまう。もしここにヤクさんがいたら、美人の前で緊張すると言いながら、またかつらを外してしまうかもしれない。もしそんなことがあれば、子供たちは大喜びしただろう。

 僕がジミーに、「どうやってこんな綺麗な奥さんを見つけたの?」と訊いてみると、彼はフンと鼻で笑い、コメントをくれなかった。

 奥さんが「家でもいつもこんな感じなのよ」と言うと、ジミーはもう一度同じように鼻で笑う。普段はきっと、二人で静かに暮らしているのだろう。

 食事の最中、奥さんはときどき、目を細めて子供たちの様子を見ていた。リンの姪と、亡くした自分の子供を重ねているのだろうか。そうであれば今日の食事は罪作りだったかもしれないけれど、それでもその日は精一杯楽しんでもらいたかった。

 ジミーが焼肉を頬張り、「おおっ」と言った。余りの美味しさに驚いているようだ。

 それでみんなが、一斉に彼を見る。ジミーはご飯をかき込んで、「これも上手い」と言った。

 子供たちはその様子に、くすくすと笑った。

「日本人は、いつもこんな凄いものを食べているのか?」とジミーが言った。

「そんなことある訳ないじゃない。今日みたいな特別な日限定だよ。特に僕が日本にいるときは、いつも少しでも安いものを選んで食べてるよ」

 ジミーが疑わしい目付きでこちらを見るから、「嘘じゃないって」と僕は言った。

「ここのご飯は本当に美味しいわ。おかずがなくてもご飯が進む」と、奥さんがジミーをフォローするように言う。

 和食系のレストランに行くと、フィリピン人はみんな同じことを言う。確かにフィリピンで出回るローカル米より、日本米のほうが遥かに美味しい。この美味しさは、日本人の口に合うというだけでなく、国際的な美味しさのようだ。

「せっかく肉がメインのレストランに来ているんだから、肉を沢山食べてよ」

 それでもジミー夫妻や子供たちには、遠慮があるようだ。網の上から奪い合うように肉を取って食べるスタイルは、抵抗があるのかもしれない。

 僕は再びホスト役に徹して、焼けた肉を機械的に各自の皿に順繰り取り分け、次の肉をどんどん焼いた。そして様子を見ながら追加オーダーをする。

 奥さんは「こんな美味しいものは初めて食べた」と喜んでくれた。ジミーは奥さんが喜んでいることが嬉しいようだ。普段余り表情を崩さない彼が、とてもにこやかだった。

 円卓の前で、リンは奥さんの隣に座り話し相手になっていた。僕はリンとジミー夫妻を挟むように、ジミーの隣に座っていた。

 二人の女性は、ビサヤ語で話し込んでいた。それで奥さんやリンが、ときどき楽しそうに笑う。子供たちも笑顔を絶やさず、一生懸命食べていた。まさに幸せな晩餐光景だ。

 リンと奥さんが話し込んでいる隙を見計らい、ジミーが僕の耳元で言った。

「妻のあんな笑顔を見るのは久しぶりだ。少し驚いている。聞いていると思うけど、二人の子供を事故で失ってから、家の中はいつも静かなんだ。彼女がまだ、あんなふうに笑えるんだと分かって良かった。今日は本当に良かった」

 僕は肉を焼きながら、ジミーに訊いてみた。

「普段はそんなに静かなの?」

 彼も、ぼんやりと肉が焼ける様子を眺めた。

「ああ、まず笑うことがない。楽しそうにすることが、天国にいる子供に悪いと思っているらしい。俺もその気持ちは良く分かる」

 彼の顔をまともに見るのが躊躇われた。もし彼が悲痛な表情をしていたら、自分がどう対応すべきか分からなくなるからだ。

「だったら僕がいなくても、ときどき彼女たちの食事に夫婦で付き合ってくれたらいいよ。ジミーが一緒だったら、僕も安心できる」

 彼は虚ろだった視線を焼肉の網から僕に戻し、少し嬉しそうに「ありがとう。そうさせてもらうよ」と言った。

「ねえジミー、知ってる? 日本語で食という言葉は、人を良くすると書くんだ」

 僕は鞄からペンを取り出し、紙ナプキンに食という漢字を書いた。そして、それぞれのつくりの意味を説明した。

「つまり美味しいものを食べると、人は楽しくなったり優しくなったりする。これって正しいと思わない?」

 ジミーは如何にも納得いったように、深く頷いた。

「食は人を良くするか。本当にその通りかもしれない」

「だからときどきこうして、一緒に食事をすればいいよ」

 子供たちが興味深そうに、僕の書いた漢字を眺める。

「あとで、何の話しをしているのか教えてあげるよ」と僕が言うと、子供たちは愛らしく頷いた。


 食後に行ったホテルのプールは空いていた。水に入って遊ぶ人は、誰一人いない。数組の欧米人が、プールサイドでカクテルグラスを傾けている。

 子供たちはすぐに水に入り、元気にはしゃいだ。リンは相変わらず、プールサイドでトロピカルジュースを飲みながら、くつろぐつもりらしい。必然的に、僕が子供たちのお守役でプールに入ることになる。

 夜になり、涼しい屋外で、水が少し冷たく感じる。

 しかし、子供たちには寒さなど関係ない。自分も子供の頃は同じだった。唇が紫色になり、一旦プールから上がって休憩しなさいと、よく水から引きずり出されたものだ。どの時代のどの国の子供も、みんな同じだ。

 子供の遊びに付き合うのは大変だけれど、子供の喜ぶ顔を眺めると、こちらも幸せな気分になれる。

 幸せを体感した子供が大人になると、自分の子供に同じ幸せをあげることができる。大人の子供に対する愛情は、世代で受け継がれ連鎖するのだ。この子たちはきっと、大人になったとき、自分の子供にも同じことをするよう努力するだろう。母親がいなくて父親もいい加減だけれど、リンや彼女の母親の愛情を注がれて育っている。優しく思いやりがあり、礼儀正しい。

 随分先のことでも、僕は運命共同体の一員として、それを見ることができるだろうか。


 子供が遊び疲れで少し早目の眠りにつくと、ホテルの部屋に、静かな大人のコーヒータイムが訪れた。

 照明を絞った部屋は、外界の音もなく、子供の寝息が聞こえている。その静けさの中に、モンクのピアノだけがさりげない旋律を響かせていた。

 リンが、「何処かへ遊びに行きたい?」と尋ね、僕は「部屋でゆっくりしたい」と言った。

 一人暮らしの気楽さは悪くないけれど、こうした相手のいるコーヒータイムには、また違う安らぎがある。

 彼女は「そうね」と言った。

「明日は十時になったら、すぐにあなたのチケットを買いに行く。チケットを早く押さえてしまいたいんだ。それから旅行の買い物をして、それが済んだらプール遊びでも何でもいいよ」

「分かった。ディナーはわたしに決めさせて。明日はママにあなたを紹介したいの」

 唐突に発せられた紹介という言葉にかしこまった響きを感じ、僕は驚いた。

「え? お母さんから、何か特別な話しでもあるの?」

 そのディナーの意図が気になった。自分が随分歳上の恋人であることに、僕は負い目を感じていたのだ。母親が心配し、査問会を開こうと思ったのかもしれない。そんな自分の焦りみたいなものを感じ取ったのか、彼女はくすりと笑った。

「何もないわよ。母親に自分の恋人を紹介するのは、普通のことじゃない」

 そう言われても、僕の中で湧き起こった緊張感は、何かの病気でできた気になるしこりのように、身体の中に居座り続ける。

 彼女の母親と会えば、僕はいよいよ、彼女のオフィシャルな恋人になる。言い換えれば、明日の夜、僕は運命共同体の正式なメンバーになるのだ。もう後へは引けないのよという状況が、ひしひしと自分の身の上に迫っているような気がしないでもなかった。

「兄も参加すると思う」と、追い打ちをかけるようにリンが言った。

 兄と言えば彼女の父親代わりだ。やはりこれは、晩餐会という名を借りた査問会かもしれない。それで僕は、胃袋が十センチくらい上がったような、居心地の悪さを感じてしまう。

 リンは素知らぬ顔で、ベッドの背もたれに寄りかかり、雑誌のページをめくっていた。手持ちぶたさの僕は鞄から小説を取り出し、彼女の隣でそれを読んだ。

 おそらくたくさんの男女が、セブの夜空の下で身体を合わせているのだろう。そんな中、同じ夜空の下で、僕とリンの夜はこうして更けていった。


「明後日の香港行き夕方便を一枚買いたいのですが、空きはありますか?」

 カウンターから身を乗り出すようにして、そう言った。

 若い女性の窓口担当は、少しお待ち下さいと言い、早速パソコンのキーボードを叩き始めた。

 僕たちは、ホテルに近接するモールの一画にある、旅行代理店にいた。買い物もする予定だったから、子供たちも一緒だった。大勢ががん首並べて担当者の返事を待つ。担当の女性はときどきモニターから目をそらし、そんな僕たちをちらちらと見た。威圧行動はお止め下さいと言いたげだ。

「はい、まだ空席がありますよ」彼女がほっとしたように言った。

 僕はその言葉に飛び付いた。

「それ、今すぐ買います。一席取って下さい」

「搭乗者のパスポートはお持ちですか? それと、帰りはどうしますか?」

 リンが鞄からパスポートを取り出し、彼女に手渡した。僕は既に購入済みの自分のチケットを彼女に渡し、間違いなくそれと同じ便であることを確認してもらう。

 こうして僕たちは、無事にリンのセブ発香港行き往復チケットを手に入れた。不思議とそれは、僕が香港空港で買った自分のチケットより、価格が半分くらい安かった。担当の女性が親切で教えてくれたホテル宿泊パックにすると、ホテル代が含まれるにも関わらず、支払いが更に安くなる。旅行代金というものは、相当水物であるらしい。

 いずれにしても、この際値段はどうでもよかった。心配したリンのチケットを入手できて、僕の胸の内は晴々とした。これで香港旅行の全てが確定した。僕はギャンブルに勝ったのだ。

 その後はぞろぞろとモールの中を移動し、リンの旅行用鞄やサンダル、服、下着などを買った。

 晴れやかな気持ちは、僕の財布の紐を緩めた。ついでに一階のスーパーマーケットで、普段彼女たちが使うシャンプーやリンス、子供のスナック、食材、学用品、雑貨類を見繕い、モールのレストランでランチを取ってホテルへ戻った。

 午後は退屈な買い物に付き合った子供たちに、ご褒美でプール遊びの時間とする。その発表で、彼女たちから歓声が上がった。今回僕は、日焼けを気にする必要がない。夏休みに日焼けするのは、別段不思議なことではないのだ。

 僕がプールで子供に付き合っている間、リンが夕食のプランを考えアレンジすると言っていた。

 僕は太陽の下で健康的に遊ぶ。この健康的な遊びは、いつも自分に大きな充実感をもたらしてくれた。

 三時間もプールにいると、ひたすら遊んだという感覚があった。数ヶ月前と言い今回と言い、時間さえあれば子供たちをプールで遊ばせる僕は、プールサイドバーのボーイと顔馴染みになっていた。毎回お疲れ様ですとばかりに、彼らは気さくに声をかけてくる。

 最初の頃、何処から来ているの? と訊かれ僕が日本と答えると、彼らは一様に驚いた。

 日本はそれほど遠い国でもないだろうに。アメリカのほうがよほど遠いと教えたくなる。

 彼らはいつも欧米人をたくさん見ているせいで、アメリカやヨーロッパが、フィリピンの隣にあると思い込んでいる節がある。フィリピンでは、たまにそういった人を見掛ける。

「日本人は真面目だね」

 僕は何のことを言われているのか分からなかった。

「どうして?」

「こんなに熱心に子供と遊ぶアメリカ人は、ここにはいないよ。彼らはここに子供を連れてきても、大体放っておくから」

 それは僕も気付いていた。ホテルがプール監視員を置いているから、彼らは安心だと思っている。親も一緒にプールへ入るよう、監視員から注意を受ける場面に出くわすこともあった。

 アメリカ人ドクターが、子供の水遊びについて警鐘を鳴らすレポートを出している。大人のほとんどが勘違いしているけれど、子供が溺れるときは、大声を出したりじたばたせずに、静かに水の中に沈んでいくと。大人が近くにいたとしても、目を離していればそれに気付かないくらい静かに。

 

 リンは食事場所を、ネイティブフードで有名な老舗レストランに決めた。母親にはフィリピン料理がいいだろうとの配慮に基づいて。

 僕がフィリピンに初上陸した日、篠原さんに連れられて行った店だ。ローカルな雰囲気を残しながら、内容は一流というレストランだから、少しかしこまった席で利用するには丁度いい。

 夕方、僕たちは一足早くレストランに到着し、リンの母親と兄を待つことになった。

 食事のオーダーも、みんなが揃うまで待つ。僕は、娘さんを自分に下さいとお願いするわけでもないのに、少し緊張していた。

 これから始まるかもしれない、晩餐会という仮面をかぶった査問会。

 査問会なら最初からそう言ってくれたらいい。こちらも心の準備ができるし、心置きなく反論もできる。しかし表向きは晩餐会だ。いや、本当に、ただの晩餐会かもしれない。

 あるいは僕は、きちんと母親に紹介してもらい、次の深みにあるステージに移行するのが怖かったのかもしれない。僕がそこから抜け出したくなっても、簡単に抜けられない状況を、周りが率先して作るというそれ。いつの間にか本人の意志が置き去りにされ、物事が勝手に進んでいくというあれ。

 もちろん僕は、そんな自分の心境を悟られないよう、表向きは落ち着き払ってリンの母親を待った。そんな見た目の落ち着きとは裏腹に、レストランのドアが開く度に、僕の心臓が小さく跳ねる。

 二度ほど無関係な人の来店に騙され、三度目にドアが開いたとき、初老の小柄な女性が現れ、僕はハッとした。

「ママが来たわよ」と言うリンの言葉と同時に、僕は椅子から立ち上がり、ドアの前に立つ女性に駆け寄った。

 傍に行くと、リンの母親は思った以上に背が低く、細い顔と身体に皺の多い、目が窪んだ弱々しい人だった。リンの年齢から考えて、いささか歳を取り過ぎているようにも思えた。長男である兄が自分と同じ歳であることを考えても、まだ辻褄が合わないくらいだ。

 僕は彼女に「はじめまして」と声をかけ、簡単な自己紹介をした後、母親の背中に手を添えテーブルまでエスコートした。

 その途中、鼻の下に髭を蓄えた体格の良い男性が扉の向こうから姿を現し、僕たちに近づいて来た。子供たちの父親で、仕事は嫌いで酒とギャンブルが大好きな、リンの兄だ。

 僕の買った自転車を、勝手に質屋へ入れた落とし前をどう付けてくれるんだ、という文句は横に置き、あくまでもにこやかに彼と握手を交わし、僕は母親のエスコートを続けた。

 これでようやく、全員が揃った。改めてリンが、僕を紹介してくれる。

 母親はビサヤ語で、リンに何かを伝えた。

「今日は夕食に招待してくれて、ありがとうだって。母は英語を話せないの。兄も英語は得意じゃないから、わたしが必要に応じて通訳するわね」

 母親は話している間、穏やかな笑みを顔に浮かべていた。少なくともそこから、査問会という雰囲気は感じられない。

「そう、分かった。こちらこそ、わざわざ足を運んでくれてありがとうと伝えてくれない?」

 リンの通訳に被せるように、僕はサラマットカアヨとビサヤ語で言い、母親に頭を下げた。母親は、顔の皺をますます深くして、とても嬉しそうに笑った。

 その笑顔で、僕はリンの母親の人柄が、既に半分くらい分かったような気がした。今日は査問会などではない。この人は、娘が紹介すると言った人物に会うのを、ただ楽しみにここへ来たのだ。

 そう推測した通り、その後リンの母親は、何一つ僕が答えに詰まるようなことを訊かなかった。終始にこやかで、その場の雰囲気を壊さないよう、それだけを気遣っている。

 全てにできるだけ控え目に、その日の席に呼ばれたことだけを感謝しているように見受けられるのだ。

 料理も取り分けられたものにしか手を出さず、自分からは一切、飲食の要望を言わない。そこの料理が口に合わないのかと、心配になるほどだった。

 僕は、今日の主役はお母さんだと言いたくなった。けれど残念ながら、言葉が上手く通じない。僕は指さしやゼスチャーで、テーブルに並んだ料理からお母さんの食べたいものを聞き出し、それを彼女の皿に取り分けた。その度にお母さんは、本当に嬉しそうな顔を作り頭を下げる。

 コミュニケーションというものは、言語が重要なのではないと、僕は三ヶ月間のセブ出張時に学んだ。大切なことは、コミュニケーションを取ろうという気持ちと、その気持ちが作る行動だ。どんな相手にも、間違いなくそういった気持ちを感じ取る能力が備わっている。

 リンの兄はときどき子供たちと会話をするだけで、あとは黙って料理を食べていた。料理目当てが半分、僕に対する興味が半分といったところだろうか。僕に何かを話し掛けてくるわけでもなく、ときどき目が合ったときにお互い愛想笑いを浮かべるだけの、妙なコミュニケーションが展開されていた。

 その日の僕は、もちろん自分がホストだと思っていた。当然僕は、リンの母親を中心に、みんなの食の進み具合、ドリンクの残りなどをいつも観察し、新しい料理がきたらそれをみんなに取り分ける。

 そんなとき、リンの母親が、キリリとした表情と口調で何かを叫んだ。

 途端にリンが、僕の持つスプーンを取り上げ、みんなに料理のサービングを始める。

 僕はリンに、「何を言われたの?」と訊いた。

「ママに叱られたのよ。何をしているの、それはあなたの役割だって」

 優しいだけの人と思っていた母親は、それを言ったとき、とても凛としていた。そして僕に、ずっと気を遣ってくれている。

 リンが以前、僕に教えてくれたことがあった。

「ママはとてもケチなの。毎週あなたの送金から十分な食費を渡しているのに、いつも一番安い米しか買わないのよ。贅沢ができない人なの」

 その話しを聞いたとき、僕はリンが、少し大げさに話しを作っているのではないかと疑った。

 しかし目の前にいる女性は、辛抱強く寡黙で、厳しさと優しさを兼ね備える人に見えてならない。いつでも自分のことより家族のことを考え、贅沢を慎み、大切なことが何かを決して忘れない人。自分の持つ古い日本人女性のイメージと、ぴたりと重なる。

 なるほど、この母親があって、この娘や孫たちがあるのだ。

 本来僕は、家の大事な娘をどうするつもりかと、問い詰められてもおかしくない。

 あるいはこの人は、心の底から娘のリンを信じているのかもしれない。娘のリンが良しとすれば、それでいいという具合に。

 リンの母親は、晩餐会の最後に僕の手を両手で握りしめ、丁寧なお礼を言い残し、静かに店を後にした。

 そのとき僕は、娘のことを宜しくお願いすると言われたような気がしてならなかった。それは、母の娘に対する愛情が、波動となって伝わってくるような行為だったからだ。

 僕はそのことで、運命共同体にすっかり嵌り込んだように思えたけれど、悪い気はしなかった。むしろ、母親の娘に対する、静かで強い願いを無碍にすることがあってはならないという、責任のようなものを感じたほどだ。

 僕はセブに到着してから、思いがけず二日続けて、人の人生の重みに触れる晩餐会を持ったような気がした。

 人は重く大切なものと、重く辛いものを、それぞれの宇宙に抱えている。そこには重すぎて耐え難いものがあるはずでも、どうにか踏ん張っている人が大半を占めるのだ。それらが自分の宇宙と共鳴すれば、おそらくそれは、僕の人生の肥やしとなる。


 いよいよ翌日は香港フライトという日を迎え、リンはホテルの部屋で旅支度を整えた。着替えやサンダル、洗面用具など、ほとんどが新品だ。

 僕が彼女に念を押したのは、パスポートだけだった。フライトチケットは僕が持っている。パスポートとチケットさえあれば、あとはどうにでもなる。

 リンは真剣な顔で何度も荷物をチェックしながら、鞄の中味の配置を変更した。僕はそれをときどき横目で見ながら、ベッドの上で本を読んでいた。

 僕が初めて海外に行ったのはアメリカで、次の旅行はイギリスだった。何れも仕事上のことで、それほど海外旅行の浮かれた気分はなかったような気がする。

 それよりも、外人とのミーティングを上手くこなせるのか、それが不安でならなかった。それ以前に、イミグレーションでの英語の質問にきちんと答えられるかが、一番の心配事だったかもしれない。英会話の本を買い、イミグレーションでの会話というページを、何度も読み返したことを覚えている。

 そして実際は、アメリカもイギリスも飛行時間が長過ぎて、ミーティングに対する緊張感や異国を見るという期待感は、目的地に到着する前の機内で見事にくじかれた。そんなことよりも、帰国時にはまた、飛行機の中で長時間拘束される恐怖のほうが勝っていたのだ。

 けれど香港までは、高々二時間半のフライトだ。フライトに限定すれば、ドメスティック旅行に毛の生えたようなものだ。丁度飽きてきた頃に着陸となる。

 フライトは夕方だったから、出発当日の午前中は子供たちとプール遊びをし、ホテルをチェックアウトしてからモールでランチを済ませ、最後はみんなで、ポップコーンを食べながら映画を観た。

 もう少しダイナミックなアクティビティを用意できれば良かったけれど、費用と日程を考えれば、そんな小手先の遊びでお茶を濁すのが精一杯だった。

「次はもっと楽しいイベントを考えるよ」

 子供たちはそんな約束に、この上ないほど相好を崩す。

 僕とリンは、子供たちを家に送り届けたあと、そのまま空港へと移動した。


 マクタン国際空港の中で、リンが言った。

「わたし、この中に来たのは初めてなのよ。空港に来ても、いつも外で待ってるだけだから」

 彼女は周囲を見渡しながら、くすくすと笑った。

 リンの初海外旅行を祝うように、二人のフライトは予定通りで順調だった。不安定な気流で揺れることもなく、きっちり二時間半の飛行を消化し、僕たちは六時半に香港へ到着した。

 リンは、クラシックな雰囲気を持つマクタン空港を見たばかりで、近代的で規模が大きく、多くの人種が入り混じる香港空港を驚いたに違いない。

 到着ゲートからイミグレーションまでの距離が長く、ようやくたどり着いたそこには、蛇行する長い列があるのだから尚更だ。

 しかし、入国審査ブースがたくさん稼働していて、思ったより進みが速い。十五分ほどで審査ブースの手前に到達し、僕とリンは別々のブースに入った。

 日本のパスポートを持つ自分は簡単に入国スタンプを貰ったけれど、リンが引っかかっているようだった。

 何か問題があるのだろうか。僕は心配になり、イミグレーションブースを出てすぐ立ち止まった。

 彼女が係官に、何かを説明していた。最後に彼女は僕を指さした。

 係官が僕を見て、彼と目が合う。そして彼は、ようやくリンのパスポートにスタンプを押す動作を取った。

 時間がかかったのは、香港に来た目的、行き先、スケジュールについて、しつこく聞かれたからだそうだ。リンは最後に、あそこに見える日本人の恋人と一緒に観光旅行で来たと言い、そこで係官が僕を見て、ようやく納得したようだ。

 誰でも自由に出入りできると思っていた香港も、フィリピン人にはチェックが厳しいようだ。フィリピン人は、いつでも何処でも、そんな目に遭わなければならないということか。

 もっともこれは、僕がフィリピンで感じた不公平とは、少し趣きが異なる。各国の入国法には、きちんとした目的があるからだ。そこには、テロや犯罪、不法就労を防ぎ、自国民の安全や就労機会を守るという大義名分がある。

 その意味で、日本国のお墨付きである日本パスポートは信用があり、フィリピンパスポートは要注意ということなのだ。残念ながらフィリピンは、国際的に信用度が低いということだ。

 無事にイミグレーションを通過した僕たちは、大きく別れた二つの出口の左側からアライバルホールに出て、真っ先に九龍(カオルーン)までのエアポートエクスプレスチケットを購入した。この電車を使えば、空港からカオルーンまで二十分たらずで移動できる。それは静かで振動の少ない快適な電車だけれど、ほんの二十分程度の乗車で大人一人千五百円と、運賃は高めだ。

 既に暗くなった車外には、香港特有の、いつぽっきり折れてもおかしくない細長いマンション群が見える。それ以外は並走する高速道路が見える程度で、目的地のカオルーンまでは、香港で有名な摩天楼を見ることができない。ただ、車内に流れる中国語アナウンスが、香港の雰囲気を醸し出している。

 リンは既に暗闇となった、そんな殺風景な景色を静かに眺めていた。もしかしたら彼女は、生まれて初めて乗った電車というものを、堪能していたのかもしれない。

 車内アナウンスが、次はカオルーンステーションに停車することを告げる。

「次の駅で降りるよ」

 彼女は頷いて、「あっという間ね」と言った。

「初めての電車はどうだった?」

「こういうものが普通に使えるって、とても便利よ。それにこの電車は綺麗だし、滑るように静かに走るのね」

 カオルーン駅から、タクシーでゴールデンマイルのホテルへと向かう。直線距離は短くても、土地に食い込む湾のせいで、タクシーは遠回りに走らなければならない。ホテル近くには、中国やマカオに行くためのフェリー乗り場があり、周辺はホテル街にもなっているのだから、エクスプレスの駅をその近くに置いてくれたら便利だったはずだ。香港島まで線路を延ばすに、そういった迂回はできなかったのかもしれない。

 ホテルにチェックインの際、僕たちの部屋が最上階ということを告げられた。期待して部屋に入ると、二人の目の前に、美しい摩天楼が壁一面の大きな窓を通して飛び込んできた。夜景の一部が、ホテルと摩天楼街の間にあるビクトリア湾に写り込んでいる。海と百万ドルの夜景。値段相応の景色だった。

 それまで比較的静かだったリンも、その景色と部屋の様子に驚きを隠さず、感嘆の声を上げた。

 大きなキングサイズベッド、ソファー、サイドテーブル、ビジネスデスク、そしてガラス張りのバスルームとシャワールーム、仕切りの裏にある洗面台が一緒になった化粧台。

 彼女は、ガラス張りのバスルームが気になったようだ。

「このバスルーム、どうやって使うの? 外から丸見えじゃない」

「それはね、ゆっくり夜景を楽しみながら、バスに浸かることができるようになっているんだよ」

「こちらから景色が見えるのは素敵だけれど、あなたからも中が丸見えよ。それに外からも見えちゃうでしょう?」

「湾を挟んだあんな遠くから、対岸にあるビルディングの部屋の様子なんて、誰も気にしないし簡単には見えないよ」

「でも、なんかオープン過ぎて、居心地が悪いわ」

 恥ずかしがりやの彼女が言いたいことを、僕はよく理解している。それに、バスルームが部屋の中から丸見えだと困るという客だっているはずだ。だからこんなケースでは、大体ブラインドか何かの目隠しが付いている。僕がバスルームをチェックすると、案の定それがあった。僕はブラインドを下ろし、「これでどう?」とリンに訊いた。

 彼女は楽しそうに、「そうそう、それが安心」と言った。

 僕たちは少しの間、窓辺に並んで香港の夜景を眺めた。山の上から見下ろすセブの夜景も素敵だったけれど、部屋から見る摩天楼には、それと違った迫力がある。その夜景を見ただけでセブや日本に戻っても、惜しくないほどの素晴らしい夜景だ。それをコーヒーを飲みながら、あるいはバスに浸かりながら、いつでもゆっくり眺めることができるなんて、贅沢な部屋だと思う。間違いなく、非日常的な環境だ。今度こそ、旅をしているという実感が湧いてくる。

 窓には夜景と共に、遠くを見つめるリンの顔が写っていた。僕は密かに、その両方を交互に見ながら、その様子に満足していた。

 厚みのあるベッドに寝転がると、旅の疲れが癒された。リンもシャワーを浴びて、ベッドの弾力性を確かめるように飛び込んでくる。

 外界の音が遮断され静まりかえる部屋と、ライトを落とした部屋に窓を通して見える宝石のような夜景。大人の時間だ。

 香港夜景をバックに、シルエットになったリンの美しい体が揺れた。そしていつの間にか、二人はお互いを包み込むように、眠りについた。


 香港は、三泊四日の予定だった。

 僕は、観光名所を次々と巡るつもりはなかった。今回の旅行目的は、リンにフィリピンと異なる文化を持つ異国を見せることだ。

 僕の世界のコンビニや、地下鉄やバスとはどんなものか。資本主義の権化のようなビジネス街のビルディングがどれほど高く、どれほど密集し殺伐としているか。物価の違いがどれほどのものか。その中で香港の庶民は、どんなふうに暮らしているのか。車やバイクが如何に交通ルールを遵守し走っているか。整然とした世界でゆったり過ごすときに感じる風の匂いは、フィリピンと違うのか。彼女にとって、それは心地よいのか。

 道路を歩いても、路上生活者をほとんど見かけることのない世界。ブランド店に入れば、気の遠のくプライスの商品がずらりと並ぶ世界。全てが彼女にとって、豊かに映るはずだ。しかしそんな世界を、彼女は良しとして気に入るだろうか。

 少なくとも僕は、そんな香港よりフィリピンのほうが好きだった。それはひとえに、そこに住んでいる人の違いではないかと思う。

 大きな金の動く世界で暮らす人の常識、人情、欲求が、そうではない人たちと少し違うような気がするのだ。素朴さの違いと言ったら分かりやすいかもしれない。

 僕はフィリピンという国に発展してもらいたいと思っているし、みんなが豊かになったら嬉しいけれど、それでも素朴さだけは失わないで欲しいと願っている。それがなくなれば、僕にとって、フィリピンは魅力が半減するような気がするのだ。


 翌朝、特別フロアの専用ラウンジでゆっくり朝食を取り、早速ホテルの外に出てみた。

 周辺は、両替所や偽ブランドショップが乱立し、香水、時計の路上販売が、十メートル間隔で行われている。もちろん、路上で売られているものは全て偽物だ。

 日本人客も多いのか、日本語で「社長、ロレックス、オメガ、いっぱいあるよ。全部トリプルAだよ」と次々に声をかけられる。

 トリプルAは中国本土にもたくさんあって、僕はそれらを何個か買って既に試していたけれど、ほとんどが一ヶ月ももたなかった。

 防水を売りにするロレックスのサブマリーナやオメガのシーマスターは、中国のディスコに行っただけで汗が入り込み、ガラスの内側に水滴が付いたから、僕はトリプルAの滑稽さに苦笑した。販売店にそれを告げると、Sランクなら問題ないと言われ、僕は今度、中国人の逞しさに苦笑した。香港で売られるものは、中国の価格の五倍くらいするけれど、性能的な怪しさは五十歩百歩ではないだろうか。

 リンは香水に興味を引かれた。歩きながら会話をしていたリンの返事がなく、振り返ると彼女は少し後方で、路上の香水販売のおじさんと話し込んでいた。

 僕は彼女に近づいて、耳打ちした。

「そのままの値段で買ったらだめだよ。ほとんどがディスカウント前提の価格だから。最低でも半額をターゲットに交渉すべきと思う。運がよければ、三割くらいの価格で買えるから」

 彼女は眉間に皺を寄せ、本当に? と言いたげに、無言で僕の顔を見た。それに僕が頷くと、彼女は早速交渉を開始した。

「値段はディスカウントしてくれるのよね」

「お嬢さん、これがぎりぎりの値段だよ」

「五個まとめて買ったらどう?」

「五個じゃ無理だな。十個くらい買ってくれたら考える」

「そう? さっきの店は三個でよかったわよ。それじゃあさっきの所に戻るわ」

 彼女は本当に、そこを立ち去ろうとする。

「あー、ちょっと待って。それじゃ五個で二十パーセントディスカウントするよ。どう?」

 傍らで聞いていた自分が介入しようとしたとき、彼女が言った。

「二十だけ? さっきの店は三個で、五十パーセントって言っていたわよ」

 おお、いきなり五十に行ったかと、僕は驚いた。それは性急過ぎるだろう。交渉は失敗かと思ったら、おじさんは笑いながら言った。

「お嬢さん、中々厳しいねえ。分かったよ、それじゃこっちも五十パーセントでいいよ」

「同じなの? なんか魅力を感じないわねえ」

「ふーむ、だったら五十五パーセントディスカウント。ただし五個だ」

 おお、やるじゃないか。でも、きっと仕入れ値は十か二十パーセント程度なのだろう。

 リンは澄ました顔で、「サンキュウー」と言った。

 商談成立。リンは早速、一つ一つの匂いを確認して五個を選んだ。

「これはお土産にするの」

 彼女はそう言うと、おじさんに、プライスシールはそのままでいいと言った。フィリピン人はそれを米ドル価格と思うから、お土産にはそのままのほうが都合がよいようだ。

 つまり、香港ドルで二十は二百五十円から三百円くらいだけれど、二十米ドルなら二千円くらいになる。

「あなたのお金を、節約できたわよ」

 何も買わないほうがよほど節約になると言いたいけれど、僕はそれを飲み込んで言った。

「その分ランチを豪華にするよ」

 努力の結果が直ちに目の前に現れるというものは、何でも魅力的だ。彼女はこのディスカウント交渉が楽しくなったらしく、露天商の前で立ち止まっては、価格の話しをした。

 少し歩くたびに買い物をしたプラスティックバッグが増えていき、それが新しい交渉の際、彼女の実績となり説得力を増す。しまいには何かを買うよりも、交渉が目的になっていないかと疑いたくなるほど、彼女はそれを楽しんだ。

 午後はフェリーに乗って、対岸の香港島へ行くことにした。つまり、部屋から見える摩天楼の足元に足を延ばそうということだ。船舶交通量が世界一で知られているビクトリア湾を、小さなフェリーボートで横切ることになる。

 フェリーは、強い潮風に逆らって快調に進んだ。快晴の陽射しに涼しい風が心地よかった。対岸を見つめるリンの髪が、風にぱたぱたとなびく。

 彼女はフィリピンで買ったサングラスをしていた。僕は自分のサングラスを、ホテルの部屋に置き忘れた。空の陽射しと海に反射するそれのせいで、ブラウンの瞳を持つ僕は目が痛い。

 目の上に手をかざして前方を見つめていると、高層ビル群がじわじわと間近に迫ってくる。

 フェリーが対岸に到着すると、高層ビル群はすぐそこにあった。少し歩くと、二人はすぐ高いビル群に囲まれる。リンはそれらが珍しく、歩いている最中、上を見上げっ放しだ。

 僕が初めて新宿を訪れたときも、ずっと上を見上げて歩いたから、その気持ちはよく理解できた。日本人の自分にとっても圧巻の高層ビル群は、もちろんリンにとって珍しいものだったに違いない。

「首が痛いわ」と、彼女は笑って言った。

 僕は夕食を念頭に、その辺で見かけるレストランをさりげなく確認していたけれど、値段表示のある店は、いずれも高過ぎた。食堂のような外観を持つレストランでさえ、中華料理は一品一皿一万円という具合なのだ。そういった場所なのだろうか。店の中でメニューの詳細を見ればもっと普通かもしれないけれど、もし庶民的な料理がなければ大惨事だ。僕はそのリスクを回避するため、その界隈のレストランには近寄らないことにした。

 一方リンの興味の矛先は、もっぱら洋服屋だった。店先に飾られた服が気になると、さっそうと店内に入り、しばらく出てこない。

 ブランド店が立ち並ぶ香港で、リンの入る店はもっぱら小さなブティックだったから、僕は彼女の気が済むまでそれに付き合った。

 ホテルへの帰りは、フェリーを使わず地下鉄を利用した。セブにいたら、地下鉄など見ることもないのだから、これも社会見学の一貫ということだ。最初彼女は、電車がトンネルばかりを走っていると、それを不思議に思っていたようだ。

「この電車は地面の下を走っているんだよ」

 それを聞いた彼女は、また目を瞬かせる。香港に来てからずっと瞬いてばかりで、目が疲れるのではないかと心配になるくらい、彼女は驚いてばかりだった。

 ホテルに戻ると、彼女は疲れたから、夕食まで少し休みたいと言った。

「街には電車もバスも地下鉄もあって便利だけど、フィリピンにいるときよりたくさん歩いているような気がするのよ。どうしてかしら?」

「それは広い範囲で、歩ける場所に色々なものがあるからだよ。隣やその隣の店に行くのに、タクシーを使う人はいないでしょう? 次から次へと色んなものがあって、こっちは歩かされているんだ」

 彼女はベッドで眠り、僕はコーヒーを淹れて本を読んだ。静かで居心地のよい部屋は、僕に安らぎを与えた。窓の外に、午後に散歩したばかりのビル街が、湾を挟んで遠くに見えている。さっきまでその真下にいたかと思うと、それがなんだか不思議に思えてくる。


 翌日は、少し観光らしいことをした。有名な二階建てバスに乗り、香港島南端にある赤柱(スタンレー)まで足を延ばした。

 彼女はそのバスを、ジャッキーの映画で見たことがあると言った。ジャッキーが走るバスの二階席で格闘し、道の両脇にある看板をすれすれによけたり、悪党がそれに激突したりするあれだ。

 欧米人が多く住む高級住宅地の赤柱は、サングラスをかけたアメリカ人が高級オープンカーを乗り回す光景に、頻繁に出くわす。その界隈では、香港特有の背の高い建物は見当たらない。

 海沿いにあるスタンレーマーケットでは、衣料品、雑貨、食品などの店が集まり、赤柱尾大街のレストラン通りには、お洒落で小ぶりなレストランやバーが軒を連ねている。とても長閑な町並みで、如何にも静かに暮らすことができるという場所だ。

 ヨーロッパの田舎を思わせるこのエリアは、セブや香港の中心部とは全く違う情緒がある。高層の建物がないため見晴らしが利き、田舎といっても所々に高級感の漂う家や店や車がある。欧米人は住居エリアとして、こういった場所を好む傾向があるのだ。

 リンは、「わたしも住むなら、こんな静かな場所が好きよ」と言った。

「僕だって好きだけれど、仮に住みたいと思っても、この場所は高すぎて簡単に住めないんだよ。会社にお金を出してもらえる駐在員でさえ、ここは無理だと話すくらいだから」

 そしてこの街には、大きな問題が一つある。軒を連ねたお洒落なレストランは、本当に綺麗で雰囲気があって、値段はその分高いけれど、肝心の料理の味が日本人に合わないのだ。

 イギリスの影響を大きく受ける香港は、欧米人の多く住むこのエリアで、レストランの料理がイギリス風の味付けとなっている。つまり、見た目はこってりとしているくせに、口に入れるとさっぱり味のない料理が多いのだ。何を食べても薄味過ぎて、それでいて材料の持ち味を活かす凝った料理でもないため、日本人の自分は閉口してしまう。

 アングロサクソン民族の、お腹が満たされれば良しとする合理的な考えが反映されているのか、それとも舌の感覚が根本的に違うのか分からないけれど、とにかくそこの料理は一様にそんな感じだ。

 僕はそれを知っていたけれど、リンにそこの雰囲気を感じてもらうため、昼食を海沿いのレストランで取った。

 案の定リンは「あまり味がないわね」と不思議そうな顔を作り、僕は「欧米の料理は、大体こんなものだよ」と教えた。

 その後沿岸沿いを散歩し、フィリピンのリゾートエリアにあるような海の見えるカフェで休憩し、お土産屋を覗いて香港の中心街に戻った。

 その日は、どうしても彼女を連れて行きたい場所があった。それは香港で最も有名な、ビクトリアピークという山の上だった。

 ビクトリアピークには、標高三七三メートルまでの急勾配を登る登山電車、ピークトラムを利用して行く。夕方六時ころピークトラムの駅に到着すると、乗車待ちの人たちが長蛇の列を作っていた。僕はこの列に一瞬ひるんだけれど、せっかく香港に来たならば、この機会を逃すのはもったいない。

「ねえ、この列に並ぶの?」リンも長い列に及び腰だ。

「まあ、せっかく来たんだから並ぼうよ。上まで行ったら、素晴らしい夜景があるから」

 彼女は文句を言わないものの、僕の誘いに渋々従うという感じだった。僕はそれで、パングラオリゾートへ歩いて向かったときのことを思い出す。リンの反対を押し切ってまた何かあったら、それこそ彼女に顔向けできない。

 それでも連日多くの観光客をさばいているだけあり、一時間も待つと、僕たちは登山電車に乗っていた。

 終点に到着する頃には既に日が落ち、電車の中から香港夜景が見え始めていた。

 その夜景は、宿泊ホテルから見ているものを、逆方向の上から見下ろすものとなる。山の淵まで行くと、百万ドルの夜景が足元にずらりと大きく広がっているのだ。さすがのリンも、大迫力の夜景に、それまでの疲労が吹き飛んだようだった。

 そして二人で、ゆっくり夜景を眺めた。僕はそれを見ながら、彼女に言った。

「無理に連れてきて言うのも何だけれど、正直言うと、僕は世界的に有名なこの夜景より、セブのヒルトップで見た夜景のほうが好きなんだ」

 彼女が驚いた顔をこちらに向けた。

「あら、わたしも同じことを思っていたのよ。でもどうしてかしら?」

「その理由を自分なりに考えるとね、こうして見る夜景が近過ぎて、しかもそれが凄い光の量だから、人工的な感じがしてしまうんだ。つまり作った夜景という感じがするからじゃないかと思う」

「なるほどね。そうかもしれない。迫力があって綺麗だけれど、自然な感じはしないわよね」

「そう、ヒルトップの夜景は、おそらく生活の結果がもたらす灯りの集合なんだよ。だからそこから、何かを感じ取れる。眺めて色々な想像ができる。でもここの光には生活感がない。観光用の夜景だから、仕方ないかもしれないけど」

「世界的に有名な香港夜景に、セブのヒルトップが勝ったということ?」

「たぶん勝った。あなたが自慢しただけのことはあるよ」

 僕の返事に彼女は気をよくして、嬉しそうに笑う。

「それじゃあ、もうホテルに戻ってゆっくりしない? お腹も空いていないし」

 実は僕は、目の前にある展望台の形をしたレストランを予約していたけれど、リンの意見に賛同しディナーをキャンセルした。色々なものを食べ歩いたせいで、それほどお腹も空いていなかった。それに、帰りの電車が混雑する前に下山したほうが良さそうだ。

 夜中にお腹が空けば、ルームサービスを取ればいいのだ。宿泊ホテルはパングラオのローカルホテルではなく、香港の一流ホテルなのだから。

 僕はその夜、風邪気味で微熱が出始めた。セブで夜のプール遊びに寒気を感じていたから、そのせいで風邪をひいたようだ。

 香港最後の夜は、部屋でゆっくり夜景を見ながら、コーヒーを飲み、ブラインドを上げて二人でバスに浸かり、深夜にルームサービスで軽食と風邪薬をホテルにお願いした。翌日はゆっくり起床するつもりで、時間を気にせずのんびり夜更かしした。

 部屋にはリンのお気に入りとなった、モンクのピアノが流れていた。

 こうしてリンとゆったりした時間を共有することは、僕にとって幸せなことだった。仕事のプレッシャーから解放され、渋滞や残業のあるあくせくした生活を離れ、目の前のリンと会話をする時間は、自分の生きる糧となっている。

 しかし二人は、遠く離れて暮らしている。国籍も違う。こうした時間を持てるのは、極めて限定的だ。そして二人一緒の初海外旅行が、幕を閉じようとしている。現実が、僕を飲み込もうとしている。

 幸せを感じる一方で、僕はそのことに、たまらないほどの寂しさを感じてしまうのだった。

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