第16話 銀行と送金
いくらセブでのバカンスを夢だと言っても、リンとの新しい関係は現実であって、実際に考えたりやらなければならないことがある。
最初の仕事は、送金だった。
国際送金などしたことのない自分にとって、その壁は意外に高かった。何処でどうやってお金を送ることができるのか、それすら僕は知らなかったからだ。当面のお金は渡してきたからいいけれど、送金手段を確立しないことには落ち着かない。
先ずは銀行に駆け込んで、送金が可能かどうかを確認した。
平日しかオープンしていない銀行に行くこと自体が、厄介だった。休暇、あるいは私用外出許可を取って行くしかないからだ。
営業職であれば、外回りのついでに時間を割くことが可能でも、基本は会社にこもって黙々と仕事をこなさなければならない技術職の自分は、銀行へ行く時間を作るのが面倒だ。
ようやく時間を作って行ったある都市銀行では、送金は可能と言われながらも、手続きがスムースに進行しなかった。
初めての送金か、その銀行に口座を持っているか、どの国への送金か、送金金額はいくらかを最初に確認され、それでようやく申し込み用紙を貰える。
受け付けの三十歳を少し越えていそうな女性は、何も知らない僕の質問に常に勿体を付けるように答え、会社の上司が部下に対する態度を臭わせる上から目線の対応だった。
私たちは、どうしても送金したいあなたの希望を叶えるために、こんな業務は面倒でも手伝ってあげているのよ、と言う態度だ。
僕はそれで銀行が嫌いになるのだけれど、送金ができなければ、引越しまでさせたリンが干上がってしまう。そのことへの恐怖は、僕を銀行へ従順にさせ、それがますます、窓口の彼女をつけ上がらせる。
例えば僕は、受け取り人との関係という欄に友人ときちんと読める字で書いたのに、彼女は、お相手とのご関係は、具体的には何ですかと訊いた。
友人という言葉以上に具体的に説明しろとは、一体どういうことか。
『知り合って三ヶ月程度で、身体の関係まである、僕より十四歳も歳下の女性です』、と答えれば気が済むのだろうか。『その若さと美貌に骨抜きにされた自分は、毎月せっせと貢ぐ羽目となった、間抜けなおやじなんです』まで説明を含めるのが、まさかの模範解答か。
答えに窮する自分を、彼女は冷静沈着に見つめるだけで、助け舟など出す気配はない。その視線には温かみの欠片もなく、困る僕を手のひらの上で弄び、日頃の欲求不満を解消しているようにさえ思われた。
「恋人なんですが、もっと詳しく説明する必要があるのでしょうか?」
「分かりました。それで結構です」
「書類はそう書き直しますか?」
「それも結構です」
だったらあなたの質問は何だったのかと、僕は憤りを感じる。
「スイフトコードも記入して下さい」
「え? 何ですか?」
「スイフトコードです」
初めて聞く言葉だった。
「それは何ですか?」
彼女は僕の記載した書類を目で追っている。他にもつつける箇所がないか、あら探しをするように。
おいおい、こっちは質問をしているんだ、きちんと会話をしてくれ、などという言葉はもちろん飲み込んで、僕はもう一度丁寧に訊き直した。
「済みません、スイフトコードとは何でしょうか?」
彼女は顔を上げて、僕の質問にすぐに答えず、また数秒僕を見た。
あなた、そんなことも知らないで国際送金するなんて十年早いわよ、と言う言葉が聞こえてきそうだ。
「銀行の識別コードです」と彼女が言った。
「それはどうすれば分かるんですか?」
「お受け取り様にご確認下さい」
「こちらで銀行名から確認出来ないのでしょうか」
「これはお客様にご指定頂くことになっております」
申し訳ないとも御手数ですともなく、それだけを言うと彼女は手元の書類に視線を下ろし、再び自分の仕事を始める。
どうすれば、それほど事務的になれるのだ。慇懃無礼な態度に、僕は腹が立ってくる。
僕がこの銀行に百億くらいの預金を持っていたら、すぐに支店長を呼んで、その高飛車な受け付けの前で、口座を全て解約すると言ってやりたい。可能な限り慇懃無礼に。
支店長は青ざめて、お客様、申し訳ありませんと僕をなだめ、女性行員に、迅速に送金を処理するようきつく指示を出すのだ。
そこで僕は言う。もうそれも結構です。客に不愉快な思いをさせるこんな銀行とは、お付き合いをする気が失せました。百億は私にとって、かけがえのない大金です。信用できる銀行に預かって頂きたい。おたくにとってはその程度、雀の涙じゃありませんか。こちらには、おたくを困らせるつもりはないんです。解約さえしたら、これ以上何も言わず、黙ってここを去りますから。
そして支店長は困り果て、窓口の女性行員は青ざめて、支店長の後ろに立ち尽くす。
すっきりするだろう、そんなふうにできたら。でも悲しいかな、僕はその銀行に、一円だって預金はないのだ。
仕方なくその場でリンに電話をし、スイフトコードを調べてくれとお願いした。そして十分後、僕はそのコードを書類に記載することができた。
既に窓口には別の人が立っていて、また待たなければならない。さっきから窓口と書類記入デスクを行ったり来たりで、時間ばかりが過ぎてゆく。私用外出で認められている、二時間の終わりが迫っている。焦燥感、虚脱感、憤慨、不信感。そんなものが順番に巡った。それでも、もういい、他の銀行にお願いする、という言葉を飲み込むストレス。自分の力ではどうにもならない
銀行は強く、庶民は辛い。
人情、優しさという言葉をどこかに置き忘れ、国から認可を受けた権限を行使できる彼らは強いのだ。
銀行に対し監督権限を持つ金融庁や、借金を必要としない余裕のある人には、深々と腰を折りへつらい、そこでエリート意識を逆なでされたストレスを、貸して下さいと必死にお願いする人へ向けて吐き出す。金の力に頼った仕事の仕方ばかりになって、企業の将来性分析や指導能力や企画能力は減退し、能力がないからリスクを測れず、ベンチャーの育成にも消極的になる。能力がないからパワーゲームで大きな損失やリスクを生じさせ、内部で責任のなすり合いに必死になる。それなのに銀行は、エリート集団だから庶民を見下す。銀行の存在意義は、何処へ行ってしまったのだろうか。
本当のインテリジェントは、自分にエリートとしての能力や機能が備わっているかを知っているものなのだ。エリートとしての資質がないことに気付かない彼らは、いつまでもエリートとして庶民の上に君臨する。せめて窓口のサービス業務くらいは、優しさを持って行ってもらいたいものだ。馬鹿高い手数料だって、きちんと徴収するのだから。
リン、僕がフィリピンに行けばお金持ちと誤解され、色々な人が寄ってくるけれど、日本では単なる庶民で、送金一つまともに進まないんだ。物事にはきりがないくらい、上には上があり、下には下があるんだよ。
どんな人でも、神のもとでは同じラインに並んでいるの。あなたもそこで祈りを捧げて、心を休めたらいいのよ。
そんな彼女の声が聞こえてきそうだ。
送金が全て終了したとき、私用外出で許可された二時間は、とうに超過していた。フィリピンでの受け取りは、運が良ければ翌日、通常は翌々日になるそうだ。
僕は用事が長引いて、予定通り戻れないと会社に連絡し、その後コーヒーショップでリンに送金が完了したことを報告した。送金が無事に行われたことを確認できれば、今後は少なくとも、その方法でお金を送ることができる。
僕はそのとき、自分の送金が、リンのライフラインになるのだと錯覚していた。実際には困ったことがあっても、大体はどうにかなる。それはリン自身が、以前自ら話したことだったのに、僕はそんなことをすっかり忘れ、自分の送金可否が彼女の生死に関わる重要なことのように思い込んだ。だから僕は、送金手段を確立させることに躍起になったのだ。
実際には、大体何でもどうにかなる。それが分かっていてさえ僕は、その後も彼女のために、色々必死になる。後で思えば銀行の一件など、嵐の前の静けさに過ぎなかった。
僕はその日、コーヒーの匂いに包まれて、ゆっくり読書にふけった。それは神がくれた、嵐の航海に先立つ、休息のひと時だったのかもしれない。
僕がセブにいた頃のように、電話を通したリンとの会話は、不思議なくらい話題が絶えなかった。
格安国際電話サービスは、コンビニで二千円を支払うと、日本とフィリピン間なら四十分の通話ができる。
いつも会話はゆっくり気味に始まり、中盤から終盤にかけて盛り上がった。盛り上がり過ぎてしまうと、コンビニに走り、追加の二千円を投入することになる。毎日一緒にいたって、これ程密度濃く話すことはないだろうというくらい、通話の最中切れ目なく話し続けるのだ。決して安くない電話代を勿体ないと感じるほど、僕の口は滑らかになった。
僕はこうした彼女とのコミュニケーションを、夢を見続ける方法として宣言した通り、ほぼ毎日実行した。これが毎日の恒例となれば、僕から電話できないときは、何かあったのではないかとリンが心配し、彼女のほうから電話をかけてきた。その場合、電話を取ってしまえば彼女に料金が発生するため、呼び出しが切れてから僕が彼女にかけ直す。
この通話コストは、月で合計すれば、リンのアパート代を優に超す金額となり、完全なる想定外費用となった。
それ以外、僕は彼女のアパート代と生活費を送金するのだから、そこそこ性能の良いノートパソコンを買えるくらいの出費を、毎月抱えたことになる。
よく、金の切れ目が縁の切れ目と言うけれど、僕はリンと縁が切れることを恐れて、そんな出費を覚悟した訳ではない。もし二人の関係がサポートの有無やその金額の大小に依存するなら、僕はサポートなどしなかっただろう。この関係は、そんな浅はかなものではないと感じて信じたからこそ、僕は彼女のサポートを決めたのだ。
それにしても、国際恋愛と言う言葉にはドラマティックな響きがあるけれど、そこには実際に、様々なハードルが存在する。
国際恋愛に至る過程がドラマティックと言うことは否定しないけれど、その後に訪れる様々な困難こそが、実はよほどドラマティックなのだ。相手が欧米人であれば、それをロマンティックと置き換えることも可能かもしれないけれど、相手がフィリピン人となれば、それはどうあがいても、ドラマティック以外の何者でもなくなる。
先ずはビザの問題がある。日本はフィリピン人の入国を厳しく管理しているため、ビサの発給に数多くの書類が必要となり、その審査にも時間がかかる。そして時間と手間暇をかけたあげく、無事に審査が通るか分からない。少なくとも僕は、それにまるで自信を持てなかった。
ネックとなるのは、自分と彼女の関係だった。恋人という公式書類で証明できない関係性は、極めてグレーなのだ。知り合った経緯の説明、それを証明する二人の手紙や、仲睦まじく写る時系列的写真などが必要となる。
僕はそんな公式書類で、二人の出会いについてゴーゴーバーのことを正直に語るのは嫌だったし、写真の嫌いな僕は、二人で撮ったスナップもない。ほとんど電話を通した会話は、もちろん記録もない。彼女に自分の生まれ育った場所や生活の様子を見せたくても、それがビザの問題で容易くないのだ。(現在は観光ビザが随分取りやすくなっている)
二つ目の問題は、フィリピンにおける家族、言い換えれば親族一同が、運命共同体となっていることだ。運命共同体と言えば、親族全員が、組織のために各自役割と責任を負うように思うかもしれないけれど、実際には少々趣きが異なる。実際は、責任を負える人が、責任を負う仕組みになっているのだ。
リンのケースで具体的に言うと、以前は姉の内縁の夫が、家族全体を養っていた。内縁の夫はポリスマンだったけれど、貧国の公務員というものは、サラリーがとても安い。しかも、その少ない給与を自治体が払えず、二~三ヶ月遅延するケースもある。親方が国であろうが自治体であろうが、給与は小さい上にギャランティーされていないというのが、貧国の公務員というものなのだ。
それにも関わらず、月々給与を得ていると言う理由で、彼が一家の面倒を見ていた。しかし、リンが僕から月々お金を得るようになると、姉の内縁の夫は瞬く間に警察を辞め、リンの下にぶら下がった。つまり、リンが一族の牽引役として、一族の頂点に立ったのだ。その変わり身の早さは日本人には決して理解できない程で、あっという間の選手交代劇だった。
つまり、彼らの運命共同体とは、誰かに一家を養う能力が身につけばそれに寄り添い、見込み違いで寄り添われた人が倒れたらみんなで倒れるものであって、大勢でリスクを分散させようという高尚な考えはそこに含まれない。だから、運命共同体はいつまで経っても向上しないし、危険に晒されている。
僕にとっての問題は、運命共同体の中で問題が起こると、それが直ちにリンを通して自分に降り掛かってくることだった。最初は、大変だねなどと余裕をかまし、傷口に絆創膏を貼るような真似をしていたけれど、彼らの問題が僕のところへ来れば簡単に解決されることが知れると、この運命共同体は途端に逞しくなり、次から次へと問題を作って僕に投げ掛けてくるようになった。しかもその問題は、何かが欲しい場合、何かが必要と言う言葉に変換されてお願いされた。必要なものを入手できないことは、確かに問題と言えるからだ。
例えばこんなふうにだ。
働かない子供たちの父親、つまりリンの兄が、ようやく働く気になる。元々手先が器用で、かつて家具職人のようなことをしていた。だから家具職人を本格的に再始動させたいけれど工具がない。その工具が必要だ、というストーリーだ。
僕はそのとき、それはいいことだと、各種電動工具一式の代金を送り、兄は晴れて家具職人としての門出を迎えた。しばらくはぼちぼち仕事になっているような話しを聞くのだけれど、いつの間に家具職人の『か』の字も聞こえなくなり、最後に工具は質屋に入ってしまった。
もちろんリンに、僕を騙すつもりはないのだ。だからそんな結末に、彼女は僕と一緒に憤慨し、同時にごめんなさいと謝った。僕はそんなことが起こる度、彼女に言った。
「僕は、あなたやあなたの家族に将来役立つものなら、可能な限りお金を出してあげたいよ。でも、お金が無駄に使われて後に何も残らないのはとても心が痛い。だって僕は、お金持ちじゃないんだよ。余ったお金を送っているわけじゃなくて、とても大切なお金を送ってるんだから」
そんなことを言われたら、彼女は悲しいはずだし、自責の念にも囚われるだろう。だから僕は、文句をいう代わりに、お願い事はできる限り対応するように努めた。相談事のほとんどはお金の絡む問題で、僕は彼女の願いを叶えるために、度々追加送金を余儀なくされた。
他にも些細な問題があった。リンの兄や弟が、僕が彼女に買い与えた金目の物を質屋に入れて、ギャンブル代や酒代に変えてしまうことだった。僕が買った鮮やかなブルーの自転車は、そう言った手続きを経て消えた。リンがたんす預金している現金を、手っ取り早くかすめ取ってしまうケースもあった。それらのお金も、もちろん子供の食べ物に充てられた訳ではない。
食費の心配が要らなくなった彼らの欲求は、マズローの欲求説通り、次の段階に移行したらしい。噴飯ものの事件ではあっても、そういったことをさせる彼らの心理状況を、冷静に理解する自分がどこかにいた。
お金は、全ての問題を解決できる万能薬だった。日本で暮らしていると、表面に浮上する問題はお金で解決できないことだったりするから、フィリピンの問題は、その意味で原始的と言えるかもしれない。
そもそも運命共同体という言葉は、ヤクザな意味を持つ場合が多い。
『俺とお前は、もはや運命共同体なんだ。逃げようなんて思うんじゃねえぞ。もし逃げたら、どうなるか分かってんだろうな。良くそれを肝に銘じておくことだ』
僕はその運命共同体の中に、いつの間にか加入していた。入会金、年会費は無料。細かな規約はなし。ミッションは適宜発生する問題に善処することのみ。
もちろん自分の場合、そこから逃げ出すことは、物理的に簡単なことだった。他者から脅迫的な縛りを受けている訳ではない。けれど、自分自身の中に、精神的縛りが存在した。彼女が困っているなら助けてあげたい。それで男を上げたい。彼女を失望させたくない。
つまり僕は、彼女にとって、頼りがいのある人でい続けたかったのだ。面倒なことに首を突っ込んでしまったと思う反面、そんな下心を抱えていたことは否めない。
そして、彼女の心のこもったありがとうと言う言葉や喜ぶ声を聞けば、僕はとても嬉しくなってしまう。僕はそれで全てを忘れミッション完了、次のミッションを待つことになる。
男はいくつになっても子供のようだと言うけれど、自分自身の行動や気分の変遷を客観的に振り返ると、どうして自分はこうも単純なのだろうと不思議に思うのだ。おそらく大方の男は、みんな同じようなものかもしれないけれど。
季節は梅雨を経て、夏を迎えていた。
僕と奈緒美は、二人で新宿のコーヒーショップにいた。
新宿界隈には、僕のお気に入りのコーヒーショップがいくつかある。どれも深煎りの豆を使った濃い目のコーヒーを出す店で、値段は場所柄のせいか何れも安くない。
コーヒーの味はどのお気に入りの店も大体同じだけれど、店内の様子がそれぞれ異なる。
自分一人であれば、店内が昼でも真っ暗で、いつでもジャズが大音量でかかっている店に行くことが多い。本当に真っ暗だから、本を読むのは不可能だし、音楽を聴くしかすることのない喫茶店だ。
でもその日奈緒美に会う目的は、彼女に約束した通り、セブでの出来事を報告するためだから、その日僕が指定した店は少し広めで客もそれ程多くない、地下にあるコーヒー店だった。各テーブルの間隔がしっかり確保されていて、話し込むには最適な店だった。
そこで僕は、奈緒美にセブでの出来事を、赤裸々に語った。事実に対して何も引かず、何も足さずという具合に。
彼女は、とうとうてっちゃんにも恋人ができたのね、と言った。そして少し寂しい気がするなと言いながら、お祝いとしてハイクラスなディナーをご馳走すると言ってくれた。
彼女は意外にも、あれから二度ほどヤクさんとデートをしたらしい。そのときの話題で僕が何度もてっちゃんとして登場するため、彼女の中で僕は、てっちゃんとして定着したようだ。
彼女は、「ヤクさんの癒しは中々のものよ」と言った。
「時々天然ボケで笑わせてくれるし、真面目な話しは奥が深いの。それに態度や会話がいつでも自然でしょう? あの人は周りのことなんて気にならないのよ。いつでも自分だけを見ているの。周囲のことばかり気になる人って、見ていて痛々しくて疲れちゃうのよ」
彼女の周りには、そんな疲れる男がとても多いらしい。
「有名大学を出て一流企業へ入社したというのに、まるで自分に自信を持てない人ばかりなのよ」
会社では上司の目を気にしてばかりなのに、プライベートになるといつでも自信に満ちた虚勢を張る。彼女に言わせると、それは自信がないことの裏返しだそうだ。だからそういう人は底が見え易いし、見えてしまえば幻滅する。
「自信なんかなくても、自分の進むべき道をしっかり歩いている人や、夢を語ってくれる人のほうがよほど信用できるの。そもそも新しいことをするのに、誰だって完璧な自信なんて持てるはずないじゃない」
これは彼女が、ときどき話すことだ。僕はその度に、自分はどうなのだろうと自身を振り返る。
ヤクさんは奈緒美に、人間の思考の仕組みについて教えてくれたそうだ。
「ねえ、知ってる? 人が何かを思ったり考えたりすると、脳内に電気が流れて電波が出るらしいの」
僕は知っていると答えた。
「僕は脳の働きの詳細は知らないけれど、その電波を捉えることはできるよ。ものすごくノイズの小さなアンプを使うとそれが見えるんだ。それで取り出した信号を、例えばフーリエ変換なんかで解析すると、人の考えることと電気信号の相関が分かってくるんだ。それが統計的に確立すれば、人の考えることをディスプレイに表示したり、車の運転や手を使わないゲームなんかに応用できる」
彼女はより深い皺を眉間に寄せた。
「あなた、どうしてそんなことに詳しいの?」
「ある機関と共同研究をして、そういった機械を作ったことがあるから」
彼女は目を大きく開いて驚いた。これまでお互い、仕事の話しはしたことがない。
「そうなの? それは簡単なの?」
奈緒美の無邪気な驚きぶりと質問に、ふと彼女とリンが重なる。
「簡単じゃないよ。特に脳の電気を拾う部分で、ジェルを使わずドライ式でやろうと思えば、センサーと信号処理に多くのテクニックが必要となる。あとは筋肉が動いたときに出る、筋電と言う信号と脳波の切り分けに技がいる。まあ、心電図検査器の進化版みたいなもんだけど」
奈緒美は、なるほどねえ、あなたはやっぱりエンジニアなんだ、と感心してくれた。
僕は、ヤクさんの研究分野が、自分のそういった仕事と恐らく根本的に違うということを説明した。
ヤクさんのそれは、脳内信号が作られる過程がどうなっているかを知るもので、自分のはその結果、脳からどんな信号が出てくるかを捉えるに過ぎないものだということを。
僕はついでに、昔ヤクさんと、時空の神秘について随分議論したことを奈緒美に教えた。つまり、宇宙のことやブラックホールのこと、時間とは何で、タイムマシンは制作可能なのか等々だ。僕が相対性理論に興味を持つのは、ヤクさんの影響が大きいのかもしれない。
学生時代は不思議なことだらけで、何でも調査と議論を繰り返したものだけれど、世の中のテクノロジーがとても進歩したにも関わらず、他にも実感的に不思議なことは、身近にたくさんある。
例えば、地球が太陽の周りを動く速度が秒速三十キロと知れば、自分たちが常にそれ程の速度で移動していることを信じられない気持ちになる。時速に直せば、十万八千キロという超高速だ。それでも僕たちは地球から振り落とされないし、月や人口衛星はそんな地球にピタリと寄り添いながら、周期的に地球の周りを回っている。
相対速度がゼロで、それぞれに同じ慣性が働いているのだから当たり前だと思っても、一旦視点を変えて考え出すとよく分からなくなるから、僕は全てをきちんと理解できていないのだ。
奈緒美は、それらの話しに深い関心を示し、今度また三人で食事をしながら、続きを聞かせてと言った。
その頃僕は、自分の夏休み期間、フィリピンから出たことのないリンに、他国を見せてあげたいと思い始めていた。
本当は、リンを日本へ呼ぶことができれば一番いい。飛行機代は彼女の分だけで済み、僕は夏休み期間を、観光にフルに使える。しかしそれは、ビザの問題があり簡単には叶わない。それならば、フィリピン人にアライバルビザを普通にくれる、アジアの近代都市のいずれかに旅行できないかを考え始めた。例えばシンガポール、クアラルンプール、バンコック、タイペイ、香港。いずれも大都市で、電車や地下鉄の整った国際都市だ。
ただし残念ながら、僕は香港以外は行ったことがない。アジアはフィリピンが初めてで、その後中国、香港に行ったのみだ。二人で右も左も分からない場所へ行くのも冒険じみて楽しそうだけれど、安全を考えれば、少しでも慣れたところがよいはずだった。
リンは海外旅行の提案に、既に興奮気味だった。
「パスポートは持ってる?」
「持ってる訳ないじゃない」
「そうだよね。知ってると思うけど、パスポートがないと海外旅行はできないよ」
リンは電話口で大笑いし、そのくらいは知ってるわよと言った。
「フィリピンは、パスポートを申請してから、何日くらいで取れるのかなあ」
「さあ、分からない」
彼女はその辺りの情報を、一切持っていないようだった。先ずは彼女に、パスポート申請をするようお願いした。
行き先についても彼女に希望はないようで、全て僕に任せると言った。それで僕は香港をお奨めし、行き先はそれで決まる。
「香港の空港で落ち合うことになると思うから、待ち合わせ場所を決めないとね」
「え? わたし、海外旅行なんて全然自信がないわよ。香港で問題なく会えるの?」
「そうだよねえ。現地の待ち合わせは、少し無理があるかなあ」
彼女の携帯がローミングで繋がらなければ、僕たちは窮地に追い込まれる。そのリスクは避けるべきではないだろうか。もし空港で会えなくても、ホテルで落ち合うことは可能だ。それでも初めての海外旅行で、彼女がどれほど機転をきかせることができるか分からなかった。ホテルは九龍(カオルーン)エリアになるだろうから、空港からは電車とタクシーを使って行くことになる。
結局僕は、そのリスクを回避するため、最初に自分がセブへ行き、彼女と一緒に香港へ入ることにした。最後は香港でリンと別れ、お互い日本とフィリピンに帰る。これであれば、海外旅行に慣れない彼女にも負担はかからない。
その後彼女は、パスポートを一週間程であっさり入手した。海外への出稼ぎ者が人口の十パーセントにも上るフィリピンで、パスポート発行は迅速に行われるようだった。
彼女のそれは上手く事が運んだけれど、その代わり自分のチケット入手が難航した。日本と香港の往復ディスカウントチケットは既に売り切れで、僕は先ず、この区間で料金の高い、ノーマルチケットを購入することになった。しかし、その航空会社の香港発フィリピン行きが、既に売り切れとなっていた。別のフィリピン航空会社の香港発セブ行きは空いているけれど、厄介なことにそのチケットは、日本で購入できない。当時そのフィリピン航空会社が、日本に乗り入れていなかったせいと思われるけれど、航空会社からの直接購入は、日本での購入という理由で蹴られてしまうのだ。
だからこそ盆休みでも、空いていたのだろう。仕方なく僕は、そのチケットを香港で当日購入することにした。万が一香港でチケットを購入できなければ、僕は香港泊を余儀なくされる。
僕はリンに、そのことを含めた予定を説明した。うまくセブにたどり着けば、最初の四日をセブで過ごし、香港で四日を過ごした後に現地解散する。リンのフィリピンと香港の往復チケットは、僕がセブで購入することにした。
セブのホテルはこれまでと同じところを予約し、香港は少し豪勢なホテルを予約した。ゴールデンマイル先端、ビクトリア湾の岸辺にあるホテルで、部屋はビクトリア湾側の特別フロアとした。香港で、百万ドルの夜景に一番近いと言ってもよい部屋だ。
準備が着々と整っていく。エアチケットや香港のホテル代を事前に支払ったため、お金も順調に飛んでいった。
二人で旅行の話しに盛り上がる中、ふとリンが言った。
「ねえ、わたし、旅行に持っていくバッグも着ていく服も、それに履いていく靴だってないわよ。考えてみれば、何もないのよ」
言われてみると、確かにその通りかもしれない。
「服や靴は普段のものでいいよ。サンダルを履いて行っても構わないんだから。鞄は僕がそっちに行ったときに買えばいいよ。必要だったら服や靴も買うから心配しなくていい」
僕はそんなことを言いながら、この旅行は随分な出費になるなと考えていた。毎月の送金も安くはない。フィリピン人の恋人を持つということがこれほど大変だとは、事前にまるで想像できなかったことだ。
もちろん、様々な出費を決めているのは自分自身で、僕はそのことに後悔もないし、リンを恨めしく思ってもいない。彼女の楽しそうな、あるいは嬉しそうな声を聞くだけで、自分の中に充実感がみなぎるのだから、僕は彼女から生きる喜びをもらっているのだ。そんなふうに考えれば、随分な出費も安いとさえ思える。
僕は、夏休みが待ち遠しくて仕方なかった。ゴールデンウィークのときと同じように、夏休みを前にして仕事に精を出した。残業をこなし、休日も仕事を進める。自分の責任分は、きちんと完了させるつもりでいた。
その上で、もし夏休み期間、突然会社の出勤要請があっても、僕はセブ行きを譲るつもりは全くなかった。上司と喧嘩をしてでも、リンとの約束を果たそうと決めていたのだ。
その辺りの意志は以前と比べ、硬く迷いがなかった。ケツをまくるということではなく、もっと前向きな意味で、何かが自分の中で吹っ切れたようだった。大切なことを選択できるようになった、あるいは大切なことが見つかった、ということかもしれない。以前は自分が流されて生きているような不安があったけれど、既にそういったこともない。全てを自分の意志で決めていることを、しっかり自覚していた。
自分で考えて、判断し、決断し行動する。これが生きるプロセスではないだろうか。間違った判断をしていないか、などということはどうでもいいのかもしれない。間違いは正せばいいのだ。少なくともそうすることで、自分は生きているという実感を持つことができるようになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます