国際恋愛
第15話 ヤクさんと奈緒美
案の定、出社した僕は見事に日焼けしていることで、周囲から何度も同じことを尋ねられた。まるで示し合わせたように、みんなが同じことを言うのだ。
「海外旅行に行ってたの?」
その度に僕は言った。
「春山登山で雪焼けしたんだ。雪を溶かして飲料水にしたらそれに当たって、休みの後半は下痢と熱で散々だった」
何度も話しているうちに、自分が本当に春山登山をして、その後具合が悪くなったような気がしてくる。そう、セブでのバカンスは夢だったのだ。
大体はそこから、「へぇー」とか「そうなんだ」となって話しは終わるけれど、たまに「登山の趣味があるの?」とか「どこの山に登ったの?」と、話しが進展してしまうことがあった。すると僕は、昔取った
今度は奈緒美も、手ぐすね引いて僕の帰国を待っていたのか、その日の昼休みに電話がかかってきた。まったくもって、セブの思い出に浸る暇もない。
それは、夕食を一緒しようという誘いだった。僕は断る理由を見つけられず、彼女に誘導されるように、渋々それを了承した。
もちろん、彼女と顔を合わせるのは気が重い。彼女の魂胆は分かっている。余計な報告をする羽目になるのは間違いない。
平日こんなふうに夕食へ誘われることなど、これまでほとんどなかった。大方何かの話しのついでに成り行きで、飯でも一緒に食うかという流れになるのが普通だったのだ。
僕は、自分が悪いことをしたと思っている訳ではなかった。なのに、何か後ろめたさを感じてしまう。男と女の純粋な友情を課題とするトライアルが、今まさに試練を迎えている、という感じだった。だから僕は、時間が夕刻に近づくと、ますますその日の夕食を憂鬱に感じ始め、時間の経つのが
いつだって時間の長さは、状況次第で伸び縮みするのだ。アインシュタインだって相対性理論の中で、時間は伸び縮みすると言っている。光の速度で移動すれば時間は止まるし、かかる重力が小さくなれば時間の流れは速くなる。時空は絶対的な量を持つのではなく、相対的に変化するという奇抜な発想が、世界を驚かせ、物理学の世界を震撼させた相対性理論なのだ。
憂鬱な環境下では時間の流れが遅くなり、憂鬱なことが待っていれば時間の流れは速くなるとアインシュタインは言わなかったけれど、彼はこの重要なことを、つい言い忘れたのではないだろうか。
そして終業時間になると、まだ体調が万全ではないから早目に上がるという僕の嘘は、誰からも疑われることなく、『お大事に』という声までかけられて僕はオフィスを後にした。待ち合わせの、新宿のレストランに向けて。
電車の中は、おしくらまんじゅう一歩手前という程度に混雑していた。僕は駅の近くに車を駐車し、新宿まで電車で移動していた。
電車の吊り皮を掴んで揺られていると、五人ほど向こう側に、短めのスーツを着て、七三に分けた髪がおでこにピタリと張り付く、激しく日焼けした黒縁眼鏡の男に気付いた。
日焼けというより被爆という感じで、顔の皮が汚らしくむけてまだら模様になっている。身体の線が細く、如何にもオタクという臭いを全身から発散させている彼は、少し目立つ存在だった。
それこそ正真正銘の雪焼けだと直感した僕は、その日さんざんついた自分の嘘の浅はかさを指摘された気分で、その男をしげしげと見てしまう。その内、その人に何処かで会ったことがあるような気がしてきた。
仕事関係の知り合いだろうか。
そうなると彼のことが気になり、度々僕は彼を観察してしまう。そして見るほどに知り合いのような気がして、ますます彼を見てしまうという循環に陥った。
日焼けの彼も僕に気付いて、こちらをちらほらと見る。そのタイミングが偶然重なると目が合い、気まずく目を外らすということが何度か起こった。どうにも嫌な状況だけれど、僕は彼のことを無視できなくなった。
そのうち彼が、人の隙間をこじ開けるように、こちらに蟹歩きでにじり寄ってきた。ときどき手すりを掴み損ねて、大きく身体を揺すられながら。
自分の失礼な視線が、彼の琴線に触れてしまったのだろうかとどぎまぎしながら、僕は窓の外を見て素知らぬ振りをした。そしてとうとう彼は、僕の隣で立ち止まった。そうなると、僕は彼のほうへ顔を向けることができなくなった。
「て、て、てっちゃん」
彼が僕を呼んだような気がしたけれど、空耳だと思った。僕の名前は哲郎でも哲也でもない。だから幼馴染みも会社の同僚も、僕のことをてっちゃんとは呼ばない。
僕は勇気を出して、隣のオタクの顔を見た。彼は間違いなく僕を見て、もう一度「て、てっちゃん、だよね?」と言った。
彼の顔をさらにじっと見る。彼は若干背が低いから、心持ち見下ろすように。そして自分の中に漂う霧がすうっと引いて、突然視界が開けた。
「もしかして、ヤクさん?」
彼はにんまり笑った。
僕は自分の嘘がきっかけとなる再会を信じられず、思わず大声を出してしまった。同時に身体を仰け反らしたから、周りの人が迷惑そうな顔で、こちらを見た。
僕は少し、興奮気味だったかもしれない。
「いやあ、奇遇ですね。お久しぶりです」
彼はにこやかな顔で頷いた。
「髪型がまるで違うんで、さっぱり分からなかったですよ。どうしたんですかそれ。昔はもっと爆発的で、カーリーな感じじゃなかったでしたっけ?」
「ど、ど、どうしたもこうしたも、オリジナルは当の昔になくなって、い、い、今はかぶってるんだよ」
彼は恥ずかし気もなくそう言った。どもりは昔のまんまだ。
心なしか、世間の視線が彼の頭に集まった。僕は慌てて「いっ、いや、それは失礼しました。でも似合ってますよ」と言ったけれど、本人はまるで動じる様子もなく、「に、に、似合ってる訳ないじゃない。か、か、鏡の中の自分に慣れるまで、三ヶ月かかった」と言った。
周囲には、とうとうくすくすと笑い出す人が出始めた。ヤクさんは構わず続けた。
「と、と、友だちがそういう会社で働いていて、一つキャンセルになったからと、た、ただ同然で譲ってくれたんだよ」
僕は話題を変えなければならないと焦りながらも、ついつい訊いてしまった。
「そういうものって、キャンセルなんか有るんですか?」
「じ、じ、実際あるんだ。これは納品寸前で、本人がし、し、死んだらしい。代金は支払い済みだったから、ぼ、僕は調整代を少し払って手に入れた」
そんな不吉な、と思いながら、僕はもう、どう答えていいのか分からなくなった。周囲の人たちも、珍しい話題に耳をそばだてているようだ。
彼と話し込む最中、突然電車が停止した。すぐにアナウンスが入る。先の駅で人身事故が発生し、電車が詰まっているようだ。ご迷惑をお掛けしますと、鼻づまりのような声が言う。
「珍しいですね、こんなところで電車が止まるなんて」
彼はそれにも動じず「よ、よ、よくあるよ」と言った。
「よくあるんですか?」
「うん、め、め、珍しくない」
そう言えばかつてのヤクさんは、災難を呼び寄せる達人だった。彼はその特殊能力を、まだ維持しているのだろうか。そうだとすれば、こうしてぴんぴん生きている彼は、実はものすごく幸運な人かもしれない。
彼は大学時代の山岳部の先輩で、長期休みになると合宿登山で、よく一緒に山に登った。大体は縦走登山で、一旦山に入ると、十日は同じ釜の飯を食うことになる。
飯炊きは新入部員の役割で、僕が飯炊き担当の一年生だった頃、ヤクさんはゆっくり休憩できる身分にも関わらず、いつもそれを手伝ってくれた。最初は親切な先輩だと親しみを感じたけれど、彼は調理の過程で捨てる
合宿登山となれば、彼はいつでも災難を引き寄せた。彼と一緒の登山で、僕は何度か死にそうな目に遭っている。
最初は春山で、雪崩に遭遇した。たまたま少し離れたところにいた僕は難を逃れたけれど、ヤクさんが「やっほー」と叫んだことから雪崩が発生したという噂だった。真相は、偶然タイミングが一致しただけのはずだ。
初めて見た雪崩は、最初大したことのない、雪の川みたいなものだったけれど、それが人のいる場所に近付いて意外に大きいと気付いた瞬間、大勢の人を飲み込んだ。僕は急いで現場に行き、ヤクさんを始め、雪に埋もれた仲間を探して掘り起こした。
これも春山のことで、凍った急勾配をみんなで滑落した。陽の当たる勾配が柔らかい雪に覆われていたため、登山靴の
濃いガスのかかる冬山で、遭難もした。素人は地図とコンパスでどうにかなると誤解するけれど、コンパスは一旦目印を見付けて合わせないと役に立たない。つまり自分がどこにいるのかが分かって、初めて進むべき方角を知ることができる。ガスで周囲が見えなくなってから慌てても、どうにもならないのだ。結局雪に大きなビバーク用の穴を掘り、ガスが晴れるまでそこで一夜を明かした。ウィスキーも凍る世界のことだから、眠るのが本当に怖かった。翌日目覚めたときは、まだ生きていることを心底喜んだ。
夏山で大きな嵐と遭遇したこともある。目覚めるとテントの外に紐で括り付けた荷物が、綺麗さっぱり暴風で飛ばされていた。最後に荷物を括り付けたのがヤクさんだったため、非難の矛先が彼に向いた。飛ばされた荷物は鍋釜や食料品を含み、縦走はそこで断念。嵐はますます勢いを増し、僕たちはたまたま近くにあった、有料の山小屋に避難した。このときロッククライマーを中心に、十名近くが命を落とす大惨事になったことを、僕たちは山小屋のラジオで知った。嵐が去った後も、しばらくヘリコプターの騒音が山の中に響き渡っていた。
こうしたことがあっても、僕たちのパーティーから死者が出なかったのは、不幸中の幸いだったけれど、ヤクさんが参加するといつも何かが起きた。彼はそんな厄災を呼び込む人として、いつしかヤクさんと呼ばれるようになった。
度重なる災難に、最上級生の間で、ヤクさんの山岳部除名が協議されていると言う噂が飛び交ったりしたけれど、結局僕たちは四年間一緒に山に登り、無事死なず一緒に卒表することができた。もちろんヤクさんは、学校に人より一年多く授業料を払うという貢献をして。
その頃の僕は体力が尋常ではないくらい有り余り、いつもへばった人の荷物を背負い、それでも体力を持て余していたことから、山岳部の中で鉄人と言われていた。そこから仲間が僕を、てっちゃんと呼ぶようになった。つまり僕をそう呼ぶのは、当時の山岳部の仲間だけなのだ。
「その顔は、どこかの春山に行ったんですか? 見事なまだらになってますけど」
僕は最初に気になったことを、ようやく訊くことができた。
「いや、これはね、流行りのひ、ひ、日焼けサロンってやつに行って、担当者が機械の設定を間違ったんだ。きゅ、きゅ、急激に日焼けしたからぼろぼろになった」
確かにぼろぼろですねと言いそうになり、その言葉を飲み込む代わりに、「いやいや、とんだ災難で」と僕は言った。
「べ、別にいいよ、いい勉強になったから。今度からはひ、ひ、日焼け止めを塗って入らないと」
それって日焼けサロンに行く意味があるんですかと、僕は思わず言いそうになる。
停まっている電車の中で、簡単にお互いの近況を交換した。
彼はプログラマーをしていると言った。僕もたまにプログラミングの仕事をするけれど、専門家というほどではない。彼の場合、大学を卒業してからその道一筋だそうだ。
彼はかつて留年したし、普通の人と違う面もたくさんあったけれど、頭脳はとても
彼は星座にも詳しいし、ラジオ放送の気圧情報から天気図を書かせれば天下一品で、料理のこだわりも半端ない。
そんな変わった彼だから、プログラマーと言われればなるほどと思わせる。
電車が再び動き出した。僕はふと思い付いて、独身で一人住まいというヤクさんを、その日の食事に誘ってみた。
「今日は友だちと食事の約束をしているんですけど、よかったら一緒しませんか? 相手は気兼ねの要らない人だから、遠慮は不要です」
彼は本当に遠慮をせず、「そ、そ、それは助かる」と言った。
助かるの意味が、食事代を浮かすことができると誤解しているのか、楽しい食事をする機会に恵まれたという意味なのか、僕には判別できなかった。
インドの都市名を冠するインド料理専門店は、ほぼ満席状態だった。仕事帰りのカップルに混ざり、大学の仲間と来ていると思しき人や、自由業っぽい人たちもいて、店内は随分ざわついていた。
店員が三つのカレー小鉢とこんがり焼けたナンのセットを持って、店の奥へと進む僕たちとすれ違う。
ナンを焼く窯のすぐ前のテーブルに、既に奈緒美は座っていた。どういう訳かこの店では、僕も奈緒美も、窯の見えるそのテーブルが好きだった。
ナンを焼く窯は縦穴で、少し歪んだ円筒形をしている。深さは大人の腕をすっぽり入れても、まだ底に届かないくらいだ。
ここに来ると、食事中、ときどき二人で窯の中を覗き込む。次々と注文の入るナンが、窯の側壁にぺたぺたと貼り付けられていく。入れ替わりで出来上がったナンが取り出される。
こんなもので、オーダーをさばき切れるのだろうか。焼き加減はどうやってコントロールされているのか。ナンの生地を窯に入れた順番は、窯番が全て記憶しているのだろうか。それとも焼き上がりは見た目で判断されているのだろうか。そこには熟練が必要なのだろうか。窯を任せられるまで三年や五年の下積み経験が必要なのか。
そんなことを考えながら、窯と窯番の作業を眺めるのだ。
僕たちは、日焼けした顔を二つ並べて、奈緒美の前に唐突にさらした。
窯番の作業を眺めていた奈緒美は僕たちに気付いて、もちろん驚いた。彼女の絶句が、それを意味していた。どうして僕が誰かを連れてくるのか、訳が分からないといったふうだ。ある意味当然だった。
「てっ、てっちゃん、紹介してよ」とヤクさんが肘で僕をつつく。奈緒美が「てっちゃん?」と、怪訝そうに僕を見た。
彼は学生時代の先輩で、十五年ぶりに電車の中でばったり会ったと、僕は言った。
彼女は、そんな偶然は疑わしいと言いたげな顔を作り、ほんの少し僕をにらめつけたけれど、我に返り自己紹介をしてから「二人ともずいぶんこんがり焼けているわね。それはビーチで焼いたの?」と言った。
僕たちの、「プール」「ひ、ひ、日焼けサロン」と答える声が被る。彼女は困惑して、小さく肩をすぼめた。
僕たちはテーブルについて、さっさとビールと料理のオーダーを済ませた。
ヤクさんの様子が少し変だった。奈緒美の質問に日焼けサロンと答えたときも、まるでロボットのように直立不動の姿勢を取っていた。もうオーダーは済んだというのに、彼は引き続き、食い入るようにメニューを見ている。まるで何かの調べものをしているように。
その間奈緒美は、テーブルの下で僕の足を蹴飛ばし、どうして先輩なんか連れてくるのよと、口をとんがらせ眉間に皺を寄せ、顔で文句を言う。僕はヤクさんに悟られないよう、まあまあという具合に手でジェスチャーを送った。それでも彼女は収まらないようで、不満げに頭を左右に振ったあと、化粧室へ行くと言って席を外した。
途端にヤクさんがメニューから顔を上げ、「あの人はだ、だ、だれ?」と訊いた。「あんな綺麗な人がいるなんて、ひ、ひ、一言も言わなかったじゃないか」と、文句ともつかないことも言った。同席する女性が綺麗だと、何か問題があるのだろうか。
「彼女は友だちですよ」と僕が言うと、「あんなき、き、綺麗な人が友だちであるはずな、な、ないじゃないか」と彼は言った。どんな理屈でそうなるのか分からないけれど、僕は「友だちじゃなかったら、何だと言うんですか」と訊いてみた。
彼はとても真面目な顔をして、「てっ、てっちゃんの憧れの人」と言った。彼にとって、友だちと憧れの人は、区分けされるべきカテゴリーのようだ。
「ヤクさん、もしかして、彼女のことが気に入りました?」
彼は意表をつかれたのか、ぐっと顎を引いて押し黙る。数秒の沈黙のあと彼は、「気に入ったも何も、ひい、ひい、一目惚れ状態だよ」と言って、彼の体内でネオンが灯ったように、顔から耳まで赤くなった。真っ赤な肌にまだら模様が浮かび、不気味になった顔がやや引きつっている。
奈緒美が戻ると、ヤクさんは突然また俯いてメニューを見出した。それはとても不自然な行為だった。ぎこちない空気が払拭されない。ヤクさんを連れてきたのは、失敗だったろうか。
でも彼は、昔から正直で真っ直ぐな人だ。その真っ直ぐさが少し偏屈な印象を他人に与えるけれど、実際は素直で素朴な人なのだ。だから奈緒美にも、安心して紹介できると思った。そして登山以外では人畜無害で、ときどき凄い人にもなる。
その凄さが、予告なしに発揮された。彼は自分の気詰まりに耐えられなくなったのか、突然メニューから顔を上げて言った。
「い、いやあ、美人を前にすると、き、き、緊張しちゃって、ど、ど、どうもダメなんですよ。ちょっと失礼」
ヤクさんはカツラを外して、ハンカチで頭を拭き出した。てかてかの頭は一本の毛もなく真っ白で、日焼けした顔との間に見事な国境ラインができている。完璧なスキンヘッドだった。
僕と奈緒美は度肝を抜かれて固まった。彼女は自分の手を口元に当てて、瞬きも忘れてヤクさんを見つめている。僕の仕事仲間にもかぶっている人が数名いたけれど、誰一人、そんな芸当のできる人はいなかった。
「植毛タイプだと、べ、便利なんだけど、い、い、いかんせん高いから」
一々することや言うことが、ピントがずれている気がしないでもない。
ヤクさんの言葉に奈緒美が吹き出した。彼女は、天井を突き抜けるほどの笑い声を出してお腹を抱え込んだ。僕は笑っていいのか判断がつかず、どうにか笑いを我慢した。ヤクさんは、至って真面目なのだから。
「ねえ、ヤクさん、かぶっていないほうが断然似合ってるわよ。そう思わない? てっちゃん」と奈緒美が言った。
てっちゃん? 彼女にそう呼ばれるのは違和感があるけれど、同意を求められた僕は、「うん、うん」と何度か頷く。本当に似合っていると思ったのではなく、僕は頷くしかなかったのだ。
「そ、そ、そう言って貰えると嬉しいけど、この頭は仕事に支障があるみたいなんだ。み、み、見た目が怖くて、客の受けが悪いらしい」
「あら、そう? わたしは可愛らしいと思うけどなあ」
このハプニングが、奈緒美の警戒心を解いたようだ。そしてヤクさんも、可愛らしいという言葉に気を良くしたようで、彼はカツラを鞄にしまい込み、自頭のスキンヘッドで食事をした。
彼はようやくその場の空気に馴染み、次第に饒舌になった。
僕たちは、山岳部時代の話しを奈緒美に聞かせた。かつて登山中に遭遇した数々の災難や、ヤクさんの大好物が料理の灰汁だったことだ。
彼女は僕が山男だったことを意外だと驚いて、ヤクさんに至っては、有り得ないと言った。彼女にとって山男とは、毛むくじゃらで筋肉隆々、少し不潔っぽい人らしい。
「山男はね、毛むくじゃらでも不潔な人でもなくて、噛めば噛むほど味の出る人なんだ」と僕が言って、ヤクさんが激しく同意すると言いたげに、小刻みに頷いた。
「が、が、外見は関係ないんだ。か、か、噛んで初めて分かるんだ」
ヤクさんのそれは、冗談なのか真剣なのか判別不能だったけれど、奈緒美は喜んだ。
「ヤクさんはね、料理がとても上手なんだよ。同じ材料を使っても、ヤクさんが作るとすごく美味しいんだ」
彼女は「へえー」と言ってヤクさんを見る。
「それはしょ、しょ、食材の切り方と炒める順番とか、じ、時間や調味料を入れるタイミングで、し、し、仕上がりが変わるからだよ。例えばざ、ざ、材料は均一に切らないと、火の通り方がばらばらになるから、これは意外に、た、た、大切なことなんだ」とヤクさんが解説する。
奈緒美は感心するようにときどき頷いて、ヤクさんの話しを聞いていた。
「それを聞いただけで、ヤクさんがプロなのは分かるわ。ねえヤクさん、今度わたしに料理を教えてよ。わたし、三十になっても何も作れないの。このままじゃ、お嫁にもいけないのよ」
少し前に恋人のプロポーズを蹴飛ばしたばかりだったから、「いくつもりがあるの?」と僕は言った。
「いい縁があればね。親にも色々言われているし。若いときは変な虫がついたら困るなんて言ってたくせに、今では、悪い虫でもいいからつかないかしらって母が言うのよ。失礼しちゃうわよねえ」
何か、自分のことを言われているような気がした。お母さん、虫ならもうついてますよと、言ってあげたくなる。
ヤクさんは、自分がその虫になると、どもりながら言った。お母さん、別の虫の候補だって、しっかりいるんです。何も心配は要らないんですよ。
でも、こんなに美しい娘を持つ親が、本気でそんなことを言うとは思えない。
僕がそれを言葉にすると、ヤクさんは納得がいったように頷き、奈緒美は「あら、お上手ね」と言ってはにかんだ。
気付けば僕たちのテーブルは、レストランのざわついた空気と一体になっていた。ヤクさんの天然キャラクターが、それに一役も二役もかっている。
周囲の人たちも、みんなが楽しそうに、話しに興じて笑っている。
僕はいつものように、そこにいる一人一人の顔を観察しながら、各々が固有の人生を抱えていることに不思議さを感じるのだ。
そこで楽しそうに笑っている人たちは、悩みなどまるでないように見えて、実は普通に、個別の苦悩を背負って生きているはずだからだ。でもそれは僕からは見えないし、実感としても分からない。
でもほぼ間違いなく、他人には分からないものをみんなが背負っている。人は一人一人が、自分を中心とする、無限大のような人生を持っているのだ。そしてみんなが、その中で主役を担っている。
言い換えれば、一人一人の中に、果てしない宇宙が存在する。それの見せたくない部分は用心深く隠し、見せたい部分をさりげなく披露する。自分の宇宙と誰かのそれとが重なって、不協和音が響いたり、あるいは共鳴したりする。
問題は、その宇宙が無限大のように思われていても、実は端っこがあることだ。それはただの箱であって、無限の可能性を持つ無限空間ではない。だからみんな、いつかはそこに端っこがあることを気付き、リミットが存在することを知ることになる。僕もヤクさんも奈緒美も、そしてここにいるみんなが。
それは能力や時間や、他人からの評価や他人の自分に対する気持ちや、そんな様々な形を取って、僕たちを襲いながら限界を知らしめる。そして僕たちを打ちのめす。夢だって食いつぶすのだ。宇宙の中は、ままならないことだらけなのだ。
それでも人は、とても楽しそうに笑って、幸せな時間を持つことができる。少なくとも、そんなふうに見える。
どうしようもないことを抱えながら、それでも前向きに生きる人間とは、一体何なのだろう。宇宙とは一体、何なのだろう。なぜ人は、生きるのだろう。
不意に、リンはどうしているだろうと思った。きちんと食事をとっただろうか。子供たちはひもじくしていないだろうか。
自分だけが贅沢をして楽しんでいることに、僕の中で罪の意識が芽生え出す。僕の宇宙と共鳴したリンの宇宙は、ここにいる人たちより、少し狭いような気がしてくる。
奈緒美がヤクさんの仕事のことを尋ね、彼は人工知能の研究をしていると言った。もっぱらヤクさんの語り先は奈緒美で、彼が僕のほうに振り向くことは、ほとんどなくなった。
奈緒美も彼の珍しい話しに、とても興味を持ったようだ。
「じ、じ、人工知能と言っても、人間と同じ機能を持つ機械を作る訳じゃないんだ。もちろんそんな研究もあるけど、じ、じ、実際には、人間が知能を使ってすることを、機械でやらせようとする研究が、ほ、ほとんどなんだよ」
奈緒美は眉間に皺を寄せ、よく分からないわと言った。
「人間もどきを作るのと、実際の主流になっている研究には、どんな違いがあるの?」
仕事の話しをするヤクさんの口調は迷いがなく、質問に対する応答も素早い。
「前者は分かりやすく言えば、に、に、人間と同じファンクションを持つロボットを作るようなものなんだ。そ、それに対して後者は、例えば将棋をするソフトだったり、もっと実用的なものは、く、く、車の自動運転の判断を担うものだったりする」
奈緒美も頭の回転が速く、すぐに次の質問を飛ばす。
「でもそれだったら、普通のアルゴリズムなわけでしょう? それがなぜ知能となるの?」
アルゴリズムなんて言葉を、彼女は何処で覚えるのだろう。
ヤクさんは、それはグッドクエスチョンだと言わんばかりに、何度か頷く。
「普通のプログラムと呼ばれるものは、し、し、シーケンスなんだよ。つまりた、た、単なる順序制御なんだ。だからそれは、制作者の意図する範囲内でしか働かない。でも人工知能には、す、す、推論や学習という機能が加わる。す、す、推論は知識をもとに新しい結論を得ることで、学習は得た情報から、将来使えそうな知識を得ることなんだ。このす、推論と学習が組み合わさることで、ソフトは制作者にも分からない過程を経て、ど、ど、動作が進化する」
一見頼りなく見えるヤクさんが、専門の話しをするときは頼もしく見える。どもってはいても、話しに筋が通っていて力強い。
「それでヤクさんは、どんな分野を研究しているの?」と奈緒美が言った。
彼は少し黙り込んでから、口を開いた。
「この研究には、ひ、ひ、秘密も多いから、詳しい話しはか、か、勘弁して欲しいんだ」
そう言ってからヤクさんは、彼の研究が、人工知能で人工知能を作ることだと教えてくれた。つまり人工知能系の研究で、人間がどんなことを考えて、何を試すのかをブレイクダウンし、それをプログラムに組み込む。そう言ったプログラム同士を会話させ、その会話に人間も加わることで、もっと進化した人工知能が出来上がる。それを繰り返すことで、人工知能が、加速度的に改善されるのだそうだ。
でも彼は、人にはあまりその話しをしたくないと言った。なぜなら、その仕事が将来人類を幸せにするかどうか、よく分からなくなるかららしい。
こんなものが進化すれば、人はコンピューターに仕事を奪われる。仕事で必要なのは企画者だけになってしまい、あとは全部コンピューターがやってくれるからだ。
「じ、じ、人類は空いた時間に、好きなことをやって過ごすことができるようになると言う人もいるけれど、そのためには、経済の仕組みや考え方を、こ、こ、根本から見直す必要があるような気がする」
それは確かにその通りだ。電気代しかかからないコンピューターが全てをしてくれるなら、世の中は失業者だらけになってしまう。社会全体の効率を上げ、効率の上がった部分を社会全体で再配分しなければ、世の中はおかしくなる。けれどそこからは、目指す世界が極めて社会主義的なものになる。そうなれば、アイデアを持つ人や努力を惜しまない人が埋もれ、何もしない人がご利益を享受する世界に成りかねない。それは人類の進化を停滞させる、あるいは後退させることも十分有り得る。才能や努力が報われる仕組みは、必要不可欠なのだ。
アインシュタインやオッペンハイマーが、原爆の発明を深く悔やんだように、科学者にはそう言った節度や良心が必要なのだろう。ヤクさんは昔と変わらず、その手の優しさを持ち合わせているようだった。
「ヤクさん、かっこいい」と奈緒美も感心する。
ヤクさんは照れながら、首の後ろを何度か撫でた。
彼女もヤクさんの本質に気付き始めたようだ。彼は何処にでもいそうなオタクに見えて、実際探そうとすれば、中々見つからない人なのだ。
「ところで、てっちゃん、あなたはどうなの?」
奈緒美が突然、僕に話しを振った。相変わらず僕は、てっちゃんと呼ばれたままだ。
「どうなのって、何が?」僕は反射的に、とぼけてしまった。
「何って、リンちゃんの話しよ。セブはどうだったの? 楽しかった?」
彼女の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいるけれど、目は笑っていなかった。かと言って、その目は怒ってもいない。意思のないぼんやりとした目だ。いつも覇気のある彼女にそんな顔をされると、僕はやっぱり複雑な心境となる。
僕は精一杯余計なことを省き、「楽しかったよ」と言った。
彼女は「そう、良かったわね」と言った。
その話題は、それで立ち切れとなった。彼女は今度、ヤクさんに話しかけた。
「ねえヤクさん、今日はまだ時間ある? 良ければ場所を変えて、もっと色々なことを聞きたいの」
始まりかけた何かが意思を持って中断されれば、空虚感がしこりのように残る。そうなら最初から、何も始まらないほうが良かったではないかと思うのは、僕だけではなかったかもしれない。
奈緒美は、自分のミスリードに気付いていたのだろう。それを取り繕うように、「てっちゃんも、まだ時間は大丈夫でしょう?」と、わざとらしいくらい明るく振る舞った。
「ぼ、ぼ、僕は大丈夫だけど」とヤクさんが言った。
僕は一人になりたかった。リンのことが、気になっていたのだ。いや、気にするように努めている、と言うべきかもしれない。
自分はこうして日本で楽しくやっているけれど、いつでも頭の隅で、あなたのことを考えているんだと言う事実が大切なのだ。それが直接リンに伝わることはなくても、気持ちというものは、何かの拍子に伝搬するものだと僕は信じている。
「ヤクさん、彼女にもう少し付き合ってもらえませんか? 僕はやり残した仕事があるんですよ。今日中に仕上げておく必要があって」
今日は一日中、嘘をつく日だと思った。今日の自分は最初から最後まで、奈緒美に対して姑息だという自責の念が自分を覆う。
彼女には、「今日はごめん」と謝った。表面的には、食事の後で付き合えないことに対する言葉に聞こえても、僕の含む意味は、別のところにあった。奈緒美はきっと、それを理解するはずだ。
「また時間を作る。今度はゆっくり、セブの話しをするよ」
彼女にそう念を押し、ヤクさんに、今日は楽しい話しをありがとうございましたと礼を言った。
礼を言いたかったのは、楽しい話しにではなかった。その日はヤクさんに救われた。僕はヤクさんの存在に、感謝したかったのだ。お陰でその日を、無事に通過できた。毎日誰かに助けられて、一日一日を生きている。
奈緒美はヤクさんを連れて、西口のバーに行くと言った。二人で見つけた、新宿駅西口側にある、二人の隠れ家的バーのことだった。
これまで二人は、どんな友だちも知り合いも、その店には同行させなかった。お互い個別に誰かと一緒する場合、バーに行くなら違う場所を使った。それが暗黙の了解事項のようになっていた。隠れ家のそこは、誰かを連れていけば、きっと気に入ってしまうようなバーだったからだ。顔見知りが常連として出入りするようになれば、そこは隠れ家としての意味を失ってしまう。
奈緒美はそこに、ヤクさんを連れて行くと言っている。つまり、彼を仲間に加えようということだ。これまで二人で共有してきた世界を、三人で共有しましょうという試みかもしれない。
彼女は僕の反応を待っていた。
「それはいいね」と僕は言った。短い返事でも、それは僕の意思表示に他ならない。そして彼女は、その意思を汲み取り頷く。
僕は「それじゃあ、また」と言って、食事の伝票を手に取った。
奈緒美は「今日はわたしが誘ったんだから、わたしが払うわよ」と言った。
「これはヤクさんへの感謝の気持ちで、僕が払うよ」
ヤクさんがおろおろして、「い、い、いや、ぼ、ぼ、僕が払うよ」と言うけれど、奈緒美が「そういうことなら、それでいいのよ」と、その場を収めてくれる。
外に出ると、小雨がちらついていた。
小走りで近くの行きつけのコーヒーショップに行き、僕はそこから、リンに国際電話をした。
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