第14話 ホテルバカンス

 パングラオで三日間を過ごしてセブのホテルに戻ると、日本人宿泊客がいなくなったと騒ぎになっていた。何か事件に巻き込まれたのではないかと、ホテルは警察に連絡を入れる寸前だったそうだ。

 もし警察に連絡されれば、当然会社の誰かに問い合わせがいく。何せホテルは、カンパニーの関係者として、カンパニーレートで宿泊している。問い合わせは、真っ先にそこへ行くはずだ。

 不在にした理由を簡単に説明し、申し訳なかったと謝罪した。従業員たちは騒ぎになっていたと深刻に言った割りに、僕の説明を明るく笑い飛ばした。そのあとは、何事もなかったように普通にしていた。フィリピン人の陽気さには、本当に救われる。

 部屋に戻ると、綺麗に整えられたベッドの真ん中に、ドライマンゴのミニパックが山盛りになっていた。その脇に置き手紙があり、「いつもありがとう」と書かれている。それは、僕が枕の下に置く、チップに対するお礼のようだった。

 ルームメーキングの人はドライマンゴを置いたはいいけれど、それが二日経っても三日経ってもそのままで、なおさら気にかけてくれたのかもしれない。

 それまで出張で数多くのホテルに泊まったけれど、チップにお礼の気持ちを貰ったのは初めてだった。フィリピン人の、フレンドリーで優しい一面に触れた気がした。僕は早速一つを手に取って、それをご馳走になった。


 リンは旅の疲れが残っていたのか、ベッドの上で眠ってしまった。僕は本を持って、一人でホテル近くのカオナグリルへ出かけた。

 それは以前、リンとの休日デートでいつも待ち合わせ場所として使っていた、馴染みの屋外レストランだ。

 そのレストランには食事も用意されているけれど、ビールやジュースだけで長時間居座っても問題のない、僕にとって気軽に時間をつぶせる貴重な場所だ。しかも、ときどきギターの弾き語りやバンドの生演奏があるから、ますます時間つぶしに都合がいい。

 レストランのすぐ隣は大きなゴルフ打ちっ放し場で、入り口にはいつも高級車が停まっている。地元でゴルフをする人は、企業の駐在員や地元の一握りのお金持ちだ。

 フィリピンは、全く違う世界の人同士が、こんなふうに隣り合わせで暮らしている。

 僕はいつもそこでマンゴシェークを飲みながら、ぼんやりお金持ちの世界を眺めていた。

 高級外車、ゴールドの時計やネックレスに、ブランドづくしの衣類や靴。自分とは少し毛色の違う人たちだ。それはそれで、自分には馴染めそうにない世界に映った。

 もっともそういった世界にすり寄ろうとしたところで、僕のような日本の庶民は、地元の金持ちの足元にも及ばない。フィリピン人の高額納税者リストには、納税額数千万円の人がごろごろ含まれているし、もちろん税金を数億円払っている人もいる。僕はBIR(フィリピン税務局)のレポートを読んだときに、数字の桁数を読み間違えているのではないかと、何度も金額を確認した。

 貧富の格差は、日本人の想像を遥かに凌駕りょうがしている。そこまでいけば、資本主義とは元々搾取の仕組みだったのかと、誰もが疑いたくなるはずだ。

 政治家はそんなお金持ちに紐付いているから、理不尽な社会は中々変わらない。リンがかつて教えてくれたように、甘い汁を吸っている人たちは口でいいことを言いながら、その実自分の懐ばかりを気にしている。

 仮に正義心に燃えた政治家が出現し、そんな社会の是正に本気で手をつけようものなら、今度は真面目に暗殺を心配しなければならない。甘い汁を吸っている人たちが、改革を潰そうとするからだ。

 フィリピンには、それほど高くない報酬で人殺しを請け負う人がごろごろいるらしい。なにせまともな職がないのだ。金持ちからみたら少額でも、無職の人間にとって目の色が変わる金を目前に出されたら、多少のリスクがあろうと殺しの引き受け手が多数出てくるようだ。

 日本の中だけで暮らしていると、そんなことはほとんど見えない。大半の人は、世界が平和な日本のように平準化されていると思い込んでいる。しかし実態はその逆で、実は日本が稀なのだ。世界はフィリピンだけでなく、どこもかしこも荒れている。世界警察を自負するアメリカでさえ、褒められる状況ではない。

 日本は、世界で一番成功した社会主義国家だと揶揄されることがあるけれど、社会保障制度の充実や治安の良さ、水や食料品の安全性など、どこの国でも見ることがないほど平均的に整っている。

 そんな社会に慣れてしまった自分は、危機管理もできない温室育ちのお坊ちゃまと化しているけれど、それでもこうして様々な世界を見て自分を見つめ直す機会を持つことができる。そのことに僕は、感謝すべきかもしれない。


 二杯目のマンゴシェークを頼み読書に集中していると、突然誰かに後ろから抱き付かれた。

 振り返ると、リンの顔がすぐそこにあった。

「あれ? 昼寝は終わったの? どうしてここに?」

 彼女は後ろから抱き付いたまま言った。

「目が覚めたらあなたがいないからでしょう?」

 こうした格好で会話しているのを他人が見たら、誰もが二人は、恋人同士と思うに違いない。

「だったら電話をくれたらよかったのに」

「何言ってるの。電話をしたら、部屋の中で呼び出し音がして驚いたわよ」

 彼女はそう言って、僕の携帯をテーブルの上に置いた。僕はそれを見て固まった。

「それにしても、よくこの場所が分かったね」

 彼女は今度、テーブルの上に僕の財布を置いた。

 僕はとても驚いて、あるはずのないポケットの中の財布を、思わず手で探ってしまう。

「財布も持たずに長い時間帰って来ないんだから、ホテルの中か、ここしかないでしょう?」

 つまり彼女は、僕がショッピング中ではないし、料金先払いのコーヒーショップにいるのでもなく、タクシーだって使っていないと言いたいのだ。

 僕は言葉を失った。

「これを部屋の中で見つけたら、来るしかないでしょう?」

 僕は頭をかくしかない。

「いやあ、申し訳ない。それにすごく助かった」

 僕はパングラオリゾートで、ますます頭のねじが緩んでしまったようだ。リゾートホテルの中は、一切何も持たずに過ごせるから、その延長のような気分でいたのかもしれない。

「お礼に何か、美味しいものをご馳走して。とてもお腹が空いているの」と彼女は言った。

 もちろん僕は了解する。

「何が食べたい?」

 彼女は「そうねえ」とやや首を傾げて、焼肉が食べたいと言った。

 なるほどそれは、嬉しい提案だった。

 僕はその場で、ある美味しい焼肉レストランに電話で予約を入れた。そこはとても人気の高いレストランで、予約を入れないと座れないことが多い。味は日本でもお目にかかれない程素晴らしく、その代わり値段も日本より高い。

 セブには他にも、味の良い日本の焼肉レストランが進出していたし、しゃぶしゃぶもカンパニーペイでなければ利用できないほど破格のプライスで、日本と同等以上の料理を味わえる店がある。大体何でも揃っていて、お金さえ出せば、日本にいるとき以上の贅沢を楽しむことができるのだ。

 ふと僕は、リンが面倒を見ている、子供たちのことに気付いた。

「せっかくだから、あなたの家族も食事に誘わない?」

 彼女は突然の提案に驚いて、いいの? と言った。

「もちろん」

 それまで彼女の家族のことを考えなかったことのほうが、申し訳ないくらいだった。

 彼女は嬉しそうな顔で、「きっと喜ぶわ。それじゃあ子供たちだけ」と言った。

「あなたのお母さんは?」

「ママはフィリピン料理がいいから、次の機会にする」

 僕はもう一度レストランに電話を入れ、食事の時間と人数を変更した。


 ジミーと連絡を取り、リンの家にいる子供たちの送迎をお願いした。

 レストランはホテルから近く、少し無理をすれば歩ける距離だ。あるいはトライシケルを使えば移動は簡単だ。子供たちとは現地で待ち合わせにした。

 ジミーにも奥さんと一緒の参加を打診したけれど、彼は気を使い遠慮した。

 僕とリンは、一足早くレストランに到着し、子供たちを待った。ほどなくして、ジミーの車がやってくる。

 車が停車しドアが開くと、次々とよそ行きの服を着た女の子が降りてきた。参加の子供は五人で、一歳の男の子と三歳の女の子は、残念ながらお留守番となったようだ。

 目の前にいる子供たちは、一番下が五歳、一番上は十二歳、その間にほぼ等間隔に歳の離れた三人がいて、合わせて五人の姉妹となる。背丈が歳に比例し、横並びになると、頭が綺麗な斜め線になった。

 五人の姉妹だけでも壮観なのに、子供はあと二人もいるのだ。こうして眺めると、よくこれだけ量産したものだと感心せずにはいられない。それでいて父親はまともに働いていないというのだから、一体この国はどうなっているのかと改めて思う。

 五人の顔は不思議とばらばらで、明らかなスパニッシュ系が一人、明らかな東洋系が一人、その中間でどちらかに少し傾いているのが三人だ。

 そんなばらつき具合に、この姉妹には、異母姉妹と異父姉妹が混ざっているのではないかと疑いたくなる。同時に僕は、リンが、兄と僕の顔が似ていると言ったことを思い出す。つまり子供たちには、リンと同じようにスパニッシュ系の血が強く残っていたり、父親の血筋が強く出ていたり、微妙にミックスになっていたりするようだ。

 僕とリンの前に並んだ子供たちが一斉に、こんばんわ、アンクル(おじさん)と言った。個別の自己紹介は後回しにして、一先ず七人でレストランの中に入る。

 子供たちが、店の中を珍しそうに見回していた。すぐに店員が、テーブルに案内してくれる。

 テーブルについてから、子供たちはとても静かで行儀がよかった。緊張しているふうでもなく、ときどき姉妹でこそこそと話しをしてはくすくす笑い、またすぐに姿勢を正す。リンに行儀よくしなさいと、きつく言い含められているのかもしれない。

 一応メニューをみんなに回したけれど、子供たちはそれを珍しそうに眺めるだけで、具体的な要望は出てこなかった。

「料理は僕が、適当に頼んでいいかな?」

 リンはそれでお願いと言い、僕は、ドリンクだけはそれぞれ自分で選んでくれと頼んだ。

 リンは、五人の子供に二つのジュースを注文した。ドリンクが届くと、子供たちはそれを、五人で仲良く回しストローを順繰りに吸っている。そこに争奪戦という雰囲気など感じられず、実に自然に譲り合っている姿が微笑ましい。

「僕は男だけの三人兄弟だったけれど、子供のときに美味しいものがあると、それはひどい奪い合いだったよ。それに比べてこの子たちは、とても行儀がいいね」

 僕は本当に感心したのだ。

 リンは、「普段から分け合う生活をしているからよ」と言った。

「僕も子供の頃は分け合うのが当たり前だったけれど、いつも戦争だったよ。そもそも分け合う必要があるから戦争になるんだ」

 彼女はくすくすと笑った。「きっと男と女は違うのよ」

 この行儀のよさは、食べ物が出てきても同じだった。そのレストランの肉は本当に美味しいけれど、子供たちは肉をほおばったあと目を見開き、顔を見合わせることでその驚きを共有し、すぐにまた前を向いて姿勢を正す。そして中々、自ら食べ物に手を出さない。リンだけが、子供たちが来ていることを忘れたように、黙々と食べている。だから僕は、途中からホスト役に徹することにした。

 僕は焼けた肉を子供たちに順番に取り分け、あいた網の上に新しい肉を乗せ、ときどき「美味しい? もっと食べる?」などとお伺いを立て、必要に応じて追加料理をオーダーする。彼女たちはその度に、くりくりとした目の笑顔をこちらに向け、「ありがとう、アンクル」と言って手元の料理を静かに食べる。

 リンは自分を貧しいと言ったけれど、そこには貧しさなど微塵も感じられなかった。場をわきまえ、節度があり、礼儀がある。僕が感じる貧しさとは、そういったことが崩壊している有様なのだ。リンや彼女の母親が普段どんなふうに子供たちを躾けているのか、とてもよく分かる。そして僕はそこから、リンが僕に見せる普段の姿は、作り物ではないのだろうと確信するのだ。

 その日は子供たちがとても喜び、リンも料理と子供の様子に満足し、とても幸せな食事となった。

 食後に子供たちを、ジミーの車でリンの家に送った。到着すると、リンが言った。

「ちょっと着替えを持っていきたいの。一緒に入って待ってくれる?」

 僕は子供たちの後ろについて、彼女の家に入った。

 入口で子供たちが靴を脱いだから、僕もそれにならって靴を脱いだ。外観の古びた様子と裏腹に、部屋は綺麗に片付き、掃除もきちんと行き届いている。

 ワンルームで、部屋の奥にキッチンがある。それほど大きな部屋ではないけれど、狭苦しさもない。それは一見して何もないからだ。部屋の真ん中にちゃぶ台式のテーブルが一つあるだけで、あとは部屋の隅に安物のビニールクローゼットと、壁際に二人がけのソファーがあるのみだ。

 僕は近くにいた七歳のメリロースに、少し小さな声で訊いた。

「テレビはないの?」

 彼女は恥ずかしそうに頷いて、「ラジオがある」とそれを指差した。僕がお土産で持ってきたミニコンポの箱に並んで、小さなトランジスタラジオがあった。もちろん僕の持ち込んだミニコンポもチューナー付きだ。

 僕は恐る恐る、追加の質問を彼女に投げてみた。

「ねえ、冷蔵庫はどこにあるの?」

 彼女は無言で、ゆっくり頭を左右に振った。

 エアコンは? 扇風機は? 洗濯機は?

 全ての問いに、彼女は同じように頭を左右に振るだけだった。僕は言葉を失い、それ以上訊くのを止めた。

 確かにそれらがなければ、生活ができない訳ではない。僕が小さな子供のときは、我が家にも洗濯機がなく、母親はタライで衣類を手洗いしていた。ハンドルで回す脱水ローラーの付いた中古洗濯機を貰ったとき、母親は洗濯が楽になったと喜んでいたのを今でも覚えている。テレビも中古のUHFが映らない白黒で、ウルトラマンが映らないことが、子供心に寂しかった。友だちのテレビの話題についていけず、仲間外れになってしまうのだ。

 自分が子供の時分に体験した負い目や寂しさが、不意に思い出された。この子たちにそんなことを気にする様子はないけれど、僕は、基本的な家電製品くらい揃えてあげたいと思うのだ。

 一式揃えたら、いくらになるのだろう。

 ざっと考えてみて、二十万円に収まるのではないだろうかと思った。明日にでもモールの家電売場に行ってみよう。その程度で買えることを確認できたら、リンに話してみようと決める。

「準備ができたわよ。ホテルに戻りましょう」とリンが言った。

「子供たちは?」

 リンの母親もいない。子供だけをそこに残して行くことが、僕は心配だった。

「大丈夫よ。この子たちは慣れているから。それにあとで兄がここに来ることになっている」

 確かに彼女たちはしっかりしている。上の子が下の子をきちんと面倒見るし、その分日本の子供より大人びている。

 リンは子供たちに、戸締りのことや他の注意事項を、しっかり念押ししていた。

 別れ際に子供たちは、「今日はありがとう、アンクル」と声を揃えて言った。僕はそんな子供たちに、おやすみと声を掛けてそこを後にした。

 ホテルに戻る車の中で、リンが言った。

「彼女たちは、あんな美味しいもの、初めて食べたと言っていたわ。すごく喜んでいたわよ。今日は本当にありがとう」

「僕もとても楽しかった。またときどきこうして、みんなで食事をしようよ」

 リンはありがとうと言って、僕の手に自分の手を重ねた。


 ホテルに戻り、僕は先にシャワーを終え、ベッドの上で本を読んでいた。入れ替わりに、リンがシャワーを浴びている。

 僕は普段テレビを観る習慣がないから、日本でも海外でも、テレビはほとんどオフのままだ。普段から、静かな場所が好きなのだ。実際に部屋には、リンのシャワーを浴びる音以外、一切物音がない。とても良好な環境だ。

 一方で僕は、あのうるさいゴーゴーバーの雰囲気も好きだった。それは、冒険じみたことが好きだったからだ。そこで交わされる駆け引きや、その後の予測不能な展開や、そういったことを含む人との関わりを楽しんでいる。

 そして疲れたら、静かな場所でどうでもよい考え事をしたり、その逆に頭を空っぽにして英気を養う。そんなときのジャズピアノは、心を休めるのにとても役立った。読書を始めれば、本の世界に入り込むことで、現実世界から逃避できる。これも頭と心を休めるためには有効だ。

 だから僕は日本でも、ピアノは弾かないけれど防音仕様の部屋に住み、そこに馴染みの自家焙煎ショップで買うコーヒー豆を切らさないよう心がけ、外出すればかなりの確率で新しい本を買う。

 セブの宿泊部屋には、日本の自宅と似た環境が整っていて、僕はとても気に入っていた。


 子供たちはもう寝ただろうか。そんなことを考えていると、リンがバスルームから出てきて、真っ直ぐ僕のところへやって来た。

 彼女は無言で僕の手から単行本を取り上げ、それを脇に置いた。

 僕は「どうしたの?」と訊いた。

 彼女はそれに答えず、僕に覆いかぶさり、静かに自分の唇を僕の唇に重ねた。

 それは、いつもの就寝挨拶のキスと、少し雰囲気が違った。

 彼女から石鹸の匂いがした。彼女の唇から潤いを感じる。それで僕は、いつもよりも深いキスだと気付く。パングラオでの、初日の夜に起こった出来事のように。

 僕はリンの背中に手を回し、彼女を抱いた。それで彼女が、Tシャツの下に何も身に付けていないことに気付いた。

 リンも僕の後ろに腕を回して、お互い抱き合う。彼女の胸の膨らみが、弾力としてTシャツ越しに感じられた。

 いつまでもキスを止めないリンに、僕はもう一度、どうしたの? と言った。

 彼女はただ、灯りを消してと答えた。それで僕は、ベッドサイドに手を伸ばし、手探りで灯りのスイッチをオフにした。

 部屋が暗くなることで、二人の行為がエスカレートしていった。僕は彼女のTシャツの中へ手を忍ばせ、手のひらで彼女の胸の膨らみを感じ取る。二人の上下の体制を入れ替え、自分の唇を彼女の胸に移動させた。

 僕はこのとき、彼女が下の下着も身に付けていないことに気付いた。彼女は最初から、僕を受け入れるつもりでいたのだ。

 初めて触り初めて見る彼女の胸を、唇と舌を使ってできるだけ優しく愛撫した。それまで聞いたことのない彼女のかすれた声が、僕を後戻りできない場所へと導いた。

 僕は自分の手を彼女の下半身へと持っていった。

 軽くなぞった指に、既に十分な湿り気を感じた。それをゆっくりと上下に繰り返しなぞりながら、指先に込める力の強弱をつけることで、彼女の身体が反応した。

 彼女の繊細な指が、僕の頭や頬を触る。自分の唇を彼女の胸から離すと、すぐに彼女が唇を重ねてくる。

 僕は慎重にゆっくり、彼女の中に入り込んだ。僕の背中に回る彼女の腕に、力が入る。暗くて静かな部屋の雰囲気をかき乱さないよう、僕はゆっくり動いた。

 体制を入れ替え、彼女の身体に唇を這わせ彼女の中に入り直すということを、焦らずゆっくり繰り返した。

 彼女が僕の射精を見定めたように、今度は僕が、彼女の反応を見定める。それを確認しながら、僕は自分の動きに変化を付けた。

 そして彼女が絶頂を迎えたと確信したときに、僕の身体にも激しい快感が走った。

 その後も二人はしばらく、キスをしながら抱き合った。唇を離しても、僕は寄り添うリンを抱いていた。

 彼女は目を閉じて、無言で裸の身体を僕に預けている。その無防備な様子に、自分が信頼され求められていることを感じた。自分の存在価値が、唐突に明確化したのだ。

 どうして彼女がそんな決心をしたのか分からないけれど、僕は二人が、遠からずこうなるような気がしていた。そして一線を越えることに慎重だった僕の中に、後悔はなかった。それは二人が出会ってからそこに至るまで、とても自然な成り行きに思えたからだ。

 ただ、引き金になったのは何だったのだろう。

 リンの、「わたしにはわたしの大切にしているものがある」という言葉を思い返す。

 彼女は、自分には大切なものがあるから、リスクには近寄らずリスクを取らないと言ったのだ。

 彼女の大切なものとは、本当は何か。僕は何かを誤解していたのかもしれない。彼女の言う大切なものとは、もしかして家族のことではないだろうか。

 自分の中で、絡む糸がほぐれ始めた。

 奈緒美が結婚相手に精神的な何かを求めるように、リンにとっては、彼女の家族に対する僕の態度や気持ちが、彼女がこちらへ踏み込むためのハードルだったのかもしれない。それが全てではないにしても、重要な要素だったのではないだろうか。

 ここでは多くのフィリピーナが、家族のために夜の世界で働く。あるいは海外に出稼ぎに出る。フィリピン国内で運よく職を得た女性は、残業をこなし、休みなく働きながら、家族の面倒をみる。フィリピーナの努力は、痛ましいほど家族のためなのだ。

 そうであれば、リンも例外ではないだろう。少なくとも、自分の家族に悪影響を与えるパートナーの選定は避けたいと思うだろうし、もちろんご利益のある相手が望ましい。

 そうなるとそこに、自分のパートナーをある種の道具として、利用しようとする意図を疑う必要があるかもしれない。しかしそれは意図というよりも、おそらく防衛本能のような、本人も自覚していない潜在意識ではないだろうか。少なくとも彼女からは、そういったずる賢さのようなものを感じることはない。 

 それでもそう言った意味合いがどこかに潜んでいるのは確かだろうし、部分的にしろ僕は、その種の期待に可能な範囲で応えるべきだろう。二人の間に歴然とした収入格差があり、しかも僕は、彼女の如何なる仕事も許容できるわけではないからだ。

 もし彼女が、身体を売ってでも家族を助けたいと言い出したとき、こちらが了承できないならば、自分には彼女を支援し、間接的に彼女の家族を助ける義務が生じるのではないだろうか。

 いずれそういうことも、僕は彼女にきちんと確認する必要があるのかもしれない。しかし、必要があるとしても、話しをするのは今ではないだろう。十分な信頼関係ができるまで、そんな話しはできないのだ。

 それは現在、お互いが信頼し合っているかどうかではなく、そういったことには物理的時間が必要なのだ。喧嘩をして腹を立て、言いたいことを言い合い、それでも求め合って仲直りすることを繰り返す、そんな時間だ。

 それまではこちらである程度決めて、彼女を支援すればいいだろう。あくまでも、彼女が拒まなければ、ということになるけれど。

「何を考えてるの?」

 リンが僕の胸に顔を埋めたまま、そう言った。静かな暗闇に溶け込んだ何かが、不意に姿を現したような唐突さがあった。

「コーヒーでも飲もうかなって」と僕は言った。

「随分長い時間考えるのね」彼女はくすくすと笑う。

「そう、コーヒーは飲みたいけれど、動きたくないんだ」

 動きたくないのは本当だし、コーヒーが飲みたいのも嘘ではない。

 彼女は顔を上げ、「シャワーをして、コーヒーを飲みましょうよ」と言った。

「そうだね。シャワーは一緒? それとも別々に?」

 彼女はボアンと言って、バスルームから持ってきたバスタオルを身体に巻いた。

「恥ずかしいから別々」

 彼女はそう言うと、そそくさとバスルームに姿を消した。


 翌朝、いつものように早く目が覚めた。カーテンの隙間から外を覗くと、上には真っ青な空が広がり、下では多くの人が、出勤のために道を歩いていた。

 いつもと全く変わらぬ風景だ。急ぎ足で歩く人たちが、如何にも日常の時間を日常通り刻んでいるように見えた。

 僕とリンの関係には大きな変化があったのに、世間はどうしてこれほど普通なのか、不思議な気分だった。それで、実は自分とリンの間にも、大した変化は起きていないのかもしれないと懐疑的になる。

 一旦部屋を出てプールサイドでコーヒーを飲み始めると、今度は昨夜のことを、奈緒美に報告すべきかどうか、僕は迷い始めた。言わなくてはならないような気がするけれど、二人がそんなことを敢えて報告すべき関係かどうか、よく分からないのだ。厳密に言えば、これまで奈緒美が自由に振る舞ってきたように、僕にも自由に、色々なことを決める権利があるはずだ。けれど二人の関係は、それほど単純ではないように思える。おそらくこの件は、暗黙の了解的収束が望ましいのではないだろうか。

 そのとき僕は、何か重い荷物を背負ったような気がした。

 そんな思考を分断するように、携帯電話の呼び出し音が鳴った。

 リンからだった。

「おはよう。今、どこにいるの?」

「下でコーヒーを飲んでいる。プールサイドにいるよ」

「分かった。わたしも準備をしてから、そっちに行くわ」

 そしてリンがプールサイドに姿を現し、僕たちは、ホテルレストランへとそのまま移動した。

 食事を始めてひと段落ついてから、僕は昨夜気になった、彼女の家の家電製品について切り出した。

「昨日気付いたけれど、あなたの家には何も家電製品がないんだね」

 彼女は目を瞬かせて、「例えばどんな?」と言った。

「例えばも何も、テレビや冷蔵庫や洗濯機や扇風機まで、何もかもがないじゃない。子供がたくさんいたら、洗濯物も毎日たくさん出るだろうし、冷蔵庫がなければ食料品の買い置きだってできないでしょう?」

「それはその通りよ。でもそんなものを買い揃える余裕は全くないの」と、彼女は平たい口調で言った。

 レストランの中は朝食を取る人がまばらで、幸い二人の周囲には誰もいなかった。こんな話しを他人に聞かれることは、彼女にとっても気分のよいものではないだろう。相変わらずレストランには、バロック音楽がさり気なく流れている。レストランの優雅な雰囲気と、僕たちの話題には、大きなギャップがあるはずだった。

「今は僕も、あなたにそんな余裕がないことを理解しているよ。それでも敢えてこんな話しをしているのは、僕がそれらを買ってもいいかを確認したいからなんだ」

 彼女は表情を固まらせて、目を瞬かせた。「それは一体、どういう意味?」

「そのままの意味だよ。その家電製品を僕が買うという意味だけれど」

「ほんと?」

「あなたが気にならなければ」と僕は言った。

「どうしてわたしが気にするの?」

 意表を突くその言葉に、僕は思わず頭をかいて答える。

「以前あなたが、わたしはあなたにお金で買われるつもりはないと言ったから」

 彼女は少し大きな声で笑った。

「それは何かの交換条件がある場合でしょう? わたしたちの間には、もう何もそんな条件は存在しないはずよ」そして彼女は顔を近づけて、少し小さな声で言った。「それにわたしは、そんなことを期待して、あなたとあんなことをしたんじゃないのよ」

 彼女の顔に赤みが差す。僕もかぶりを振った。

「僕もそんなことは考えていないよ。これは昨日あなたの家に行ったとき、思い付いたことだから。だったら朝食を終えてから、モールに行って色々見てみようよ」

 彼女に、テレビと冷蔵庫、洗濯機、そして扇風機を買おうと提案し、およその予算についても説明した。

 彼女は最初、その話しに現実味を感じていないようだったけれど、僕が具体的な話しをし出すと再び驚いて、とても嬉しそうにその話しに乗ってきた。

 僕にはもう一つ、彼女にお願いがあった。それは彼女の住む場所だ。今彼女が住む場所は、治安を含めて少々環境が悪い。セキュリティガードを置く安全なアパートに越したほうがよいのではないかと、僕は考えていたのだ。

 彼女が引っ越してくれるなら、毎月の家賃と生活費を日本から送る。それほどふんだんに送金できる訳ではないけれど、どうにか生活できるくらいは送れそうだと、僕は言った。彼女はその話しも、狐につままれたような顔をして聞いていた。


 二人は相談した通り、モールの開店に合わせて、家電製品を見繕いに行った。ざっと見渡すと、贅沢を言わなければ全体的にかなり安い。

 リンは生き生きと、フロアに展示されている家電製品を、まるで蝶が花畑の花を渡り歩くように見て回った。僕は売り場の隅で、その様子を眺めていた。

 リンは購入する製品を決める度に、僕に価格を報告し、僕は頭の中でざっと計算しながらそれを了承する。結局彼女は、テレビは日本の有名ブランドを選んだけれど、他の白物家電は日本以外のメーカーを選び、購入品全体で予算の中に納まった。

 昼食後、彼女は今度、アパートを見に行くと言い出した。僕も帰国前にはその件を片付けようと思っていたけれど、日を改めてじっくり探そうと思っていたから、少し驚いた。フィリピンでどうやって家探しをするのか、僕にはさっぱり見当がつかなかった。何処かに不動産屋さんがないかをホテルに尋ねてから、家探しをしようと思っていたのだ。

 結局部屋探しは簡単だった。最初に住みたいエリアを決め、その辺りを適当にタクシーでうろつく。そしてFOR RENTと張り紙のある物件を見つけたら、そこに書かれた連絡先に電話をし、物件をすぐに見せてもらうのだ。こうした手順を経て具体的な交渉に入る。

 リンはそうしたことをその日の午後に実行し、新しい部屋を決めた。こうした行動力は、フィリピン人全体に垣間見られる特性と言える。ただし仕事となれば、男性についてはこの行動力が活かされず、突然怠惰になるから不思議だけれど。

 こうしてこの日は、朝から夕方まで、とても急がしい日となった。リンにとっても疲れる日になったはずだけれど、彼女は溌剌はつらつとし、色々な物事の展開に高揚感を覚えているようだった。もし自分が逆の立場であればと想像すると、それは当然、嬉しい出来事なのだ。

 僕はこうしたことを性急に進めていることに漠然とした不安を感じながら、一方でリンの幸せそうな様子を見て、自分のその行為にブレーキをかけることができなかった。

 それらは自分の自己満足を得るための行為だったのかもしれないし、純粋に彼女を、大切にしたい気持ちからくる行動だったのかもしれない。

 いずれにしてもこのとき自分は、リンの生活に対して、部分的に責任を負ったのだ。それが僕の感じる、漠然とした不安の要因だった。

 

 僕はその日の夕食に、再び子供たちを招待した。自分がリンを独占していることで、子供たちが不憫に思えてしまうのだ。彼女の母親や兄が子供の面倒を見るとは言っても、前日の様子では、しっかりケアできているとは限らない。リンも子供たちが一緒であれば、安心できるだろう。食事の後は子供たちを僕たちの部屋に泊まらせ、翌日はプールで遊ばせるつもりで、ホテルには部屋をスリーベッドルームに変更して欲しいと、既に申し入れていた。

 ジミーの車で子供たちを拾うと、車の中がとても窮屈になった。僕が助手席に座り、五歳の子を膝の上に抱いた。リンは後部座席で一人を抱いて、残りの三人はリンの横で鮨詰め状態だ。それでもどうにか、全員が一台の車に乗れる。

 もちろんジミーに限らず、フィリピンのドライバーは定員オーバーなど気にしない。きっとリンの母親が一緒でも、更に残り二人の子供が一緒でも、リンは一台の車でどうにかしようとするのだろう。なにせ、日本の原付きバイクのようなモーターサイクルに家族五人が乗り、平気で公道を走っている国なのだ。

 車の中で何が食べたいかを尋ねると、子供たちが悩む間に、リンが和食にしようと決める。僕たちはそのまま連れ立って、ホテル近くの日本食レストランへ行った。

 レストランで僕は、適当なアラカルト料理を頼み、それをみんなでシェアした。そのほうが、みんなが色々な料理を楽しむことができる。子供たちは相変わらず行儀がよく、初めて食べる和食をとても喜んでくれた。

 そして食後は予定通り、五人の子供を連れてホテルに戻った。

 最初子供たちは、立派なホテルを珍しそうに眺めていた。そしてエレベータを待つ間、彼女たちはホテルのプールに気付いて色めきたった。

「プールには明日連れていってあげるから、一先ず部屋に入ろう」と僕が言うと、子供たちは嬉しそうに笑った。

 新しい部屋は、建物の中間の階となった。部屋は随分広くなり、セミダブルのベッドが綺麗に三つ並んでいる。

 部屋に入りしばらくすると、子供たちは絵を描いたりテレビを観たり、各々が自分の好きなことを始めた。

 シャワーは上の子供が下の子供の面倒を見て、こちらに一切、手を煩わせることがない。一番上の子が、次々と下の子のシャワーを仕上げ、部屋に送り出す。部屋では次女がバスタオルを持って、シャワーを終えた子を受け取る。体を拭いたり着替えをさせるのは、次女の役目となっていた。長女十二歳と次女十歳の連携が見事で、僕はほとほと感心した。

 静かな部屋は突然賑やかになったけれど、子供の心配が要らない安心感は、僕の気持ちをくつろがせた。子供たちは全く手がかからず、僕はベッドの上で、単行本をゆっくり読むこともできる。

 子供たちに、喉が渇いたら冷蔵庫の中のものを飲んでいいと言ったけれど、彼女たちは、一度も勝手に冷蔵庫を開けることがなかった。それに、部屋の中を走り回ることもなければ、枕を投げて遊ぶようなこともしない。ホテルに泊まるのは珍しいはずだけれど、彼女たちは自分たちに起こっている事実を、実に淡々と、行儀よく受け入れていた。

 時間が深夜に差し掛かると、小さな子供から順に、自然と眠り始めた。二つのベッドを五人の子供に使わせ、僕とリンが一つのベッドを占有していた。十二時になると部屋の灯りを絞り、ついに子供たち全員が寝息を立て始めた。そして再び、部屋の中に静けさが戻る。

 それに合わせてリンが寄り添い、二人も就寝の体制に入った。彼女は僕の腕の中で、静かに言った。

「今日は本当にありがとう。子供たちもとても嬉しそうだったわ。まるで夢のような出来事ばかりで、この現実を信じられない気分よ」

 彼女にしてみると、生活レベルが棚ぼた的に、二ランクくらい上がった感じかもしれない。

 しかし、もし自分が受益者であれば、そうなって嬉しいほど、それが突然壊れて消滅するかもしれない不安も大きくなりそうだ。簡単に築かれた物は脆いからだ。

「僕も楽しいよ。子供たちが一緒だと、それも違った楽しさがある。みんな行儀がよくてしっかりしているから、僕はますます驚いた」

 彼女はくすくすと笑った。

「この子たちは、我慢することに慣れているの。だっていつでも、我慢しているもの。本当は母親に傍にいて欲しいけれど、そのことにも一つも我侭を言わない。あんなにだめな父親にも全く文句を言わない。幸せなことがあればもちろん喜ぶけれど、それがなくても普通に生活できるの。わたしが言うのもなんだけれど、本当にいい子たちよ」 

 彼女は僕の胸に顔を預けたまま、隣のベッドで寝ている子供たちに視線を向けていた。子供たちは思い思いの格好で、気持ちよさそうに眠っている。

「見ていて分かる。本当にいい子たちだ」

「きっと部屋にテレビが届いたら、みんな驚いて、とても喜ぶと思う」

 彼女は子供たちに、テレビを買ったことをまだ話していないと言った。

「これはサプライズなのよ。それにね、本当に部屋に届くまで、なんとなく信じられないの。子供たちに話したあとで、それは全部夢だったなんて、可哀想でしょう?」

 僕は思わず笑ったけれど、そんな家電製品を買い揃えることが、彼女にとってどれほど大きな出来事かを、僕は改めて噛み締める。

「意外に慎重なんだね」と言うと、彼女は小さく笑った。

「でもパングラオに行ったときは、僕にも夢の世界を彷徨っているような感覚があったから、あなたの言うことが分かる気がするよ。ただね、一つ覚えておいて欲しいのは、僕がいつでもこんなことができる訳ではないことなんだ。期待されるほど、僕はお金持ちじゃない。たまにしかないことだからできるということを、あなたにはよく理解して欲しい」

「分かってる。わたしは特別な期待はしないわよ。ただね、こんなふうに何も心配の要らない生活って、本当に嬉しいの。あなたは気付いていないかもしれないけれど、わたしはあなたと一緒だと、いつもよく眠れるの。こんなふうに安心して眠れることは、わたしにとって大きな幸せなのよ。特別なことは要らない。こんな安心感があるだけでいいの」

 今日や明日はどうやって食べるか、そんなことを毎日考えて生きるのは、確かに疲れることだ。そして彼女が、生活が立ち行かなくなる恐怖といつも背中合わせということも、僕は理解できる。しかし彼女のそれは、いつも身近に迫る現実的な恐怖で、それに比べて僕の理解は、仮想世界の戯言のようなものだ。現実はきっと、僕が考えるよりもずっと厳しい。


 翌朝ホテルで朝食を済ませ、いざプールへ行こうとしたら、子供たちに水着がないことが分かった。水着を持ってこなかったというのではなく、元々水着を持っていないのだ。リンも子供たちも、プールはTシャツに短パン姿で問題ないと考えていたようだけれど、一旦水遊びをお預けにし、モールへ水着やゴーグル、浮き輪を買いに行くことにした。

「せっかくだから、子供限定で、水着の他にそれぞれ好きな物を一つだけ買おうよ。ショッピングを楽しむために」

 リンは怪訝な顔で、「なぜ子供限定なの?」と訊いた。

「あなたはこの数日間で、十分ショッピングを楽しんだはずだから」と、僕は遠慮気味に言った。

 彼女はおおらかに笑った。

「女のショッピングに、十分なんてないのよ。無制限に楽しめるの。でもあなたの言いたいことは理解するわ」

 僕はその言葉にたじたじとなる。

「ありがとう。今回、欲しい物は我慢してくれるかな。必要な物は買っていいから」

「そう? 必要ならいいのね? だったら何が必要か、よく考えてみるわ」

 その言葉のどこまでが冗談なのか分からず、僕は彼女の顔をまじまじと見てしまう。彼女はその顔に、満面の笑みを浮かべていた。


 モールに行き、最初に水着やプールで使用する雑多なものを買い揃えた。そのあと子供用品売り場に移動し、僕は子供たちに、何でもいいから自分の好きな物を一つだけ選びなさいと言った。

 すると彼女たちは、自分が何を買えばよいか分からないといった様子で、売り場の中に立ち尽くした。普段そんなことを言われたことがないから、買いたい物が分からないのだろうか。それとも、遠慮しているのだろうか。あるいは指令が漠然としすぎて、どう立ち振る舞えばよいか迷っているのだろうか。

 理由は、その全てであるようにも思えたけれど、それに対して自分も、どう助け舟を出すべきか分からなかった。

 そんな様子を見て取ったのか、リンが介入し、それぞれの子供に必要な、あるいは相応しい物を順番に選び出す。

 例えば一番小さな子にはサンダル、少し上の子にはTシャツ、年長者には洋服や運動靴という調子で、本人の意向も確認しながら、買いたい物を決めていった。

 最初は押し黙っていた子供たちに、笑顔と活気が戻った。彼女たちは真剣に物選びを始め、その様子に僕は胸を撫で下ろした。一瞬僕は、地元の雑貨屋さんや玩具屋さんに連れて行ったほうが、彼女たちはよほど喜んだかもしれないと思ったのだ。

 その後モールで昼食を取り、ホテルに戻った。そしていよいよ、子供たち待望のスイミングだ。

 各自が部屋で、買ったばかりの水着を着用した。リンは部屋で少し休みたいと言い、僕が一人で子供たちを引き連れプールへ向かった。

 エレベーターの中で乗り合わせたアメリカ人男性が、この子たちは全員あなたの子供なの? と言うので、僕はそうだと答えた。彼は身体をのけぞらし、ワァォという声を出して驚いた。僕の嘘と彼の大袈裟な反応に、エレベーターの隅に固まる子供たちがくすくす笑い合っている。


 子供たちは年齢よりしっかりしているとは言え、やっぱり子供だった。一旦プールに入ると、姉妹五人は奇声を上げて水遊びを始めた。五歳の子に浮き輪をかぶせ、四人の姉がその周囲を囲んで、プールの中を一緒に移動する。ゴーグルを付けてあげると、彼女たちは顔を水に付け、水中がよく見えると驚いた。僕はそんな様子を見ながら、一緒にプールの中を歩き回る。

 一時間ほど経ったとき僕は、いつの間にかプールサイドにいるリンに気付いた。彼女はサングラスをかけ、プールバーで涼しげに何かを飲んでいた。着用している黒のセルロイドサングラスは、彼女が必要な物として、その日モールで買った物だ。それは彼女によく似合い、アメリカ映画に出てくる女優のような雰囲気を醸し出している。まるで外人のようだと思ったあと、彼女は自分にとって外人だったと気付く。慣れ親しんでしまうと、僕には彼女が異国人だという意識が、全くなくなるのだ。

 子供たちもリンに気付いて、各々アンティ(おばさん)と声をかけて手を振った。それにリンも微笑みながら、手を振って応える。

 僕は子供たちを伴って、休憩のために、一旦プールサイドに上がった。

 リンに「いつまで遊んでいるの?」と訊かれて、僕は「子供たちが飽きるまで」と答えた。彼女は笑いながら、「夕食まで、ずっとここにいることになるわよ」と言った。

 テーブル席に移動し、子供たちにもドリンクを勧めると、リンはそれを、やっぱり二つしか頼まない。子供たちは髪から雫をたらしながら、二つのジュースを、以前と同じように仲良く回し飲みした。

 プールは比較的賑わっていたけれど、子供は少なかった。周囲は全てが欧米人で、五人の子供を連れて遊んでいる日本人は異色の存在だった。けれど、そのことで周りから視線を感じることはない。彼らは読書をしたり、水遊びをしたり、プールサイドでアルコールを片手に歓談しながら、各々自分たちの時間をゆったり楽しんでいる。

 長女のメリアンが言った。「ねえ、アンクル、もう、プールに戻っていい?」

 彼女たちは、水遊びが楽しくて仕方ないようだ。僕の代わりにリンが答えた。

「いいわよ。でもアンクルはもう少しここにいるから、気を付けて遊びなさい」

 その言葉で彼女たちは、連れ立ってプールに戻った。僕は水滴のたっぷりついたマンゴシェークのグラスを持ちながら、プールで遊ぶ子供たちを目で追いかける。そんな僕に、リンが言った。

「彼女たちは、プールで遊ぶのが初めてなの。そういうのにずっと憧れていたのよ。だから嬉しくて仕方ないの」

 子供たちは、プール遊びに飽きることはなかった。リンは痺れを切らして、再び部屋に戻った。僕は保護者としてプールに残り、リンが話した通り、夕方まで子供と一緒に遊ぶことになった。そのせいで、僕を含めた全員が、とてもよく日焼けした。

 部屋に戻ると、全員肌を露出した部分が、真っ赤になっている。バスルームのミラーで確認すると、肩や背中、鼻の頭が赤くなっていた。水のシャワーで冷やしてみると、身体の内側にこもる熱が益々増長する。

 そのとき初めて、休暇明けに、その日焼けを周囲から注目されるだろうことに気付いた。五月の日本にいたなら、とても不自然な日焼けだ。しかも病欠の後で、健康的にこんがり焼けて出社するのは都合が悪い。さて、どう言い訳をしたらいいものか。まだ興奮を引きずる子供たちを前に、僕は一人悩んだ。

 しかし、六人のフィリピーナを相手にしていると、それも一過性の杞憂に過ぎなかった。みんなで行ったチャコールグリルの賑やかな夕食は、僕に日焼けのことなどすっかり忘れさせた。子供の様子に笑ったり彼女たちの面倒をみているうちに、こんな暮らしをこのまま継続できたらとても幸せだろうと、僕は思わず夢を見ていた。そしてセブで過ごす休暇が残り二日という現実に、大きくため息をついてしまうのだ。

 最初から分かっていた。一見長い十日の休暇など、一瞬で終わる。時は休みなく刻まれているのだ。気付けば全てが、一瞬で通り過ぎる。そして一瞬の積み重ねが、人生というものなのだ。

 僕は前回の出張も含め、フィリピン滞在中、自分が何かを積み重ねているという実感があった。もちろんそれまでの三十七年間、息をして食べて眠り、学んで恋もしたのだから、自分はそれなりに何かを積み上げてきたはずだ。しかしそれも一巡すると、勢いが失われ、手応えのようなものがなくなった。

 このままでは僕の人生は燻って、煙と化して消えてしまうのではないか。それが自分を追い立てるものの正体だった。

 フィリピンでの出来事は、この飽和しかかった自分の人生に、変曲点を与えるかもしれないという予感をもたらした。漠然としているけれど、自分の何かが変わるかもしれないという予感だ。あるいはそれは、自分の何かを変えたいという願望かもしれなかった。

 以前から僕は、日本社会に埋もれながら、人はもっと幸せに生きるべきではないのか、それができるのではないかという命題に突き当たるようになっていた。しかし、肝心の幸せとは何かがよく見えなかった。それはお金をたくさん稼ぐことなのか、世の中に名前を残すことなのか、会社で出世することなのか、それとも人の役に立つことか。

 どれもが正しそうで、少し違うような気がした。

 そんな矢先、僕はフィリピンを知り、リンに出会った。

 確かにフィリピンを初めて訪れた当初、この貧しく混沌とした世界に、一体どんな希望があるのかという疑いを持った。その一方で僕はフィリピンに、何かを見出し始めていたのだ。

 それは、フィリピン人が自由かつエネルギッシュで、自分の目に幸せにそうに映ることがよくあることに端を発していた。反面日本人は、豊かと言われる国で暮らしながら、自分も含めてどこか疲弊している。

 幸せとは何かを問う自分の前に、突然その解が、フィリピンを通しおぼろげに見え始めた。だからこそ僕は、フィリピン滞在中の出来事に大きく興味を惹かれ、それが自分の人生観に影響を及ぼすことになったのだ。

 特に、三ヶ月間の出張を終え、一旦帰国した自分の中で、フィリピン人と日本人の違いが浮き彫りになった。

 例えば日本人は、自分自身が求める、あるいは社会から求められる理想が高過ぎて、自分の実態と理想とのギャップに折り合いをつけられずに苦しんでいる。反面フィリピン人は、過酷な生活環境下でも溌剌はつらつとしている。

 この違いは一体何なのだろうと、僕はそれを不思議に感じた。そして次第に、これは自分と彼らの持つ、価値観の違いに起因するのではないかと思い始めた。

 人は自分の足元に転がる小さな幸せに気付き、それをもっと大切にすべきなのだ。毎日清潔を保つことができ、ご飯を食べることができ、ベッドで安心して熟睡できることが、どれ程恵まれ感謝すべきことか。

 日々の生活や周囲との関わりに感謝の気持ちを持つことができれば、それが幸せに繋がる。それが日々を大切に生きることにも繋がるのではないか。僕の虚ろな疑問に対する答えは、きっとその辺りにあるはずだった。


 子供たちはそれから二日間、僕の部屋に宿泊し、ホテル生活を満喫した。映画、食事、ショッピング、そしてプール遊びと、イベントには事欠かなかった。

 もちろん僕もそれを楽しんだ。彼女たちの笑顔が、天から授かった恵みのように感じられる。それを授かったことに、自然と感謝の気持ちが湧き、幸せな気分に浸った。

 これまでの自分は、なぜ身近にあるそんな幸せに目を向けることがなかったのだろうと、不思議な気分だった。

 そして、楽しければ楽しいほど時間の経過が早い。休暇最後の二日間は、瞬く間に消化された。

 セブでの最後の夜、夕食が終わりに差し掛かった頃、リンは子供たちを家に返すと言い出した。確かに翌朝は、ホテルを五時にチェックアウトしなければならない。しかし僕が全てを精算してホテルを出た後、みんなは昼までホテルでくつろぐことができる。何か追加の料金が発生しても、自分が置いていくお金から支払えばいいのだ。だから何も心配はいらない。

 それでもリンは、少しいたずらっぽい目をして「大人の時間も大切なのよ」と言った。

 彼女は、デザートのアイスクリームを食べる子供たちに視線を向けた。

「子供たちは十分楽しんだわ。きっと、生涯忘れない思い出になったはずよ。だからこのあと二人の時間を貰っても、彼女たちは文句を言わない。それにね」彼女は僕の耳元に口を寄せて、声を小さくした。「わたし少し、子供たちにジェラシーを感じているのよ」

 僕は思いもよらないその言葉に、「ほんとに?」と少し大きな声を出した。それで子供たちが、一斉に僕たちのほうを振り向く。それからリンが楽しそうに笑うのを見て、彼女たちは安心してアイスクリームに向き直り、おしゃべりを再開した。

「あなた、また僕をからかったの?」

 リンはまだ笑っていた。

「からかってなんていないわよ。あなたがとても驚いたから可笑しかっただけ。ただね、このまま二人の時間を作らずあなたと別れることに、不安を感じるの」

 それを言い終えたとき、彼女は真顔になった。

「どうして? 僕はこの十日間で、あなたを益々身近に感じるようになったのに」

 彼女は小さく頷いてから言った。

「それはわたしも同じよ。でもたった十日間に色々なことが詰まり過ぎていて、実感が湧かないのよ。あなたが日本へ帰ってわたしが朝目覚めたら、素敵な夢がきれいさっぱり消えて、また現実に戻るなんてことがあり得るような気がするの。もしそうなら、そんな夢なんて見なきゃよかったって思うでしょう?」

 この状況に、きちんと責任を取ってくれるのよねと、訴えているようにも聞こえる。

 大きな目が、僕をじっと捕らえた。彼女は僕が、これは夢じゃないと答えるのを待っているのかもしれない。でも、そんなふうにきっぱりと言い切れる自信はないのだ。

「僕も日本に帰って仕事に追われ出したら、あの十日間は夢だったのかって疑うかもしれない。いや、きっと疑うんだよ、僕も。それでどうするかと言えば、多分それは、夢だったんだろうって思うんだ。疑うことを止めて、あれは夢だったと認定してしまう。そうすると、少しすっきりすると思う」

 彼女は素早く目を瞬かせ、「認定しちゃったら、二人はどうなるの?」と言った。彼女の顔に、不安の色が広がった。

「夢を見続けるように努力するんだよ。見続けたい夢なら、頑張って見続ければいいよ」

 彼女から、漂白剤でもかぶったように、表情というものが抜け落ちる。それがいい話しなのか悪い話しなのか、判断しかねているようだ。

「見続けたらどうなるの?」

「もし見続けることができたら、これは現実だとそのうち気付く」

 彼女は意外そうに目を見開き、「そうなの?」と疑り深い顔を作った。

「だって実際、そんなもんだと思うけど。ただ、夢とは違う現実も、そこにはあるかもしれない」

 彼女はまだ、僕の言うことを飲み込めないというように、ぼんやりとした表情を顔に浮かべて考え込んだ。そして、何かに気付いたように口を開いた。

「夢を見続けるには、実際はどうするの?」

 僕は出来るだけ、具体的に答えた。

「とりあえず日本に帰っても、あなたに度々電話をする。生活費を送る。そのために仕事を頑張る。なるべくセブに来るよう努力する。そのときは出来るだけたくさんのお土産を持ってくる。一番大事なことは、離れていても、出来るだけ会話をすることじゃないかなあ」

 彼女を口を強く結んで、少し考え込んだけれど、やがて静かに口を開き、「分かった」と言った。そのときの僕を見つめる彼女の顔には、とても穏やかな笑みが宿っていた。


 子供をジミーの車で送り届けたとき、彼女たちは数日のバケーションに大満足した様子で、「ありがとう、アンクル」と元気に声を揃えて言った。彼女たちは僕が異国からやって来て、また異国に戻ることを知っているようだ。長女のメリアンが、「次はいつ来るの?」と訊いた。

「さあ、いつになるかなあ。まだ分からないけど、来たらまた一緒に遊ぼうね。必ず誘うから」

 子供たちがその言葉に、うん、遊ぼう遊ぼうと喜ぶ。メリアンが約束よと言って、小指を差し出した。僕も自分の小指を重ねて、約束するよと言った。傍らでその様子を見ていたリンが、区切りを付けてくれる。

「さあ、もう家に入りなさい。早く早く」

 鶏を追い込むように、彼女が子供たちを急かした。僕も一緒に玄関まで入った。

 リンは子供たちに、自分はアンクルと一緒にホテルに戻ると告げ、前と同じように子供たちへ諸注意を伝えた。後で子供たちの父親が来るようだ。子供たちは、それを神妙な顔で聞いていた。

 これで彼女たちは、自分の世界に戻る。そして僕も、翌日は自分の世界に戻る。お互い元々いた世界に戻るのは最初は少し辛いかもしれないけれど、それもすぐに慣れて、また当たり前のように日常を刻むのだろう。

 僕はそのとき、とても寂しい気分になった。

 最後のさよならの挨拶を交わし、元気な子供たちの色々な言葉で見送られると、とうとう大きなイベントが一つ、幕を閉じてしまったのだと僕は思った。

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