第13話 パングラオリゾート
フィリピン三日目もやはり快晴。ホテルレストランの窓際には、柔らかな朝の陽が差し込んでいた。休暇中、これほど天候に恵まれるのは幸運だと思っていると、リンが教えてくれた。
「フィリピンは今、サマーシーズンになるのよ。だから毎日暑いでしょう? 学校もサマーホリデーなの」
フィリピンが常夏だと思っている僕は言った。
「今はサマーって、ここは一年中夏じゃないの?」
「違うわよ。フィリピンにも季節があるのよ。知らなかったの? 十二月はウィンターだし、四月からサマーになるの」
暑ければ暑いなりに、何かの違いで季節を表すようだ。
「サマーが終われば何になるの?」
「六月頃からレイニーシーズンになるの。それが終わるとだんだん寒くなって、十一月頃からウィンターシーズンよ。その頃はもう、クリスマスシーズンになるわね」
僕は少し、混乱した。
「クリスマスは季節じゃないでしょう?」
「フィリピンは九月からクリスマスシーズンよ。九月はセプテンバーで十月はオクトーバーでしょう? 後ろにバーが付けば、クリスマスシーズンなの。フィリピンのクリスマスは、見たことないでしょう?」
僕はもちろん、ないと答える。
「いろんなところが電飾で一杯になって、とても綺麗よ」
「僕には暑いクリスマスって、想像できないんだけど」
「一度見れば分かるわよ。全ての家がぴかぴかの飾りつけをして、クリスマスを祝うのよ。家だけじゃなくて、街中がそうなるの」
その季節に電飾だらけになるなら、電気代がとてもかさみそうだ。それに、それだけの電力を賄う能力が、セブという島にあることを僕は不思議に思うのだ。いや、フィリピン全土がそうなるのであれば、フィリピン全体の電力供給能力の話しとなる。何かあればすぐに電気が止まるフィリピンで、クリスマスに必要な電力は、一体どこからやってくるのだろうか。電力の源は石炭だろうか、それともオイルだろうか。どう考えても、原子力はなさそうだ。
電気のことと言えば、工場で面白い話しを聞いたことがあった。頻繁に停電のある町で、工場の周りにいつも数軒、電気の消えない家があったそうだ。
その家は、停電になると自家発電に切り替わる工場から、電力線を引っ張り出して泥棒していたらしい。停電時に電気が消えないことからそれが発覚し、線を全て切られたそうだ。
加えてフィリピンは、アジアで最も電力料金が高いと言われている。日本やシンガポールよりも高いようだ。地元新聞の記事によると、フィリピンの電力料金は世界で五番目に高く、その原因は、政府補助がないことと、電気泥棒だということだった。
確かに貧困街の電力配線は、すさまじくこんがらがっている。手当り次第に線を繋いで自分の棲家へ引き込むから、そうなってしまうのだ。その配線は見事に混沌とし、くもの巣が如何に整然としているかを思い知らされるくらいだ。フィリピン人の、何でも何とかしてしまうという素晴らしい能力が、そんなところにも遺憾なく発揮されているということだ。しかし、正しいやり方とかクオリティーがどうだとか、細かいことは気にしないから、使用する線材の容量が不足し、それが元で火事の発生が後を絶たない。
それでもフィリピンの人たちは、クリスマスになれば電飾で家を囲み、クリスマスを精一杯祝うということだ。
「いつかクリスマスに来るから、そのときは是非、綺麗な電飾の街を堪能させてもらうよ」と僕は言った。
ボホールに行くにあたり、セブのホテルはそのままにすることにした。きちんと予定が立っていないからで、そうなると、ホテルへの説明も再予約も面倒だからだ。
午後の高速フェリーで、ボホール島へ渡る予定だった。朝食のあとは部屋でコーヒーを飲んで、ベッドで日本の小説でも読みゆっくり過ごす。ミニ旅行の荷造りは終わっているし、あとはモールでランチを食べて、そこからフェリー乗り場へ直行という段取りだった。
行くまでの段取りはあるけれど、行ってからの予定が皆無だった。ホテルの予約すらしていない。これで本当にいいのだろうかと不安はあるものの、一緒に行く地元のリンが、どうにかなると言っている。どうにかなると言うなら、どうにかなるのだろう。いや、仮に何かあっても、どうにかするしかないのだ。これは会社に内緒の隠密旅行だ。決して旅先で、事件、事故があってはならない。
リンは僕の一抹の不安をよそに、幸せそうに朝食を食べていた。痩せた体のどこにそれだけ入るのかというくらい、何かを取ってきては食べ続けた。それだけを見ていると、彼女の辞書に、悩みや心配という言葉があるのか怪しくなるけれど、きっとそういうものも彼女の中にあるのだ。ただし、彼女の体のどこかにスイッチがあって、そのスイッチがどちらに入っているかで、様子がころりと反転してしまうだけのことだ。
僕はそれまでも、フィリピン人の、突然様子が変わることに面食らい、そしてときどき、悩みや心配ごとをいつまでも引きずらない彼ら彼女らの特性を、幸せに生きる秘訣かもしれないと感心してきた。そして僕は、そんな性質を羨ましいと思っている。つまり、自分もそうありたいと願うけれど、実際には中々そうなれない。日本人としての性が、そうなることを邪魔するのだ。
朝食後の予定は、きちんと実行に移された。僕は本を読み、リンは携帯をいじったり、僕が日本から持参したCDを一枚ずつ吟味した。
そしてモールでランチをゆっくり取り、ジミーのタクシーでフェリー乗り場へ移動した。乗客情報を記入してチケットを購入、順調にフェリーに乗船となる。
フェリーの出発時間は四時だった。そしてボホール島のタグビラランへの到着が夕刻の六時。数百人は乗れそうな大きなフェリーは揺れることなく、ディーゼルエンジンの音を律儀なくらい安定的に響かせて、およそ二時間の航海を終えた。
ボホール島のタグビララン港に到着すると、フェリー乗客出口の先に、百は超えそうな大勢のトライシケルが、乗客を待ち構えていた。客を捕まえようと、我も我もとこちらに手を上げて、自己アピールしていた。リンが事前に話した通り、移動はどうにかなりそうだ。
そのうちの一人と交渉してみると、英語が全く通じなかった。そこでリンの登場となる。
彼女はドライバーと交渉し、パングラオのホテル紹介と、そこまでの移動として、百ペソで賄うという話しをまとめた。
時間は六時半となり、辺りはオレンジがかった薄暗さが到来していた。目的地に到着済みであれば、長閑で涼しい夕暮れを楽しめる雰囲気だけれど、そうでない身では、闇がすぐそこまで迫っていることに焦る必要があった。なにせそこは見るからに田舎町で、その辺で適当なホテルをチョイスして泊まるというわけにはいかなそうだからだ。辺りにはコンビニもレストランも見当らず、この場所で女性連れで闇に包まれたら、立ち往生となりそうだった。
トライシケルは港からすぐの狭い坂道を上り、大きな道に合流した。そこから快調に飛ばすけれど、辺りはどんどん寂しくなった。三十分も走ると陽は落ち、そして街灯も人家もなく、周囲は完全な闇に包まれてしまった。ビーチリゾートに向かっているはずが、まるで山奥のほうへ向かっているような気配なのだ。
リンに何とかなると言って欲しくて、「大丈夫かな? このドライバーに騙されてないよね?」と訊いてみると、「さあ、分からない」と言われ、僕はますます不安になった。全く見知らぬ場所へ運ばれ、そこで大勢のお仲間が登場したら、僕たちはどうにもならない。そうではなくても、街灯のない真っ暗な山道をトライシケルの弱々しいヘッドライトだけで走るのは、本当に心細かった。しかも、もし何かあっても、周りの助けなど一切期待できない場所だ。
そんな道を、延々と一時間も走っただろうか。ようやく少しずつ建物の灯りが見え始め、それで僕は、久しぶりに落ち着きを取り戻す。
ぽつぽつと現れる民家の横を通り過ぎ、トライシケルが二階建てアパートのような建物の前で止まった。ドライバーが何か言い、その建物に入る。
看板のようなものはなく、ドライバーが戻ってくるまで僕はそこを、今晩宿泊するホテルだなどと思ってもみなかった。ドライバーがリンに何かを告げ、彼女は僕に「泊まれるそうよ」と言ったことで、僕はようやく状況を理解し唖然としたのだ。
「どうする? ここでいい?」
本当にホテルなのか疑わしいけれど、ここを断れば、また真っ暗な夜道をひたすら走り続けるのだろう。それもまた怖い。泊まれるというなら、一先ずここで手を打ったほうが、得策かもしれない。ホテルの良し悪しより、泊まる場所の確保が優先だ。僕は一旦建物に入り、そこがホテルだと確認してから了承した。
ドライバーに料金を払い、二人は改めてホテルに入った。オーナーらしき、怪しげで太った中年女性が宿泊料金を提示し、支払いと引き換えに部屋のキーが手渡される。チェックインカードの記入もなく、まるでラブホテルのような手続きだ。宿泊料金も、リゾート地とは思えない破格の安さだ。
部屋に入ると、不思議なベッドの配置だった。ツインの部屋だけれど、金属パイプ製のシングルベッドが、殺風景な十畳くらいの部屋の両壁際に別れて置かれている。ベッド以外の調度品はテレビを除いて一切なく、清潔感もなく、床には砂が落ちていて、素足の裏にざらつき感がある。
耳を済ませると、潮騒が聞こえた。どうやら海辺のホテルのようだ。そう言えば潮の香りがする。
若い頃、山や海で散々サバイバル生活を経験した自分は、寝ることができれば上出来と思うほうで問題なかった。しかし、旅行に期待をしていたリンには申し訳なく思う。
「あまり立派なところじゃなくてごめん」
面目ないというつもりで言うと、彼女は「これで十分よ」と言ってくれた。そんなふうに言われると、こちらはますます申し訳なく思う。
「お腹空いたね」
「そうね、わたしも」
二人でそんなことを言い合うと、一層侘しさが募った。
そこで僕は、とても大切なことに気付いた。夕食をどうすべきか、まるで考えていなかった。
僕はドライバーが、大きなリゾートホテルに案内してくれるとばかり思っていたのだ。そうであれば、食事はどうにでもなるはずだった。しかし、このホテルに到着するまで、周辺にレストランや食堂らしきものは一つも見当らなかったし、隠れた場所にそんなものが有りそうな気配もない。問題は、ホテルにもレストランはなさそう、ということだ。
それでも、簡単な食事くらいは用意してくれるかもしれない。僕はホテルの受付けで、祈るような気持ちで食事の件を尋ねた。
案の定、ホテルにも周辺にもレストランはないし、食事は用意できないと言われた。それもつっけんどんに。
こんなところで食事を期待するなんて、あんた、馬鹿じゃないの? とは言われないけれど、従業員の口調には、それに近い雰囲気が感じられ、僕は大きくへこんだ。
へこんだところへ従業員が、カップヌードルならあるよと、受付け近くの売店コーナーの棚に並んだそれを指差す。どうやらノーチョイスというシチュエーションらしい。しかも、たかがカップヌードルに、後光が射している。
僕はそれを二つ買い、お湯を入れてもらって部屋に持ち帰った。
部屋の前で、リンに呼びかけた。「ディナーを調達してきた。両手がふさがっているからドアを開けて」
キーの外れる音がして、彼女はドアを開けてから、僕の両手をじっと見た。
僕は再び、「ごめん」と言った。
しかしこんなときは、彼女のほうがずっと上手だった。
「カップヌードルがあるなんて、上出来じゃないの。今日はテキーラとカラマンシーで終わりだと、覚悟していたんだから」
「そう言ってもらえると、僕はとても救われるよ」
そうやって僕たちは、部屋の床に向かい合って座り、カップヌードルをすすった。部屋にはテーブルさえないのだ。
いきなりサバイバル的なミニ旅行初日の出来事に、僕はパングラオ恐るべしと、唸るしかない。しかしリンが言った。
「食事が終わったら、テキーラを持って、海に行きましょう。たぶんすぐ近くよ」
こうなれば、徹底的にサバイバルを楽しむしかない。僕もそれに賛成する。
食事が終わり、彼女がシャワーを浴びている間、日本から持参したボホールのガイドブックのページをめくった。もちろんパングラオリゾートには、大きなリゾートホテルがたくさん掲載されている。逆に、自分のいるホテルはそこに載っていない。
トライシケルで走った時間から、自分がいる場所を推定した。それによれば、リゾートホテルの場所はそれほど遠くないはずだ。
もう少し進んでいれば、きちんとしたホテルに泊まれたのにと思ったけれど、地元のトライシケルドライバーが紹介する場所だ。もう少し進んだところで、結果は似たり寄ったりだったような気もした。僕は最初からそれを、疑ってかかるべきだったのだ。
翌日はホテルを変えよう。持参したガイドブックから、一つのホテルに目星をつける。当日の予約になるけれど、翌朝に電話をすることにした。
リンがシャワールームから出てきて、「何をしているの?」と訊いた。
「明日泊まるホテルの確認。もう少し、まともな場所に移ろうと思うんだ」
「そう? 別にここでもいいのよ、わたしは」彼女はそう言うけれど、食事がないという物理的問題は、どうしても譲れない。それについては、彼女も「そうねえ」と同意する。
いざテキーラ持参で海に行こうという段になり、グラスがないことに気付いた。グラスさえ部屋に備えられていないのだ。そんなものを頼むなんて、あんた、馬鹿じゃないの、と言われそうで、ホテルに頼むのは憂鬱だったけれど、どうにか受付けで二つのグラスを借りてきた。
半分にカットしたカラマンシーを入れたビニール袋と、テキーラボトル、グラスを持って、ホテルの外へ出る。
暗くて先がどうなっているのかよく見えないけれど、波の音がするほうへ二人で進むと、五十メートルも行かないうちに、砂浜に出た。灯りが全くないせいで、周囲がどんなふうになっているのか分からない。朽ち果てた小さな漁船が、砂浜に放置されているのが辛うじて分かった。
僕たちは、波打ち際から五メートルくらい手前の砂浜に腰を下ろした。目が慣れてくると、浜の砂がずいぶん白っぽいことに気付く。手に取ると、随分極めの細かい砂だ。
真っ暗で、海はまったく見えなかった。ただ、砂浜に打ち上がる波が、暗がりに白く薄っすらと浮かび上がる。波の音が断続的に聞こえ、潮風も間断なく吹いていた。
ようやくくつろいだ気がした。彼女はグラスにテキーラをついで、その中に半切りのカラマンシーを入れて僕に手渡してくれた。
二人で軽くグラスを合わせ、しばらく無言でそれを飲んだ。
灯りもないし、聞こえるのは波の音だけだ。それ以外は一切何もない。テレビの音はもちろん、カラオケの音も、車やバイクの音もない。不思議なシチュエーションだ。なぜ不思議かを考えてみて、普段、そんな環境の中に身を置くことがほとんどないことに気付いた。それで自分が、何もない世界に不慣れだと知った。
不慣れだけれど、悪くない。とても落ち着く。何もないのだから、リラックスすること以外にすることがない。俗世間に身を置いていれば、そんなふうにくつろぐ機会はほとんどないのだ。あるとしても、煩わしい世界が隣り合わせの、仮初リラックスだ。
グラス一杯のテキーラで、自分が酔っていることを感じた。先日のテキーラと、種類が違うのだろうか。
「今日は酔いの回るのが早い。もう顔が熱いよ」
「わたしも少し、酔ってきたみたい」
僕は座っているのが苦痛になり、砂浜に寝転んだ。夜空を埋め尽くす星が見えた。一つ一つが、街で見るそれの十倍はありそうな大きさの星が、半球にまんべんなく散りばめられていた。それをじっと眺めていると、平衡感覚が狂い、自分が星の世界に吸い込まれているような錯覚を覚えるほどだ。
「凄い星だ。こんなに沢山の星を見るのは初めてかもしれない」
彼女も僕の横で仰向けになった。
「ほんとに凄いわね」
「明かりがなにもないから、普段見えない星までよく見えるんだね」
「どうしてこんなに多くの星があるの?」
「さあ、宇宙は広いからじゃない?」
「宇宙ってそんなに広いの? どのくらい広いの?」
「あなた、子供みたいなことを言うね。僕も広いということしか分からない。どのくらい広いかなんて、きっと誰にも分からないよ」
「偉い先生にも分からないの?」
「たぶん分からない。誰も宇宙の端まで行ったことがないから」
「宇宙の端ってどうなっているのかしら?」
「それも誰にも分からない。端はなくて、今でも宇宙は、どんどん広がっているという説もあるけど。でも端っこのない空間って、一体何なのか不思議だよね。僕は、そんなものは有り得ないと思ってる。だから僕はかつて、一つの仮説を立てたんだ」
「それはあなたのクレージートーキング?」
「違うよ、ただの遊びみたいなものだ。僕はね、宇宙には端があると思っている。実は宇宙というのは、ただの四角い箱の中じゃないかって思うんだよ。その箱は、僕たちから見たら無限に見えるほど大きな箱だけれど、その箱が置かれている世界では、普通の小さな箱なんだ。それでその箱には所有者がいる。宇宙を軽々と持ち上げるくらいの巨人だよ。そして巨人が住む世界にも宇宙があって、巨人たちはその宇宙を無限だと思っている。でも実は、巨人たちの宇宙も一つの箱に入っているだけで、その箱の世界には更にすごい巨人が住んでいる。そんな世界が無限に連なっているんだ」
「そしたら、わたしたちのいる箱が開けられたり壊されたりしたら、この世界は変わったりなくなってしまうの?」
「そう。でもね、巨人の世界の時間はものすごく遅いんだ。巨人の瞬きする時間が、僕たちの十万年か百万年くらい。だから箱が壊される運命にあったとしても、僕たちにとってはずいぶん先のことになるかもしれない。でもいつかは何かが起こる。それはたまたま、明日かもしれない」
「壮大な作り話しね」
「そう、壮大だよ。世間に発表しちゃおうかと思ったくらいだ。それでね、僕が今話したことで何か気付かない?」
「え?」彼女は少し考えて、分からないと言った。
「僕たちが箱に入っていて、そんな世界が宇宙の先に連なっているとしたら、僕たちの世界にも同じような箱があって、その中に宇宙があるんだよ」
「それはどういうこと?」
「つまりね、どこかに箱があって、その中には宇宙があって、その中に地球のような世界があって、その上で小さな生物が暮らしているんだ。彼らの百万年くらいが僕らの一秒で、僕たちが瞬きする間にも、その中でたくさんの人生が始まって終わっている」
「そうなの?」
「これは単なるお遊びの仮説だから、そんなに驚かなくていいよ。ただね、例えば電子回路には、クリスタルっていう部品を使うけれど、これは一秒間に百万回とか一千万回振動するんだ。でもそんな物理現象って、本当に有り得るのかって、僕はずっと不思議だったんだ。まあ、実際にあるんだけどね。それで、そんな物理現象があるということは、さっき言ったような小さな宇宙があって、僕たちより遥かに小さな刻みの時間が流れる世界があるってことではないかに思い当たった。世の中の製品は、なんでも日進月歩で速くなっている。それはつまり、技術が小さな宇宙の入る箱の世界に到達し、更にその世界にある箱の中の宇宙に到達するということじゃないかなって。物を作っている人は、そんなことを意識していないだけで、実はそんなことがこの世の中で起こっている」
「すごい想像ね。それでつまり、宇宙には端があるってこと?」
「そう、僕の仮説が正しければ端がある。そしてこの話しの結論は、人の人生なんて、そんなものだってことなんだ。僕たちが瞬きする間に、別の世界ではこの星の数より多い人の人生が始まって終わるんだから。逆に自分たちを取り囲む世界では、僕たちがあくせくして生きている時間なんて、巨人の瞬きする時間にも相当しない」
「きっとはかないものなのね」
「そうだよ。だから人生の失敗をうじうじ引きずって生きるなんて、愚の骨頂で意味がないんだ。個人的に抱える小さな問題なんて、顕微鏡で覗いたって見えないくらい、小さいんだから。まして歳を取ると分かるけど、年月が経つのはものすごく早い。みんな、いろんなことを簡単に忘れてしまう」
「わたしだって、気付いたら二十年以上も生きてるものね」
「僕なんか、もうすぐ四十年だよ」
「それも不思議な話しね。わたしが生きてきた年月の、倍くらい生きてるなんて」
「不思議じゃないよ。あなただって、すぐにそれくらい生きることになる。その頃に僕は、もうよれよれの爺さんになっているよ、きっと」
「そうかしら。あなたは弥太郎さんみたいに、恋人を作って元気でいるんじゃないの?」
「そうありたいね」
「それにしても、気持ちがいいわ」
「ほんとうに」
僕たちはしばらく星を眺め、テキーラをちびちびと飲み、潮騒に耳を傾けた。予定に振り回されず、時間に身を任せるのは気持ちがよかった。全て成り行きで予定は未定。そのまま砂浜で寝てしまいたいと、本気で思ったくらいだ。
二人でテキーラをボトルの三分の一くらい飲んで、その日は店じまいとした。
部屋に戻り、リンが先にシャワーを浴びた。僕がシャワーを終えたとき、リンは入り口から向かって右側のベッドにいた。それで僕は、もう一方の左側のベッドに陣取った。
その途端、リンが不思議そうに言った。
「どうしてそっちに寝るの?」
これまでは大きなサイズのベッドが一つしかないから、同じベッドに寝るのが当たり前だったけれど、そこはシングルベッドが二つなのだ。
「せっかく二つあるんだから、別々に寝ようと思ったんだけど」
「こっちに来てよ。一人じゃ怖いじゃない」
「そっちに行ってもいいの? 狭いよ」
「いいに決まってるじゃない。今更なによ。こっちに来て」
僕はリンの隣に寝そべった。シングルベッドだから、とても狭く、自然と体が密着する。
彼女は僕に抱きつくような格好で、目を閉じて眠る体制に入った。僕も彼女を抱いて目を閉じた。
僕は、その状況でどうすべきかを再び迷い始めた。彼女が望むなら問題はないけれど、望まないとしたら、僕はそのままでいい。
体が硬直する。息をするのさえ遠慮ぎみになり、身動き一つせず、彼女の息づかいをただ伺った。彼女のそれより、潮騒のほうがよく聞こえる。
そろそろ眠ったと思っていたリンが、突然口を開いた。
「ねえ、あなたはわたしと、ソクソクしたい?」
僕は少し驚いたけれど、正直に答えた。
「あなたがしたかったらしたい。したくないなら僕もしたくない」
彼女はくすくすと笑って、「でもあなたのここが、大きくなってるわよ」と、僕の股間に軽く触った。
「やっぱりばれてる? でもそれは自然現象だから、仕方ないんだよ。気にしないで欲しい」
そう言いながら、僕はとても恥ずかしかった。
「でも、本当はやりたいんでしょう? 我慢していない?」
「やりたいというよりは、出したいという感じだよ。射精することとセックスをするのは、違うことなんだ」
「どう違うの?」
「セックスは一種の交換なんだよ。お互いに何かを交換する。それがないのはセックスとは言わない。だから、あなたにその気がないなら、僕はそんな行為をしても意味がない。ただの射精で事は足りる」
「だったら出したい? 手でよければトライしてもいいわよ」
意外な申し出だったけれど、正直それはとても助かる。こうしていつも二人でいると、どうしても悶々とすることがあるのだ。
「お願いしてもいいの?」
彼女はそれに何も答えず、僕の唇に自分の唇を重ねた。自然と強く抱き合い、重ねた唇の間で舌が絡み合う。それは既に、何かの交換作業と言ってもよいものだった。
彼女の手が僕の股間に伸び、下着の中に入ると、僕の大きくなったものを優しく包み込んだ。それだけでとても気持ちが良かった。しばらくして彼女は僕の下着をずり下ろし、少し強めに手を動かした。気持ちが高ぶってくると、僕は自然と彼女の体をまさぐった。それでますます快感が強くなった。十分もそうしていると、僕は我慢できなくなって、「もう出る」と彼女に告げた。
彼女は僕から体を離し、座って動かす手の速度を速める。そして僕は、彼女の見ている前で射精した。それでずいぶん楽になった。
「ありがとう。本当に助かった」
「いいのよ。シャワーしてきて」
リンは僕が果てるまで真剣な顔つきだったけれど、終わってからは少し笑っていた。
「どうしたの? 何か変だった?」
「変じゃないわよ。ただね……」
「ただ、なに?」
「少し驚いただけ。凄く勢いがいいのね」と言って、彼女はまたくすくすと笑った。確かに彼女は、僕が射精するのを、研究者が何かを調べているときのように観察していた。
僕は恥ずかしさをごまかし、ボアンと言って、シャワールームに退散した。
このことで、僕と彼女の距離はまた縮まった。物理的結合という行為がないだけで、精神的にはしっかり結びついている。
それは喜ばしいことであり、一抹の不安を含むものでもあった。僕は流されているのか、それともこの成り行きが自分の意思なのか、次第に分からなくなっていた。
リンが、フィリピンは今サマーシーズンと言った通り、翌日も朝から快晴だった。
受け付け近くの売店に行ってみると、昨夜はなかったパンが置かれていた。僕はそれらを朝食として適当に見繕い、缶コーヒーと一緒に買った。
朝食後、前夜目星を付けたリゾートホテルに電話をしてみた。ゴールデンウィークは日本だけで、しかも日本人は、そんな辺鄙なリゾートまで足を伸ばすことがないらしく、予約は意図も簡単に成立した。予約したホテルの場所は、昨夜確認した通り、そんなに遠くないはずだった。
「せっかく海辺にいるんだから、ぶらぶら歩いて行こうよ」
そんな提案に、リンが目を瞬かせた。
「それは無謀よ。もし近いとしても、外は随分暑くなるわよ」
海辺の散歩が、絶対気持ちがいいと思っている僕は言った。
「でもこのホテルはトランスポーテーションの確保が難しそうだし、歩くのが大変になったら、トライシケルでも捕まえればいいんじゃないの?」
それで彼女は渋々了解する。
しかし、いざ歩いてみると、僕は自分の考えが、如何に甘かったかを知ることになった。
最初は適度に潮風が吹いて、気持ちが良かった。気持ちがいいうちに次のホテルに到着すればよかったけれど、いくら歩いても、リゾートなど影も形も見えないのだ。
次第に陽が高くなると、木陰を選んで歩かなければ、日射病にかかり倒れてしまう心配も出てきた。道路の先は、常に陽炎で景色が揺らいでいる。
リンの進みがすぐに悪くなった。気付けば自分の五十メートルか百メートル後ろを、体をふらつかせて歩いているのだ。
道路はリアス式海岸のように、しつこいくらい曲がりくねっている。そのせいで、少なくとも直線距離の三倍くらいは歩かなければならない。
もし車かトライシケルやバスが通りかかれば、僕は迷わず親指を立てて、乗せてくれとお願いするけれど、そんなものはまるで見かけない。人家もないし、人どころか野良犬さえいなかった。
無謀な冒険を始めてしまったと気付いたときには、十分遅かった。後ろに引き返した場合、出発したホテル以外何もないことが確定している。前に進んだ場合は、しばらく砂漠の強行軍のように、辛い歩行になるかもしれない。しかし、いつかはリゾートホテルに辿り着く。それはもうすぐかもしれないし、しばらくあとかもしれない。あるいは辿り着く前に、野垂れ死にする可能性もある。リンの歩みが、目に見えて遅くなっているのだ。男の自分でも疲労が顕著なのだから、彼女には相当堪えるだろう。
容赦ない陽射しとアスファルトの照り返しが、もはや拷問に等しかった。しかし、一度立ち止まってしまえば、もう前には進めなくなるような気がした。リンの気力が途切れてしまえば、それで終わりなのだ。もう、歩き続けるしかなかった。
せめてバスか車でも通れば救われるのに。
そんな望みがないと知ると、何も考えず、ただひたすら歩いた。随分後方を歩くリンを、ときどき立ち止まって待つ。冷たい水が飲みたい。リンも同じはずだ。彼女が追い付くと、大丈夫かと声を掛け、また歩き出す。
どれだけ歩いても変わらない景色に途方に暮れ出したころ、一つの集落が現れた。民家がぽつぽつとある。僕はその一軒一軒を覗き込むように、確認しながら進んだ。車か何かを持っている家があれば、交渉しようと思ったのだ。
集落でありながら、道路にも家の庭にも、人っ子一人いない。まるで廃村の、もぬけの殻状態だ。どの家も寂れて、しんとしていた。
そんな中で、僕はトライシケルを発見した。庭に、木材や何かの破棄物に埋もれているトライシケルが見えていたのだ。それが動くかどうかは極めて怪しいけれど、ようやく見つけた希望の星だ。当たって砕けることになっても、確かめずにはいられなかった。
はるか後方を歩くリンに、この家に入るとジェスチャーで示し、僕はその家の庭を突っ切って、玄関から家に入った。中は薄暗く、しんとして誰もいない。
僕はハローやエクスキューズミーを繰り返した。すると、昼寝をしていたらしい三十前後の男性が、物陰からむくりと起き上がった。
「すみません、外にトライシケルが見えたので立ち寄ったんですが、この先のリゾートホテルまで、送ってもらえませんか?」
彼は昼寝を邪魔されて、機嫌が悪そうに何かを言ったけれど、地元のビサヤで話すのでこちらは理解できない。英語を話せないかと訊いてみるけれど、彼はビサヤで返答する。
お互い通じない言葉でコミュニケーションを試しているところへ、いつの間にかリンが追いつき、弱々しい声で後ろから言った。
「彼に英語は通じないわよ」
「そうなの? だったら彼に、あのトライシケルを動かしてくれるよう、頼んでくれない?」
彼女はビサヤで彼と交渉し、百ペソでホテルまで送ってもらえることになった。
彼は人が変わったように、トライシケルに覆いかぶさった木材やがらくたを、てきぱきと取り除き出した。
邪魔なものをどけても、トライシケルのエンジンが掛かるか、それが問題だ。どう見ても、しばらく動かしていないように見えた。
僕と彼女が見守る中、彼はエンジンをかけようとスターターを懸命にキックする。二度目まで空振りで、これは駄目かとため息をつきそうになったとき、三度目のキックでトライシケルがガラガラと音を立て、深い眠りから目覚めた。
トライシケルは庭から空いている道路に出て、快調に走り出した。しばらく山道を進み、ようやく海と同じ標高まで降りるけれど、海は見えず、道路の両脇はジャングルだ。そしてまだまだ走る。もしその行程を歩いていたら、間違いなく自殺行為だったとぞっとした。リンは、言葉を発する元気もないようだ。僕の肩に頭を預け、目を閉じてじっとしている。
しばらく行くと、トライシケルはジャングルの中へと向かう脇道に折れた。そして数分も走ると、リゾートホテルのセキュリティゲートが現れる。ホテルゲストであることを告げ、そこを抜けてからもまた数分走った。元々、歩いて行ける場所ではなかったのだ。
ミニ旅行初日の失態を挽回しようとしたホテル変更は、初日より酷い失態の上塗りとなり、僕はへこむしかなかった。
ホテルの部屋は、砂浜に独立しているバンガロータイプで、チェックイン後は、ほんの数分砂浜を歩かなければならなかった。綺麗な白い砂のプライベートビーチが目の前に広がり、普通であれば苦にならない道のりでも、彼女の体力は既に限界を超え、命からがら部屋に辿り着いたという体だった。
南国のクボハウス風の部屋は、外観は草の屋根に竹を使った壁だけれど、部屋の中はとても清潔感があり、落ち着いていた。調度品は全て木製で、キングサイズベッドには、柔らかそうな掛け布団と大きな枕が四つ乗っている。ソファーやテーブルがゆったり配置され、広さも十分だ。窓から白い砂のビーチと真っ青な海が目の前に見える。部屋の中は、建物が砂浜の中にある割に涼しい。
リンは部屋に入ってすぐ、冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出し、一気に半分を飲んだ。それからふらふらとソファーに歩み寄って、そこにどさりと体を沈める。
言葉を発するのも億劫そうに、彼女は声を絞り出した。
「先にシャワーを使っていい? 少しだけ寝かせて欲しいの」
僕が「もちろん。ゆっくり休んで」と言うと、彼女は億劫そうに立ち上がり、足を引きずるように歩いてシャワールームへと消えた。そしてシャワーを終えた彼女は、ベッドに潜り込むと同時に、速攻で眠った。本当に体が辛かったのだろう。眠るまで言葉はほとんどなかった。
僕もシャワーをし、そのあとは広いホテルの中を、一人で探検した。それで分かったのは、敷地内にはプールやレストランが点在していることだった。僕は、何処に何があるのかを頭に入れながら、歩き回った。
夕食を取る場所も決めた。ビーチの側にある、木造で窓も壁もない開放感のある、まさに南国リゾートのレストランだ。
一通り回るのに、三十分程度かかった。部屋に戻ると、彼女はエアコンで一層涼しくなった部屋の中、死んだように熟睡していた。僕が少しくらい物音を立てても、微動だにしない。
こうなった責任は、全て自分にあるのだ。夕食までたっぷり時間がある。彼女には、心ゆくまで休んでもらわなければならない。僕はCDプレーヤーと単行本を手に取り、静かに部屋を抜け出した。
部屋の前にウッドデッキがあり、部屋専用のテーブルと、椅子やハンモックが備えられている。
ハンモッグに寝そべってみた。ハンモックを使うのは、初めてだった。意外と安定感がなく、慣れるまで少し時間がかかった。
目の前に白い砂浜が広がり、太陽光を反射して煌く海がある。その向こうには、ゆがみのない緩やかな弧を描く水平線があり、ところどころに、真っ白な雲がアクセントを添えるように浮かんでいた。砂浜に点在するヤシの葉が潮風になびいて、騒音は一つもなく、誰一人いない。完全に俗世間と隔離された世界が、まるで自分専用のように用意されている。紛れもなく、バカンスのための場所だった。
そう言えばバカンスの語源は空っぽで、つまり、何もしないのがバカンスということを思い出した。
確かにここは、何もすることがない。いや、何もしなくてもさまになる、というべきだろうか。ふと、場末のバーを訪れる、英語を話せない日本人のことが頭に浮かんだ。彼らが店で何時間もただ呆然とするのは、実はバカンスではないだろうか。きっとそうだ。僕は自分のその仮説に、妙に納得した。
ハンモックの上で本を広げてみたけれど、どうも集中できず、十分も経たないうちに本を閉じて、イヤフォンから流れる音楽をただ聴いた。
音楽を聴きながら、波や椰子の葉の動きを眺めていると、まるで自分が、非現実的な世界に迷い込んでしまったような気がした。
僕の足は、きちんと地に着いているのだろうか。それが怪しげで、どうにも不安になる。
どうして自分は、まだ知り合って数ヶ月の彼女と一緒に、旅行をしているのだろうか。しかもここは、日本から遠く離れたフィリピンの、更にその国の田舎町だ。緊急の連絡が入っても、どうあがいても日本にすぐに帰ることのできない場所だ。
僕はこれまで、日本の社会の中で縮こまって生きてきた。そこから押し出されることのないように、生きてきたのだ。その意味では三十七年間、つつがなくやってきたはずだ。しかしその反動のせいか、少し既存社会からはみ出してみるだけで、自分が一皮向けたような気になった。出張でフィリピンに来ていたときが、まさにそれだ。それはとても楽しかったけれど、元の環境に問題なく復帰できる状況を確保していたから、僕は手放しでそれを楽しめたのだ。もし復帰できる保証がないとしたら、どうだろうか。
そんなことを考えると、想像の世界にも関わらず、不安が胸のうちで広がった。
なぜそれほど自分が神経質になるのか、具体的な一つの理由があった。
フィリピンに旅立つ少し前、会社の中で、僕の心に影を落とす一つの事件が起こったのだ。その事件とは、僕の友人の、突然の会社解雇だった。
ゴールデンウィークに入る少し前、勤務地の違う彼から、電話がかかってきた。彼は、僕と同じようにフィリピン工場へ長期出張で訪れ、工場従業員のフィリピン人女性と、恋愛に陥ったことを教えてくれた。
工場のフィリピン人女性は、彼の子供を身ごもっているようだった。友人は、奥さんと離婚し、自分はそのフィリピン人女性と結婚するつもりだと言った。
そして彼は、会社がそのことを問題視し、もしかしたら会社を辞めるかもしれないと告げた。その女性の母親が娘の妊娠を知り、工場に怒鳴り込んできたらしい。事の発覚の仕方が事件的で、大きな問題になったそうだ。
その少しあと、彼の懲戒解雇を知らせる内容が、社内に貼り出された。自主退職ではなく、懲戒解雇だ。僕は今ひとつ事情を飲み込めず彼に電話をしたけれど、そのとき彼は会社を去り、既に連絡が取れなくなっていた。
相手が工場の従業員だとしても、結婚する覚悟を持つ彼が、なぜ懲戒解雇になるのか理解できなかった。ある意味自由恋愛の範疇ではないのか。実際に、工場で働くフィリピンや中国の女性と結婚し、日本に連れ帰って仕事を続けている人もいる。
彼の場合、不倫だったから問題になったのだろうか。しかしそうならば、発覚した社内不倫が元で、片方が自主退職に追い込まれた例はいくつかあるけれど、懲戒解雇になったという話しは聞いたことがない。あるいは既婚女性社員が社内不倫で問題になり、その後部署が変わった事例もあるけれど、それも懲戒処分のような大袈裟なことにはならなかった。それとも友人のケースでは、まだ自分の知らないまずいことが、その事件の中に潜んでいたということか。そして、もし相手がフィリピンのバーの女性であれば、結果はどうだったのだろうか。
この事件は、フィリピンへの個人旅行を直前に控えた自分に、様々な憶測を巡らせることになった。
そして僕は、会社へ病欠の嘘をつく予定で、フィリピンに来てしまっている。
僕には、現在の生活環境を手放す度胸などないのだ。一皮向けたなどと、とんでもない勘違いだ。僕は全くの小心者で、大会社の看板を隠れ蓑にしないと、生きていく自信などない小市民なのだ。
僕は、捨てるものなどなく、自由に生きるフィリピン人を羨ましいと考えていた。一方で僕は、現在の環境にしがみつきたいと思っている。全てを捨てるだけで自分も自由に生きることができるはずなのに、それができないのだ。逞しく生きる自信がない。自分の能力を、自分自身で信じ切れない。特別裕福ではなくても、人並みにこんな旅行もできる今の環境に、未練がある。
僕は自分に、温室育ちの弱さみたいなものを、感じざるを得なかった。
突然自分の腹の虫が鳴く。ホテルに辿り着くことばかりを考えていて、昼食のことなどすっかり忘れていた。おそらくリンも、食事のことなど忘れていただろう。それどころではなく、彼女はぐっすり眠っている。
リンは夕方目覚め、外のハンモックに寝そべる僕のところに姿を現した。丁度サンセットの時間で、辺りがオレンジ一色に染まっているときだ。
僕は彼女の姿に気付いて、慌ててイヤフォンを外した。その動作で、ハンモックから危うく落ちそうになった。
彼女は外の景色を見て言った。
「静かで綺麗なところね」
まるで初めて見たような口ぶりだ。昼の彼女は、本当に朦朧としていたのかもしれない。
「ずっとここにいたの?」と彼女は言った。
「ホテルの中を少し探検したけれど、それからはずっとここだよ」
「退屈じゃない?」
「本と音楽があれば、問題ないよ。それよりお腹が空かない?」
「お腹が空いて起きたのよ」と彼女は笑った。
「少し早いけれど、すぐ夕食にしよう。僕もお腹が空いて、困っていたんだ」
僕たちはホテルのレストランで、ようやくきちんとした食事に有り付けた。僕は久しぶりのまともな食事のような気がしたけれど、それをリンに言うのは憚られた。彼女にすれば、食べることができるだけで幸せだということになる。僕もそれは理解しているけれど、前日からカップラーメンにパンという食事が続くと、男の自分には少々物足りなかった。
そこは探索のときに目を付けた、間近に海の見えるオープンスタイルのレストランだった。
レストランの周りに置かれた三つのかがり火が、本物の炎をあげている。店内では透明な白熱電球が煌々と灯り、ところどころで、鉢植えの大きな観葉植物の葉が、風になびいていた。
レストランの中で、ギターと打楽器を持つ二人組の男性が歌っていた。ステージが終了した彼らは、各テーブルのゲストにリクエストを聞きまわり、要望があると、その場で即興を披露した。
昼の猛暑はすっかり鳴りを潜め、レストランの中を常に涼しい風が通り抜ける。昼は全く他の客を見かけなかったけれど、そこには多くの欧米人が訪れていた。
食事がひと段落ついたとき、僕はリンに訊いた。
「どう? 一息ついた?」
「ようやく生き返ったわよ。本当に死ぬかと思ったもの」
僕は自分の無知が招いた惨事について、素直に謝った。彼女の進言を、真面目に受け入れるべきだったのだ。
「もしトライシケルが見つからなかったら、私たちは今頃、道路の上で干からびていたかもしれないのよ」
彼女は笑っているけれど、確かに冗談では済まないことだ。
「ほんとだね。パングラオ、恐るべし」
「何よ、それ?」
「昨日と今日が本当に大変だったから、パングラオは危険な場所だと思って」
彼女は楽しそうに笑って言う。「だから、本来は大変なところじゃないのよ。あなたが歩こうなんて言うからこうなるの」
「それについては、もう一度謝るよ。帰りはきちんとホテルの送迎車を使う。でも、涼しい夜に綺麗な星空を眺めて歩くとしたら、それも気持ち良さそうじゃない?」
彼女は表情を固まらせ、目を瞬かせた。
「いいわけないじゃない。誰に襲われるか分からないでしょう? それにきっと、怖い動物だって出てくるわよ。お願いだから、帰りは車にして」
真剣な表情と口調だった。彼女は本当に懲りたのだ。僕は冗談だよと言って、憤る彼女をなだめた。
「それで、今日はどうするの? お腹が一杯になったから、またすぐ寝る?」
僕は、リンがもう少し休みたいなら、ゆっくりさせてあげようと思ったけれど、彼女にそのつもりはないようだ。
「せっかくここまで来て、寝ているだけじゃ意味がないじゃない。また昨日みたいに、テキーラを飲みましょう。カラマンシーもたっぷり残っているのよ」
「分かった。それなら今日は、プールサイドで飲もう」
彼女は意外そうな顔をした。
「プールがあるの? よく知ってるわね。あなたはここ、初めてじゃないの?」
「もちろん初めてだよ。けれどあなたがぐっすり眠っている間に、ホテルの中は全部調べつくしてある」
彼女は、感嘆の声をあげて驚いた。
「やっぱり日本人って、几帳面なのね」
「そうだよ。面倒なことは嫌いでも、日本人はそういうことをしてしまうんだ。日本人は、とても便利なんだよ」
彼女は笑って、覚えておくわと言った。
一旦部屋に戻り、テキーラとカラマンシーを持ってプールへ出かけた。プールは、部屋から海と反対側の、レセプションがある建物の裏手にある。
行ってみると、誰一人泳いでいる人はいなかった。子供さえ遊んでいない。レストランで食事をしていた人たちは、バーでお酒でも飲んでいるのだろうか。
誰もいないプールサイドで、二人はカラマンシーを広げ、部屋から持ち出したグラスにテキーラをついだ。
水底にライトアップ用の照明が埋め込まれ、プールは闇夜に溶け込むように、淡く美しく浮かび上がっていた。プールサイドに照明はなくても、二人の宴会は、プールから漏れてくる灯りで十分だ。水中を通過して揺れる光が、リンの顔を美しく照らす。
しばらくしてから、リンがプールで泳ごうと言い出した。
「泳ぐといっても、僕はスイミングウェアを持ってないよ。あなたは持ってきたの?」
「ないわよ。でも下着でいいじゃない。スイミングウェアも下着も、同じようなものよ」
ビーチリゾートに来るというのに、二人ともスイミングウェアを持参しなかったのは間抜けだった。
それにしても、下着で泳ごうというのは、大胆な提案だ。まだ誰もいないけれど、そのうち誰かがやって来るかもしれない。いや、少なくとも、僕が目の前にいる。以前はバーで、人前でセクシーな格好をするのさえ嫌がった彼女だ。しかも彼女は、いつも僕の部屋に泊まりながら、それまで一度も下着姿を披露したことがない。
僕が躊躇すると、リンはどうせ誰もいないんだから、問題ないと、早速Tシャツを脱ごうとした。彼女はテキーラに酔って、少し大胆になっているのかもしれない。僕は服を脱ごうとするリンを制止し、バスタオルを取るため駆け足で部屋に戻った。二枚のバスタオルを持って急いでプールに戻ると、リンは既に水の中に入っていた。
「待ってと言ったのに、誰かが来たらどうするの」
僕も急いでパンツ姿になり、プールへ飛び込んだ。すると、威勢のよかったリンが全く泳げないと言うから、僕は驚いた。
「あなたは泳げるの?」
僕はもちろんと言い、少し泳いでみせる。彼女がそれに、大げさに感心した。どうやら彼女は、テキーラでテンションが上がっているようだ。
「どうやったら、体が浮くの?」
「人間は、どうやったって浮くようにできているんだよ」
「それは嘘よ。私は浮かないわよ。それとも私は、普通じゃないの?」
「いや、それは普通だよ。泳げない人は、みんなそう言う」
「ほんと?」
彼女は大きな目を輝かせた。僕の軽く言った言葉を、彼女は本気にしたようだ。いや、人間がどうしても浮くというのは事実だ。しかし、それと泳げるということは、また別次元のことのような気がする。
「それじゃ、私も泳げるということよね?」
彼女は念を押すように言った。念を押されても、もちろん僕は保証できない。僕は、曖昧にたぶんと言った。
僕はリンの手を取って、肺にたっぷり空気を入れてから、水に顔をつけて足を伸ばすように言った。いつの間にかプール遊びが、リンの水泳教室になる。
リンは本当に、全く泳げなかった。水の中へ少しでも体が沈み込むと、恐怖で手足をばたつかせ、差しのべた僕の腕にしがみつくのだ。
海の近くで育ちながら、どうして泳げないのか不思議だった。
「泳ぐ機会なんてほとんどないから泳げないのよ。学校にプールはないし、海に遊びに行く機会も少ないの。海に行ったとしても波打ち際で遊ぶくらいで、水泳の練習をするわけではないでしょう? プールに入るとしたらホテルを利用するしかないけど、もちろんそんな贅沢をするお金もないのよ。それでどうやって、泳げるようになるわけ?」
まるで自慢話のようにそう言われてみれば、確かにそうかもしれない。
彼女は、短時間で水泳がどうにもならないことを悟ると、練習は諦めてテキーラを飲み、気が向くと水に入って遊ぶということを繰り返した。僕もそれに付き合い、度々彼女の後を追いプールに飛び込む。その繰り返しは、案外体力を消耗した。とくに僕は、炎天下を散々歩いて、昼寝もしていない。
彼女がプールから上がると、僕はその度に彼女にバスタオルをかけた。僕は彼女の下着姿を、誰にも見せたくなかったのだ。
プールから部屋に戻ったのは、十一時頃だった。随分長い時間、プールで遊んでいた。僕もリンもテキーラを飲みながら水に入ったせいで、気持ちのよい疲労と酔いが混ざっていた。
散々水に入った二人は、シャワーも浴びず着替えだけをして、すぐベッドに横たわった。僕はリンが寝てから、コーヒーを飲みたいと思っていたけれど、さすがに疲れが溜まっていたようだ。翌朝目覚めたときに、僕のほうがリンより先に、深い眠りの淵へと落ちたことに気付いた。
リンを起さないように、そっとベッドを抜け出した。窓から外を見ると、雲一つない青空と、その下で煌く海が静かに佇んでいる。
物音を立てないように気を付けながら部屋を出て、外の空気に触れてみた。昼の体にまとわり付く湿気は消えていた。その爽快さに誘われるように本を手に取り、僕は部屋の前のハンモックに寝そべった。
それまでの人生で味わったことのない、素晴らしい環境だ。何をするかを決めず、その場で気の向いたことを気の向くまま楽しむ。
僕はリンに相談せず、ホテルの宿泊をもう一日延長した。そのままにしてきたセブの部屋は気になったけれど、フィリピン人は細かなことを気にしないだろうと高をくくり、僕はホテルに連絡をしなかった。
リンは一泊の延長を喜び、その日ものんびりと優雅に、パングラオリゾートを二人で満喫した。
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