第12話 公園と自転車

 翌日、朝早く目覚めた。リンは安心しきったように、規則正しい寝息を立てていた。タバコを吸いたい僕はそろそろと部屋を抜け出し、静まり返った廊下を歩いてロビーまで降りた。

 レセプションの美女二人に、おはようと声をかけられる。愛想が良かったのでコーヒーを頼んでみると、オーケーという気持ちのよい返事が返ってきた。

 一旦レストランに入り、そこからプールに抜け、プールバーのカウンターから勝手に灰皿を調達して、適当なテーブルに座わる。

 椅子に深くもたれかかると、とても高いところに青空が広がっていた。セブでの休暇一日目は快晴、しかも抜けるように高い空だ。まだ涼しいけれど、あと四時間か五時間もすれば、それがいじめのような暑さに変わる。しかし、一日のスタートとしては上々だ。

 コーヒーが届き、タバコを吸い、十日間の予定をぼんやり考えてみた。毎日近隣のマッサージやモールに行ってのんびり過ごすか、それともミニ旅行にでも行くか。マリンスポーツには興味がなかったし、べらぼうに高いセブリゾートに行くつもりはない。

 三、三、四。足せば十。

 フィリピンでの休日は実質十日間だ。最初の三日をセブ、次の三日をミニ旅行、そしてセブに戻り四日を過ごす。それが三、四、三でもいい。しかし最初の三は、既に初日がスタートしていた。きっとあっという間に今日の一日を消化し、二日目を消化し、気付けば十日を消化しているのだろう。中々取れない長期休暇でも、実際にイベントを入れたらそんなものだ。ずいぶんはかないものに直面しているような気がした。とにかく彼女と二人でどこかへ行こう。基本方針は三、三、四で、場合によって三、四、三。

 一先ず初日は近場を散歩する。彼女に携帯を買い、自分用にも安い携帯とシムを買う。フィリピンの電話番号を取得しておいたほうが、何かと便利だ。

 ランチとディナーは少し気取ったレストランで、ミニ旅行の相談でもしながら美味しいものを食べる。空いた時間はマッサージ。休暇の過ごし方のイメージが、着々と出来上がる。

 僕はコーヒーをおかわりして、しばらくそこに留まった。気持ちの良い涼しさに、本を持ってくるべきだったと小さな後悔をした。


 部屋に戻ると、リンはもう起きていた。バスルームで出かける準備を始めている。彼女は化粧をする手を休めず、「どこに行ってたの?」と言った。

 僕はソファーに腰掛けた。

「ここにいると変な気が起きるから、下でコーヒーを飲んでいた」

「あなた、いつもそんなことを考えてるの?」

 リンの明るい声が、バスルームから飛んでくる。

「一応、男だからね」

 彼女の笑い声が聞こえた。そんな冗談は、自分の株を下げるのだろうか、それとも上げるのだろうか。

「ずいぶん行儀のよい男と思って安心しているのに、今日からここに泊まるのを、止めたほうがいいかしら」

 僕はソファーで、部屋に届いた英字の新聞を広げながら答えた。

「言っておくけど、僕はそれほど行儀がよくないよ。もうお土産をゲットしたし、もし心配だったらそれでもいいんじゃない?」

 彼女は笑って、ボアン(バカ!)と言った。

 今日の空と同じで、彼女のご機嫌は朝から好調だ。悪くない。小さな問題は、自分が新聞の英語をうまく理解できないことだった。

 二人で一階に降りて、ホテルのレストランで朝食を取った。彼女は初めての、レストランでの朝食だ。僕は基本的に朝食を食べる習慣がない。バフェスタイルでも、コーヒーとサラダとクロワッサンを一個食べるくらいで、食事が済んでしまう。だから以前は、彼女がお腹が空けば、彼女の分だけをルームサービスで取り、現金払いにしていた。出張の場合、会社での精算を考慮し、ホテルの領収書に余計な代金が含まれるのを防ぐ必要もあった。

 出張でホテルを利用する機会の多い僕にとって、バフェスタイルは珍しくなかった。けれど彼女は違った。好きなものを好きなだけ取って食べられるというのは、彼女にとって特別な食事になるようだ。

 いつもの流れであれば、男性の自分が彼女の分を取ってテーブルに運ぶことになるけれど、そのとき彼女は目を大きく見開いて、何があるかを自分で見定めたいと言った。

 一通り取り終えて二人でテーブルに着くと、彼女が言った。

「ねえ、知ってる? わたしたちはお金がないとき、夕食だってごはんに塩や砂糖や醤油をかけて食べることがあるのよ」

 僕はコーヒーを飲みながら、素直に大変だなと思った。彼女は幸せそうに、パンにバターを塗っていた。

「塩や醤油は分かるけれど、砂糖でごはんを食べた経験はないな」

「あら、結構美味しいのよ。ごはんにコーヒーをかける人もいるし、わたしのおばあちゃんは、タバコの灰をかけて食べていたわ」

「タバコの灰?」

 フィリピンの食生活には驚くことが多い。そして文化としても異色なものがある。

「砂糖をもう少しもらってくる?」と僕が言ってみると、彼女は笑って、またボアンと言った。

 彼女が運んだ二枚の皿には、スクランブルエッグやソーセージ、ハム、チーズ、肉野菜炒め、ポテトサラダ、野菜サラダ、クロワッサンが乗っていた。彼女は自分の目の前にあるそれらを眺めながら、とても嬉しそうな顔をしていた。

「普段はお腹を満たすことが重要で、食事を楽しむことは二の次なの。だから朝からこんなふうに食事できることは、とても幸せなことなのよ」

 そんなふうに言われると、何と答えるべきか戸惑ってしまうけれど、その日の朝食が彼女にとって気分のよいことは確かだった。

「それは良かった。せっかくだから、ゆっくり食事を楽しもう。時間はたっぷりある」

 僕にとってのささやかな贅沢が、彼女にとっての大きな幸せになる。些細なことを幸せと感じることのできる感性は、とても大切なことだと、僕は彼女を見て改めて噛みしめるのだ。

 僕たちは、あとで買いに行く彼女の携帯のことや、ミニ旅行の件を相談しながら、ゆっくり朝食を取った。

 そうしている間にも外気温は確実に上がっているだろうけれど、レストランの中は程よく空調が利き、加えて天井ファンが緩やかな風を送ってくる。

 床から天井まで繋がる、大判ガラスで囲まれたレストランは、朝の陽射しを取り込んで明るく、ガーデンの緑もたっぷり見える。それだけでも、十分優雅だった。


 十時の開店に合わせ、二人は散歩気分でモールまで歩いた。そして真っ先に携帯売り場に行く。その日はウィンドーショッピングではない。それだけで彼女の意気込みが、いつもと違って見えた。

 彼女は店員との真剣な話し合いを経て、ノキアの最新機種を選んだ。もちろん決める前、リンは値段のことを気にしたけれど、彼女がそれを気に入ったことは火を見るより明らかだった。だから僕もその機種を後押しした。スポンサーのゴーサインが決定打となり、そのあとは店員の説明にも熱が入った。

 それに反して僕の携帯は、とてもあっさりと決まった。僕はぐっと値段の下がる、一番安い類の機種しか眼中になかったのだ。携帯電話の主目的は通話であって、僕はその基本機能さえ満たされていればどうでもよかった。


 携帯購入後、僕たちはコーヒーショップで小休止した。

 彼女は新しい携帯がよほど嬉しいらしく、それをずっといじっていた。僕も新しい携帯電話の設定に忙しい。僕は基本機能の通話が気になり、リンの新しい携帯に電話をしてみる。隣同士にいながら、電話を通してお互いハローと言い合った。それで僕は満足したけれど、彼女はその後も、新しい携帯電話と格闘し続けた。

 その後イタリアンレストランでパスタを食べ、再びモールの中をぶらついた。

 特に当てがなく、手当たり次第に色々なショップを回ったせいで、彼女の下着も買うことになった。僕はそのとき、ブランド女性下着がとても高いことを知る。彼女もそんな高い下着は買ったことがないと言ったけれど、確かに簡単に買える価格ではなかった。ブラ一つが、工場ワーカー月給の四分の一もする。それでも商売として成り立つのは、そんな下着を普通に買える人がそれなりにいるからだ。

 モールの中を歩いていると、本当に不思議な気分になる。大理石調の輝く床や、趣向を凝らした照明に囲まれ、高級品が高価なプライスタグをぶら下げて、ずらりと並んでいる。

 一方でモールの外には、路上生活者やそれに近い人が大勢存在するのだ。モールの客を目当てに、乳飲み子を抱いて手を差し出す母親は後を絶たない。そしてショップで働く大方の人は、所得の低い庶民だ。僕も庶民だけれど、庶民レベルが違う。加えて、比較的お金を使える欧米人が、そこら中を歩いている。そんな目でモールの中を覗くと、フィリピンに存在するいくつかの生活層が、自ずと見えてくる。


 モールの隅のほうに自転車屋があり、たくさんの自転車が所狭しと並んでいた。学生時代の趣味が自転車だった僕は、どんな部品が使われているのか興味が湧いて、展示される自転車を確認してみた。日本のシマノの部品がずいぶん使われ、フレームはよく分からない中国製が多いようだ。高級モールでも本格レーサーは皆無で、キャンピング仕様も一つもない。確かに道路で、そんな仕様の自転車が走っているのも見たことがなかった。

 ふと後ろを振り返ると、リンも熱心に自転車を見ていた。五段ギアのついたオフロードスタイルの、鮮やかなブルーフレームを持つ自転車だ。あまりに熱心に見ているから、僕は彼女に近づいて、一緒にその自転車を見た。見た目の派手さと裏腹に、値段がとても安い。

 僕は衝動的に、これを買って公園に行こうかと、彼女に提案した。

 リンが驚いて、こちらを振り向いた。

「それは楽しいかもしれないけれど、わたし、自転車に乗れないわよ。というより、乗ったことがないの」

「乗ったことがない? 本当に?」

「これは冗談じゃなくて、本当に。だってそんなもの、買えないもの」

 僕は少し驚いた。自転車に乗ったことがないなんて。

「分かった。だったらなおさら試してみようよ。何事も経験だから。そのブルーのやつでいい?」

「本気なの?」彼女は狐につままれたような顔をした。僕は短く「本気」と答えた。

「本当に?」彼女は目を丸くし、声も大きくなる。「だったらブルーはわたしの一番好きな色なの」

 こうして僕は、ブルーのオフロードもどきを買い、ジミーに電話をした。自転車を運んで欲しいと言うと、彼は即座にノープロブレムと言った。

 ジミーが到着し、自転車をトランクに詰め込むと、それが上手く収まらない。ジミーは車にあったロープで、自転車を器用に車へ繋ぎ止め、ボディーとトランクのふたもロープで固定した。簡単な作業ではあるけれど、何かがあってもフィリピン人は何とかする。正しいやり方とかクオリティーがどうだとか、そんな細かいことは気にせず、とにかくトライするのだ。

 最近の日本人はいつもパーフェクトを狙い、パーフェクトな結果が期待できないときは、それをすることを躊躇する。人だけでなく日本中の大会社がそうなり、社会全体が、現在進行形で縮こまっているように見えるのだ。こんなふうに、日本で失われたものをフィリピンで再発見することは、珍しいことではなかった。


 僕たちはそのまま、ダウンタウンの外れにある公園に行った。低い黄色の金属柵で囲われた、一周一キロメートルくらいの四角い大きな公園だ。公園の周囲には、アイスクリームやドリンクを売る小さな屋台がいくつか出ている。

 僕はジミーにお願いした。

「アイスクリームをおごるから、ここにずっと居てくれない? 帰りも自転車を運ばなければならないから」

 ジミーは何も悩まず、「ノープロブレム、ボス」と即答した。本当に不思議な人だ。

 早速車から自転車を降ろし、僕が試し運転のためそれにまたがる。リンが「自転車に乗れるの? 凄いわね」と驚いた。そんなことは自慢にもならないと思っている僕は、彼女の驚きに驚いた。

 買ったばかりの自転車は、何も不具合がなく快適に走るようだ。小さな円を描くように一回りし、リンの傍で停車する。ジミーは車の脇で、僕の買ったアイスクリームを食べながら、こちらを見ていた。

「次はあなたの番だよ。勢いがつけば倒れないから、怖がらないで。最初は僕が後ろから支えてあげるから問題ない」

 彼女が恐る恐る自転車にまたがり、僕は後ろからサドルを支える。この自転車は、荷台がないのだ。

「ペダルを踏んだら進む。それとこれがブレーキ。これはギアのレバーだから気にしないで」

 こうして基本操作を伝えた。彼女は片足をべダルに乗せるけれど、踏み込むのを躊躇った。

「さあ、ペダルを踏んで」

 僕が声をかけ、彼女がペダルを踏んだ。同時に僕は自転車を押す。彼女の両足が地面から一瞬離れるけれど、自転車がふらつくと彼女は奇声をあげて、すぐに足をついて止まった。

 これを繰り返しているうちに、僕の頬を汗が伝い出す。陽が傾いているとは言え、気温はまだ高い。そして彼女の補助は、意外に重労働だった。

 最初、彼女は奇声をあげてばかりだったけれど、次第に顔つきが真剣になった。口元をきりりと結び、初めて彼女に出会ったときの、僕を睨めつけるようなあの顔で、リンは自転車の運転に挑み続けた。

 何度も挑戦しているうちに、彼女はふらつきながら、数メートル進むようになる。リンはたったそれだけで、子供のように声を上げて喜んだ。普段あまり感情を顕にしない彼女には、珍しいことだ。

 一時間程、そんなトレーニングを繰り返した。最後に彼女は、ときどきふらつきながらも、僕の補助なしで走れるようになった。その頃には彼女も汗だくだ。

 僕は彼女の後ろから自転車にまたがり、ハンドルを取って片足をペダルにかけた。

「あなたの足はここに乗せて」ハンドルとタイヤの間に、足を乗せる小さなスペースがある。彼女が恐る恐る足をそこへ乗せると、車体がややふらついた。

 僕は力強くペダルを踏み込んだ。荷台がないから、僕は立ちこぎになる。速度が上がるとふらつきが収まり、自転車は快調に進んだ。僕はもっと勢いを付けた。

 彼女が「ちょっと待って、スピードを落として」と叫ぶけれど、僕はそれを無視して更にペダルに力を込めた。ようやく風に追いつき追い越す勢いとなる。

 彼女は笑ったり怖がったりを、交互に繰り返した。

 公園を二周もすると、彼女は自転車にスピードがつけば、簡単に倒れないことを実感したはずだ。しかし、さすがに僕は息が切れた。一周で一キロくらいの公園だから、約二キロを二人乗りで全力疾走したことになる。彼女はただ座って爽快感を味わうだけで、後半は風が気持ちいいと喜んでいた。

 一息ついたときには、既に周囲が薄暗くなっていた。疲労と空腹で、もう潮時だった。

「そろそろ帰ろうか」と僕が言うと、「そうね」とリンも頷いた。

 自転車を押しながら、初めての挑戦の感想を尋ねると、彼女は晴れやかな顔で「とっても楽しかった。久しぶりに運動したわ」と言った。

 車の傍に行くと、ジミーが僕に「ナイスコーチ」と言って小さな拍手をくれた。


 自転車を、一旦リンの住む家に運ぶことにした。

 彼女の家は、公園から十五分走ったところの、大通り沿いにあった。ジミーが車を止めて、自転車を降ろす。

 それは、入り口に頑丈な鉄のゲートを持つ、小さな一軒家だった。ゲートには、大きな南京錠がついていた。リンはその鍵をあけて、自転車を中にしまい込んだ。

 家の隣はローカルの食堂兼飲み屋になっていて、歩道にはみ出した店のテーブルを、三人のフィリピン人男性が囲んでいた。既に宴会を始めている彼らは、こちらに下品な視線を投げてくる。もしこちらが睨み返すと、すぐに喧嘩になりそうな雰囲気だ。

 リンが自転車をしまい終え、小さな鞄を持ち、再び金属ゲートに南京錠をかけた。男たちはあからさまに、リンのことを卑しい目つきで見ていた。

 ふと、子供たちのことを思い出した。

「お兄さんの子供たちはいないの?」

「今はママの家にいるの」

 別々に住む家があることを、僕は意外に感じた。

「あなたは別に暮らしているの?」

「そのエリアは少し危ないし、家に全員が入りきらないから、わたしは普段ここにいるのよ。子供たちもいつもはここにいるし、ママもよくここに来るわ」

「ここもあまり環境がいいとは言えなそうだけど」僕は飲み屋の前にいる男性に、ちらりと視線を向けた。

「そうねえ、夜中までうるさいし、ときどき酔っ払いがゲートを叩いたりするのよ。でも贅沢は言えないでしょ。これでも十分過ぎる程よ」

 日本人としては、若い女性が住むには心配になる環境だけれど、リンはあまり気にしていないようだった。

「ついでに着替えも持ってきたわ。一杯汗をかいちゃったから、一旦シャワーを浴びてから食事に行きましょう」彼女は小さな鞄を少し持ち上げた。


 その夜僕たちはジミーも誘い、三人で僕の同郷の女将がやっている和食レストランに行った。

 リンは慣れているけれど、ジミーは和食が初めてだと言い、箸の使い方から刺身や寿司の食べ方に至るまで、苦労していた。

 僕が無理に箸を使わなくてもいいと言ったのに、彼は和食レストランだから箸を使うのが礼儀だと言った。

「いやいや、彼女もスプーンとフォークを使っているよ。それで問題ないって」

 寡黙な彼はそれに対して何も言わず、リンの手元をちらりと見てから、肉じゃがや卵焼きに箸を突き刺して食べた。しばらくして、豆腐はまったく歯が立たないと彼が言った。僕がそれを彼の皿にとってあげると、彼は皿を傾けて豆腐を口に流し込んで、「美味い。フィリピンの豆腐とまるで違う」と言った。

 彼の様子に僕とリンは度々笑ったけれど、ジミー本人は、全く真剣なのだ。

 食事の途中で、はたと気付いた。

「もしかして、家族があなたの帰りを待っていない?」

 ジミーはただ、「心配ない」と言った。家族がいるともいないとも言わない。きっといるのだろう。僕は彼の家族も、食事に招待すべきだったかもしれない。

「ごめん、そんなことをすっかり忘れて、あなたを食事に引きずり込んでしまった。家族があなたを待っているよね?」

 彼は食べるのを止めて、「妻だけ」と言うと、再び箸で和食と格闘し出した。本当に無口な人だ。

 僕は少ししてから席を立ち、同郷の女将に、一人分の和食詰め合わせを持ち帰りでお願いした。内容はお任せで、おそらく初めて和食を食べる人だから、フィリピン人の口に合うものを適当に見繕って欲しいと注文した。調理人の旦那はフィリピン人だから、上手くアレンジしてくれるだろう。

 適当に食事を切り上げ、ジミーにその日の料金と和食の折り詰めを渡した。彼はそれを丁寧に両手で受け取り、「サンキュー、ボス」と言った。無口だけれど、彼の気持ちは仕草から伝わってくる。

 

 食後はどこへも行かず、ホテルに戻った。

 部屋でコーヒーを淹れ出すと、リンが唐突に話し出した。

「ジミーに聞いたんだけど、彼は二人の子供を、自分の運転する自動車事故で亡くしたらしいの。まだ子供が小さいときだったそうよ。あまり詳しい話しは聞かなかったけれど」

「そうなんだ。彼がいつも無口で安全運転なのは、それと関係しているのかな」

 リンはしんみりと、そうかもねと言った。

 しばらく彼女が沈黙しているから、僕は言った。

「可愛そうだけれど、僕は何もしてあげられない。そもそも人はみんな、何かを抱えて生きているんだよ。あなたも僕も、みんなだ。だけど、傷を舐めあっていても仕方ないでしょう? そんなことをしたって、一生苦しんで生きるだけじゃないかな。だから前を向かないと、どうしようもない。もし生き続けるなら、そうする必要があると思う」

 僕はジミーのことよりも、彼女がかつて号泣したことを思い浮かべてそう言った。

 彼女はソファーに座って、少しの間無言だったけれど、ぽつりと「そうね」と言った。そして僕の手渡したコーヒーを両手で抱えて、静かに飲み始めた。

「彼はきっと、そのことを分かっていると思う。だから真面目に生きているんだよ。無意味にがんばらず、いろんなことを有りのままに受け入れている気がする。だから僕は彼を好きだし信用している。きっと彼は、とても敬虔なクリスチャンじゃないかな」

 リンは「きっとそうね」と言って、何かをぼんやり考えていた。彼女はジミーのことではなく、自分のことを考えていたのかもしれない。

「そうそう、僕がジャズを聴くきっかけとなったCDを持ってきたんだ。僕が十五歳のときに知ったアルバムだよ」

 僕は日本から持参したCDサイズのコンパクトプレーヤーに、セロニアスモンクの『ソロモンク』というアルバムを入れて流した。一緒に持ってきた小さな五センチ画のスピーカーから、モンクの淡々としたピアノが静かに流れ出す。単調ながら味わいのある不思議な旋律が、静かな空間を漂った。

 僕は彼女と少し距離を置いて、デスクの椅子に腰掛けた。

 リンは沈黙しながらコーヒーを飲んでいたし、僕も黙ってコーヒーを飲んだ。とても静かなコーヒータイムだった。

 その静けさに溶け込むように、彼女が口を開いた。

「ねえ、あなたはどうしてセブに来たの?」

 僕は少しだけ、頭を整理して答えた。

「あなたに会いに来たんだよ」

「どうしてわたしに会いに来たの?」

「あなたと一緒だと楽しいから」

「それはわたしも同じよ。前も今もとても楽しいわよ。けれどそれだけで、遠い日本から、わざわざ会いに来るものなの?」

 僕はもう一度考えた。

「さあ、普通の人はどうか分からない。でも僕は、それだけの理由で来ちゃったんだよ」

 彼女は目を瞬かせて、「変な人ね」と言った。

「うん、日本でもたまに言われる」

 彼女は小さく笑い、コーヒーを持って僕の傍らに来た。そして僕の膝の上に座ると、彼女はモンクのCDケースを手に取り、それをしげしげと眺め出した。

「今夜は眠っている間、これをずっと流していいかしら? わたしもジャズが、少し好きになりそう」

 その夜僕たちは、ベッドの上でモンクのピアノを聴きながら、ミニ旅行の相談をした。

 そしてかつてセスナで一緒に行った、ボホール島へ行くことに決めた。ボホール島の外れに、パングラオ島という、ボホール島とほとんど陸続きのような小さいリゾートがあるのだ。一先ず二泊三日の予定で出かけることにした。

 ボホール島へはセブから高速フェリーで二時間程度。フェリーが到着する港からパングラオまでの移動手段が必要だけれど、それは現地でどうにでもなるとリンが言った。宿泊ホテルも現地で決めればいいとのことだ。確かにガイドブックで調べると、現地には大きなリゾートホテルが並んでいる。大きなホテルであれば、基本は予約が必要だと思ったけれど、旅先で何があっても臨機応変に対応できるよう、予約なしで向かうことにした。翌日ダウンタウンで、旅行のための簡単な買出しをしようとリンが提案する。

 もともと三、四、三か三、三、四の予定だったけれど、最初の三を二に変更し、出発を明後日とした。


 翌朝も快晴。リンにとってご機嫌な朝食をゆっくり取り、それからダウンタウンに向かった。

 僕の要望で、ダウンタウンにはジプニーを利用して行くことにした。彼女にしてみると、庶民の乗り物を利用したがる日本人は、やはり変人だったかもしれない。

 ホテル前のスロープを下へ降りると、大通りになっている。そこでジプニーがやってくるのを待ち、来たら手を上げて乗る。手順は簡単だ。

 しかし色々なジプニーが来る中で、それぞれの行き先がさっぱり分からなかった。行き先はジプニーの前面に書いてあるらしいけれど、そう言われても分からない。

「庶民の乗り物とは、中々難しいものだね」と、僕は高貴な人にでもなったように言った。

 彼女はその言葉に、「すぐに慣れるわよ」と笑った。

 リンの進言に従って、腕時計と現金、クレジットカードやパスポートは部屋のセーフティーボックスに入れてきた。財布の中身は、真面目に乏しい。本当にこれだけで、その日一日を賄えるのだろうかと、心配になるくらいだ。

 僕が財布を覗き込んで「最悪帰りは歩きだね」と言うと、彼女は「食事代を節約してでも、ホテルに帰るのが優先よ。帰ればどうにでもなるんだから」と言った。確かにごもっともな御意見だ。

 目の前に一台のジプニーが止まる。彼女が先に乗り込み、僕があとへ続いた。

 ジプニーの中は、日本の昭和初期に走っていたボンネットバスのように、車内の左右に長椅子があった。もちろんバスとは違い、向かい合って座る人の膝と膝の間は、人一人がようやく通れるくらいしかない。天井も、腰を折り曲げて歩かないといけないくらい低かった。その低い天井に、ジプニーの後部から運転席のすぐ後ろまで、一本の手すりポールが取り付けられている。

 ジプニーに乗り込み、手すりポールをつかみながら中のほうへと進んだけれど、両脇の座席は一杯で、自分の座るスペースはなかった。僕は仕方なく、手すりポールをつかんだまま、ジプニーの中ほどで狭い通路にしゃがみ込んだ。車内の人たちがそれを見て、くすくすと笑い出す。

 リンが慌てて、自分の隣に座ってと言った。そう言われても、スペースがないのだ。しかしその様子を見ている乗客が、座ったまま少しずつ、順繰りにお尻をずらし、一人分のスペースを作ってくれた。僕はそれを見て、庶民の優しさはやっぱりいいなと思った。

 ディーゼルエンジンがガラガラと音を響かせ、ジプニーが発進する。窓は窓枠だけでガラスはない。後部の出入り口も開けっ放し。当然、風の通りがとても良かった。

 前の車やバイクの排気ガスがジプニーの中に入り込むと、乗客はハンカチを口に当てて、眉間に皺を寄せる。しかし僕にとっては、その匂いすら新鮮だ。振動も騒音も乗客の乗り降りで不定期に停車することも、そして行き先や道順や運賃の支払い方法がよく分からないことも含め、全てが新鮮だった。


 ダウンタウンは相変わらず混雑していた。リンが財布はズボンの前ポケットに入れてと指摘する。僕はいつも、ズボンの後ろポケットにそれを入れているからだ。

 ジプニーから降りて、僕はリンとはぐれないよう、ひたすら彼女の背中を追いかけた。持ち金もなく、一人でジプニーに乗りホテルへ戻る自信は全くなかった。

 歩道は、反対から歩いてくる人とすれ違うのも大変なほど狭かった。歩道のでこぼこに溜まる古い濁った水が、食べ物が腐ったような臭いを放っている。狭い歩道に露天商がたくさんの店を出して場所をとるから、狭い道がますます狭くなっている。

 道端で露天商が売っているものは、食器や調理器具、食べ物や子供のおもちゃ、新聞にタバコやライター、衣類やサンダル、そして時計をずらりと並べている店もあった。とにかく種々雑多だ。歩道に沿って小さな商店や食堂がいくつも軒を連ね、閑散とする店もあれば、ローカル客で賑わうところもある。

 二人でそんな珍しい様子を眺めたあと、四階か五階建ての、ダウンタウンでメインとなるスーパーマーケットに入った。

 そのビルディングの中でさえ、まるで整理整頓感がなかった。階段は奇抜に入り乱れ、隙間があれば何かの売り場になっている。都合に合わせて改造を重ねてきたせいか、中途半端なスロープや段差が至るところにあった。欧米人など一人も見かけない。普段自分の行くモールとは、真逆の光景だ。そんな光景と、歩いている人々を重ねて眺めると、そこが人生の坩堝のように思えてくる。

 僕が色々な売り場で立ち止まり、売られているものに目を奪われていると、すぐにリンとはぐれそうになった。もし彼女とはぐれ同時に携帯をすられたら、途端に窮地に追い込まれてしまう。僕は時々ズボンの前ポケットに入れた携帯を確認し、先を歩くリンのことを小走りで追いかけた。

 リンはスーパーで、旅先で飲むためのテキーラをワンボトルと、カラマンシーを五十個買った。僕はそれが何のボトルか分からなかったけれど、あとでテキーラと知ってとても驚いた。

「あなた、まだ懲りずにテキーラを飲むの?」

「大丈夫よ、この前みたいな飲み方はしないから」彼女はいたずらっぽく笑って付け足した。「それにお酒は人生の妙薬なのよ」

 酒飲みの気持ちが分からない僕は言った。

「酒ばかり飲んでいるフィリピン人は、そこからどんな効果を得るわけ?」

「なに言ってるの、みんな楽しんでいるじゃない。そんなことでもなければやっていけないのよ、きっと」

 確かにそうかもしれない。しかし人は普通、お金を稼ぐ努力と人生の楽しみを両立させるものではないだろうか。日本で暮らす場合は、特別な人でない限りそのはずだけれど、仕事のないフィリピンではそうもいかないのだろうか。フィリピンに日本の常識をそっくり当てはめるのは無理があることを承知していても、一体どこまでを別けて考えるべきか、その辺はよく分からなかった。

 そんな僕の疑問をよそに彼女は、「これで旅が、倍は楽しくなるわよ」と言った。カラマンシーまで用意して、彼女は本気で飲むつもりかもしれない。


 ダウンタウンの雑踏を歩いているときに、意外にも奈緒美から電話がかかってきた。彼女にだけは自分の新しいフィリピン番号を、メールで知らせていたのだ。僕はリンから少し離れてそれに出た。

「ハロー、予定通り、フィリピンにいるようね」

 奈緒美は海外にいる僕に、ハローと英語を使った。彼女は大手商社の総合職で、英語も堪能なのだ。発音は正しいかどうかよく分からないけれど、僕が聞く限り、彼女のそれは、外人が話しているのと同じだ。ハローという言葉一つとっても、それは普通の日本人と発音が少し違う。

「うん、今セブのダウンタウンを探索している」

「リンちゃんと一緒に?」

「そう、彼女の案内で」

「それじゃ、長話しも悪いわね。特に用事はないのよ。生きているかを確認したかっただけ」

「まあ、こっちは元気にやってるよ。セブは天気がよくて毎日真夏だ。明日から三日間、ビーチリゾートに行くことにしたよ」

「そう、分かった。とにかく気を付けてね。それじゃ」

 やっぱり彼女は、ほとんど一方的に電話を切った。だいたいそうなのだ。才女で他人の気遣いも十分できる女性だけれど、そういったぶっきらぼうなところもある。男性的で物事に執着しないし、何事も結論を最速で出す。一旦決めたら、それについてあれこれ考えない。その辺りは僕とずいぶん違う特性を持っている。自分にはないそんなところが彼女の魅力だけれど、よほどしっかりした男でないと、彼女にはついていけないだろう。僕の場合は、こちらについていくつもりがないから気にならないだけなのだ。置いてきぼりを食らえば、僕はそれを素直に受け入れる。

 電話を終えると、リンが「仕事の話し?」と訊いた。僕は「そう、でも問題ない」と嘘を言いながら、日本の仕事仲間が既に休みに入っていることを思い出した。前日まで普通の仕事日だったことを、僕はすっかり忘れていたのだ。

「携帯電話の立ち話しは危ないわよ」とリンが言った。

「どうして?」

「ひったくって逃げる人がいるのよ」

 なるほど、日本人の自分は、まるで危機管理がなっていないようだ。

「その携帯は安物だから黙っていたけど、わたしのだったら本当に危ない。わたしは絶対路上で電話を出したりしないわよ」彼女はそう言って笑った。もちろん彼女の笑う理由は、その携帯が僕からのプレゼントだからだ。

「あまり高価なものはあげないほうが、あなたの安全のためにいいね」

 彼女はボアンと言って、雑踏を先に歩き出した。

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