第11話 ゴールデンウイーク

 出社して机を整理していると、一つの配布物に気付いた。書類箱の下に潜り込んでいて、すぐに分からなかったのだ。

 それは年間業務カレンダーだった。クレジットカードより一回り大きなサイズの厚紙に、一年間の休みが赤字で記されている。毎年期末前に、翌期のカレンダーが配布されるのが恒例だ。フィリピンへ行っている間に配られたのだろう。

 小さな数字の並びをぼんやり眺め、あることに気付いた。もうすぐゴールデンウィークという長期休みがある。そんな休みがあることを、僕はすっかり忘れていた。そんなことまで忘れていたことに、何もかも自分の中の歯車が狂っているような気がした。

 カレンダー上では四月から五月にかけて、会社が九連休になっている。

 僕は仕事で海外に行く機会が多い。ほとんどはアメリカやヨーロッパの顧客と打ち合わせ目的となる。直近のフィリピン出張は、新製品の開発が終了し、量産ステージへ移行したことを受けたもので、それ以外は長時間のフライトとなるケースが多いのだ。

 そのせいか、それまで個人で海外に足を延ばそうという発想は、一度もなかった。狭いエコノミークラスのシートで十時間やそれ以上拘束される旅に、僕は心底うんざりしていたのだ。基本的には、海外旅行など行くべきものではないと思っていた。

 それでも、今回ばかりは迷った。プライベートでフィリピンに行くチャンスだと。

 しかしゴールデンウィークとなれば、エアチケットが取れるかどうかが怪しい。まだあったとしても、残りは少ないことが予想される。あまり時間はない。

 僕はフィリピンに行くかどうかを決める前に、机の電話に手を掛けた。まるで見えない力が作用したかのように、自分の手が勝手に動いた。

 電話番号問い合わせにダイヤルし、地元の旅行代理店の番号を調べる。いくつかの番号のメモを取って、僕は歓談室に移動した。そこは主に休憩時間に利用する場所のため、就業時間は人がいないのだ。そして自分の携帯電話で、旅行代理店に電話をした。

 女性の係員が電話口に出た。ゴールデンウィーク期間のセブ行きチケットを問い合わせると、行きは会社連休の前々日に一席の残があった。帰りは会社連休終了翌日に、数席残があるとのことだった。つまり行くとなれば、長期連休の前後で、有給休暇を取得しなければならない。休暇を取りにくい空気がある中、長期連休前後の両方に休みを付けるのは、面の皮が分厚くなければできないことだ。

 僕は躊躇した。

 若干の空白に、もしもしと女性係員が言う。僕は思わずその声に反応した。

「その席を取って下さい。料金は今日の夕方、そちらの窓口に直接支払いに行きます」

 休暇のことはあとで考えればいい。チケットがなくなってしまえば、あとで考えようがないのだ。電話口の女性は、「本日お支払いがなければ、チケットは自動的にキャンセルされますのでお気を付け下さい」と言って、通話を終了した。

 九連休に三日の休みを付けて、十二連休。二日は移動に取られるけれど、フィリピンで丸々十日間をプライベートな時間に充てられる。

 しかし僕は、長期休暇の前後に有給休暇をつけることを、会社に言い出せないと思った。こんなところが日本の会社は窮屈なのだ。

 一緒に仕事をするアメリカやヨーロッパの顧客たちは、クリスマスやサマーに必ず長期休暇を取る。人によっては一ヶ月以上も休暇を取るのだ。特にヨーロッパは平日の残業が皆無だし、アメリカでは死ぬほど残業しても、仕事に区切りがつけば残業分を取り戻すかのように、二週間くらいの休暇を取るのが当たり前だった。

 人によって、だから日本は勝ち上がったんだと言うけれど、僕はそれに対しても疑念を抱いている。方向性を間違えた努力は、実を結ばないからだ。

 休暇を言い出しにくい僕は、普段仲のよい女性事務員に、ゴールデンウィークにフィリピンに遊びに行くことを正直に告げ、エアチケットの関係で休暇を付けなければならないことを話した。ゴールデンウィーク前の二日間は、事前に届出を出す。後の一日は病欠にしたいけれど、飛行機の時間の都合上、会社に電話連絡できないため、電話を受けたことにして欲しいとお願いした。彼女はお土産をよろしくねと言って、快く引き受けてくれた。

 その翌日、部の直属部隊所属の僕は、二日間の休暇届を部長に出した。案の定、部長は目を丸くして判を押す手を止め僕を見たけれど、僕はただ、お願いしますと言った。

 会社は有給休暇取得日の移動権はあっても、拒否権がないことを僕は知っている。だから上司が部下に休暇願いを取り下げてもらいたい場合、無言の圧力をかけてくるのだ。無言の圧力に屈しなければ、大体は要求通りになる。内心、休暇取得日が移動されることを恐れたけれど、部長は渋々判を押した。無言の駆け引きに、僕は勝利したのだ。やはり自分は、根っからの自由人なのだろうか。

 もちろん僕は、会社を病欠し、それが実はフィリピン旅行だったと発覚することを恐れていた。海外渡航は、飛行機の都合で何が起こるか分からない。この旅行は僕にとって、大きな冒険だった。

 エアチケットや会社の休暇はどうにかなった。ホテルは前回の出張で使ったところへ直接電話をした。僕の名前が既に登録されていたため、カンパニーレートが適用されて、料金が通常より破格に安くなった。

 最後に一つ、問題が残っている。肝心のリンに、フィリピンに行くことを伝えていないのだ。果たしてリンは、僕のフィリピン再訪を歓迎するだろうか。僕に対し、どんなふうに対応すべきか、彼女は困惑するのではないだろうか。もし彼女のアテンドがなければ、僕は十日間、セブで一体どうやって過ごせばいいのだろう。逆に、一緒に十日間も過ごしたら、そのあとはどうなるのだろうか。そしてもし会社にばれたら、とても厄介な事態になるかもしれない。

 勢いに任せて色々な手続きを進めてしまったけれど、自分の中で、突然様々な不安がひしめき出す。

 僕は必要のない厄介ごとを、あえて背負い込もうとしているような気がした。いや、実際そのようなものだった。ゴールデンウィークの連休を普通に日本で過ごせば、何も心配は要らないのだ。

 奈緒美の様子も気になった。温泉にでも誘えば、三十代幕開けのイベントに乾杯などと言い、彼女は喜ぶのではないだろうか。

 でも僕は決めた。既に矢は放たれたのだ。


 その夜、自宅からリンに電話をした。数日ぶりの電話だったけれど、電話番号を押す間、まるで数ヶ月もご無沙汰してしまったかのような感覚があった。奈緒美のことやチケット購入や休暇の件で、数日ごたごたしたことに追われて過ごしたためだ。その間自分の頭から、肝心のリンのことがすっぽり抜け落ちていた。

 でもリンは、何事もなかったように、普通に電話口に出た。変わりはないかと訊くと、何も変わらないという答えが返ってきた。こちらはここ数日間で、色々あったと言った。

「何があったの?」とリンは訊いた。

「日本社会のごたごただよ。人間関係や仕事関係や、そんなことの色々」と、僕は言葉を濁した。「ところで、あなたは日本のゴールデンウィークって知ってる?」

 彼女は知らないと言った。「それはなに? ゴールドが関係するの?」

 僕は思わず笑った。彼女は何で笑うのと言った。

「ごめん。もちろん知らないよね。ゴールデンウィークと言うのは、日本人が連続で休暇を取る日のことを言うんだよ。それが四月の終わりから五月の初めにかけてあるんだ」

「そうなの? もうすぐじゃない」

「そう、もうすぐ。そのとき多くの日本人が、旅行に出かけたり自分の田舎に帰ったりする。日本の中で、民族大移動が起こるんだ」

「あなたもどこかに移動するの?」

 胸の鼓動が、少し早まった。

「その相談で電話をしたんだ。僕はセブに行きたいと思っているけれど、あなたは構わない?」

 恐る恐るそう言い終えると、日焼けあとのように、顔に熱がこもる。

 彼女は少し無言になった。電話口から、ラジオの音声が聞こえてくる。

 もう少し何かを説明すべきだろうかと思ったときに、彼女が口を開いた。

「あなたの目的はなに?」

 そんなふうに訊かれるとは思っていなかった。特に目的らしい目的を意識していなかった僕は、少し焦りを覚えて言った。

「あなたに会いに行くことだけれど、迷惑かな?」

「そうなの? それだけなの?」今度彼女は、すぐにそう言った。

「それだけだよ。他に何があるの?」

「それはわたしには分からないわよ。ただ、わたしに会いに来てくれるなら、もちろん歓迎よ。またあなたに会えたら嬉しいわ」

 リンの口調から、最初の歯切れの悪さが消えた。

 僕は、エアチケットもホテルも全て予約済みだと白状した。彼女はますます驚いて、感嘆の声をあげた。それから僕は、彼女に日程の説明をして、セブの空港に迎えに来て欲しいとお願いした。

 彼女からは何か日本のお土産が欲しいと言われ、僕はもちろん持っていくと答えた。

「何が欲しい?」

「分からない。日本のものなら何でもいいのよ」

「例えばチョコレートとか、そんなもの?」

「そう、それとカップヌードル。シーフードヌードルが欲しい」

 シーフードヌードルは、日本のお土産としてフィリピンで人気があるらしい。ただ、チョコレートやカップヌードルは、セブの街でも購入できる。値段は日本の丁度倍になるけれど、それらはセブの日本食材店で売られているのだ。

「まだ出発まで日があるから、欲しいものを考えておいて。リストアップして、あとでまとめて買いに行くから」

 こんな会話を交わし、セブ旅行への弾みがついた。反面何かの不安もあったけれど、セブへの旅行は既に決まったこととして、僕は色々なことに対応した。

 仕事が休みにかぶらないよう、僕は細心の注意を払った。納期的に際どいものは細かくフォローアップし、パソコンでできる仕事は休日でも自宅でそれを進めた。

 僕はそういったことが、全く苦にならない。コーヒーを飲みながら、自宅でじっくり仕事に取り組むことが、むしろ好きなくらいだった。電話や相談事や会議の招集がないため、仕事に集中できるのがいい。一旦自分の世界に入り込んでしまうと、僕は何時間でも集中力を維持することができる。それは仕事に限らず、昔から何でもそうなのだ。夢中になれば、徹夜も苦にならない性質だった。

 二日か三日に一度はリンに電話をした。その度にお土産リストが少しずつ長くなる。自分の生活が、リンを中心に回り出したような気がした。僕は、生きるために仕事していることを実感するようになった。

 今度は事前に、奈緒美へセブに行くことの連絡を入れた。彼女にそう言ったことを報告する義務はないけれど、一応友人として、筋を通しておくつもりだった。

 彼女は興味なさそうにふーんと言ったきり、その話題にさして触れなかった。ちょっとした世間話しをして、彼女はリンちゃんに宜しくねと付け加えて電話が切れた。

 そんなことで彼女に電話すべきではなかったと、少し後悔した。しかし後悔したところで事実を消すこともできず、僕はそれを仕方ないと思うことにした。

 一つ感じたのは、リンの存在が、長年続けてきた二人の関係に、何かしらの変化をもたらすかもしれないということだった。そしてそのことについて言えば、お互いそのほうがよいだろうと、僕は思っていた。


 お土産リストは結構なボリュームになった。チョコレート、しかもアーモンドやマカデミアナッツ入りと細かい指定があった。ニッシンのシーフードヌードル。これもメーカーと味が指定だ。スキンクリーム。これはホワイトニングと言われ、その意味がよく分からず、僕は言われるがままにホワイトニングとメモした。クッキーは銘柄の指定なし。シャンプーにリンス。わざわざ日本で買って持ち込む必要があるのだろうかと疑問だった。香水。これも頭が痛い問題だ。ブランドや商品名の指定はなく、普段そんな物に無縁の自分は、何がいいのかさっぱり見当がつかない。あなたのお勧めのお土産というのも、少々考えなければならなかった。そして最後に追加されたのが、CDミニコンポだった。間際になって、ついに大物が登場したという感じだった。

 休日に車でスーパーにでかけ、それらを買い込んだ。チョコレートは普通に売っているものを十箱ずつ三種類。クッキーは、自分の好きなウォーカーを買った。スキンクリームは、確かにホワイトニングというものがあった。問題はミニコンポだった。ミニと銘打っていても、飛行機で持ち込むには憂鬱になるほど大きい。僕は家電販売店を一時間以上うろついて、一つを決めた。決め手は価格でも性能でもなく、梱包サイズだった。一緒に変圧器も買った。フィリピンは二百ボルトだから、日本の家電製品をフィリピンで使用するためには、電圧を変換する機器が必要なのだ。香水は免税店で買うことにした。『あなたのお勧め』が、最後まで決まらない。本当は日本の寿司やケーキを持って行きたいけれど、そうもいかない。日本的な煎餅や甘納豆、落花生なども考えたけれど、結局現地で携帯電話を買うのがいいだろうという結論に至り、日本から何かを持ち込むのを止めることにした。

 

 信仰のない僕でも、何かを祈るような気持ちで、フィリピンに訪れる日を待った。そして実際に、祈りたいことはたくさんあった。

 交通機関のハプニングが起きないこと、ハイジャックがないこと、フィリピンで事件に巻き込まれないこと。そしてリンが、本当に空港で出迎えてくれること。

 色々な準備を進め、もう後には引けない状況になってさえ、僕は単独でフィリピンへ行くことに自信を持てなかったのだ。あれほど自由に一人でセブの街を闊歩したというのに、僕は結局、ひ弱な一人の日本人だった。

 会社のことがなければ、少しは鷹揚に構えることができたかもしれない。病欠という嘘をついてまでの渡航は、心が浮き立つのと同時に、得体の知れない恐怖も忍び寄ってくる。

 僕はこの二つの感情を、どこかで持て余していた。早くすっきりさせて楽になりたい。そんなふうに思うけれど、どうすればすっきりするのか分からない。無事に帰国するまで、この不安定な心境は続くのだろうか。どうして自分は、あえて火中の栗を拾うようなことをしているのだろう。それが不思議に思えてくる。


 仕事は無事に進み、僕は人より一足早く、ゴールデンウィークに突入した。それでも成田空港は混雑していた。これまでニュースで、今年のゴールデンウィークの海外渡航者は、何万人ですなどというアナウンサーの言葉を聞いて、どこにそんなお金持ちが隠れているのだと思っていたけれど、いよいよ自分もそこに仲間入りしたのだ。実際に仲間入りしてみると、それがさほど特別ではないことに気付く。

 もちろん豪華な旅行をする人もいるだろうけれど、ほとんどがディスカウントチケットで行列に並び、あくせくしながら飛行機に乗り込むのだ。まるで大量生産の缶詰めにでもなって、箱詰めされているような気分だった。しかも僕は、ミニコンポやカップラーメンのダンボール箱を持っている。あまりスマートな出で立ちとは言えなかった。

 しかし、スマートであろうがなかろうが、飛行機はきちんと飛び立つ。気付けば僕は機上の人となり、仲間が仕事をしている頭上を飛んでフィリピンに向かっていた。

 誰がそれを予想していただろうか。仲間は僕が、田舎にでも帰っていると思っているに違いない。そう考えると、痛快な気がしないでもなかった。

 飛行機に乗る直前、リンに予定通りだと電話連絡した。リンもジミーにお願いして、空港に向かってくれるだろう。僕にとってリンとの再会は、やはり喜ぶべきことなのだ。奈緒美が話した通り、リンは僕の心を、本当に奪っていたのかもしれない。

 

 離陸からほぼ四時間、窓からフィリピンの島々が見え始めた。けれど視界が狭いせいで、その島々はセスナから見たそれとまるで違った。どれがどの島なのか判別困難で、一度別の島をセブ島だと勘違いした。本物のセブ島に気付いたときは、それが原生林に囲まれた辺鄙な島にしか見えず、一体その島のどこにあの溢れんばかりの人がいるのか、僕は機上から必死にそれを探した。

 夕刻とあって、島に沿って設置されている街灯が、物寂しいオレンジ色の光を放っている。街灯と街灯は、一体何のための照明か分からないくらい、間隔があいて見えた。人影はもちろん、車もバイクも見えず、街灯の下に道路があるかも怪しい。

 飛行機は一旦島から離れ、海上で大きく旋回した。機体を島のほうに向けたようだ。機内アテンダントが着席し、シートベルトを締める。窓の外には点々と、セブリゾートが小さく見え始めた。こんもりとした森を間近に見ながら、その上空を通り過ぎると、乗客を驚かすように、飛行機の窓の下側へ突然滑走路が現れる。そして機体に着陸した振動が伝わり、ジェットエンジンが逆噴射の轟音を響かせた。

 僕はとうとう、再びセブの地にたどり着いたのだ。一ヶ月前は、二度とそこへ戻れないような気がしていたのだから、険しい山道を踏みしめ、山頂を制覇したような痛快さがあったものの、ふと、リンが出迎えに来てくれるかという心配が頭をよぎった。来てくれるにしても、一時間程度の遅刻は彼女にとって朝飯前だということを、すっかり忘れていたのだ。そのことに気付いてから、僕は途端に落ち着きを失った。彼女は時計をいつもより余計に進めて、時間通りに来てくれることを祈るばかりだ。


 南国の蒸し暑さを感じるボーディングブリッジを渡り、冷んやりとする空港ビルディングに入る。

 イミグレーションを抜け、無事に荷物を受け取り外に出ると、空港前はおびただしい人混みで埋め尽くされていた。機上から見た寂しげな様子とのギャップに、僕は再び慄いてしまう。苦労して運んだダンボール箱二つを、ここまで来てかすめ取られたらかなわない。僕は荷物に気を配りながら、つま先立ちで前方百八十度をぐるりと見回した。しかし彼女は見つからない。祭りの縁日のような混みようで、見つけようがないのだ。荷物を持ってこちらから動き回るのも無理がある。だから僕は、迷子のように立ち尽くした。

 大勢のフィリピン人から、車はどうかと声を掛けられた。何やら用件の曖昧な怪しげな人もそこに混ざる。怪しげではあっても、それぞれ生活がかかっているのだろう。必死さはよく伝わってくる。曖昧な対応で時間を取らせるのは悪いから、僕はきっぱりとお断りするけれど、あとでこちらからお願いする羽目になるかもしれないと少し心配になる。こんな場合、足元を見られたら、思うがままにぼったくられるのだ。

 僕の祈りが通じたのか、ポケットに入れた携帯が鳴った。今回は会社貸し出しの地元携帯がないため、着陸後に日本の携帯電源をすぐに入れていた。電話はリンからだ。一旦切れるまで待って、こちらから折り返した。

「ハロー、こっちからあなたが見えているわよ」

 彼女の甲高い声が電話から響いた。

「え? どこにいるの?」電話を耳に当てたまま、辺りを見回した。

「違う違う、こっちよ」

「こっちと言われても」と首の向きを変えたとき、二十メートルくらい先に、真っ白なニットを着て手を振るリンが見えた。その脇で、ジミーが笑顔で立っている。僕は電話を切って、荷物を引きながら彼女のもとへ歩み寄った。

 ジミーと握手、彼女と軽いハグを交わしタクシーに乗り込むと、ようやく一息付いた。ジミーが車を出すと、オレンジ色の街灯が整然と並ぶ綺麗で空いている道路を、するすると進んだ。

 ホテルへ行く前に、両替所へ寄って欲しいとお願いした。そうしないとタクシー代を払えないのだ。ジミーはつけでも構わないと言った。リンがブラックマーケットに行ってと言う。それは界隈で一番レートがよい、両替所の名前だ。オッケー、マムとジミーが答えた。

 やり取りのリズムが心地よかった。窓の外を流れる景色もまさしくセブだ。セブ本島に入ると、裸電球の灯りの下で、実に様々な人たちがうごめいていた。僕は、本来自分が居るべき場所に、戻ってきたような気がした。

 ジミーに夕食を一緒しようと誘ったけれど、彼は次の機会がいいと言った。おそらく僕とリンに気をきかせてくれたのだ。そんな必要はないけれど、一先ず彼の好意を受け入れる。

 ホテルにチェックインし、部屋には寄らずジミーの車でチャコールグリルに移動すると、そこも相変わらずの様子だった。裸電球の質素な照明に、炭焼きの煙と香ばしい匂い。店員は僕たちをよく覚えてくれていて、嬉しそうに久しぶりと声を掛けてくれた。それだけで居心地が良くなる。そして山盛りのタラバで晩餐。乾杯用に頼んだビールが美味い。

 リンも珍しくビールを飲んだ。アルコールは程々にとお願いすると、彼女は分かってると言い、上機嫌でお兄さんの子供の話しを中心に、家族の近況を教えてくれる。僕が変わりなくて何よりだと言うと、彼女は、これ以上変わりようがないわよと言った。いや、良きにつけ悪しきにつけ、変わりようはいくらでもある。一番大切なことは、事故も病気もなく、みんなが健康でいられることなのだ。彼女が、確かにそうねと頷いた。

 僕も日本での近況を話した。リンが素晴らしいと聞いた日本は、確かに何もかもが整っていたけれど、活気のような何かが足りないと感じたことだ。僕は、なぜ突然そんなふうに感じるようになったのか、色々考えてみたと彼女に言った。

「それで何か分かったの?」

 僕はよく分からないと前置きした上で、実はそれは、日本がそうなったというより、僕が自分の人生に対して感じていることを、日本に投影して見ていたのかもしれないと、正直に言った。

「それは一体どういうこと?」

 確かにリンには、分かり難いことかもしれない。

「僕は今、三十七歳なんだよ。それにあと数ヶ月で、もう一つ歳をとる。すると僕は今、おそらく自分の人生の半分を終えていることになる。この既に終えてしまった自分の半生は、可もなく不可もなく、何となく過ぎてしまったんだ」

「そう? でもあなたは大きな会社に勤めて、しっかりサラリーを貰い不自由なく暮らせているじゃない」

 彼女はそれで何が不満なのよと言いたげだ。僕も彼女がそう思うことはよく理解できる。

「その通りだ。ただ、可もなく不可もなくというところに、問題があるんだよ。つまり僕は、アグレッシブに生きると言うより、いつも失敗しないことばかりを考えて生きてきたんだ。それがどうにか上手くいったから、それなりの生活ができている。でもそれは、とてもつまらないことかもしれない。失敗しないことはそんなに難しくないんだよ。何もしなければいいんだ。でもそうやって生きていると、何も得るものがないまま、これまでと同じ人生を死ぬまで続けることになる」

「でも、お金の心配をしないで済むのは、とても幸せなことじゃないかしら」

 自分もそのことには気付いている。

「僕の母親も、子供の頃いつも同じようなことを言っていたよ。僕も子供心にそれを分かっていた。だから確かにその通りかもしれない。それで分からなくなるんだけれど、ただ僕は、今の惰性的な生き方を続けて死を迎えるのが怖い気がする」

 彼女は神妙な顔つきで、どうして僕がそう思うのか、自分には分からないと言った。

「わたしは今の生活で、毎日お金の心配をしなければならないのよ。そのほうがよほど怖いわ」

「そう、僕も自分がそうなるのは怖い。でも、今の生き方にも、これでいいのかという怖さを感じる。なぜそうなのか、それは自分自身もよく分かっていないんだ」

 僕は単に、ない物ねだりをしているのかもしれない。あるいは、自分の存在意義を明確にしたいと思っているのだろうか。自分は一体、何のために生まれ、何のために生きているのかと。

 おそらく自分は、マズローの欲求説にはまりこんでいる。そうであれば、食べることに精一杯のリンが、この話しを理解するのは一層難しいだろう。実際に彼女は、僕の話しを難し過ぎると言った。

 これは自分にとっても難しい話しなんだと言うと、リンが不思議そうな顔をして笑った。僕はまた、変な人だと思われたのかもしれない。

 食事中、テーブルの上に乗せた僕の腕に、蚊が止まった。縞模様のある、大きな蚊だ。リンがそれに気付いて、声をあげた。僕は蚊が乗った腕の筋肉に、力を入れた。そうすることで、蚊は突き刺した針を抜けずに逃げられなくなるのだ。

 リンはその話しに疑わしい顔を作り、腕に止まった蚊に顔を近づけた。それでも蚊が逃げないことを確かめた彼女は、クレージーと言って笑った。

 腕の力を緩めると、蚊は自由の身となってどこかへ飛んで行った。既に満腹になって体が重いせいか、飛び方が少しふらついていた。それで二人はまた笑った。

 セブに降り立ち数時間しか経っていないのに、全ての光景が、日常化した当たり前の世界のように感じられた。旅行は、非日常を楽しむもののはずだけれど、僕は日常を求めてここに来たのだろうか。何かが逆転している。深層心理の混乱が、錯覚を招いている。

 僕は日本から持参した、お土産の話しをした。チョコレートは普通のものをたくさん買ってきた。カップヌードルは十個入りを一箱。クッキーはとても美味しいものを選んだから、楽しみにしてともったいをつけた。ミニコンポは、ハンドキャリーを考慮して小さいものを選んだけれど、要望の機能は全て備えている。香水は免税店で、少なくとも十種類は匂いを確認して自分の好みを選んだ。お勧め品は思いつかなかったから、あとで携帯を買おう。

 お土産が目の前にあるわけではないのに、どの話しも彼女の顔をほころばせ、彼女をとても幸せそうに見せた。いくら小物の積み重ねであっても、棚ぼたというものは嬉しいものなのだ。それで彼女はますます快調になった。

「ねえ、このあと、わたしが働いていたお店に行かない? 久しぶりに友だちに会いたいの」

 彼女がバーに行きたいと言い出すのは、場末の店で彼女がテキーラに撃沈されて以来だ。そして僕のほうこそ、どこかに行きたいと思っていた。僕は彼女が、ホテルに泊まらないだろうと予想していたのだ。そうであれば、せめて深夜まで、彼女と一緒に過ごしたいと僕は考えていた。


 バーはリンが働いていた頃と、何一つ変わらなかった。塗り壁隊に店内のネオン看板、そしてつぶれないのが不思議なくらい、相変わらず閑散としていること。

 一度嵌ったら抜け出せない人が出るほど面白い、おばけ屋敷ワールド。そんな都市伝説的な話しはあっても、所詮そんなものかもしれない。

 数少ない客はいずれもアメリカ人で、少なくとも僕はそこで、韓国人や中国人や日本人を見たことがない。

 多くのフィリピン人が、アメリカ人は女性の外観より内面を重視すると、如何にもそれが正しい人の在り方のように言う。確かにそうかもしれない。いくらセクシーで綺麗な女性でも、性格が悪くて教養もなければ、付き合いを継続するのはきついのだ。しかし、アメリカ人のそれは、単なる傾向的な好みの違いがあるだけで、実はアメリカ人も、外観を重視しているのかもしれない。

 僕はそのことが気になり、好みがかぶらないのは有難いことを承知の上で、バーで知り合ったアメリカ人にそれを確認したことがある。すると彼は、本国に帰っている間に浮気されたらたまらないから、虫の付きにくい女がいいんだと言った。真剣な眼差しで語られたそれは、冗談に取れず、アメリカ人というのは心底合理的な考え方をする民族だと、僕はほとほと感心したのだ。

 ということは、お化け屋敷は彼らにとって、恋人候補の宝庫ということになるのだろうか。そんな疑問がふつふつと湧き出るけれど、そこまで訊けば、しまいにあの大きな手で作ったグーパンチが飛んできそうで、僕はそこまで確かめることができなかった。

 いずれにしても、その店に退屈しない女性が揃っていたことは確かだった。年季が入っているせいもあるけれど、気さくで正直で、人情味を感じさせる女性が多かった。体にピタリとフィットしたセクシードレスの上から、緑茶の段々畑のような三段腹が見えるけれど、そこに目をつぶればそれ以外に気になるところはない。もちろん塗り壁の下にどんな素顔があるのかは、とても興味深いことだったけれど。

 僕とリンに、それぞれ一人ずつ女性が付いた。塗り壁ではない、比較的若い女性だった。リンがいるせいか、彼女たちの会話には作り物の気配がなく、どこにでもいるごく普通の女性に感じられた。それでも彼女たちは普段、客から要望があれば、店から連れ出されて客の部屋に行くのだろう。会話からはとてもそんな雰囲気は感じられないけれど、おそらく彼女たちは、素と営業用の顔を使い分けているのだ。客の部屋に行くとなれば、きっと戦士のように気持ちを切り替え、いざ出陣と気合を入れる。

 不憫と言えば不憫かもしれないけれど、それが彼女たちの日常であり常識であるなら、おそらく本人たちはそれを、不憫と考えていないのかもしれない。貧乏が相対であることと同じように、不憫もきっと、それと似たようなものなのだ。周囲が不自由な人だらけならそれが普通になって、卑下することもないのだろう。彼女たちを見て余計なことを考える自分のほうが、ずっと卑しいのかもしれない。

 リンは友達と楽しそうに会話していた。僕のことなど忘れてしまったかのように、熱心に語り、友人の話しに耳を傾け、ときどきあけっぴろげに笑う。そんな彼女はとても幸せそうで、それを見ている自分も、幸せを分けてもらっているような気になった。

 フロア係りの女性が寄ってきて、リンに何かを耳打ちすると、くすくすと笑って立ち去った。どうしたのかとじっとリンを見ていると、今度は彼女が僕に耳打ちした。

「指名が入ったのよ」

「指名?」

「向かいで座っているアメリカ人が、わたしを隣に呼べないかってお願いしたらしいの」

 その客は、リンを店で働く女性と勘違いしたようだ。

 フィリピンのバーは、基本は既に客のついている女性を、自分の席に呼ぶことはできない。最初からお目当ての女性がいる場合は早い者勝ちで、もしその女性に他の客がついていたら、いつになるか分からないその客のご帰還を待つか、その日は諦めて出直すしかない。もし待ったとしても、その客が女性をホテルに連れて行くと言えば、二人が連れ立って姿を消すのを、指をくわえて見送ることになる。そんな過酷なルールが存在するのだ。

 もしリンがまだバーで働いていたら、僕はどうしていただろうか。長期休みを利用して、わざわざ彼女に会いに来ただろうか。もし会いに来たなら、僕は誰かに先を越されることにびくつきながら、毎日いそいそとこの店に通うことになるのだ。そして万が一誰かに先を越されたら、僕はその場でふてくされ、あてつけがましく、他の店に遊びに行くと言うかもしれない。

 遊びなれた人であれば、そんなことがあっても気にせず、気持ちを切り替え他の店で楽しむのだろう。

 しかし僕は、おそらくそんなふうにはできないと気付く。きっと憂鬱な気分を引きずり、ホテルの部屋で悶々としながら、リンの連絡を待つのだ。

 そんな状況が初めから見えている僕は、もし彼女がまだバーで働いていたら、セブには来なかっただろう。そう考えると、彼女があっさり店を辞めたことは、一つの転機となっているように思えてくる。

「それであなたはどうするの?」僕はわざと訊いてみた。もちろん自分には、彼女がアメリカ人の隣に行くはずがないという余裕がある。

 それを見透かすように、彼女は言った。

「アルバイトをしてこようかしら」

 僕は、好きにすればいいという雰囲気をにじませ言った。

「こっちのアルバイトは、チョコレートや美味しいクッキーに、香水やミニコンポまで確定しているのに?」

 彼女はくすくす笑い、「すっかり忘れていたわ。最初の予定通り、アルバイトはこっちにする」と言って僕の腕を抱きしめた。それで自分は満更でもない気分になってしまうから、僕は自分の単純さに呆れてしまう。

 時間が十二時になろうとした頃、僕はジミーに連絡した。彼が寝る前に帰る必要がある。彼からすぐに、十分後に行くと返信がきた。

 そのときリンは、予想に反して、ホテルの部屋に泊まると言った。僕の意外な気持ちが顔に出ていたのか、彼女は無言の僕に言った。

「あなたはわたしに帰って欲しいの?」

 もちろんそんなことはない。ただ意外なだけなのだ。

 僕は彼女に、何かを強制したくはない。お土産を渡し、食事をご馳走し、その代わりに……という期待を、僕は一切持たないようにしていた。もちろん彼女に、妙な義務感を植えつけるのも避けたい。

 わたしにはわたしの大切にしているものがある。

 初めてリンと会ったとき、彼女が言った言葉だ。僕はその意味を、既にぼんやりと理解しかけている。僕は彼女の大切なものを、そして価値観をきちんと尊重すべきなのだ。その上で彼女の助けを借り、フィリピンの滞在を有意義なものにしたい。

 その日リンは、僕の部屋で実際のお土産を手に取り、とても喜んだ。ジミーへのお土産を買い忘れた僕は、そこから適当なスナック菓子二つをお裾分けしてもらい、それを脇に寄せた。そして僕たちは少し進展し、一つのベッドの上でキスをしてから、おやすみという言葉で区切りを付けて、寄り添いながら一緒に眠った。

 彼女を抱いて眠るのは、幸せな気分だった。股間は自然と膨張し、僕は彼女にそれがばれないようにとても気を使ったけれど、彼女にそれ以上の進展を望む様子はなかった。そのことで、僕は二人の現状を確認できた気がして、それはそれで安心するのだった。

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