第10話 久しぶりの出社

 朝の通勤渋滞は、嫌気がさすほど煩わしかった。フィリピンにいれば、いくら激しい渋滞に巻き込まれても、いつでも誰かが自分の代わりに運転してくれる。

 若い頃は公道レースに夢中になり、車を改造し、散々緊張の中で運転をした。気を抜けば一発触発の世界の中で、いつも他人の車やガードレールをぎりぎりに捉えて走っていた。一度だけ緊張の糸が途切れて、ガードレールに突っ込んだこともある。

 しかし渋滞を考慮し、車をオートマティック車に変えてから、そんなスリリングな世界と無縁になった。そして僕は、車の運転に楽しさを見出すことがなくなった。

 同時に夜遊びが減り、気付けば家と職場を往復するだけの仕事人間になっていた。周囲の友人が身を固め、遊び相手が年齢と反比例するように減ったことも、その一因だった。三十代に突入した頃から、僕はじわじわと保身的になったということだ。

 そういうことを、世間では落ち着いたと言うらしい。僕は年齢を重ね、歳相応に、人間的に落ち着いたようなのだ。

 その実自分から、人間らしさというものが失われていた。抜けるような青空や、煙幕のように視界を遮る土砂降りや、輝く夏の海や、そういったものが自分の中で色褪せてしまったことを、僕はふとした拍子に感じるようになったのだ。

 そういったものに心を向けるゆとりがなくなったのかもしれない。それも外出を減らし、行動が内向きになることの要因だった。


 守衛と朝の挨拶を交わして、会社の敷地に入った。

 三ヶ月も留守にすると、まるで新しい会社に初出社したみたいだった。自分だけが、周りの空気に馴染んでいないような気がする。

 しかし、僕のロッカーが通用口の裏に確かに存在したし、デスクも椅子もそのままで、デスクの天板には見慣れた小物が、ペン立ての中にきちんと収まっていた。机の中央には、回覧物がむさ苦しく山になっている。

 何人かの人に、「おかえり」や「生きて帰ったか」などと声をかけられた。そのことで、まだ職場に自分の居場所が残っていることを実感する。僕は積み上がった回覧物を脇に寄せ、出張報告書の作成に取り掛かった。

 久しぶりの日本での仕事は、まさにリハビリのようだった。レポートを仕上げたあとは、フィリピンの話題で立ち話しが盛り上がったり、ちょっとした会議に引き込まれて無責任な意見を述べたりしただけだ。

 どこの室内も蛍光灯が白く、妙に明るく静かなことが気になった。

 部長以上の偉い人たちは、会議か出張でほとんど見かけることがない。少し広めの彼らのデスクは、ご主人様不在で虚しくがらんとしている。彼らはたまに席に戻ると、溜まった書類にさっと目を通し、機械仕掛けの人形のように矢継ぎ早に判を押し、またすぐどこかへ消える。

 何の役も付かない僕は与えられた実務を全うするだけで、他人の作った書類に判を押す仕事はない。代わりに溜まった回覧や個人宛封書に目を通すけれど、目新しいものは何一つなかった。それも終わってやることがなくなると、僕は時間をつぶすため、出来上がったレポートにどうでもよい手を加えて、仕事をしているふりをした。

 その日一日くらい、長期出張疲れということにさせてもらうつもりになっていた。幸いにも僕は、仕事について一定の裁量を与えられ、細かいことで目くじらを立てられることはない。

 夕方は、急いでやることがなくても、定時で帰るのに罪悪感を覚えた。それが日本のオフィスに蔓延する空気というものだ。他の人たちはこれからが本番と言わんばかりに、机にかじりついて黙々と仕事をしている。それが異様な光景に見える。

 会社とは、そんなふうに必死にやってもつぶれるときはつぶれるし、適当にやっても儲かるときは儲かるものなのだ。要は、仕事の質と方向性と運で大概のことが決まる。努力はときには実を結ぶけれど、無意味な努力が利益に繋がるほどビジネスは甘くない。いくら汗をかいても無意味であれば、使った労力は気泡と化す。

 会社の中で、特に下っ端に属する大方の人は、少しでも上のポジションを目指し、がむしゃらに頑張る姿を見せようとする。あるいは無言の圧力に屈して残業する。無駄な労力だと理解する人は、確信犯的に会社に居残る。

 けれど元々僕は、出世にあまり興味がなかった。そのことに上司が物足りなさを感じていることを薄々勘づいていたけれど、僕はそのことも意に介していなかった。僕はただ、周囲から必要とされる人間でありたいだけなのだ。周囲とは、上司というより、同僚や後輩だ。

 それでも僕はフィリピンで、会社のマル秘ノート上の自分の名前に、バツが記されることを意識した。自分は何かを恐れている。

 世間の枠というものから解き放たれたい、いや、こちらから飛び出してやるなどと威勢のよいことを考えながら、一方で僕は、世間から弾き出されることをどこかで怖がっている。

 これだから自分は小市民の域から抜け出せないのだ。しかし実は、抜け出さなくてもよいと思っているのかもしれない。日本にいれば、小市民のほうが総合的に楽かもしれないからだ。

 僕はそっと席を立ち、人目を引かないよう、そろりと職場を後にした。


 会社から出ると、突然日本のラーメンを食べたくなった。まるで弥太郎じいさんが、どうしてもシューマイを食べたくなったみたいに。そのせいで、衝動的に東名高速道に入り、成り行き的に下り方面へ車を走らせた。

 高速を走っていると、携帯に着信が入った。ディスプレイに、奈緒美という名前が表示されている。

 奈緒美とは、七年前、神楽坂のクラブで知り合って以来の付き合いだ。出会った日、僕たちは終電がなくなるまで踊り続け、その後一緒にホテルへ泊まった。疲れきっていた二人はベッドに倒れ込んで、そのまま折り重なるようにして眠った。

 昼前に僕が目覚めると、彼女は僕に寄り添っていた。二人はそれから、前夜のダンスのように抱き合った。前夜のダンスのように、玉の汗が肌の上に浮き上がるほどに。

 セックスを終えたあと、彼女は天井を見つめながら、「私には恋人がいるの」と言った。

 別段不思議だと思わなかった。当時の彼女は、特別な人はいないというほうが不思議なくらい、何もかもが完璧に近い二十三歳の女性だったからだ。

「つまり今日のことは単なる気まぐれで、これっきりということだよね」と僕は言った。僕は元々そう考えていたし、彼女の物言いもそのような意味に取れたからだ。でも彼女からは、予想に反する返事が返ってきた。

「セックスはこれっきりよ。でもわたしはあなたとの関係を継続したいの」

 僕は驚いて、どうして? と訊いた。

「あなたとのセックスがよかったからよ」と彼女は笑って言った。

 実際に彼女とのセックスは、高級マンションのモデルルームとその中に飾られた高級家具のように、とても相性がよかった。

 セックスはこれっきりと言いながら、セックスがよかったから付き合いたいというのは矛盾があるけれど、僕は一先ずありがとうと言い、そこから彼女との不思議な関係が始まったのだ。

 彼女はその半年後に恋人と別れ、そのあと僕の部屋に来て、再びセックスを求めた。

 その理由は彼女の言うところに拠れば、「恋人と別れて、あなたとの友だち関係だけがわたしの前にあるからよ」ということだった。つまり彼女が僕にセックスを求めるのは、それほど不思議なことじゃないのよと、彼女は言いたいようだった。

 しばらくして彼女は再び、新しい恋人を作った。恋人がいる期間、彼女は僕の前で決して服を脱がなかったし、恋人に僕を友人として紹介することさえあった。そして恋人と別れると、彼女はまた僕と寝る。七年の間、そんなことが三度繰り返された。奈緒美は自分にとって、そんな不思議な友だちだった。


 電話に出てスピーカーフォンにすると、いきなり奈緒美の甲高い声が響いた。

「どこに行っていたのよ、三ヶ月も音信不通で。何度電話しても通じないから、死んだかもしれないって心配してたんだから」

 僕は薄暗くなった高速道路を運転しながら、電話に向かって言った。

「僕はこの通り生きてるよ。今だってラーメンを食べるために東名を南下してる」

 彼女は足は本当についているわよねと言って、少し荒い鼻息が収まるのを待つように間をあけてから、とにかくよかったと続けた。ついでに彼女は、今夜会えないかしらと言った。僕は、こっちにも色々と土産話しがあるから、丁度いいと答えた。

「それじゃあ今夜十時にあなたの部屋に行くわ。今夜は泊まらせてね」彼女はそう言って、こちらの返事を待たずに電話を切った。

 彼女は今、恋人がいないんだっけ? 僕は現実のことを、たくさん忘れかけている。車の運転の仕方を覚えていることが、奇跡のように思えてきた。

 考えてみれば、リンとはセックスをしないから友だち以上恋人未満の関係で、奈緒美とはセックスをするから友だち以上恋人未満の関係ということになる。僕はそれで、恋人という言葉の定義が怪しくなった。

 そしてリンと奈緒美は、出会ったときにどちらも二十三歳だ。不思議な縁だと思いながら、気付けば車は横浜インターの辺りに差し掛かっていた。

 

 ラーメンを食べて部屋に戻ったのは、約束一時間前の九時頃だった。帰りの道路がとても空いていたのだ。奈緒美は約束通り、十時ぴったりに僕の部屋の呼び鈴を押した。

 ドアを開けると、目の前に現れたのは、背中にかかっていた髪をばっさり切って、どこかのお金持ちの奥さんに納まった新妻のような、上品で素敵な女性だった。

 彼女はドアも閉めずにいきなり僕の首に腕を回し、まるで外人の挨拶のように、自分の頬を僕の頬に手短に当ててから、久しぶりと言った。

「久しぶり。ずいぶん雰囲気が変わったように見えるけれど、気のせい?」思わず僕はそう言った。

 彼女は僕の首に回した腕をそのままに、「あなたのせいよ」と言った。「あなたがわたしの誕生日を忘れてどこかに消えてしまったから、わたしはその日、三十にふさわしい女に生まれ変わったの」

 僕が意味をつかめず、眉間に皺を寄せると、彼女は言った。

「つまりとても暇な誕生日だったってことよ、三十の大台に乗った記念すべき日だというのに。だから美容院に行って、髪を切ったの」

 僕は彼女を部屋の中に通し、キッチンカウンターでコーヒーを淹れながら訊いた。

「今、恋人はいないんだっけ? 僕はてっきりいると思っていたけれど」

 彼女はソファーに座り、テーブルの上に置いてある雑誌を手に取りながら、「二十九歳の最後の日までいたわよ」と言ってページをめくった。「もちろん彼は、わたしの誕生日を一緒にお祝いしてくれようとしてたの。でも一つ、大問題が発生したの」

「大問題?」僕はコーヒーを準備する手を止めて彼女を見た。

「そう、大問題。彼はわたしの誕生日に、とても大切な話しがあるって言い出したの。渡すべきものも既に買ったなんて、あからさまにプロポーズを匂わすのよ」

「それの何が大問題なわけ?」僕はキッチンに、お揃いのコーヒーカップを二つ並べる。

「わたしは彼との結婚なんて、さらさら考えていなかったの」

「だったら改めて考えてみればいいじゃない」

「考えたわよ。考えた結果、やっぱり彼との結婚は無理という結論に至ったの。それだけならまだしも、そう結論付けたら突然、彼の顔も見たくなくなったのよ。彼に対して嫌悪感みたいなものが芽生え出したの。そうなったら誕生日どころじゃなくて、その日の食事はキャンセル、関係は消滅。彼はしつこく理由を聞いてきたけど、当たり障りのない理屈を並べて納得させたわ。実際には一つ、どうしても許せないことがあったのよ」

 できたコーヒーを彼女に手渡し、僕もソファーに座った。コーヒーを手渡す相手がいるというのは、とてもいいものだ。

「その許せない理由ってなに?」

 彼女はコーヒーを一口飲んで、こちらを無言でじっと見た。僕は、言いたくなければ別にいいよと言ったけれど、彼女はその理由を遠慮ぎみに話した。

「言い難いことだけれど、つまりね、あれが小さいのよ。入っているのか分からないくらい小さいの」

 僕はコーヒーを噴出しそうになった。

「女性は、結婚相手の条件リストに、あのサイズまで含めるの?」

 彼女は誤魔化し笑いをして、耳まで赤くしながらかぶりを振った。

「普通ならそれはないわよ。でもね、気持ちがよくないわけじゃないけど、いいわけでもないのよ。結婚したらその状態が死ぬまで続くわけでしょう? それって結構大切なことよ。男の人だって、相手のサイズの問題があるでしょう?」

 僕は「たぶん」と言ったけれど、それまであまり深刻に、サイズの大小を考えたことはなかった。

「それで? サイズ以外の問題はなかったの?」

「それ以外は完璧よ。性格の悪さを除けば」

 僕は今度呆れて、真面目に話しをするのが馬鹿らしくなってきた。

「ふーむ、それは結婚すべきだったかもしれないね」

「え?」彼女は口に運んだコーヒーカップを、唇につける寸前で止めた。

「どうして?」

「サイズと性格を除けば完璧だなんて、よく考えれば、それほど条件の揃った男はあまりいないかもしれない。世の中、金のない男は五万といるし、頭の悪い奴だって石を投げれば当たるくらいいるよ。一先ずサイズや性格くらい、目をつぶってもいいんじゃないの?」

 彼女は僕を睨めつけて、あなた真面目に言ってるの? と苛立つような表情をみせた。それから急に僕にもたれかかり、「済んだことだからもういいわよ。それより今日は、久しぶりにセックスしようね」と言った。

 その夜僕たちは、時間をかけてセックスをした。二人で抱き合ったまま、海の底にゆっくり沈み込むようなセックスだった。おそらく一年ぶりくらいだったと思うけれど、そこには全くブランクを感じさせない、自然さと濃厚さがあった。そして久しぶりということになると、そこに新鮮さが加わる。もしかして二人の関係がこうして続くのは、断続的身体の関係のせいではないかと思えてくる。

 裸で絡みあっている間、二人はお互いのことを思いやるように考える。どうすれば相手の気持ちがよくなるかを、相手の様子を観察し、内面を想像し、心理的にあるいは物理的に効果的な次の手を考えるのだ。彼女がそういった努力をしていることが僕には分かるし、こちらの努力も彼女に伝わっているはずだ。お互いのそれが噛み合えば相乗的に充実した行為となり、それが生きる活力に繋がる。

 

 ベッドの上で、気持ちよい気だるさに身を任せながら、奈緒美にフィリピンに行ったことを伝えた。彼女は最初、そのことに驚いた。三ヶ月間フィリピンで過ごしたと伝えると、彼女は輪をかけて驚き、盛大にえーっという声まで出した。

 彼女が「三ヶ月も何をしてたの?」と言うから、僕は「仕事をしていた」と答えた。それで奈緒美は、呆れた顔になった。

「あなたはいつも言葉が足りないのよ。仕事をしに行ったのは分かるわ。でもそれだけじゃないでしょう?」

「基本は仕事をしに行っただけだよ。ただ行ってみたら、色々なことがあったというだけの話しで」

 彼女はその言葉に、自分の言葉をかぶせるように言った。「だからわたしは、その色々なことを聞きたいのよ」

 僕はそれを、これから話そうと思っていたのだ。

 僕はフィリピンで見たことや感じたこと、様々な実体験、そしてリンのことを奈緒美に話した。そして日本に戻ってから、自分が少し変だということを彼女に伝えた。

 奈緒美は僕が少し変というところで、一体何が変なの? と反応した。僕は、色々なものが色褪せて見えることや、現実を忘れかけていることを言った。

「あなた、わたしのことも忘れていたでしょう」

 そこだけは詰問口調だった。僕は正直に、ごめんと謝った。

「それはきっと、そのリンという女のせいよ。いよいよあなたの心を奪う女が登場したかと思えばフィリピン人って、それは激しく予想外の展開だけど、まあきっと、そういうことね。彼女は何歳なの?」

 僕が「二十三歳」と答えたら、彼女は「オーマイガッド!」と外人みたいに驚いた。

「あなたよりひと回り以上も若いじゃない。何歳違いになるの? えっと、十四歳? それはもう犯罪の領域に入るわよ」

「犯罪も何も、あなたに話した通り、僕は何もしていないんだって。それに犯罪って言い草は、どこかのおじさんみたいだよ」

「わたしも三十を越えたのよ。おじさんっぽくなってもおかしくないわ」

 彼女は少しの間沈黙してから、また話し始めた。

「ねえ、わたしがあなたのどこをどう気に入って、こうして付き合っているか分かる?」

 僕はしばらく天井を見つめて考えてから、「それは七年間、ずっと自分の中でくすぶっている謎だよ」と答えた。

 奈緒美の容姿は、街の中にいてとても目立つほど、人並み以上だ。そんな彼女が冴えない平凡な自分にどうしてこんなふうに関わるのか、僕には本当に分からないことだった。奈緒美はそのことには一切触れないし、こちらからその理由を尋ねたこともない。そんなことを確認するまでもなく、二人の間にはいつでもそれなりの心地よい空気があるから、それだけでよかったのだ。

「わたしがこうしてあなたに関わるのはね、あなたが根っからの自由人だからよ」と奈緒美が言った。

 僕はそれを意外に思った。「自由人? 僕は自分をとても不自由な人間だと思っているけれど」

 彼女は僕の胸に耳を付け、僕の心と直接語り合うようにつぶやいた。

「あなた自身がそのことに気付いていないだけよ。あなたはきっとフィリピンで、そのことに目覚めたの」

「あなたは気付いていたというわけ?」

「そう、すぐに気付いた。あなたと初めて寝たときに」

 奈緒美は以前、自分のセックス観について、僕に語ったことがある。

『ねえ、セックスをすると、相手のことがとてもよく分かるのよ。性格とか癖とか何もかも。人間性みたいなものがそこにすごく出るの。セックスの相性というのはね、物理的なものもあるけど、そういったことを含めて感じる精神的なものが、実はとても大きいのよ』

 そんな話しをしたのは、彼女と出会って間もなくの頃だ。そして僕は、その後七年経っても、自分と奈緒美の関係が彼女にとって一体どんな意味を持つのか分からなかった。それは付き合いが長くなるほど、ますます分からなくなった。

 一つ勘ぐるとすれば、彼女は別れた男のサイズを問題にしているけれど、実はその彼から、精神的に何か特別なものを得ることができなかったのではないだろうか。

「あの神楽坂のホテルで、あなたは僕に何を感じたのかなあ?」

 何となく不思議に思い、今更ではあったけれど訊いてみた。

「わたしが感じたのは、あなたは誰の束縛も許さない、その代わり誰も束縛しない人だということ。ある意味孤独で、ある意味とても自由なの。それは他人に気楽さを与え、ときにはストレスを与える。その微妙なバランスが不思議なのよ。実際あなたは七年間、わたしを一切束縛しなかった。束縛しようと努力さえしなかった。きっとあなたにはその気がないのよ。わたしにはそれが分かっていた。だからわたしも自由に振舞ってきたの。わたしはそのほうが幸せだと思うときもあるし、不幸だと思うこともある。でも結局、わたしはそうすることで、多くの幸せを得て二十代を終えたんだって思うことにしたの」

 僕は少し考えて、余計なことを言うのを止めた。

「それはよかった。遅ればせながら、ハッピーバースデー」

「ありがとう、これでようやく、わたしの二十代を締めくくることができた」


 翌朝目覚めると、彼女はベッドから消えていた。彼女が床に放った下着や服も消え、彼女が使ったバスタオルは洗濯機に収まっていた。彼女は自分の痕跡を全て綺麗に片付けて消えた。

 テーブルの上に小さな書置きがあった。そこには綺麗な字で、おはよう、先に仕事に行きます、とだけ書かれていた。僕はコーヒーを飲みながら、その紙切れの上の文字をぼんやり何度か読み直した。

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